« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »

参考文献録

『世界で最も危険な書物――グリモワールの歴史』 オーウェン・デイビーズ 宇佐和通・訳 柏書房 2010(2009) (「西洋神秘思想」「ラテンアメリカの宗教」「オリエンタリズム」)
Grimoires: a history of magic books
 著者はイギリス人。挙げられてる書名が全部原文ママで、その本を探したい人にはありがたいと言えそうだが、その実、英語以外の本のタイトル(ラテン語とかフランス語とか)の英訳まで原文(英語)ママで、それって意味あんの? 日本語訳も付いてない。ラテン語ほかラテン系諸語のタイトルは、まだなんとなく意味が解るけど、ドイツ語は全然知らんから全然解らん。超うざい。

 偽書の歴史について調べる関係で読んだ本。第5章「古代魔術の再生」で、オリエンタリズム(東洋学)の歴史に触れている記述は、ちょっとした拾い物だった。オリエンタリズム史の本はいろいろ読んだけど、中世ヨーロッパの「架空の国としての東洋への畏怖や憧憬」(アレクサンドロス大王とかプレスター・ジョンとか)からナポレオンのエジプト遠征までの数百年が空白だったからね。まあ、もはや今さら次作の参考にはならないんだけど。

 エクアドルのケチュア族は、名前を書かれると死ぬ「魔女の本」を所有するゴンザーロという聖人が信仰されていて(背中に剣を突き立てられ、顔から血を滴らせた姿で表されるという)、「魔女の本」の管理を職業とする者もいる。人々はこの本に敵の名前を書いて呪ってもらうため、あるいは書かれてしまった自分の名前を消してもらうために報酬を払う。「魔女の本」は呪文や紋章が書かれた本ではなく、罫線が引かれたノートだそうな。
 それなんてデスノート……(これはつまり、先住民にとって名簿というのは白人による支配の道具だった、ということなんだけど)

|

キングダム・オブ・ヘヴン

 再鑑賞。一応、資料としてである。何が見たかったのかというと、戦闘場面(特に攻城戦)である。舞台は12世紀末のエルサレム。私が必要としているのは8世紀半ばの中央アジアの資料なんだが、無いんだよ、ほとんど。

 登場する武器兵器の描写は、それなりの考証と、映画的な見映えの兼ね合いといったところ。イスラムというと「半月刀」だが、これがイスラム圏に登場するのは早くても14世紀らしい。本作でも、唯一の例外を除き、ほかはすべて先端だけがわずかに湾曲した刀剣を使っているようである(動体視力がないんで、混戦シーンではきちんと確認できなかったが)。
 唯一の例外とは、一番最初に登場するイスラム戦士が使っていたものである。たぶん、最初の登場ということで、観客の「イスラム戦士=半月刀」という思い込みに迎合したんだろうな。一対一(または少数対少数)のイスラム戦士の戦闘場面はここだけで、後はほとんど混戦ばっかりだから刀剣の形に注目する客も少ないだろうし。

 弓は長弓じゃなくて合成弓(ケンタウロスが持ってるようなん)を使ってるのも正しい。弩は当時のイスラムでは個人携帯用のんは使われず、架台付きの大型のんだけ。映画ではどっちも使ってなかった(フランク側は架台付きの弩を使っていた。個人用のはどうだったけか)。
 攻城城とか衝車の屋根とかには、ちゃんと防火用の皮革が貼ってあった。細かいなあ。攻城塔をこけさせる戦法は、十字軍時代の別の戦闘で実際に行われている(ただし、やったのはイスラム側)。

 登場した投石機(トレブシェットではなくバリスタと呼んでおった)は、イスラム側も十字軍側も錘式だった。この型の投石機はイスラム起源らしく、使用開始は12世紀後半なので、これは正しい。
 それ以前の牽引式(人がロープで引っ張る)投石機で飛ばせるのは最大重量50キロ、最大射程50メートル程度なのに対し、錘式の投石機は最大重量230キロ、最大射程300メートルである。
 しかしこの映画だと、エルサレムを攻撃したサラディン軍の投石機は、弾丸こそ230キロより軽そうだったが、どう少なく見積もっても500メートルは離れてそうな場所から飛ばしてて、しかも城壁のすぐ内側だけじゃなくて市街地にも落ちてたな。まあ、遠くから飛ばしたのは軽そうな弾丸(火炎弾)だけで、重そうな弾丸(岩塊)はもっと近付いてからしか飛ばさなかったけど。『ロード・オブ・ザ・リング』(三作目)では、1トンくらいありそうな岩塊をえらく遠くから投げ込んでたような記憶が(ファンタジーだからありなのか?)。
 何はともあれ、細部まで丁寧に作ってあって、しかもそれが作動するところが丁寧に取られていて素敵でした。ガラガラ回る巻き上げ機とか、ズンと下がる錘とか、ブンと跳ね上がるアームとか。
 
 十字軍時代の中東の焼夷兵器は、「ギリシア火」の名で知られている。イスラム諸国だけでなくビザンツ帝国も使用したので、こう呼ばれた。これは石油を精製したりほかの物質(硫黄や硝石など)を混ぜたりした焼夷剤をポンプで噴射したり、小さな壺に入れて投げたり、大きな壺に入れて投石機で飛ばしたりした。『キングダム・オブ・ヘヴン』に登場したの三番目のもの(火炎噴射器は、TVシリーズの『クルセイダー』でやってた)。
 当時のこうした大小の「火炎壺」には、すでに火薬が使われていた。といっても、まだ爆発するほどの威力はなく、一緒に壺に入った焼夷剤の燃焼促進剤として使われてたようだ。導火線で点火されてから投擲され、落下して壺が割れると、激しく炎が噴き上がる。
 だから映画の中で、着弾した火炎弾が非常に勢いよく炎を噴き上げはしても、爆発と呼べるほどの激しさではなかったのは正しい。

 でも、導火線で点火してたはずだから、炎に包まれた状態で投擲されるのは変なんだけどね。「轟音を上げ、昼間の空のような光を放って」飛んできた、という十字軍側の記録に基づいてこの場面を作ったのは間違いない(夜襲だし、飛行中の音もすごいし)。でも導火線使ってたんだよ? この記録は、飛んでいる途中で炎が噴き出したということなのだと思う。
 まあ、導火線付きのでかい壺が飛んでって、途中で炎を噴き出すとか、着弾して初めて燃え上がるとかよりも、炎に包まれた状態で飛んだほうが見映えがいいのは確かだ。「飛んでる途中で炎を噴き出す」って、特殊効果でもめんどくさそうだし。
 しかし、火薬も焼夷剤も壺の中だから、外側に点火してもその場で大炎上したりはしないんだろうけど、でもあんな炎に包まれてる弾丸をセットしたりして、投石機に燃え移っちゃわないか?と観てて気になって仕方なかった。

 歴史ものなのに、あまりにも考証が蔑ろにされてるのんは腹が立つが(だって、そんなんやったら歴史ものにする意味ないやん)、厳密にすればいいというものでもないと思っている。その点、『キングダム・オブ・ヘヴン』は、かなりきちんと考証した上で、その知識を適度に活かすと同時に適度に無視して、見映えのいい画面を作れているんじゃないでしょうか。

 以下、一応ネタバレ注意。
 史実に基づいた叙事詩は、数世代にわたる戦争や移住の歴史を一人または何人かの英雄の偉業に圧縮してまうものだが、史劇映画(特に中世以前)もまた尺の問題で、長期間にわたる出来事を短期間の出来事に短縮しがちである。トロイア戦争の伝説は、数世代にわたる抗争をわずか9年間の戦争に圧縮しているが、ブラピの『トロイ』はさらに短縮されて、せいぜい数か月の出来事にしか見えん。
『キングダム・オブ・ヘヴン』でもこの手の短縮はあるが、まあせいぜいオーランド・ブルーム演じるバリアンがあっという間に王に信頼されて、あっという間に王の妹と恋に落ちるくらいで、全体としては史実に忠実。

 バリアンの「だって主人公だから」的改変は別にして、一番改変されたキャラクターは、王の妹(エヴァ・グリーン)だろうな。映画では強いられて16歳で結婚した夫ギー・ド・リュジニャンを嫌っているが、史実では兄王の死後、顔がいいだけの無能なギーに一目惚れして結婚し、王位を与えてしまったんだそうな。
 たぶん全登場人物のうち最も史実どおりなのが、ブレンダン・グリーソン演じるルノー・ド・シャティヨンで、暴力と財宝が大好きで、強い者には媚び諂う、絵に描いたような悪人だった。ギーは映画で描かれたような血に飢えた暴君ではなく単なる無能で、ルノーの言いなりだったという。
 ああも紋切り型(史実には忠実なんだが)の悪人だと、あんまりおもんない。いっそギーも史実どおりの無能な操り人形にしたほうがおもしろかったんじゃないか。映画だと似た者同士でキャラ被ってるし。野心剥き出しの悪人より単なる無能なほうが、ボードワン王(エドワード・ノートン)に「ギーを王にするわけにはいかないから、そなたが妹と結婚せよ。ギーは処刑する」と言われたオーランド・ブルームが、「良心が咎めます」と断る展開に説得力も出るし。

|

参考文献録

『アラブが見た十字軍』 アミン・マアルーフ 牟田口義郎/荒川雅子・訳 ちくま学芸文庫 1986/2001(1983)
Les croisades vues par les arabes
 レバノン人ジャーナリストがフランス語で書いた本。

 そういえば、こういう本があったのを思い出したのである。出た当時、ずいぶんと話題になったのは憶えている。中学二年の時か。新聞や雑誌の書評を幾つも読んだし、同じリブロポート社の『アラブが見たアラビアのロレンス』は刊行(88年)の一、二年後に読んで、その十年後くらいにも再読してるから、なんとなく『十字軍』のほうも読んだような気になってたんだけど、そういや、読んでなかったのであった。

 同じ「中世イスラム」とはいえ、8世紀半ばの中央アジアと11世紀末以降の中東とじゃ開きがありすぎるので、参照するつもりはなかったんだが、軍事関係の資料のあまりの少なさに……
 いや、すでに数ヵ月前に1冊読んでみたんだが、あまりの内容のなさに、どうせほかもこんなもんだろうと決め込んでいたのである。で、先日、この本のことを思い出したのであった。

 読んでみてよかった。個別の戦いの戦術について、予想以上に詳しく書かれている。時代や場所が違うとはいえ、「前火砲時代の乾燥地帯の戦争」の個別の戦術についてちゃんと書かれた資料は、今まで読んだ中では唯一これだけだ……ありがたくて涙が出そうである。
 それとは別に、内容自体もおもしろかった。フランス人読者向けなので解り易く書かれているし、あくまでイスラム側を中心にしながらも、暗殺教団の跳梁など、西洋人が興味を持ちそうな話題が大きく取り上げられている。
 
 十字軍といえばフランク人(西洋キリスト教徒)の蛮行であるが、著者はそれらを語る時、悲憤慷慨の口調ではなく皮肉なユーモアを選んでいる。そもそも、著者が多分に依拠しているアラブの年代記作家たちの記述が、皮肉なユーモアに満ち満ちているのである。例えば十字軍時代末期、ルイ9世がエジプトを侵略したが敗れて捕虜になる。彼は後に釈放されフランスに帰れたのだが、その際、エジプト人に次のように説教されたのであった。

「なんじのように良識もあり、知恵と教養の持ち主が、どうしてこのように船出して、無数のムスリムが住む地域にやって来たのか。われらが掟によれば、このように海を渡った男は法廷では証言する資格がない」
「それはまた、なぜ」と王は尋ねる。
「頭が少し足りない、と思われるからだ」

|

参考文献録

『ボスニア物語』 イヴォ・アンドリッチ 岡崎慶興・訳 恒文社 1972(1945)
Travnička hronika
 同じ作者の小説を短期間で三冊以上読むと、飽きてまうのであった。たぶん、作者の癖(好みや考え方も含めて)が解ってきてしまうからであろう。おもしろいかおもしろくないか、というのは、あんまり関係ないようである(あんまりにもおもんなければ、そもそも三冊も読まないが)。作者自身が見えてきてしまうのが、嫌なのかもしれない。
 だから、おもしろいと思った作者の本は、できるだけ時間を置いて読むことにしている。一冊目と二冊目の間でも二、三週間以上置きたいし、二冊目と三冊目の間は少なくとも半年は置きたい。
 しかしアンドリッチ作品は、資料として読んでる上に、存在を知るのが遅かったのである。そしてもうじき脱稿してしまうのである。だから二冊目から三冊目の間は約二ヵ月しか置けなかったのであった。

 おもしろかった。原題は「トラヴニク年代記」の意。トラヴニクは、オスマン・トルコ領ボスニアのトルコ太守の駐在地だった町である。1806年、ナポレオンはこの地に初めてフランス領事館を置く。1814年、ナポレオンの失脚によって領事館が閉鎖されるまでの、この町のできごとが描かれる。
 全28章(+プロローグ・エピローグ)から成るこの作品は、一応、フランス領事ダビーユが中心となっているが、28のエピソードから成る連作といったほうがいいかもしれない。
『ドリナの橋』は、国境の川に架かる橋の、建設から破壊までの300年以上にわたる歴史を描いた、より年代記的な作品である。これも構成としては小さなエピソードの集成だったが、橋の建設の数年間(十数年間だったかもしれん)と破壊の前の数十年間に多く紙幅を割き、その間の200年以上がかなりはしょられていて、ややバランスが悪く感じられた。

 一方、『ボスニア物語』は、いずれも短い各章(長くても30頁弱)で語られるエピソードの比重は、ほぼ完全に均一である。例えば第16章では、セルビアで反乱が起き、トラヴニクでもムスリムたちがセルビア人を捕らえて処刑し始める。オーストリア領事館に務める医師がこれを制止しようとし、暴徒と化した人々は彼をも殺そうとする。激昂した医師は、「おまえたちより私のほうが遥かに正しい回教徒だ」と宣言する。
キリスト教徒で、しかもオーストリア領事館の医師の「改宗」に驚嘆した人々は、彼を恭しく家に送り返し、処刑も取りやめになる。町中、このニュースに持ち切りになるが、その夜のうちに医師は謎の死を遂げてしまう。医師はムスリムとして葬られ、それと同時に町を覆っていた狂乱は沈静化し、急速に秩序が回復する。

 私を含めた普通の作家だったら、こういうエピソードは非常に劇的に描いてしまうだろう。だがアンドリッチは非常に淡々と記述し、しかも他のエピソードとまったく同じ比重で扱っているのである。このエピソードや、あるいは1813年に新しく赴任したトルコの太守が、とてつもない残忍さを発揮して人々を虐殺するエピソードが、床屋見習いのムスリムの少年がオーストリア領事の娘に仄かな恋心を抱くといったエピソードと完全に同等に並べられているのだ。

『呪われた中庭』と『ドリナの橋』はいずれもボスニアを内部から描いた作品である。ボスニアの人々は宗教や民族がなんであろうと、「彼ら」として描かれることはない(『呪われた中庭』所収の最初期の短編はその辺不徹底だが)。アンドリッチ自身は代々カトリックの家系だそうだが、特定の民族や信者だけが「我ら」とされることはない。
 また余所者であっても、ボスニアに住みついてしまえばもはや「彼ら」ではない。余所から来て立ち寄っただけの人々は、東洋人であろうと西洋人であろうと「彼ら」として扱われるが、あまり比重を置かれていない。
 それに対し『ボスニア物語』は、主にフランス領事やオーストリア領事の視点から描かれる。
「東洋」に赴いた欧米人が、その野蛮さを嫌悪したり、なんとか理解しようと苦闘したりする記録は無数にあり、そういう視点で描かれたフィクションもまた無数にある。『ボスニア物語』のフランス領事もオーストリア領事も実在の人物をモデルにしており、それもフランスおよびオーストリアの外務省に保管された資料の綿密な調査によって造形されている。

 異邦人「彼ら」を創作し、「我々」の社会を眺めさせる、という風刺作品は初期のオリエンタリズム作品に少なくない。この場合、異邦人の造形は「高貴な野蛮人」にせよ「東洋の賢人」にせよ、「我々」の社会を風刺するという以上の役割はまったく持たず、考証もほぼ無視される。後代のオリエンタリズム作品に於ける「彼ら」のほうが、まだしも主体性があると言える。
『ボスニア物語』のフランス領事やオーストリア領事たちは、「我々」として「彼ら」ボスニアを眺める。しかし彼らはボスニアからすれば、立ち寄っただけでいずれ去っていく「彼ら」なのである。
 つまり、「彼ら」(ヨーロッパ領事たち)に「我々」(ボスニア)の社会を眺めさせる、という構造なのだが、アンドリッチは別段ボスニアを風刺してはいない。むしろこの構造は倒立して、「我々」という高処から「彼ら」ボスニアを見下ろしているつもりのヨーロッパ領事を風刺しているとも言える。

 いや実に、彼らがボスニアという「東洋」を理解しようと苦闘したり、理解不能なんだと嫌悪したりする様子は、まさにパロディなのである。
 善良だが凡庸な人物として描かれるフランス領事ダビーユの「東洋」に対する反応は、パロディかと思えるほど典型的だが、それに対し、「新時代」の申し子である副領事デフォッセはボスニアを肯定的な目で眺め、理解しようとし、しかも易々とそれをやってのける。
 そのためデフォッセは、ダビーユよりもずっとトラヴニクの住民たちから好かれるのだが、それでも彼の共感も理解も、あくまで上から見下ろしたものでしかない。

 トラヴニクにはユダヤ人たちも住んでいる。彼らは15世紀にイベリア半島から逃げてきた人々であり、古いスペイン語やポルトガル語を使い続けている。彼らはキリスト教徒よりもさらに不安定な立場に置かれており、残虐な新任太守によって搾り上げられるだけ搾り上げられる。
 フランス領事館が閉鎖されることになると、その頃にはトラヴニクの人々も領事ダビーユにそれなりの親しみを感じており、特にユダヤ人は自分たちを公平に扱ってくれたことに感謝していたので、ダビーユに帰りの旅費を工面しようと申し出る。すでに領事の給料は打ち切られてしまっていたのである。
 ダビーユは感激し、喜びのあまり冗談で、「太守にあれだけ絞り取られたのに、よく金が残っていましたね」と言う。ユダヤ人は、「私たちは常に金を隠し持っているのです」と答える。ダビーユはおもしろい冗談だと思っていっそう喜ぶ。ユダヤ人が「そうしなければ、私たちは生きてこられなかったのです」と説明しても、まったく通じない。
 この痛ましいほどの彼我の断絶のエピソードを最後に置いて、『ボスニア物語』は終わる(プロローグで町の住民たちがヨーロッパ領事赴任の噂に、「本当に領事とやらが来たとしても、何も変わりはしないだろう」と結論し、エピローグで再び住民たちが「やっぱり何も変わらなかった」というのは、ちょっと紋切り型すぎるな……いいんだけど別に)。

 昔の邦訳作品は往々にして、原語がなんであるかも、直接訳したのか或いは重訳なのかも記されていないが、1972年刊の本書も例に漏れず。訳者がユーゴスラビア日本大使館勤務の人だし、published by prosveta beogradとあるから、たぶん原語(クロアチア語?)からの訳なんだろう。しかしカタカナ表記の混乱ぶりからすると、英訳からの重訳か、少なくともかなり依拠してるんじゃないかとも思われる。
 文化の坩堝の話なので、外国語(原語にとっての)を原語表記したものをさらに日本語(カタカナ)表記しているので、えらいことになっている。訳者の苦労は偲ばれるものの、表記法に脈絡がない上に、明らかな無知が多々見られる。
 訳注付きで「ユレマ(回教徒の神学博士)」「ハリハ(回教国の王)」とあったが、現在よりイスラムについての一般知識が限定されてたとはいえ、「ウラマー(ウレマー)」「カリフ(より正確には「ハリーファ」だけど)」くらいは岩波とかの『世界の歴史』レベルの概説書ではすでに表記が確定してただろう。

 上の二つは訳注付きだが、固有名詞や役職名等、明らかに訳者が解ってなくて、原語表記に適当にカタカナ表記を当てたと思われるものも少なくない。
 ジャラール・ッディーン・ルーミーが「イエラレディン・ロウミイ」となってたのには、いったい何事かと思ったよ(当時でも、まったく知られてなかったということはないと思うんだが)。マルクス・アウレリウスが「マーカス・アウレリュース」とか……

「アレキサンダー大王」「オットマン・トルコ」等は、当時の「日本人に馴染みのある表記」にしたんじゃないかと思うんだが、正教が「オーソドックス」、プリニウスが「プリニイ」、サンクト・ペテルブルグが「セント・ピータースブルグ」になってるので、やっぱり英訳に拠ってるんじゃないかという気もする。
 あるいは、同じ語でも表記が不統一だったりとか。「イエナ」だったり「ジェーナ」だったり、「モスコー」だったり「モスクワ」だったり、「正教」だったり「オーソドックス」だったり、カトリックの修道士たちの称号が「ブラザー」だったり「フラ」(「兄弟」の意)だったり。
 
 誤字脱字が多いのは、古い本だから仕方ないんだろうな(「爪」が全部「瓜」になっとる)。
アンドリッチがうっかり再注目されるようなことがあっても(映画化とか?)、すでにある邦訳がそのまま復刊されるのがせいぜいで、新訳とか改訳って事態にはまずなるまい。だからこれらの混乱が訂正される機会は、永遠にないんだなあ……訳文自体は問題ないんだけどねー。

|

参考文献録

『片道切符』 ディディエ・ヴァン・コーヴラール 高橋啓・訳 早川書房 1995(94)
Un aller simple
 この作品を「オリエンタリズム」の観点から読む人はあんまりいないと思うんだけど、そう読んでみる。

 近代西洋史は文学史も含めてあんまり詳しくないんだが、近代以降の白人は、人生に行き詰まると北アフリカに行く。
 北アフリカがそういういわば「ゴミ白人捨て場」と化したのは、もちろん植民地主義の産物である。まず19世紀、実際に当地が本国(ヨーロッパ)で失敗した連中の吹きだまりとなり、次にそれがロマン化されて文学等の題材になり、影響された連中がさらに押し寄せ、それがさらに題材となって……といったところだろう。
「ロマン」というのはこの場合、冒険ではなく、「人生を遣り直す」という極めて近代的なものである。「再生」というか「癒し」というか。いずれにせよ、彼らが必要としているのは荒々しい自然やら異文化やらのエキゾティシズムだけであり、別に異郷だったらどこでもいいんだが、やはり「ゴミ捨て場」であった歴史が一番長く、そのテーマの作品の舞台として最もメジャーなのが北アフリカなのである。北アフリカにとってはいい迷惑だ。
 あと、西ヨーロッパ人からすれば、北アフリカはほかの「異郷」より距離が近い。その点でもお手軽である。で、西欧作品の影響を受けて、北米人も北アフリカに行く。東海岸からだったらそう遠くもないしな。ロシア人にとっての北アフリカはカフカスである(現在はどうだか知らんが)。

 北アフリカを含めた異文化圏をそういうお手軽なロマンの舞台とするのを皮肉り、異文化圏へ行った白人が「帰れなくなる」恐怖をテーマとした作品もある。代表的なのはボウルズの『シェルダリング・スカイ』であろう(これは映画版しか知らない。原作は読むつもりでいたんだが、ほかのボウルズ作品を三作続けて読んだら飽きちゃったのである。まあいずれ別の機会に読みます)。
 このテーマ(「帰れなくなる」)であっても、根底にあるのは白人の優越感である。自分たちが「現地」の人や状況をコントロールできるという信念がまず前提となっているから、そうできなくなることに対する恐怖も生じるのだ。この「植民地主義根性」「サヒーブ根性」を作者が自覚し、それをも風刺する場合もあるが、作者に自覚がなく、ただ無邪気に「帰れなくなる」恐怖を描くか、それを絶望という糖衣にくるんでさらにロマン化する場合もある。ボウルズはどうも後者のような気がする。

 で、ようやく本題。『片道切符』の主人公は、フランスでジプシーに育てられた「モロッコ人」青年である。おそらく本来はフランス人であり、容姿からして金髪の、記号的な白人なのだが、ちょっとした行き違いでモロッコ人移民ということにされてしまったのである。
 本人は、ほとんど象徴的なまでに「無垢」な存在であり、「フランス」「ジプシー」「アラブ・イスラム」にちょっぴりずつ足掛かりを置いて、それなりにアイデンティティを確立している。しかしジプシーのコミュニティは彼を余所者として締め出す。フランス政府の手に引き渡された彼は、「故郷」であるモロッコへと「送還」されることになる。
 ただし単なる強制送還ではなく、不法移民を故郷で社会復帰させるという「人道的プログラム」の第一号として、「人道担当官」なる役人が同伴するのである。かくして、このモロッコ人ではないモロッコ人青年の、ありもしない故郷への珍道中が始まる。

 主人公の青年はお伽話的もしくは寓話的に無垢であり、モロッコについて知識もない代わりに偏見もない、いわば「聖なる無知」である。「純粋な」眼差しでもってすべてを受け入れる。まあ、フランスが舞台のままであれば、こういうキャラクターを置いておくだけで風刺になるが、モロッコに連れてくると話が成り立たなくなる。彼のアイデンティティはあくまで「フランスでジプシーに育てられたモロッコ人」であり、本物のモロッコ人になる気など毛頭ないのである。
 そこでモロッコ篇は、主人公ではなく人道担当官がメインになる。彼は「故郷へ帰るモロッコ青年」にロマンを投影し、モロッコにもロマンを投影し、両者がそのロマンに沿ったものであることを望む。主人公はとても優しい青年なので、人道担当官が望むとおりに作り話をするが、モロッコは彼の願望どおりに振る舞ってくれないので(貧しく不潔な上に観光地化している)彼を失望させる。

 それでも人道担当官はロマンに固執し続ける。彼のロマンとはすなわち、彼自身がアイデンティティを取り戻すことなのである。実は彼は、アルザスの製鉄工の息子として生まれた作家志望だったのであった。故郷にも馴染めず、パリに出たはいいが作家にもなれなかった彼は、二重にアイデンティティを喪失した人間である。
「モロッコ青年の故郷への旅」に同伴することで、人道担当官は自己のアイデンティティを回復していくのである。まず物語る力を取り戻し、さらに捨てた故郷の思い出へと回帰していき、そしてついに「帰れなくなる」。

 まあつまり人道担当官をメインにすると、白人が北アフリカに己の内面の問題を勝手に投影するだけの典型的な話でしかない。「片道切符」というタイトルどおり、「帰れなくなる」話なわけだが、死の直前に彼はアイデンティティを取り戻しているので、「再生」の物語ではある。
 彼の旅の道連れである「モロッコ青年」がモロッコ青年なんぞではなく、その故郷も存在しないので、スラップスティック的な風刺が生まれているが、モロッコ人(非白人)とモロッコ(異文化圏)が白人の自己投影の対象でしかないことには、従来のオリエンタリズム作品と変わりがない。

 モロッコを舞台にしているものの、この作品はオリエンタリズムをおそらく意図的に排除しようとしている。風物のエキゾティシズムはほとんど強調されいないし、オリエンタリズムに付き物の「官能」を担当するのは、現地女性ではなくフランス人女性でしかも不感症である。イスラム圏に於いて物語るといえば『千夜一夜』であり、作中にも「アラブの語り部」という表現が一ヵ所出てくるので、著者も念頭に置いていると思われるが、特に強調はされていない。
 あと、オリエンタリズムな紋切り型の一つとして、主人公と恋仲になる女もしくは男が、「実は白人」というのんがある。白人だけど非白人に育てられた、とか、片親が白人だとか(インディアンものにも結構ある)。たぶんそのほうが白人読者にとってお手軽なんだろう。まったくの非白人だと距離感があり過ぎるから。その上、貴種流離譚的なロマンも生じると思われる。
 主人公は「実は白人」(御丁寧にも金髪である)なのだが、この場合、上の効果を狙ってはいないと思われる。単に、デラシネっぷりを強調しているだけなのだろう。

 しかしオリエンタリズムの根源的な問題は、白人にとって「オリエント」が自己投影の対象以上のものでないところにある。オリエントという他者が身に着けた金属製品などに映った己の歪んだ小さな像を、一生懸命描写しているだけだ(虹彩に映った像かもしれない)。他者本人や服装、体臭やら何やらは、ひっくるめて「鏡」の装飾部分だとしか思っていない(オリエンタリズム作品の「異国情緒」がこれに当たる)。「オリエントという他者」が主体性のある一個人だなどとは、想像もできないのである。
だからこの『片道切符』は見事にオリエンタリズム作品だし、とりあえず私は作者のコーヴラールがその点にどれだけ自覚的であるのかが、よくわからんかった。

|

SF乱学講座1

 去る2010年11月7日のSF乱学講座で、私が喋った分です(約1時間)。その後、岡和田晃氏が20分ほど総括をしてくださったのですが、それはここでは掲載しません。あしからず。

Ⅰ 『グアルディア』
 大学では東洋史を専攻していましたが、これは4、5歳の頃の恐竜好きが高じたものです。「昔のこと」ならなんでも好きで、古生物学や地質学、天文学から人間の歴史にまで興味を持つようになったわけです。その一環として、科学と社会の関わりの歴史についても、いろいろと調べるようになりました。
 そうした興味を盛り込んだのが、初めて書いたSF長編である『グアルディア』です。

『グアルディア』の舞台は、27世紀のラテンアメリカです。ラテンアメリカを舞台にしているのが珍しくておもしろい、という評をたくさんいただきました。指摘はほとんどされていませんが、ラテンアメリカに関連してもう一つ珍しい特徴だと私自身が思っているのが、「科学に寛容なカトリック」VS「科学に非寛容なプロテスタント」という図式です。

 現実の歴史では、ダーウィンはメンデルの実験を知ったにもかかわらず、メンデルの理論が自分の進化論にとってどういう意味を持つのかまでは気が付きませんでした。ダーウィニズムとメンデリズムが統合されたのは早くても1940年代以降で、リン・マーギュリスによれば、彼女が遺伝学を専門に研究し始めた60年代でも、なお進化学(当時は古生物学)と遺伝学との相互交流はまったくなかったそうです。学際的な研究どころか、専門分野同士の交流はほとんど行われておらず、遺伝学者は進化論を知らず、古生物学者はメンデルの法則すら知らないという有様だったそうです。

『グアルディア』の背景となるのは、ダーウィンが自分とメンデルの理論を結び付け、しかもメンデルが修道院長なのを利用してカトリックに取り入り、「神の意志による進化」という有神論的進化論を創り上げてしまった、という歴史改変です。
 現実では、ダーウィニズムは社会ダーウィニズムに変質しました。これは端的に言うと、ダーウィニズムにプロテスタンティズムを結び付けたものです。『グアルディア』の世界では、カトリックとダーウィニズム、そしてメンデリズムが融合したことになっています。
 この有神論的進化論はさらにカトリック以外の宗派・宗教にも適用され、生物学を中心とした科学が現実よりも発展したユートピア的世界が21世紀に実現します。しかし22世紀末にパンデミックが起こって文明が崩壊してしまう。そうすると、「神罰が下った」とファンダメンタリズム(聖書根本主義)が復活してくる、とここまでが『グアルディア』の前提となっています。

 カトリックは狂信的で科学に敵対的、というイメージは、プロテスタントや無神論者の反カトリック・プロパガンダで誇張されたものです。科学の発展はプロテスタント精神の賜物、というのもプロテスタントの宣伝です。メンデルは修道院長ですし、テイヤール・ド・シャルダンも司祭でした(彼が異端とされたのは有神論的進化論を唱えたためで、北京原人を発掘したためではない)。アメリカで進化論を認めていないのは、プロテスタントの聖書根本主義者です。狂信的なカトリック信者はもちろん無数に存在してきましたが、狂信的なプロテスタントや狂信的な無神論者も無数に存在してきました。
 カトリック教会は国家を超えた巨大な組織であり、その運営のためには柔軟さが必要です。しかも非常に大勢の人々の生活とも密接に結び付いているから、彼らの慣習や民間信仰と妥協せざるを得なかった。つまり狂信ではやっていけなかった、ということです。
その結果、妥協と馴れ合いでグダグダになっていたカトリックに対し、キリスト教の「純粋さ」を求めたのが、16世紀の宗教改革というわけです。そしてプロテスタントの中でもとりわけけ「純粋な」連中が、ヨーロッパにいられなくなって地の果てで築いた国家がアメリカ合衆国であり、その名残が「バイブル・ベルト」であり、ファンダメンタリズムであり創造論なのです。

 つまり「純粋さ」は排他性と表裏一体であり、狂信と紙一重なのです。これはいわゆる宗教に限らず、イデオロギー全般について言えることです。

『グアルディア』の前提となる設定では、高度に発達したバイオテクノロジーで生物全般の遺伝子をあれこれ弄った結果、異種の生物同士の遺伝子を混ぜ合わせてしまうウイルスが出現します。人間の遺伝子に異種生物の遺伝子が混ざって「純粋」でなくなってしまうことを恐れた人々が縋るのが、ファンダメンタリズムと優生学です。

 ファンダメンタリズムを作品に登場させたのは、科学の発達とその崩壊に対する反動という以上の意味はありません。現実のファンダメンタリズムも反動ですし。『グアルディア』で、悪のファンダメンタリズム国家は創造論を信奉しています。創造論が如何に馬鹿げているかについては述べるまでもないので述べませんが、一つ注意すべきなのは、現実の創造論者たちが、創造論は宗教ではなく科学だと主張していることです。「もう一つの科学」である、と。これについては後で述べます。

さて、優生学といえば、ナチスの絶滅政策やアメリカ合衆国の断種法に代表される「純粋さ」を求める狂気です。
 実際のところ、優生学にはこうした「不適者断絶」型と勢力を二分する「形質改良」型とがありました。後者があまり知られていないのは、あまり研究されてこなかったためです(そもそも優生学は20世紀前半、30ヶ国以上で展開されていたというが、その歴史研究は英米とドイツについて以外は不充分)。

この「二つの優生学」を取り上げたのが、『グアルディア』と同じ世界のメキシコを舞台にした『ラ・イストリア』です。

Ⅱ 『ラ・イストリア』
「優生学eugenics」という語は「良き生まれ」という意味で、イギリス人フランシス・ゴールトン(ダーウィンの従弟)が1883年に、その概念とともに造り出しました。ゴールトンは、人間の性質は身体的特徴から性格に至るまで遺伝すると信じていました。ならば人類の進歩を決めているのはヒトの品種改良であり、優れた社会政策とはその構成員を品種改良することだと考えたのです。
「不適者廃絶」と「形質改良」という二つの優生学の違いとは、すなわち「人間の品種改良」へのアプローチの違いでした。

 社会ダーウィニズムとは、ハーバート・スペンサーが主張した理論です(ただし、この呼称は反対者たちによるもの)。倹約、勤勉、中庸という古いプロテスタントの徳目に「進化」の理論を都合良く当て嵌めたものであり、当然ながら、プロテスタントの多い国で優勢でした。
 社会ダーウィニズムの論法では、進化を決めるのは淘汰です。しかも淘汰によっては「退化」もあり得る。したがって「不適者(劣った者)」は積極的に排除しなければならない、ということになります。さらに20世紀に入ってからは、これらの国々ではメンデル遺伝学が優勢になっていったため「形質改良」には悲観的となり、ますます「不適者断絶」の傾向が強まりました。イギリスの優生学は階級差別的でしたが、ドイツとアメリカ合衆国では人種差別主義的で、混血への恐怖が根源にありました。ここでも純粋さの追求は、排他と表裏一体となっています。
 *断種法が施行された国は、アメリカ(27州。1907~1937)、ドイツ(1933)、スイス(1928)、  デンマーク(1929)、スウェーデンおよびノルウェー(1934)、フィンランド(1935)

 一方、フランス、中南米、ロシアなどでは、進化論は獲得形質説のほうが優勢でした。努力によって進化するという精神論的進化論がこれらの国々の社会状況(革命や改革)で歓迎されたためであり、社会ダーウィニズムほどは宗教的背景と直接結び付いていませんでした。当然、優生学も「形質改良」という方向に。といっても獲得形質説なのでバイオテクノロジーの興隆には結び付かず、教育や公衆衛生の改善が主な手段とされました。
 こちらの「陣営」にもう一つ共通していたのは、「アングロサクソン流優生学」に対する反発と独自性の主張でした。なお、土台になったのが獲得形質説的な思想ということであり、必ずしも彼らがラマルキズムを標榜したわけではありません。

『ラ・イストリア』では、ウイルスによる遺伝子変異という災厄を軸に、二つの優生学が対比されます。一つは変異した遺伝子(と見做すもの)を排除し、ヒト遺伝子の「純粋さ」を保とうとするイデオロギー。もう一つは、ホセ・バスコンセロスの「宇宙的人種」論です。

 中南米の学問はフランスの影響をもろに受けていて、優生学もフランスと同じく「形質改良」型が導入されました。1920年代のことです。当時、本家のフランスでは「形質改良」型優生学は曲がり角を迎え、「不適者廃絶」型へと向かっていたのですが、中南米はそのまま「形質改良」型が栄え続けました。
ブラジルでは貧困の原因を黒人と先住民という劣等人種と熱帯環境に求め、これを改善するため、公衆衛生やスポーツの実践による「形質改良」と白人移民受け入れによる「形質の嵩上げ」が図られました。「国民の白人化」のため、白人との混血も奨励されました。さらに、白人の血を引く混血同士が交配を続けていけば、いずれ完全な白人が生まれるであろう、という奇妙な論理も展開されました。
 要は「不適者廃絶」であろうと「形質改良」であろうと、優生学は白人至上主義が世界基準だったのですが、まったく独自の発展を遂げたのがメキシコの優生学でした。

 ホセ・バスコンセロスは、1910年の革命後の新体制で二度も文部大臣を務め、大統領候補にもなった人物です。1925年に発表された論文『宇宙的人種』(ラサ・コスミカ)のテーマは、「混血こそ進化の原動力」でした。混乱状態にあるメキシコを統一するため、人種混淆に対する従来のマイナス・イメージをプラスに転じ、「混血の国メキシコ」というアイデンティティを創り出した見事なレトリックです。
バスコンセロスは、これがレトリックに過ぎないこと、また背景にはアングロサクソンの優越とその優生学の冷酷さへの反発もあることを、きちんと自覚していました。にもかかわらず、『宇宙的人種』自体は、実にけったいなものです。

「人類史は今日にいたるまで、四つの支配的な人種の交代を経てきた。最初に黒人種が南方にレムリアと呼ばれる文明を築き、次いで、今日アメリカ原住民と呼ばれる赤い膚の人々がアトランティス文明を築き、次いで黄色人種が中華帝国を築き、そして今日、ヨーロッパから拡大した白人種が世界を牛耳っている。人類史に組み込まれた神の計画によって、第四の支配的人種である白人種は、第五の全世界的な人種、宇宙的人種に続く架け橋としての役割を負っている。そして、この宇宙的人種を生み出すために、ラテンアメリカは重大な使命を帯びた地域なのである。」

 のっけから、これです(ちなみに「アメリカ先住民=アトランティスの末裔」説は、1550年頃、スペインの歴史家デ・ゴマラが最初に提唱した)。
 この「第五の人種、宇宙的人種」は混血によって産み出される。過去の人種間交配は物質的な力によって強制されたものだったが、これからは混血は愛によって起こるのであり、愛によって生まれた子供たちは旧世代より進化するだろう、という理屈です。

「生物体の生命力は接ぎ木することによって更新されるものだし、魂そのものが自分の固有の内容の単調さをより賑やかにするため自分と似ていないものを求めるというのは確かなことだ。暴力によるものでなく、必要によるのでもなく、美がもたらす眩惑に基礎を持ち、愛のパトスによって確認される選択によって実現される混血がどういう結果をもたらすものであるか、将来長きにわたる経験だけが明らかにしてくれよう。」

 混血こそ是とする思想は他のラテンアメリカ諸国にも輸出され、ラテンアメリカ全土が「混血の大陸」と化しました。アルゼンチンとウルグアイは元々先住民が少なかった上に黒人奴隷もあまり使われなかったので、国民のほとんどは白人移民の子孫です。これらの国までも「混血の国」「混血の文化」を標榜するようになり、現在に至っているわけです。
 この美しい理想によって、混血や先住民の窮状が覆い隠されてしまったのは確かであり、過大評価は禁物です。バスコンセロス本人も、先住民や黒人の境遇や文化にはまったく無関心でした。彼が称揚した「混血の文化」にしても、実態はありませんでした。
 *「人種間の混血」も「文化の混血」も確かに存在しましたが、社会は「白人」と「先住民」に二分割され、混血の人々はそのどちらかに属するか、あぶれて都市の住民となるかであり、「混血」という階層もしくは共同体は存在せず、したがって彼ら独自の文化と呼べるものも存在しなかった。

 しかし、まやかしに過ぎなくても、「不適者廃絶」よりは遥かにマシなのは事実です。「混血の文化」と呼べるものが存在しなかったので、バスコンセロスはそれを創り出すことにしました。そうしてメキシコ壁画運動(リベラ、オロスコ、シケイロスら)が創始され、間接的にはフリーダ・カーロも誕生しました。

 ホセ・バスコンセロスという人物が興味深いのは、「混血の理論」の功罪によってではなく、本人がひたすら変な人だからです。メキシコ壁画運動を提唱した際、彼が想定していたのはパルテノン神殿とかゴシック教会とかルネサンスの大壁画などでした。出てきたのは、荒々しい原色の「革命芸術」です。しかしバスコンセロスの目には、それが自分の思い描いたとおりの芸術だと映っていたらしい。変な人です。
 あまりに変な人なので、『グアルディア』にはホセ・ルイス・バスコンセロスというキャラクターを登場させました。彼の説く理想が多数の人々に共有されることによって自己増殖的にどんどん変貌を遂げていくのですが、彼自身の目には変貌に見えず、己の理想がそのまま実現しつつあると映る、という人物です。文部大臣バスコンセロスをそのままモデルにしたわけではありませんが、彼への敬意から、非常に悲惨な最期を遂げさせました。

『ラ・イストリア』の終盤では、登場人物の一人が、ウイルスによる遺伝子の混淆を、新たなる進化、『宇宙的人種』の実現、と評します。ただしこのキャラクターは、人を人とも思っていない人でなしで嘘つきであり、己の発言などまったく信じていないのですが。私自身としても、何億もの人間が死ぬような状況を作り出しておいて、「新たなる進化への産みの苦しみ」などと御託を述べるようなメンタリティは持ち合せていません。

 なお、ホセ・バスコンセロスの論文「ラサ・コスミカ」の邦訳は二つ出ていますが、どちらも抄訳です。私が作品の参考にし、講座でも引用したのはこちらです。

「宇宙的人種」 高橋均・訳 (『現代思想臨時増刊 総特集 ラテンアメリカ 増殖するモニュメント』1988)

 こちらは抄訳といっても、優生学についての解説部分を省略しただけで、後は忠実に訳しているようです。一方、

「地球人」 (『現代ラテンアメリカ思想の先駆者たち』 レオポルド・セア篇 小林一宏/三橋利光・訳 刀水書房 2002)

 のほうは、「ラサ・コスミカ La raza cósmica」(razaはrace人種で、cósmicaはcosmic)というタイトルを「地球人」というふつーのタイトルにしていることから察せられるように、「ラサ・コスミカ」の「いかれた」部分をすべて削除または修正した「お行儀のよい」改訳です。

 2へ

|

SF乱学講座2

Ⅲ 『ミカイールの階梯』
 この作品で取り上げたのは、ソ連のルイセンコ学説とボグダーノフの『赤い星』です。しかしまずは、ソ連の優生学について。

 ソ連の優生学の興隆は、中南米と同じく1920年代です。帝政ロシア以来のまっとうな学問を受け継いだ研究者たちはメンデル遺伝学を支持していたのですが、新体制はすでに述べたように、「努力によって進化=進歩する」獲得形質説を歓迎しました。
 しかし「メンデル主義」の優生学者たちも、不適者廃絶ではなく形質改良を目指した点では、体制と足並みが揃っていました。なんといってもソ連は元々人口密度が低い上に革命と内戦で人口が激減しており、断種などもってのほかだったからです。その上、1927年、アメリカの遺伝学者でソ連びいきのハーマン・J・マラーがⅩ線照射によってショウジョウバエを突然変異させたことが、メンデル主義者たちにも「形質改良」の希望を与えました。
 もっともX線照射による変異は明らかに有害なものが多かったため、多くの研究者たちは懐疑的でした。代わって有望視されたのが、発展しつつあった人工授精技術によって、「優秀な男性」の子を多くの女性に産ませるという「適者増産」計画でした。

 しかし1930年代に入ると、旧体制の学問や技術への排撃が始まります。排撃の理由は、彼らとその知識が「ブルジョワ的」だから、というものでした。根底にあったのは、体制は覆ったのに前時代の学者やテクノクラートが相変わらず重用されていることに対する不満でした。
 従来の正統な科学も「ブルジョワ科学」とされ、新たな「プロレタリア科学」を創始しなければならない、ということになりました。他の分野ではこの風潮(「プロレタリア物理」や「プロレタリア化学」を創造する)は長続きしなかったものの、生物学ではルイセンコ主義がメンデル遺伝学も優生学もまとめて駆逐してしまいました。

 ルイセンコ主義(ルイセンコ学説。ソ連での名称は「ミチューリン主義」)というのは、素人同然の品種改良家トロフィム・ルイセンコが提唱した出鱈目な獲得形質説で、もちろん「形質改良」を目指していました。目的を同じくする優生学が駆逐されてしまった理由は、必ずしもそれが「西側」からの輸入学問だったからではないでしょう。この言い掛かりに対し、ソ連の優生学者たちは、ゴールトンが「優生学」を初めて提唱した1883年よりずっと早い1866年に「人類の品種改良」を唱えたフローリンスキーなる人物の論文を「再発見」し、「優生学はロシア独自の学問である」と主張することで乗り切っています。

 ソ連優生学が滅亡した主な原因は二つ。一つは当時台頭しつつあったナチスの優生学への反感、もう一つは前述のマラーの暴走です。
 1932年にソ連に渡ったマラーは、「赤い薔薇色の未来」に目を眩まされ、現実がまったく見えていませんでした。彼の弟子や友人であるソ連の優生学者たちがくどいほど忠告してもまったく耳を貸さず、36年には自らの優生学思想がいかに素晴らしいかを書き綴った手紙をスターリンに直接送り付け、その年の12月のソ連農業科学アカデミーの総会ではルイセンコ主義を似非科学と罵倒しました。
 友人たちはマラーをソ連から脱出させましたが、彼ら自身は逮捕され、銃殺や獄死の末路を迎えました。かくして、ソ連の優生学は滅亡したのでした。

 ルイセンコの主張は、「小麦の種を冷やしておくと、形質が変異して冷害に強くなる(そしてその変異は遺伝する)」とか「雑草は、穀物が不適切な環境によって変異したもの(その根拠は、収穫した穀物に雑草が混じっていたから)」といった妄言でした。まともな研究者は「反動的」「ブルジョワ的」として葬り去り、成果が上がらなければ農民が非協力的だからだとして彼らを収容所送りにしました。
 そうして大勢が犠牲になった上に、ソ連の生物学は大いに衰退しました。しかし、ルイセンコ主義が適用されるのは農作物が中心であり、人間を含む動物の「形質改良」はほとんど試みられなかったようです。少なくとも人体実験の犠牲者というのはいなかったことになります。
 もしマラーが暴走していなければ、優生学は息の根を止められるまでは至らず、ルイセンコ主義に同化吸収されていたでしょう。そうなったら、Ⅹ線照射による形質改良の人体実験や人工授精による「適者増産」が国家規模で行われていたかもしれず、想像するだに恐ろしいことです。

『ミカイールの階梯』では、ダーウィニズムとメンデル遺伝学に基づいたバイオテクノロジー帝国が滅亡した反動で、創造論だけでなくルイセンコ主義も復活しています。信奉者はもちろんロシア人で、荒廃したロシアから脱出し、中央アジアにルイセンコ主義の共和国を建国しました。ウイルスによって遺伝子がどんどん変異していってしまうので、「環境次第で遺伝形質は一代で変わる」という主張が説得力を持った、というわけです。
 しかし物語の開始時点で、そのイデオロギーはすでに破綻しており、夢も希望もなくなっている状態です。
 
 実際、ルイセンコ主義はただのつまらない似非科学です。ルイセンコ自身も、頭が悪い上に教養もないコンプレックスの塊という卑小な人物。ルイセンコ主義がソ連の指導層や、一時的にでも大衆に受け入れられた理由の一つに、「専門家」に対して彼らが共有していた反感があります。そういうつまらないものが甚大な犠牲を生み出したから恐ろしい話ですが、とにかくルイセンコ本人とルイセンコ主義そのものはつまらない。
 しかしロシア・ソ連の科学史をもう少し遡ってみると、いろいろおもしろいことが見つかります。まず、ロシア人はダーウィンが大好きでした。
『種の起源』が出版された翌年、1860年には早くもその理論が紹介され、64年にロシア語版が出ると、たちまちベストセラーになりました。ダーウィニズムは実証主義、唯物主義、そして当然ながら進歩主義に合致しました。ロシアに創造論の伝統はなかったので、信心深い人々にとっても、それほど抵抗感はありませんでした(つまり、進化論とキリスト教は必ずしも併存できないものではない)。

 しかしロシアの進化主義者にとって、ダーウィンが用いた「生存闘争」「種内闘争」の概念は、非常に受け入れ難いものでした。これらは「狭い場所で多すぎる個体が限られた資源を奪い合う」という状況を前提としたもので、当時の西欧人は社会や自然をこのように見做していたから、共感をもって受け入れたのでした。
 一方ロシア人にとって、「人や動物がひしめく世界」というのは想像の限界を超えていました。ロシアやシベリアの、だだっ広くて人もほかの生物もほとんどいない平原を想像してみてください。
 また彼らは保守派だろうと急進派だろうと、ロシアの共同体を讃美していたから、「生存闘争」「種内闘争」から導き出される個人主義の冷酷さに、感情的に反発しました。
 そこで彼らは「種内闘争」は、ダーウィン自身の思想ではなく、社会ダーウィニズムによる歪曲だと思うことにしました。「生存闘争」については、闘う相手は環境だということになりました。進化とは、同じ種同士、さらには異なる種とも協力し合って過酷な環境と戦うことによってもたらされるものだという論を展開し、それこそが真のダーウィニズムだと主張しました。
 このロシア・ダーウィニズムの粋と言えるのが、ピョートル・クロポトキンの『相互扶助論』(1902 邦訳は大杉栄による訳のほか、その現代語訳もあり)です。クロポトキンはロシア帝室の一員でありながら無政府主義者で、「アナーキストの貴公子」と呼ばれ、「相互扶助論」も共産主義・集団主義思想の産物と見做されています。しかし彼は博物学者として優れた実績を残しており、「相互扶助論」も若い頃に参加したシベリア探検での自然観察と、当時のロシア・ダーウィニズムの潮流に根ざしたものでした。

 それにしても、なぜロシア人たちがダーウィニズムそのものを見捨てなかったのかは不明。欧米の学問や思想がことごとく否定された1930年代~50年代ですら、ダーウィニズムは正統なものとされ、権威とされました。ルイセンコも自らを真のダーウィニストと称していました。これは大いなる謎です。

 相互扶助という概念から、「共生」の研究も発展しました。「共生」とは、ドイツの植物学者アントン・ド・バリが1873年に創出した用語で、異種の生物同士が一緒に生活することを示す。リン・マーギュリス以前の共生の研究史については、資料がほとんど見つからなかったので、詳しいことはわからないのですが、共生発生すなわち共生による新しい器官や新種の誕生を最初に提唱したのは、コンスタンティン・メレシコフスキー(1855-1921)です。
 また、乳酸菌を腸内で増やせば老化を防げると説き、「ヨーグルトの伝道者」と呼ばれたイリア・メチニコフ(1845-1916)も、共生研究の代表者の一人と言っていいでしょう。

 環境との闘争、相互扶助や共生による進化、という概念は、イデオロギーである集団主義と同じく、ロシア・シベリアの自然から生まれたものです。これらを統合したのが、レーニンのライバルであったボグダーノフという人物でした。
 ボグダーノフは1917年の革命以前に政争に敗れ、政治の表舞台からは退いてしまうのですが、その後も研究や著述を続けていました。小説も二つ書いています。1908年の『赤い星』と13年の続編『技師メンニ』です(「技師メンニ」のほうは1979年に出版された創元推理文庫『ロシア・ソビエトSF傑作集 上』に所収。『赤い星』のほうは1926年に新潮社から大宅荘一の訳が出ていて、国会図書館で読める)。

『赤い星』は、地球人より進化した火星人が、地球人を啓蒙すべく、「最も進歩した国家」であるロシアの社会主義革命家レオニードを火星に連れていく、という筋。火星人は地球人より進化しているので、当然ながら完全な集団主義社会が実現しています。しかも火星人たちは互いに血液交換を行うことで、「生命の更新」を行い、不老長寿をも実現しています(生殖を「原形質の融合による生命の更新」と定義し、それを血液交換によって行おう、という理屈らしい)。これによって、人間の形質の均質化も行われている、というわけです。
 しかし火星は完全なユートピア社会ではありません。なぜなら、科学と社会の進歩によって人口が増えすぎ、資源が枯渇し、環境破壊も進んでいるからです。しかし産児制限も環境保護も省エネも、自然に屈することになるので選択し得ない。むしろ、資源枯渇や環境破壊という苦難は、人間の進化を促進させる自然との闘争である、ということらしいです。

 ソ連が環境破壊にまったく無頓着だったのは、この「環境破壊は自然との闘争の一環であり、進化・進歩の証」という考えが根底にあったからだと思われます。
 なおボグダーノフは、「血液交換による生命の更新」を本気で実現可能だと考えており、輸血研究所を建てて血液交換実験に没頭し、ついには自ら実験台となり、1928年に血液型不適合によって死んでしまいます。

 1へ戻る

 3へ進む

|

SF乱学講座3

 Ⅳ なぜ、このようなことが起きるのか
 バスコンセロスやボグダーノフは「偉大なる奇人」であり、その奇説は是非を超えて興味深いものです。しかし大概の「科学」の名を冠した奇説は、提唱者や信奉者のコンプレックスに支えられた卑小なものに過ぎません。
「我々」はそうした科学の装いをした奇説を「疑似科学」と呼び、勢力が弱ければ無視するか、おもしろおかしく観察し、勢力が強まってくれば「正統科学」を阻害する有害なものと見做しがちです。しかし、何をもって「正統科学」とするのでしょうか。

 社会政策に「科学」が持ち出されると、たいがい碌な結果になりません。疑似科学と片付けてしまうのは簡単ですが、それでは問題の所在は明らかにされません。それらはその時代、その社会に於いて「正統」科学とされていただけではなく、現在まで続く「正統」科学の系譜上にあるものも少なくありません。優生学も、遺伝学との境界線は不明確です(近年、遺伝子操作技術の発達によって優生学は復活しつつある)。

 科学が体制に利用される例としては、技術のみの場合と知見や理論の場合があります。前者については、その是非は倫理の問題なので、今回は取り上げません。後者の場合、それは広い意味での生物学に限られます。
(広義の)生物学は、なぜ体制に利用されやすいのか。やはり人間の心理や生活に直接関わってくる分野だからでしょう。また、生物学的な用語はメタファーとして解りやすく、直接感情に訴え掛けます。「遺伝子(DNA)」(「ものづくり遺伝子」みたいな)、「進化」(新製品が出ると「○○は進化した」みたいな)、「弱肉強食」「生存闘争」など。大衆を最初に病原菌に喩えた人物は、かのパスツールだそうです(近代微生物学の創始者。フランス議会に立候補したこともある保守主義者だった)。自然科学のほかの分野の用語では、こうはいきません。

 人間の行動や心理を天体や素粒子や海流や鉱物に喩えた言説があっても、それが喩えだと解らない人はいませんが、生物学用語を使った喩えだと、多くの人があたかも「真実」であるかのように錯覚してしまいがちです。その比喩を使った本人ですら、比喩でなく「真実」を述べているつもりである場合も少なくないでしょう。
 たとえば、分子の振る舞いの法則を、これは「宇宙の法則」なのだから人間の行動にも当て嵌められる、などといって規則やら政策やらを考案する人がいても、敬服して従う人はいません。いわゆる学のない人でも、直観的に「それは変だ」と思います。
 ところが「身近」である生き物の話になると、こうした直観は働きにくくなります。動植物の生態を観察して「生存闘争」という法則を見出した人々が、「自然の法則」だからとかなんとか言って人間の行動に適用しても、疑いを抱く人はほとんどいませんでした(先に述べたとおり、ロシアやシベリアの環境を観察した人々は違う法則を見出したわけだが)。現在でさえ、その理屈に納得させられてしまう人は少なくないでしょう。

 また(広義の)生物学は、間接的な検証しかできない理論が少なくありません(最たるものは進化論)。実験も手法や結果の解釈が研究者次第である要素が大きい。研究者の予断が入り込み易く、しかもその予断は研究者の価値観を(自覚の有無にかかわらず)反映し易い。
 *米国のサミュエル・モートンが1830-40年代に行った頭蓋骨計測:計測や得られた数値自体にごまかしは行われなかったと思われる。明白なごまかしが行われたのは、サンプルや数値の選択。たとえば、公表された黒人の「平均値」はピグミーの女性たちから、コーカソイドの「平均値」はイギリス人男性たちから得たものだった。

 最新の実験報告などを読んでも、「それは本当に有意な結果なのか」と突っ込みたくなるものが少なくありません。
 *パーシンガーの「神の機械」(1980年代後半~):左側頭葉に起因する癲癇発作は神秘体験を伴うという古くからの知見から、健常者の左側頭葉を低出力の電磁波で刺激する実験。発表された論文によれば、被験者の40%が「ある存在」を感知したという。
『脳のなかの幽霊』の著者ラマチャンドランも、この論文を根拠の一つとして左側頭葉を神秘体験の基盤としている。しかしパーシンガーの助手によると、被験者たちが感知した「ある存在」とは、「なんとなく誰かに見られているような感じ」という曖昧なものであり、それが霊的な存在だと証言した人は一人もいなかったという(被験者たちは実際にパーシンガーらに「見張られていた」のだから、そういう感じがしたのも当然である)。

 *多くの研究者に「人間の物真似能力の証拠」として引用されている実験:生後数分の新生児は、大人が口を開けたり舌を突き出したりするのを真似る(アンドリュー・メルツォフとキース・ムーア、1997)。
 検証実験では、幼児が確実に大人の真似をするのは舌の突き出しだけだった。実のところ、幼児は誰かの真似ではなく自発的に舌を突き出したり口を開けたりするのである。幼児は口に対象物を入れて調べようとし、対象物を摑んで口に持っていくという行動ができるようになるまでは、舌を突き出して舐めようとする。そして、大人が舌を突き出す行動にも興味を示す。手を伸ばしてものに触れることができるようになる生後数ヵ月には、舌を突き出す行動そのものが消える。

「新しい理論が受け入れられるのは、それが優れているからではない。時代の通念にどれだけ合致しているかだ。」 (ピーター・J・ボウラー)

 ダーウィンと同時代のフランス人植物学者サポルタは、顕花植物と昆虫が「共に進化」(共進化)したという説を提唱しました。ダーウィンは一度はこの説に賛同したものの、結局は退けました。「共に進化する」という概念が、「生存闘争」のドグマにそぐわなかったためです。
 サポルタの説は忘れ去られ、20世紀初頭にアメリカの古生物学者ワートマンが再発見しましたが、彼もまた学界から無視されました。

 先に述べたように、「共生」の概念は1873年にドイツで、「共生発生」は19世紀末か20世紀初頭頃にロシアで提唱されましたが、1960年代にリン・マーギュリスが「再発見」するまで、共生発生はもとより、共生そのものの研究が停滞していました。
 これは、微生物とは共存するものではなく駆逐するものであるという考えが支配的であったこと、「共生」という概念は「みんなで仲良く助け合う」観念論として「共産主義的」もしくは「女性的」と見做され忌避されてきたことによります。

「正統」科学が時代の通念に左右された近年の例としては、「閾下知覚」もあります。
 1957年のサブリミナル広告の衝撃によって、「西側諸国」では閾下知覚の存在を認めない風潮が、一般人だけでなく研究者の間にまで広がりました。そんなものは存在しないから他人を操ることなどできません、という理屈です。その結果、意識に関する研究自体が、1960年代を通して下火になりました。

 科学の理論や実験結果は、検証可能なものでなければなりません。直接の検証が不可能であっても、間接的に検証できるものでなければなりません。「事実」と呼ばれるものには二種類あって、一つは解釈次第で、すなわち個々人の主観によって変わり得るもの。もう一つは解釈次第で変わり得ないもの。科学(自然科学)が提示するのは、後者の「事実」です。
 しかし人間の認識能力というのは、とことん主観的にできています。時間や距離が主観によって伸び縮みするように、体験は主観と切り離せません。たとえば、情動と結び付いた経験、すなわち主観的な経験のほうが記憶に残りやすい。
 あるいは、「娘か老婆か?」の絵を若い女性と見るのは若い人に多い。年配の人はその逆。こうした錯視は無意識によるものですが、その人のバックグラウンドと結び付いています。知識とそれを知る主体を切り離すことはできません。
つまり、人間が客観的になることは非常に難しい、ひょっとしたら不可能だとも言える、ということです。
 
 人間が一度に把握できるのは7±2個までだそうで、それ以上たくさんのものは、まとまりとして捉えます。それよって人間は膨大な数量の事物を把握できるのですが、まとまりとして捉えるには、なんらかの法則性を見出す必要があります。
 法則性の発見、そして情報を重要度によって取捨選択することは、人間の認知能力の基盤です。人間の脳に入ってくる情報は、意識に上る情報の100万倍かそれ以上で、それだけの情報が無意識のうちに捨てられていることになります。この情報の取捨選択や法則性の追求は、意識的にも行われています。
 対象に法則性を見出そうとすることは、単純化することでもあります。人間は事象に対し、「単純すなわち解り易い意味」を求めるのです。なんらかの事件を、「解り易いお話」として理解したがるのもその一環です。意味のあるものとして説明が付けば、それだけで安心できるのです。

 生物学が社会政策に適用されがちである根本的な原因は、進化=進歩という誤解に求められるでしょう。進化の法則とは進歩の法則であるから、社会の進歩にも適用できるはずだ、となるわけです。そして極言すれば、進化=進歩という誤解は、何事にも意味や目的を見出そうとする人間の認知能力に根ざしているということになります。

 進化の本質は、「進化に目的はない」。生物は偶々生き残り、偶々子孫を残します。主たる要因となるのが環境なので、結果的に環境に適応した種となっていくのであって、「環境に適応しよう」と努力しているわけではない。「目的がない」というのはそういうことです。しかし人間は意味のないもの、目的のないものに、生得的に耐えられないのです。

 つまり人間の認知能力は科学にとことん向かない、ということになります。真の客観性というものを獲得できないし、意味のないものに意味を見出そうとする。あるいは、「客観的であらねばならない、意味のないものに意味を見出してはならない」と思い込むあまり、生体の機能を見落とすこともあります。
 *白血球の食作用。当初、「目的論的」として相手にされなかった。提唱者のメチニコフが後進国ロシアの出身で病理学の専門家でなかったことへの偏見もあった。

 また、事象に対して「簡潔な法則」を見出そうとする性向から、「真理」というのは一言でずばりと言い表わせるものだと本能的に思っているので、煩雑な検証の必要もなかなか理解できない。すなわち、人間は生得的に「科学」に向かない、と言えます。
 もちろん、生得的だからといって、それが正しいということにはならないのは、言うまでもありませんが。

 ところで、ここまで「科学」というのは、検証可能なもの、解釈次第で変化するようなものではない事実であることを前提として話してきました。しかし、現実の社会に於ける「科学」という語は、もっと曖昧な使われ方をしています。

「科学が客観的営みであり「正しい科学者」というのは偏見のない心でデータに向かうことができる、というのは神話である。
 科学は人間が行わなければならない営みであり、それゆえ深く社会に根ざした活動である。科学は予感や直感、洞察力によって進歩する。科学が時代とともに変化するのは大部分が絶対的真理へ近づくからではなく、科学に大きな影響を及ぼす文化的脈絡が変化するからである。事実とは純粋で無垢な情報の部分ではない。文化もまた、我々が何を見るか、どのように見るかに影響を与える。さらに、理論というのは事実からの冷厳な帰納ではない。最も創造的な理論は、しばしば事実の上に創造的直感が付け加わったものであり、その想像力の源もまた強く文化的なものである。」
 (スティーヴン・J・グールド)

「自然科学」だけに絞っても、社会に於ける在り方はグールドが述べるとおりのものです。
「科学」というものの定義はさておき、一方の極には「科学とは純粋に客観的なもの」とする人たちがいて、もう一方の極には「科学とは相対的なものであり、主義や信念の一種でしかない」という人たちがいて、その間に、科学についてそこまで確固たる考えを持っていない人たちが大勢いる、というのが現代の状況であると思います。
 私自身は、科学すなわち自然科学には客観性と検証が必要だと思っています。真の客観性がなくても重要な発見や発明は可能ですが、長期的には、信念に固執することで新たな発見や発明が阻害されてしまいます。

 しかし、この客観性と検証を必要とする科学という営みは、人間には生得的に向かないものだということを念頭に置いておかないと、「自分は真に客観的である」という思い込みに陥りかねません。さらには、科学に検証が必要だということを理解していない人たちとの断絶も大きくなるばかりです。
 そういう人たちにとって、「科学的に証明された」という表現は「自分が信じたいもの」へのお墨付きとして有効であるに過ぎません。証拠を挙げたり検証らしきことをするのは、そのほうが恰好がつくからというだけです。そういう人たちに、「科学的に間違っている」「効果がないことが科学的に証明された」と指摘しても通じません。どう間違っているかの説明も無意味です。本気で反証したいなら、まず科学は信念ではないことや検証の意味を理解させるところから始めるべきでしょう。
 創造論が「正統科学」と並立する「もう一つの科学」だという主張が罷り通るのも、科学が主義や信念の一種であり、他と並立または順位づけできるものだと多くの人(創造論支持者でなくても)が見做しているからです。

 こうした状況を、私は大いに憂慮しています。なぜかといえば、科学が衰退したり、「自然の法則」が社会政策に適用されて弱者が切り捨てられるようなことになるのも心配ですが、それ以前の問題として、科学が主義や信念の一つに過ぎず、検証は必要ない、ということになってしまえば、坑道のカナリアではありませんが、まず真っ先にSFが衰退してしまうだろうと思っているからです。
 SFは考証が命です。よい意味での荒唐無稽さは大切だし、「正統科学」に忠実でいる必要もない。裾野は大いに広げるべきです。しかし考証に支えられた強固な土台がなければ、支離滅裂だったりスカスカの薄っぺらだったりする作品ばかりになってしまいます。SFはSFではなくなってしまいます。そういう事態を、私は大いに憂慮しております。

余談
 現在進行形の「政治と科学の癒合」例。

・人類の起源
 聖書に基づけば人類は単一の起源を持つことになる。この場合、有色人種は完全な人間であるアダムとイヴの段階から「退化」したのだとされる。これに対し、すでに18世紀から、人種はそれぞれ別個に創造されたという多起源説も唱えられていた。有色人種は、白人種より劣った「異種生物」というわけである。進化論登場以降は、それぞれの人種はホモ・エレクトスあたりの段階から、別個に進化してきたとされる。単一起源にしても多起源にしても、白人至上主義に基づいていたのには変わりない。
 現在、単起源説は「人類みな兄弟」的なノリになっているし、多起源説も各地の集団間で遺伝子の移動が頻繁にあったことを前提としており、各人種が原人の段階から別個に進化してきた「異種生物」だなどと唱える者はいない……はずだったのだが、昨今の中国では、中国人は北京原人から独自に進化した特別な人種だと主張する人々がいるそうである。
 *なお、北京原人は現生人類のモンゴロイドと同じく、「裏側がシャベル状に凹んだ門歯」を持っており、古くから多起源説の根拠とされてきた。

・最初のアメリカ人
近年、一部のアメリカ先住民が、自分たちの先祖は神話で述べられたとおりアメリカ大陸で誕生したのであって、ベーリング海峡を渡ってきたのではないと主張している。彼らはそう主張せざるを得ないほど追い込まれているわけだが、馬鹿馬鹿しいことに、それに同調した白人が「先住民の意思を尊重するために」移住説を否定している。

・幻想大陸
「レムリア」というのは、マダガスカルのキツネザルの近縁種が距離の近いアフリカではなく遠いインドにいるという謎の説明として、スクレーターという生物学者が1864年に想定した仮想の大陸。キツネザルの学名レムリアというのは、ローマ人が崇拝していた祖先の霊の名に基づく(命名者はリンネ)。キツネザルがマダガスカルの伝説で祖先の霊とされていたことに因む。この神秘的な名前が、ブラヴァツキー夫人ら神秘主義者に好まれた理由の一つかもしれない。
 それはともかく、早くも1873年、レムリアはインドに紹介された。1890年代末、レムリアはタミル人(ドラヴィダ語族の一つタミル語を話す人々)によって彼らの伝説の故国クワリッカンタムとされた。クワリッカンタムはインド洋にあった広大な国だったが、大洪水によって沈んだとされる。伝説が「西洋科学」によって裏付けられたわけである。
そして現在、タミル人5600万人が暮らすインド南端のタミルナードゥ州の公立学校の教科書には、クワリッカンタムすなわちレムリアは人類誕生の地であり、タミル人こそは人類の起源であり、その文明は人類文明の祖であるとタミル語で書かれている。

 1へ戻る

 2へ戻る

|

SF乱学講座

 11月7日のSF乱学講座、無事終わりました。なかなかの好評をいただけました。がんばってレジュメを作った甲斐がありましたよ。

 レジュメ全文(私が発表した分)は、近日中にブログに掲載する予定です。

|

SF乱学講座2010年11月

 こういうことをやらせていただきます。事前申し込みなしに参加できる公開講座ですので、おもしろそうだなと思った方は、是非御来場ください。
 なお、タイトルと内容紹介は岡和田氏が書いてくれました。

タイトル:「仁木稔と語る、歴史を動かした驚異の(擬似)科学」

講師  :仁木稔氏 (SF作家)
      岡和田晃氏 (RPGライター、SF評論家、翻訳家)

開催日時:2010年11月7日 日曜日 午後6時15分~8時15分
参加費 :千円
会場  :高井戸地域区民センター3F

内容紹介
 『グアルディア』(2004)、『ラ・イストリア』(2007)、そして『ミカイールの階梯』(
2009)……。
 SF作家・仁木稔によって連綿と書き継がれてきた未来史シリーズ「HISTORIA」を、あなたはご存知だろうか?

 既存の英雄像を覆す斬新なキャラクター造形、ガルシア=マルケス『百年の孤独』などのラテン・アメリカ文学やミハイル・ブルガーコフ『犬の心臓』などのロシア文学の達成を踏まえた、世界文学にも繋がる広大なスケール。
 そして、洋の東西を問わず徹底的な史料調査を基盤とした奥深い世界観と、音楽・舞踊とも連動する躍動的なテクスト。

 SFファンのみならず、広く読書家の知的好奇心を刺激するこの「HISTORIA」シリーズには、実のところ共通する重要なモチーフが存在している。
 それはすばり、「科学」と政治の関係性への批評意識だ。

 あなたは「科学」を、文化や政治の影響を受けない(少なくとも受けにくい)普遍的で中立的なものだと早合点していないか?
 だが歴史を振り返ると、「科学」も政治や文化の強い影響下にあることがわかる。そして現在からすると擬似科学として一笑に付されてしまいそうな科学理論であっても、同時代の政治的現実を動かし、ひいては私たちの暮らす現代社会へ強い影響を及ぼしたものが、多々存在しているのだ。

 そこで今回の講座では……。

 ・デビュー作『グアルディア』で取り扱った、キリスト教にまつわる遺伝学、「創造論」。
 ・「HISTORIA」シリーズの第2作『ラ・イストリア』に登場した混血の優生学である、ホセ・バスコンセロスの「宇宙的人種」。
 ・最新作『ミカイールの階梯』での重要設定として採用された、よくも悪くも独自の発達を遂げたロシア・ソ連の進化論(ルイセンコ、ボグダーノフなど)。

 以上3点を中心に、ともすると歴史の闇に消えたと思われながらも、「近代」の世界史における動因となってきた(擬似)科学理論を紹介しつつ、それらがどのような問題意識をもって小説に取り入れられてきたのかを語り尽くす。
 そして可能ならば、SFの、そして世界の未来についての考察にまで射程を広げていきたい。
   (聞き手はSF評論家の岡和田晃)

SF乱学講座ホームページ

|

« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »