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参考文献録

『真夜中のミサ』 ポール・ボウルズ 越川芳明・訳 白水社 1994
 1939-1988年に書かれた19作品を日本で独自に編纂した短編集。いずれもごく短い。

 邦訳者の越川氏は、巻末解説で「ポウルズはどちらかの立場に立ったり、一方を弁護することはない。西欧人であれ、非西欧人であれ、キリスト教とであれ、イスラム教徒であれ、白人であれアラブ人であれインディオであれアジア人であれ、主人であれ使用人であれ、すべて社会の規範や常識や習慣にとらわれた人間をセンチメンタルな私情を交えず書き留めるだけである。」と述べている。
 ポール・ボウルズはまだ三冊目なわけだけど、そういう態度が貫かれているのは短編だけで、長編(『蜘蛛の家』)や中編(「学ぶべきこの地」)では不徹底に感じられる。

 今回は短編ばかり(ほんの数頁の掌編が多い)なので、その不徹底ぶりが気にかかることはなかった。
 気にかかったのは、越川氏の解釈、および越川氏が全面的に共感しているらしい、四方田犬彦氏による収録作品解題「モロッコ人の狡猾さについて」である(リーフレット掲載)。
 四方田氏によると「相手のすきを見つけては容赦なくそこに取り入って、卑小にして愚かしい悪事を働くモロッコ人の小像が、いくたびとなく描かれることになる。……この手のモロッコ人のトリックスターぶりはとうてい余人のかなうところではない。」

 本書収録作品の中で、四方田氏と越川氏の双方が、「モロッコ人の狡猾さ」を描いた代表として挙げているのが、「マダムとアハマド」である。
 庭師のアハマドは、西洋人のマダムに11年間も忠実に仕えていた。ある日、モロッコ人の詐欺師たちが彼を追い出し、マダムを食い物にしようと企む。そこでアハマドは、マダムに何も知らせないまま、連中を出し抜き、自らとマダムの安泰を保つのである。

 これが、四方田氏と越川氏に言わせると「狡猾」ということらしい。確かにアハマドが用いた策略は狡猾だが、その目的は自分の地位を守るためだけではない。マダムを守り、自分が丹精込めて作り上げた庭を守るためである。そして、彼女を欺いたり、草木を駄目にしてしまうことに罪悪感を覚えるのである。
 そういう「善良な」男が、善良な目的のため、罪悪感を抱えながらも手段を選ばない狡知を発揮することに、この作品のおもしろさがあると私は思うのだが、四方田氏と越川氏の目には「モロッコ人の狡猾さ」しか映らなかったようだ。

 アハマドの最後の台詞、「きょうび、だれもがひっかけようとしますからね」「だれひとり信じちゃいけませんよ」には、将来、アハマドが再び、今度は己の利益のためだけにマダムを欺くかもしれない、という仄めかしが読み取れないこともない。しかし、それはあくまで「可能性の仄めかし」に過ぎない。

 民族・地域を問わず、誰でも状況次第で狡猾にも姑息にもなるだろう。偶々、モロッコがそういう状況にある地域で、偶々、ポール・ボウルズがモロッコを選んだに過ぎない。
 私が気に喰わないのは、一つには「狡猾さ」が「モロッコ人」というものに先天的に刻みこまれた印であるかのように断定する言説である。もう一つは、ポール・ボウルズの「どちらの立場にも立たない」態度を賞賛しておきながら、自分たちをどこまでも欧米人の立場に置き続ける態度である。
 つまり「マダムとアハマド」では、騙されるマダムに同情し(彼女とて、詐欺師たちの甘言に乗せられて、アハマドを解雇するつもりでいたのだが)、「ブアヤドの執念」のようなモロッコ人同士の騙し合いには、あたかも動物か「未開人」の珍奇な生態を高みから観察するような、そういう態度である。

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