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参考文献録

『優雅な獲物』 ポール・ボウルズ 四方田犬彦・訳 新潮社 1989
『シェルダリング・スカイ』の原作の人。本書は日本で独自に編集された短編集。おもしろかった。

「遠い挿話」a distant episode, 1945では、北アフリカに言語調査に出かけた白人の学者が、現地人に捕まって舌を抜かれ、見世物にされる。
 まあ要するに「某国のブティックの試着室に日本人女性客が入ったきり姿を消し、数年後、某国でダルマにされて見世物になっている彼女の目撃情報が」というお話。たぶんこの手の伝説は悠久の昔から流布していたんでしょう。
 いくら著者がタンジールに移住する前の最初期の作品とはいえ、シチュエーションに乗っかっただけの悪趣味なSM話。被害者が若い女もしくは男ではなく、上品な老教授というあたりが余計に悪趣味である(この場合の「悪趣味」は、もちろん悪い意味である)。
 シチュエーションをパロディ化しているとはいえ、そのシチュエーションのオリエンタリズムにはまったく無自覚であり、著者に対して不信を抱かざるを得ない。

 これが3年後の「優雅な獲物」the delicate prey, 1948になると、「余所の土地で余所者から受ける理不尽な暴力」というシチュエーションは不変であるにもかかわらず、「サディスティックなオリエント人」と「オリエント人の暴力と性欲の犠牲となる白人の一員」(実際には、サドマゾ的な欲望を満たしているのは「我ら」白人)という構図は消えている。
 つまり、著者が好きなSMシチュエーションは「余所の土地で余所者から受ける理不尽な暴力」であって、オリエンタリズム的シチュエーションにはそれほどこだわりがなかった、ということだな。

「昨夜思いついた話――アハメッド・ヤクービ/聞書ポール・ボウルズ」 the night before thinking, 1956は、副題どおり、著者の若い友人の語りを録音して起こしたもの。
 訳者解説によると、語り手アハマッドはキフ(麻薬の一種)を吸いながら、即興でこの物語を作り上げたそうである。私は麻薬の力による創作能力の増大や、この手の「著者以外の人物が即興で語った作品を忠実に書き留めた」という触れ込みは信用していない。なので、この「昨夜思いついた話」が荒唐無稽だが支離滅裂ではない、ちゃんとした作品になっているのは、語り手アハマッドが素で優れた才能の持ち主だからなのだと思う。
 会話の部分のタンジール方言は大阪弁に訳されている。ネイティヴ(邦訳者の四方田氏は西宮出身)の関西人が書く全国区向けに和らげられていない(言い方を換えれば記号化されていない)関西弁って、耳で聞くのとはまた違う濃さがあるんだよなあ。

「ハイエナ」 the hyena
「庭」 the garden
 解説には「60年代に書かれた」とあるだけ。どちらも寓話風。でも「理不尽な暴力」という主題は共通。

「学ぶべきこの地」 here to learn, 1980は、因習的で未開の北アフリカの町を出た美しい少女が、「西側世界」で幸福を摑むシンデレラストーリーかつ彼女の「素朴な」目を通した欧米文明批判、というありがちな枠組みを取りつつ、最後には彼女の故郷喪失という皮肉な結末を迎える。
 ただし、「学ぶこと」に意欲を燃やす少女マリカは、スペイン語や英語の会話、金銭の計算法などを次々と学ぶうちに、当然のごとく読み書きの学習を望むのだが、偶々の巡り合わせでその機会は先延ばしにされる。
 とうとう最後まで彼女は読み書きを学ばなかった、というところに、少々解り易すぎる象徴性、および絶望的な結末にも「読み書きを学んで(それによってもっと啓発されて)いれば、彼女はもう少し違った結末を迎えることができたかもしれない」、「この後、彼女が読み書きを学べば(それによってもっと啓発されれば)、多少は救われるかもしれない」という解釈の余地を与えたのんが、ちょっと簡単すぎるような気がしないでもない。

 ほか、短編の「過ぎ去ったもの、まだここにあるもの」 things gone and things still here, 1975と中編の「時に穿つ」points in time, 1982を収録。

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