« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »

参考文献録

『伝奇集』ホルヘ・ルイス・ボルヘス 篠田一士・訳 集英社 1984
Fiddiones, El aleph, Historia universal de la infamia
「伝奇集」(1956)、「エル・アレフ」(1957)、「汚辱の世界史」(1954)を一冊にまとめたもの。
 次作の参考資料として、去年から「東アジア人(主に日本人と中国人)以外の作家が描く、シルクロード~中東を舞台にした歴史小説」および「(前略)、シルクロード~中東風の世界を舞台にした広義のファンタジー」を、片っぱしから(翻訳のみだが)読んでいる。
  ボルヘスは十年近くも前に読んで、なんかいまいちだったのでそれっきりだったのであった。何がどういまいちなのか、その時は解らなかったのだが、上記の条件に当てはまる作品を探す過程で、ボルヘスが次のように述べているのを知る。

 シャーラザードにも劣らぬ神来の記憶力をもった、ひとりのマロン教徒の女助手であった。この素性のいかがわしい補佐役――その名をわたしは忘れたくない、それはハンナであると言われている――のおかげで(後略)
  「『千夜一夜』の翻訳者たち」(『永遠の歴史』筑摩書房)より

「アラジンと魔法のランプ」など、『千夜一夜』の中の幾つかの物語にはアラビア語原典が存在しない。アントワーヌ・ガランは、それらをマロン教(中東のキリスト教)修道士のハンナ・ディヤーブなる人物から提供された、と主張している。ハンナ某はそれらを『千夜一夜』の物語として記憶しており、書き記した。ガランはその手稿を翻訳した、というのである。
 しかし、ハンナ某の実在は確認されていない。そのため、ガランの創作に違いない、という説もある。

 上のボルヘスの文章は、ハンナ某の存在の曖昧さを踏まえている。それはいいんだが、実はハンナは男性なのである。
 この性別の取り違えがボルヘスの間違いなのか、当たった資料の間違いなのかは、この際問題ではない。謎の語り部ハンナが「女だったらいい」という強い願望をボルヘスが抱いていたのは、「シャーラザード(原文ママ)にも劣らぬ神来の記憶力をもった」「その名をわたしは忘れたくない、それはハンナであると言われている」といった、思い入れたっぷりな文から明らかである。

 考証よりも感性優先というか、実は俗っぽい(悪い意味で)というか、作品(エッセイ等も含めて)全体から滲み出る「そういう感じ」が、どうもボルヘスを好きになれない原因なのだろう。「バベルの図書館」シリーズ(国書刊行会)の『ガラン版 アラビアンナイト』の序文にも、「東洋は西洋の伝統である」とか無頓着に書いてるしな。

 それはともかく、この作品集にはイスラム風味の話が多い。ざっと挙げると「アル・ムターシムを求めて」「アヴェロエスの探究」「アベンハカーン・エル・ボハリー、おのれの迷宮に死す」「ふたりの王とふたつの迷宮」「仮面の染物師 メルヴのハキム」「彫像の部屋」「夢を見た二人の男の物語」「インクの鏡」「マホメットの代役」

「イスラム風モチーフ」が使われている話も含めれば、この倍くらいになるだろう。フィクションとしては、どれもよくできている。まあ、ほかの欧米作家による「イスラム風フィクション」が、あまりにも出来の悪いのんが多すぎる、ということでもあるんだけど。
「仮面の染物師 メルヴのハキム」(「汚辱の世界史」)は、8世紀後半の史実に基づいている。メルヴ(現在のトルクメニスタン)で叛乱を起こしたムカンナアを主人公にした(登場させた)文学作品は、私が知る限りでは本作ともう一つ、トマス・ムアという詩人による叙事詩「ララ・ルーフ」だけである。ボルヘスによると、この「ララ・ルーフ」は「アイルランドの愛国者流の感傷癖に彩られて冗漫な作品である」。

 ムカンナアは、私が現在執筆中の長編に登場する。彼に関する日本語と英語の文献をすべて読んだわけではないが、ボルヘス作品はほぼ完全なフィクションだと言い切れる。史実というか、複数ある原典(信憑性の高いものから低いものまである)の記述と一致する点を、不粋を承知で挙げれば、

  • 叛乱のおおよその時期(鎮圧は西暦783年/ヘジュラ歴167年。ボルヘスはヘジュラ歴163年としている。なおボルヘスはヘジュラ歴と西暦の換算も不正確)。
  • 首謀者は覆面をし、アラビア語で「覆面者」を意味する「ムカンナア」と呼ばれた(ボルヘス作品での日本語表記は「モカンナ」)。
  • ムカンナアは若い頃はホラーサンに住み、最後はサナームの地で籠城した。
  • ムカンナアは預言者を称した(ボルヘス作品での日本語表記は「予言者」)。

 以上四つだけである。ムカンナアに関する「主要な情報源」は「わたしのまちがいでなければ」「四つにしぼられる」としてボルヘスが挙げている資料は、四点ともおそらく実在しない。
 まあ、アッバース朝が黒を国家の象徴としていたのに反抗して白を象徴としていたらしいとか、ムカンナアが支持された理由の一つが、この地方の実質的な支配者だったアブー・ムスリムが755年にアッバース朝によって処刑されたことへの憤りだとか(「もっとも有名な首領の失脚と処刑」とは、このことを指しているのだろう)、いろいろ下調べをした形跡はある。
 原典史料の一つでは、ムカンナアは元は布を漂泊する職人だったとしている。ボルヘスは染物師だったとしているが、そういう史料もあるのかもしれない。

 いや、調査した上での創作、ということなら、何も言うことはないんだけどね(どうも不信感が……)。

 以下は邦訳者の問題だが、イスラム圏の固有名詞等のカタカナ表記が見慣れないものなので、すぐにはなんのことだか解らなかったりする。原文での表記も、かなりいい加減なような気がするが。「ムカンナア」が「モカンナ」、「ムハンマド」が「モハメド」「マホメット」なのはまだいいが、「マフディ」が「マーディ」、「バラーズリー」が「バラドゥーリ」とか。別にいいんだけど。

「アル・ムターシムを求めて」では「パーシーたちがこの塔においていった、白い屍衣に包まれた死体から」とあるが(場所はボンベイ)、「パーシー」ってパールシー教徒のことだろう。となると、「この塔」とはゾロアスター教の鳥葬の塔ということになる。パールシー教を知らなかったから、そのままカタカナにしたんだろうな。
 しかし、「恐怖の救済者 ラザラス・モレル」では19世紀初めのミシシッピー下流域の「目もあてられぬ沼沢地に、プア・ホワイトが住み付いた」とある。たぶん原文にpoor whiteと英語で書かれていたから、そのままカタカナ表記したんだろうけど、1984年当時の日本でこの語はそんなに人口に膾炙してたんだろうか。まさかこれもなんのことだが解らないから、そのままカタカナにしたんじゃあるまいな。

|

参考文献録

「キス」 アンジェラ・カーター (『ブラック・ヴィーナス』 植松みどり・訳 河出書房新社 2004(1985))
Black venus
 アンジェラ・カーターはフェミニズムの文脈で紹介されてることが多いんでなんとなく敬遠してたんだが、読んでみたら結構おもしろかった。つくづく、そういう紹介の仕方(フェミに限ったことじゃないが)は作者にとって迷惑でしかないよな。そういう売り方をしたがってる作者ならいいんだろうけど、訳者解説によればカーターはそうではなかったという。

「キス」はサマルカンドで語られる、中世の暴君とその妃の伝説。ウズベク族じゃなくて「ウズテク」族となってるので、暴君「タンバーレン」も架空の人物なのだろう。伝説の主題がモスクの建設だということからも、ブルー・モスクを建てたサマルカンドの主ティムールあたりがモデルと思われる。あるいは、ティムールが西洋人にタメルランと呼ばれたように、私の知らない西洋名を持つ別の実在した中央アジアの暴君なのかもしれない。

 それはともかく、わずか8頁の掌編ながら、中近東とは異なる中央アジアの雰囲気をよく捉えていると思う。民族衣装の描写とか、眉間に横一本の線を引いて眉毛を繋げる妙な化粧法とかも含めて。雰囲気だけの「なんちゃって中央アジア」ではない。
 しかし、シェヘラザードの名は出さなくちゃならなかったのか。高貴な人妻が平民の男に頼みごとの代償としてキスをねだられ、応じたために身の破滅を招く、というエピソードは『千夜一夜』にあり、「キス」はこれに基づいているのだろう(実際に中央アジアにこういう伝説があるのかもしれないけど)。ロバート・アーウィンの『必携アラビアン・ナイト』は、アラビアンナイトに影響を受けた現代作家の一人としてカーターを挙げている。

 しかし大概の人のアラビアンナイトについての知識やイメージは、非常に貧弱で画一的なわけで、それを敢えて利用するならともかく、そうでないならわざわざ読者にアラビアンナイトを思い出させるのは作品の印象を限定することにしかならない。それは欧米でも日本でも同じだろう。シェヘラザードの名前なんか出したものだから、訳者の植松氏は「アラビアン・ナイト風に語られるアラブの王宮の女」とか平気で述べちゃってるよ。まあ出さなくても言いそうではあるけどね。やれやれ。

|

仁木稔

 似たようなことは以前も書いたのだが、まあこのブログの記事を読んで内容をずっと憶えてくれている人もそういないであろう。
 私のこの筆名は、「男女どちらにも使える普通の名前」として付けたものである。この条件を満たしているなら、どんな名前でもよかったのだが、偶々最初に思い浮かんだのが「ニキ」と「ミノル」であった。女で「ミノル」というのはちょっと珍しいかもしれないが、熟考したところでより良い案が出てくるとも思えない場合、私は大概「その場の思い付き」に頼ることにしている。漢字も字面が良さそうなものを適当に当てた。

 当時の担当の方には、「地味」と言われたが、その地味さこそ、私の求めるものである。全国の仁木さん、稔さんに対して含むところはありませんが。本名がちょっと変わっているので(昨今のお子様方の創意に富んだ名前に比べれば全然普通だが)、子供の頃から「普通の名前」に憧れていたという経緯もあるのだが、そういう個人的な背景は措いて、小説家として私は、作品に対して無でありたいのだ。
 
 料理や服が、どんな材料でどんな過程で作られているか知るのは、安全性を含めた品質を把握するために必要だが、知ったことでより美味しくなったり、より着心地がよくなったり、より見た目がよくなったりするわけではない。そう感じられたとしたら、ただの錯覚だ。錯覚する人は多いようだが、大概は錯覚だと指摘されれば納得するだろう。
 食べたり使ったりするものなら材料や製造過程を知るのは必要だ。製造者が誠実な人物であるかどうかというのも、品質保証の一環と言えなくもない。

 しかし、鑑賞を目的とした作品に関しては、製造(制作)者や製造過程について知る必要なんぞ皆無である。ものによってはバックグラウンドを知っておいてほうがいい場合もあるが、それが作られた時代や社会についてであって、作者個人についてではない。
 作者個人について知らなくても鑑賞はできる。作者自身について知ることで作品がよくなったり悪くなったりしたと感じられたら、それは錯覚である。しかしあまりにも多くの人がそう錯覚しており、おそらくは錯覚だと指摘されても理解できない。それどころか、作者について知ることを鑑賞という行為そのものだと思い、作者について知ることができなければ作品をどのように観たり聴いたりしていいのかすら判らない。

 まあ幸いにして、現代ものでなければ作者の人となりと作品との混同は比較的免れやすい(個人的にも、デビュー前にそのことは実地で体験している。性格の歪んだ人物を主人公にした現代小説を書いて友人に読んでもらったら、縁を切られた。現代もの以外では、そういうことはなかった)。だが作者の性別で作品それ自体をも判断されるのは、すべてのジャンルに付いて回るのである。本屋の五割方は、「男性作家」と「女性作家」の棚を分けている。
 しかし実際のところは、この世には「作家」と「女性作家」がいるのである。作家とは男の物書きのことであり、女の物書きは作家ではなく「女性作家」だ。「女性」という相対性のある言葉を「女流」に置き換えれば、より解り易い。

 漫画だったら、「少女漫画」というジャンルに対する好き嫌いはあっても、「女が描くもの」だという理由だけで読む読まないの選択をするような輩は、とうに絶滅してる。或いは、間もなく絶滅する。果たして小説には、そういう日は来るのだろうか。
 女だということを強調する書き手や売り手と「作者が女だから」云々する読者(プロ・アマ双方)のどちらが卵か鶏か、という話はしない。ともかく私はデビューのずっと前から、「女が書いたSF」がやたらと持ち上げられる一方で、それ以上に貶される数多の例を知っていた。私がSF小説を書くのはSFを愛しているからである。そうやって書いた作品の価値を、私自身が女か否かで決められては堪ったものではない。
「男女どちらにも使える」筆名を選んだのは、「女が書いたもの」としてでもなく「男が書いたもの」としてでもなく、作品を作品として読んでもらいたいからである。

 ついでに言えば、「男の振りをした女の書いたもの」「自分のジェンダーを否定している女の書いたもの」として読まれたいのでもない。私はこれまでの人生で、男になりたいとか、女に生れなければよかったなどとは一度も思ったことがないからな。幸か不幸か、男に憧れるほどの美点も女に絶望するほどの欠点も見出し得ていないのだ。女だからという理由で嫌な目に遭ったことはあるが、それは相手が悪いのであって、私が女なのが悪いのではない。
 そして今のところ、私を「女性作家」として売ろうとする動きもない。まあ今時、SFでそういう売り方がされるとは思わんけど。これで読者諸氏も私の性別など気に掛けずにいてくれたなら、こんなことを書く必要もなかったんだが。

 人が一人か二人が写っている写真を被験者に見せ、次に被写体について写真を見ずに簡単に報告してもらう、という実験の報告を読んだことがある。人がどんなふうに他人をカテゴライズするかを調べるのが目的なのだが、年齢、人種、身なり、美醜など、何を基準にするかというのは、すなわち被験者自身が何で他人を判断するか、何にこだわっているかを明らかにする。
 すべての被験者に共通していたカテゴライズは、「性別」だった。被写体が自分と異なる人種であっても言及しない被験者もいたが、性別だけは例外なく報告されたという。
 人間の脳には他人が自分と同じ人種か否かを即座に見分ける神経基盤が生得的に存在するのだそうだが、他人の性別を即座に見分ける神経基盤があるのかどうかは寡聞にして知らない。しかし、初めて見る相手が同じ人種かどうかを見分ける能力が生存に有利であったのなら(原始時代にはそうだったのだろう)、相手の性別を見分ける能力はもっと根源的に生殖に関わるものである。

 だがたとえ「異人種を即座に見分ける生得的能力」が人種差別の基盤となっているとしても人種差別を正当化できないように、「生得的=正しい」とはならない。その上、もはや人間の文化は相当部分、生殖から切り離されている。
 まして小説を読むのに作者が女か男かを見分けるのは、生殖に関わりないばかりか、あらゆる面から無意味である。「女の書いたもの」として作品を読んでもらいたい「女性作家」であれば、声を大にしてそう言うのだから、読者が目を凝らして見分けるまでもない。

 仁木稔の性別が女であると知って(私は隠していないし、わざわざそのことを明記してくれる人もいるので、偶々知ってしまうこともあるだろう)、意外に思ったり、「やっぱりね」と思ったり、あるいは特に何も思わなかったりするのは、私自身とも私の作品ともなんの関係もない。「仁木稔」というフラットな鏡に映るのは私の姿ではなく、あなた自身の男性観/女性観だ。
 特に何も思わなかったという方は、作者の影なんぞには目もくれず作品そのものを読んだのだということになるし、延いては男というもの女というものに対する観念が柔軟だということになろう。「こういうものを書くのは男だと思ってた/こういうものを女が書くなんて」にしろ、「やっぱりね、こういうのを書くのは女だと思ってたよ」と誰に対してだか知らんが勝ち誇るにしろ、それがあなたの男性観/女性観であり、あなたはその眼鏡なしでは小説を読むことすらできないのである。

|

参考文献録

『トンデモ偽史の世界』 原田実 楽工社 2008 (「その他科学」)
 なぜ「8世紀半ばの中央アジア」を舞台にしている次作の参考文献にこういう本を読んでいるのかは、刊行されたらのお楽しみ。

 それはともかく、と学会の本来のスタンスは、「作り手の意図を超えてトンデモないものになっている物件」を楽しく観察し楽しく紹介するはずなんだが、特に疑似科学・偽史の分野は提唱者や支持者の妬み逆恨み、差別意識が露骨だし、悲惨もしくは後味の悪い結果を伴っていることも少なくないんで、笑うどころか嫌な気分になってまうんだな。本書だと『シオンの議定書』がその代表。まあ笑えるネタもあったけど。

『偽書作家列伝』 種村季弘 学習研究社 1992/2001
 青土社から出た単行本の改訂版。
 一つ一つのエピソードはおもしろかった。「コウノトリになったカリフ」のヴィルヘルム・ハウフって、よくできたメルヘンの書き手というくらいの認識しかなかったんだが、実は反骨精神溢れる早熟の天才だったんだね、とか、『カルメン』のメリメって変な人だったんだね、とか。

 しかし①文学的遊戯としての偽作や架空論考と、②詐欺行為としての偽書造りの区別が不明瞭。もちろん境界線は曖昧だってことは解っているが、例えば①の文学史上の位置づけとか、②でも文学的なレベルでの出来の良し悪しとか、①と②の境界線上にある事例とか、その辺をもっと論じてほしかったんだが。単に個別の事例を羅列しただけ、味噌も糞も一緒という感じで終わってしまっている。

|

参考文献録

『アラビア人文学』 ハミルトン・A・R・ギブ 井筒豊子・訳 講談社 1982/1990(1926) (「イスラム文化」)
Arabic literature
「アラビア人・文学」なのか「アラビア・人文学」なのか判断に苦しむ邦題だが、原題のliteratureは訳者あとがきによると、ここでは「人文学」のことだそうな。まあ扱っているのは文学が中心だが。
 で、arabicというのは著者前書きからすると「アラビア語」のことで、内容もアラビア語作品のみを扱う。他の言語によるイスラム文献は扱っていないし、またアラビア語作品であれば非アラブ人によるものでも除外しない。
 シュウービーヤ運動(非アラブ系ムスリムによる文学運動)についての参考文献として挙げられてたから読んでみたんだけど、大して詳しくもなかった。古典だけに内容も古いし。

『カナート イランの地下水路』 岡崎正孝 論創社 1988 (「中央アジア中世」)
 カナートに限らず、用水全般について。
 カレーズ(「カナート」はアラビア語)はサーサーン朝ペルシアでは広く行われていたし、イスラム征服後もそのまま残されたようだが、ペルシアと隣接したソグドにいつ伝わったのかは不明。ソグドのさらに隣のフェルガナ地方に伝わったのは15世紀らしい。
『ミカイールの階梯』の時、カレーズを絡ませたエピソードを入れたらおもしろいかとも思ったんだが、タリム盆地でのカレーズの状況がよく判らなかったので却下したという経緯がある(刊行後に見つけた資料で、タリム盆地にはカレーズがないことが判明。しかも東トルキスタンへのカレーズの伝播自体が18世紀を下らないらしい)。

 今回、カレーズを使えたら使いたいと思ってたんだが(伝播の時期が不明なら、8世紀に伝播していたことにしてしまえばいいのである)、やっぱやめた。舞台となる地方が川の流域で、しかも8世紀当時は運河が発達していたので、カレーズの使いどころがないのである。
 カレーズがあるという設定にしてしまうと、その地域の攻略が簡単になり過ぎて(カレーズ破壊すれば一発だからな)話が展開しないから、というのも理由の一つ。

|

参考文献録

『必携アラビアン・ナイト――物語の迷宮へ』 ロバート・アーウィン 西尾哲夫・訳 平凡社 1998(1994)
the arabian nights  a companion
 中世アラブ史の専門家による、アラビアンナイト入門書。アラビアンナイトを未読の人向けだが、アラビアンナイトの成立や翻訳事情だけでなく、世界各地の説話、前近代のアラブの文化、アラビアンナイトの影響を受けた西洋文学など、幅広い分野を解り易く説いている。西洋文化に於ける東方からの影響という意味でのオリエンタリズムを扱った本では、これまで読んだ中で一番おもしろかった。

 リチャード・バートンを筆頭として、千夜一夜の翻訳に関わった人間は揃って奇人ばかりだが、その末端にはアラビアのロレンスことT・E・ロレンスまでもが加わっている。
 本書によると、ロレンスはバートン版を嫌い、マルドリュス版を非常に高く評価していたそうで、1923年にマルドリュス版英訳の話を持ち掛けられると快諾し、「多様な言語による多くの翻訳版のなかで、マルドリュス版こそはずば抜けて優れており、(中略)マルドリュス版が正確であるのは折り紙つきです。」と返信している(結局遣り遂げてないが)。
 しかしマルドリュスのアラビア語のレベルは疑わしいもので、その翻訳版(1899年から1904年に刊行された全16巻)は刊行直後から不正確さが批判されていたという。著者アーウィンは、マルドリュス版に対するロレンスの絶賛をもってして、彼のアラビア語力が実は大したことがなかったことの傍証としている。

 難を言えば、千夜一夜の起源をインドまでしか遡ってないことだな。シンドバードとかには、インドというよりは東南アジア起源と思われる要素もかなり入ってるのに。あと、千夜一夜の発展期と同時代のペルシア文学についても、まったく言及されていない。

 訳者の西尾哲夫氏は、2000年代に入ってアラビアンナイト関係の著作を多く出しているが、本書と偶然出会うまでは、アラビアンナイトにはまったく興味がなかったそうだ。確かに、興味がなかった人までアラビアンナイトに嵌らせてしまうくらいの魅力がある本である。
 近々『アラビアン・ナイトメア』を読むつもり。非常に楽しみだ。

 2010年10月再読。

 前回(8ヶ月前)読んだ時よりもいろいろと知識が増大しているので、内容への理解は深まったが、同時にいろいろと不備やら不審な点やらが目に付く。
 インドから東(中国や東南アジアなど)がほとんど無視されているのは前回から気が付いていたが、これはまあいい。守備範囲を無限に広げるわけにはいかんしね(中国史に関しては、日本人が欧米人より随分と恵まれているのは間違いない)。20世紀後半(50-60年代だったと思う)に採取された「メキシコ先住民の民話」にアラビアンナイトやらグリム童話の中の話が紛れ込んでいることも知らないようだが、これもまあ仕方ない。

 今回気づいたのは、ペルシア語文学がほとんど無視されていることである。完全に黙殺しているわけではなく幾らかは言及した上で、きりがないから、と断っているのだが、それにしたって『ヴィースとラーミーン』や『シャーナーメ』、『マスナヴィー』なんかよりも、『千夜一夜』と共通点の多い作品は幾つもある。どうにも解せない。
『ライラとマジュヌーン』まで無視されている。たぶん欧米でもニザーミー作品のほうが知られているだろうけど、元はアラブの伝説で(実在の人物がモデルだという)、アラビア語作品が先行してるのに。

本書で紹介されていた小説「ヴァテック」と「シャグパットの毛剃り」感想

『アラビアン・ナイトメア』感想

|

« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »