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アリス・イン・ワンダーランド

 世間でのヒットにも関わらず、私の周囲では至って評判がよろしくないのだが、桜木町の県立図書館まで行ったついでに観てまいりました…………だってジョニー・デップが好きなんですもの……
 クリスピン・グローヴァーも好きです。すみませんわかりやすくて。

『アリス』の映画版を観るのは、ディズニーアニメも含めてこれが初めて。『ドリーム・チャイルド』なら観ている。ワンダーランドのシーンはわずかだが、三月兎やドードー鳥等、動物キャラクターがみんなボロボロの剥製みたいで気持ち悪く、意図してやってるなら素晴らしい。あと、イアン・ホルムの演技はよかったが、やはりルイス・キャロルは美形役者が演じるべきであろう。ああいう嗜好のくせにそこそこ美形だというところが、ルイス・キャロルの真骨頂なわけだから。
 なお、ここで「美形」というのは、「世間一般の感覚からすると美形であろう」という意味です。世間で美形と言われる男を見ても、私はいまいちピンと来ないのです。

 単におもしろかった、あるいはつまらなかった映画の感想は、ブログには書かない。映画の感想を書くのは、どうおもしろかったのか、あるいはどうつまらなかったのか、自分で考えをまとめたい時である。
 で、バートン版『アリス』の感想を一言で言うと、びっくりするほとつまんなかった。マジびっくり。
 よくもまあここまで『アリス』をつまんなくできるもんだという意味では、おもしろかったですよ。
 以下、どうつまんなかったかを述べる。

 小説と映画という表現形態の違いによって同じ作品がどのように変わるのか興味があるので、読んだことのある小説が映画化されたのを観たり、観た映画の原作小説を読んだりすることもある。今回は、そういう動機で観たわけではないんだが。
 原作(小説のほかにも漫画とか演劇とか)を映画化するには、いろいろと変更が必要である。単に尺の問題とか、単に実写では不可能な表現だとか(技術の進歩で解消されつつあるが)、原作ではおもしろかった表現や展開でも映画には向かないとか、あるいはもう一歩進んで映画にしかできない表現・展開に変えるとか。

 そういう必然性のある変更のほかにも、必然性がまったくないとしか思えない変更もある。それが改善なのか改悪なのかは、鑑賞者によっても判断が分かれるところであろうが、私は根性がねじけているので、それが改善だろうと改悪だろうと、「おまえ、こう変えたほうが原作よりよくなるとか思ったんだろ? 自分のほうが原作者より巧いとか思ってんだろ!?」と邪推してしまうのであった。
 まあ上に挙げた「必然性のある変更」も認めない原作至上主義者というのんもいるんだけどね。

 ティム・バートンはインタビューで、映画版『アリス』で行った変更について、次のように述べている。
「(原作の)小さな女の子が奇妙なキャラクターの言いなりになって彷徨い歩くだけのストーリーにはあまりに魅力を感じない」
「僕は、『アリス』の世界に、もっと深さを与えたかった」

 芬々たる「俺のほうがルイス・キャロルより上」臭がします。原作が嫌いだったら、そもそも映画化なんかするなよ。

 具体的にどのような「魅力」「深さ」を与えたのかというと、「敵がいて倒す」、「それを通じて主人公が成長する」話に変えたのである。
 摑みどころのないワンダーランドには、「赤の女王対白の女王」という「原作にはない明確な対立構造」(パンフレット解説より)が持ち込まれ、
「『オズの魔法使い』をはじめ、おとぎ話ではいつも、主人公は冒険を通じて、自分が抱える問題を解決する。この物語でも、彼女は冒険を通じて強くなるんだ。それは大きな旅ではあるが、同時にとてもプライベートな旅だ」(インタビューより)

 だったら最初から、『オズの魔法使い』でええやん。悪い女王(魔女)対善い女王(魔女)の構図なんかまんまやし。
『アリス』は当初、父と妹たちと一緒に観に行くつもりだったのだが、予告を観た父が、「『オズの魔法使い』みたいで怖いから観たくない」と言い出して取り止めになったのであった。父は就学前にジュディ・ガーランド主演の『オズの魔法使い』を観て大層怖い思いをし、還暦を過ぎた今でもトラウマとなっているんだそうな。父曰く、「ああいうアメリカのファンタジーはデザインが気持ち悪くてやだ」。

 父の危惧というか直観は的中していたわけで、バートン版『アリス』はデザインも含めて何から何まで悪い意味で『オズの魔法使い』化、悪い意味でアメリカナイズされていたのであった。
 バートン指揮下のスタッフたちが、プロットのみならずデザインについてまで「原作より俺らのほうが上」と考えていたのは明らかで、ジョン・テニエルのデザインはことごとく悪い意味でアメリカナイズされている。それ以外のオリジナルのデザインも、人間が演じたキャラクターのデザインはまあいいとして、風景や小道具に関しては、基本的にはいつものバートン映画のデザインと同じ路線にあるにもかかわらず、呆れるほど凡庸で、悪い意味で安っぽい。
 アメリカ的大味デザインでも、『オズの魔法使い』のほうが素朴(良い意味で)でプリミティヴ(良い意味で)だっただけ、遥かにマシである。

 予告やスチールでは「呆れるほど凡庸」とまでは思わなかったのだが、兎穴での超高速落下(原作ではのんびりと落ちていく)ですでに顰蹙し、最初の部屋から出た庭園のデザインを目にして最初に思ったことは、「これがギジェルモ・デル・トロ監督だったら……!」であった。その思いは終幕まで続く。ギジェルモ・デル・トロの『アリス』だったら……!
 別に私はそれほど『アリス』に思い入れがあるわけではないが、ジョン・テニエルの挿絵込みでなら、かなり思い入れがある(あの挿絵を気に入らなかったルイス・キャロル当人については、嗜好を昇華することのできた変態だと思っている)。

 プロットについて話を戻すと、つまりアメリカ人は例外もあるが大半は、無意味なものに耐えられない、明確な対立構造のない作品に耐えられない、主人公が成長しない作品に耐えられない、明確な教訓またはメッセージがない作品に耐えられない。それらがない作品は、それらがある作品よりも劣っているので、自分たちがそれらを与えてやることで「ダイナミックで深みのある魅力的な作品」になったと得意満面、というわけだ。
 おまえらなんか『オズ』がお似合いなんだよ。『アリス』に触んなや。

 ティム・バートンはそういうアメリカ人に於ける例外のはずだったんだけどねえ。徐々に作品に「意味」や「明確な対立構造」や「成長」を与えるようになってきているのは判ってたんだけど、ここまで堕ちていたとは……

 まあ『アリス』の映画化・『アリス』の改悪ではなく、オリジナルの「敵がいて倒す」「それを通じて主人公が成長する」、ジャリ向けファンタジー映画としては、かなりよくできているんじゃないですか? そもそも私は「敵がいて倒す」「それを通じて主人公が成長する」映画をおもしろいとは思わないんだが。『アリス』映画としてはゴミ。
 バートン映画としては最低ランク。最底辺の『猿の惑星』よりは遥かにマシ、と言えるが、『猿の惑星』はバートン映画としてはゴミ以下なので、あんまりフォローになりませんね。

 もう一点だけフォローをすると、上記のとおり凡庸なりにプロットや演出はそれなりの水準にあり、その中で役者(人間のキャラクター)はいい仕事をしていました。とにかくデザインはよかったし。
 ヒロインのミナ・ワシコウスカは例外。本人の責任というよりは、例によって凡庸で無個性なヒロインしか作れないバートンの責任。主人公としてのヒロインでさえ、そうなんだからなあ。
 それは措いて、ヘレナ・ボナム・カーター、ジョニー・デップ、クリスピン・グローヴァーと、狂気役者揃いである。アン・ハサウェイが、狂気役者の素質を持っているのは意外だった。この調子で頑張れば、『チャーリーズ・エンジェル・フルスロットル』のキャメロン・ディアスの狂気を孕んだ笑顔を越えられるでしょう。
 トウィードルダムとトウィードルディーのマット・ルーカスも良かった。

 しかし所詮、「意味のない狂気」を理解できないアメリカ人が造形したキャラクターなので、せっかく醸し出された狂気は活かされていない、もしくは余計な理由づけをされて台なしになっているのであった。あ、フォローになってない。いや、とにかくあまりのつまらなさが逆に興味深かったというのは措いても、人間のキャラクターのデザインはよかったですよ。

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