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参考文献録

『ギリシア思想とアラビア文化――初期アッバース朝の翻訳運動』 ディミトリ・グダス 山本啓二・訳 勁草書房 2002(1998) (「イスラム文化」)
Greek thought, Arabic culture: the graeco-arabic translation movement in Baghdad and early ‘abbasid society[2nd-4th/8th-10th centuries](長音記号は省略しました)
 著者はカイロ生まれのギリシア人。邦訳刊行時にはイェール大学中東言語・文明学科の学科長。

 タイトルから想像される内容(単なる一時代の文化事業について)よりも、実際は遥かに興味深い内容だった。
 751年にアッバース朝が興るのとほぼ同時に始まった、ギリシア語古典のアラビア語翻訳ブームは、西洋にとっては「暗黒の中世」の間、輝かしい古典文化を保存してくれたことになるので、日本に於けるよりはずっとよく知られているらしい。
 しかし著者によると、なぜこのような運動が起こり、2世紀間も継続したのか、或いは言い換えれば、なぜアッバース朝の前にほぼ100年間続いたウマイヤ朝では翻訳運動が起こらなかったのかについてはほとんど研究されてこなかった。

「アラブ人のためのアラブ帝国」だったウマイヤ朝と違い、アッバース朝の基盤は異民族と非アラブ化したアラブ人が圧倒的多数を占めるイラン・イラクにあったこと、彼らの支持を得るために、アッバース朝支配者は自らをバビロンやペルシアといった古代帝国の後継者と位置付けた、と著者は主張する。
 なぜそう位置付けることが、翻訳を介してギリシア古典文化を取り入れることになるのかというと、サーサーン朝ペルシアには、この世のあらゆる知識、特にギリシアの学問は、もともとはペルシアのものだったのがアレクサンドロス大王に奪われて散逸してしまった、という伝説が信じられており、支配者およびエリートたちはこれを収集して継承・保護しなければならないという使命感を持っていたという。
 そこでアッバース朝は、ペルシア人からギリシア古典の収集・継承という使命を受け継いだのである。一方、イラクのアラム人たちはギリシア文化を愛好していたが、自分たちがメソポタミア人の子孫だという自覚を持っていた。アッバース朝は彼らに対しては、ギリシア文化を保護・継承していたのはペルシア人だが、その起源はバビロンにあると主張してやったのだった。

 ギリシアの叡智はペルシアからアレクサンドロスによってもたらされたという伝説は、ムスリムの間に広く流布し、15世紀の時点でもまだ信じられていたそうである。
 第三者から見ると馬鹿げた妄言がイデオロギーにまで高められ、実際に国家をも動かすのだから、歴史はおもしろい。

 ただし、日本語訳文が少々意味が取りにくい。ある一文だけ取り上げれば、訳は正確なんだろうけど、もう少し前後の文脈を考えた訳にしてくれ、みたいな。
 例えば、「アッバース朝の支配者が、学問の起源がバビロンにあったという見解をとったとしても、アラム人の支持を得ただけだっただろう」(49頁)という一文だけだと、「アラム人の支持を得るだけ」という否定的な結果が予測できたのでアッバース朝支配者は「学問の起源がバビロンにあったという見解」をとらなかった、という展開が予想される。
 しかし実際には(前後の文章によれば)、アッバース朝の支配者は「学問の起源がバビロンにあったという見解」をとっている。それがどのような結果をもたらしたかは史料が残っていないが、著者は、アラム人(アッバース朝が首都を置いたイラクの土着民)は自分たちが古代バビロニア人の子孫であると自覚していたので、「それを歓迎したに違いない」と続けている。さらに、アッバース朝支配下の他の人々は、支配者が「学問の起源がバビロンにあったという見解」を取っても大して気にしなかった、とある。

 つまり、「アッバース朝の支配者が、学問の起源がバビロンにあったという見解をとったとしても、アラム人の支持を得ただけだっただろう」というのは、前後の文脈を考慮すると、「アッバース朝の支配者が、学問の起源がバビロンにあったという見解をとったことは、アラム人の支持という利益だけをもたらしただろう」ということになる。

 こんな感じの、文意を摑みにくい文章が頻出するのである。あと、アッバース革命そのものについての著者の見解が微妙に間違っているというか、少なくとも日本人研究者が一般的に取っている見解と微妙にずれてるような気がするんだが、これも邦訳の問題なんだろうか。

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