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仁木稔

 似たようなことは以前も書いたのだが、まあこのブログの記事を読んで内容をずっと憶えてくれている人もそういないであろう。
 私のこの筆名は、「男女どちらにも使える普通の名前」として付けたものである。この条件を満たしているなら、どんな名前でもよかったのだが、偶々最初に思い浮かんだのが「ニキ」と「ミノル」であった。女で「ミノル」というのはちょっと珍しいかもしれないが、熟考したところでより良い案が出てくるとも思えない場合、私は大概「その場の思い付き」に頼ることにしている。漢字も字面が良さそうなものを適当に当てた。

 当時の担当の方には、「地味」と言われたが、その地味さこそ、私の求めるものである。全国の仁木さん、稔さんに対して含むところはありませんが。本名がちょっと変わっているので(昨今のお子様方の創意に富んだ名前に比べれば全然普通だが)、子供の頃から「普通の名前」に憧れていたという経緯もあるのだが、そういう個人的な背景は措いて、小説家として私は、作品に対して無でありたいのだ。
 
 料理や服が、どんな材料でどんな過程で作られているか知るのは、安全性を含めた品質を把握するために必要だが、知ったことでより美味しくなったり、より着心地がよくなったり、より見た目がよくなったりするわけではない。そう感じられたとしたら、ただの錯覚だ。錯覚する人は多いようだが、大概は錯覚だと指摘されれば納得するだろう。
 食べたり使ったりするものなら材料や製造過程を知るのは必要だ。製造者が誠実な人物であるかどうかというのも、品質保証の一環と言えなくもない。

 しかし、鑑賞を目的とした作品に関しては、製造(制作)者や製造過程について知る必要なんぞ皆無である。ものによってはバックグラウンドを知っておいてほうがいい場合もあるが、それが作られた時代や社会についてであって、作者個人についてではない。
 作者個人について知らなくても鑑賞はできる。作者自身について知ることで作品がよくなったり悪くなったりしたと感じられたら、それは錯覚である。しかしあまりにも多くの人がそう錯覚しており、おそらくは錯覚だと指摘されても理解できない。それどころか、作者について知ることを鑑賞という行為そのものだと思い、作者について知ることができなければ作品をどのように観たり聴いたりしていいのかすら判らない。

 まあ幸いにして、現代ものでなければ作者の人となりと作品との混同は比較的免れやすい(個人的にも、デビュー前にそのことは実地で体験している。性格の歪んだ人物を主人公にした現代小説を書いて友人に読んでもらったら、縁を切られた。現代もの以外では、そういうことはなかった)。だが作者の性別で作品それ自体をも判断されるのは、すべてのジャンルに付いて回るのである。本屋の五割方は、「男性作家」と「女性作家」の棚を分けている。
 しかし実際のところは、この世には「作家」と「女性作家」がいるのである。作家とは男の物書きのことであり、女の物書きは作家ではなく「女性作家」だ。「女性」という相対性のある言葉を「女流」に置き換えれば、より解り易い。

 漫画だったら、「少女漫画」というジャンルに対する好き嫌いはあっても、「女が描くもの」だという理由だけで読む読まないの選択をするような輩は、とうに絶滅してる。或いは、間もなく絶滅する。果たして小説には、そういう日は来るのだろうか。
 女だということを強調する書き手や売り手と「作者が女だから」云々する読者(プロ・アマ双方)のどちらが卵か鶏か、という話はしない。ともかく私はデビューのずっと前から、「女が書いたSF」がやたらと持ち上げられる一方で、それ以上に貶される数多の例を知っていた。私がSF小説を書くのはSFを愛しているからである。そうやって書いた作品の価値を、私自身が女か否かで決められては堪ったものではない。
「男女どちらにも使える」筆名を選んだのは、「女が書いたもの」としてでもなく「男が書いたもの」としてでもなく、作品を作品として読んでもらいたいからである。

 ついでに言えば、「男の振りをした女の書いたもの」「自分のジェンダーを否定している女の書いたもの」として読まれたいのでもない。私はこれまでの人生で、男になりたいとか、女に生れなければよかったなどとは一度も思ったことがないからな。幸か不幸か、男に憧れるほどの美点も女に絶望するほどの欠点も見出し得ていないのだ。女だからという理由で嫌な目に遭ったことはあるが、それは相手が悪いのであって、私が女なのが悪いのではない。
 そして今のところ、私を「女性作家」として売ろうとする動きもない。まあ今時、SFでそういう売り方がされるとは思わんけど。これで読者諸氏も私の性別など気に掛けずにいてくれたなら、こんなことを書く必要もなかったんだが。

 人が一人か二人が写っている写真を被験者に見せ、次に被写体について写真を見ずに簡単に報告してもらう、という実験の報告を読んだことがある。人がどんなふうに他人をカテゴライズするかを調べるのが目的なのだが、年齢、人種、身なり、美醜など、何を基準にするかというのは、すなわち被験者自身が何で他人を判断するか、何にこだわっているかを明らかにする。
 すべての被験者に共通していたカテゴライズは、「性別」だった。被写体が自分と異なる人種であっても言及しない被験者もいたが、性別だけは例外なく報告されたという。
 人間の脳には他人が自分と同じ人種か否かを即座に見分ける神経基盤が生得的に存在するのだそうだが、他人の性別を即座に見分ける神経基盤があるのかどうかは寡聞にして知らない。しかし、初めて見る相手が同じ人種かどうかを見分ける能力が生存に有利であったのなら(原始時代にはそうだったのだろう)、相手の性別を見分ける能力はもっと根源的に生殖に関わるものである。

 だがたとえ「異人種を即座に見分ける生得的能力」が人種差別の基盤となっているとしても人種差別を正当化できないように、「生得的=正しい」とはならない。その上、もはや人間の文化は相当部分、生殖から切り離されている。
 まして小説を読むのに作者が女か男かを見分けるのは、生殖に関わりないばかりか、あらゆる面から無意味である。「女の書いたもの」として作品を読んでもらいたい「女性作家」であれば、声を大にしてそう言うのだから、読者が目を凝らして見分けるまでもない。

 仁木稔の性別が女であると知って(私は隠していないし、わざわざそのことを明記してくれる人もいるので、偶々知ってしまうこともあるだろう)、意外に思ったり、「やっぱりね」と思ったり、あるいは特に何も思わなかったりするのは、私自身とも私の作品ともなんの関係もない。「仁木稔」というフラットな鏡に映るのは私の姿ではなく、あなた自身の男性観/女性観だ。
 特に何も思わなかったという方は、作者の影なんぞには目もくれず作品そのものを読んだのだということになるし、延いては男というもの女というものに対する観念が柔軟だということになろう。「こういうものを書くのは男だと思ってた/こういうものを女が書くなんて」にしろ、「やっぱりね、こういうのを書くのは女だと思ってたよ」と誰に対してだか知らんが勝ち誇るにしろ、それがあなたの男性観/女性観であり、あなたはその眼鏡なしでは小説を読むことすらできないのである。

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