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参考文献録

『片道切符』 ディディエ・ヴァン・コーヴラール 高橋啓・訳 早川書房 1995(94)
Un aller simple
 この作品を「オリエンタリズム」の観点から読む人はあんまりいないと思うんだけど、そう読んでみる。

 近代西洋史は文学史も含めてあんまり詳しくないんだが、近代以降の白人は、人生に行き詰まると北アフリカに行く。
 北アフリカがそういういわば「ゴミ白人捨て場」と化したのは、もちろん植民地主義の産物である。まず19世紀、実際に当地が本国(ヨーロッパ)で失敗した連中の吹きだまりとなり、次にそれがロマン化されて文学等の題材になり、影響された連中がさらに押し寄せ、それがさらに題材となって……といったところだろう。
「ロマン」というのはこの場合、冒険ではなく、「人生を遣り直す」という極めて近代的なものである。「再生」というか「癒し」というか。いずれにせよ、彼らが必要としているのは荒々しい自然やら異文化やらのエキゾティシズムだけであり、別に異郷だったらどこでもいいんだが、やはり「ゴミ捨て場」であった歴史が一番長く、そのテーマの作品の舞台として最もメジャーなのが北アフリカなのである。北アフリカにとってはいい迷惑だ。
 あと、西ヨーロッパ人からすれば、北アフリカはほかの「異郷」より距離が近い。その点でもお手軽である。で、西欧作品の影響を受けて、北米人も北アフリカに行く。東海岸からだったらそう遠くもないしな。ロシア人にとっての北アフリカはカフカスである(現在はどうだか知らんが)。

 北アフリカを含めた異文化圏をそういうお手軽なロマンの舞台とするのを皮肉り、異文化圏へ行った白人が「帰れなくなる」恐怖をテーマとした作品もある。代表的なのはボウルズの『シェルダリング・スカイ』であろう(これは映画版しか知らない。原作は読むつもりでいたんだが、ほかのボウルズ作品を三作続けて読んだら飽きちゃったのである。まあいずれ別の機会に読みます)。
 このテーマ(「帰れなくなる」)であっても、根底にあるのは白人の優越感である。自分たちが「現地」の人や状況をコントロールできるという信念がまず前提となっているから、そうできなくなることに対する恐怖も生じるのだ。この「植民地主義根性」「サヒーブ根性」を作者が自覚し、それをも風刺する場合もあるが、作者に自覚がなく、ただ無邪気に「帰れなくなる」恐怖を描くか、それを絶望という糖衣にくるんでさらにロマン化する場合もある。ボウルズはどうも後者のような気がする。

 で、ようやく本題。『片道切符』の主人公は、フランスでジプシーに育てられた「モロッコ人」青年である。おそらく本来はフランス人であり、容姿からして金髪の、記号的な白人なのだが、ちょっとした行き違いでモロッコ人移民ということにされてしまったのである。
 本人は、ほとんど象徴的なまでに「無垢」な存在であり、「フランス」「ジプシー」「アラブ・イスラム」にちょっぴりずつ足掛かりを置いて、それなりにアイデンティティを確立している。しかしジプシーのコミュニティは彼を余所者として締め出す。フランス政府の手に引き渡された彼は、「故郷」であるモロッコへと「送還」されることになる。
 ただし単なる強制送還ではなく、不法移民を故郷で社会復帰させるという「人道的プログラム」の第一号として、「人道担当官」なる役人が同伴するのである。かくして、このモロッコ人ではないモロッコ人青年の、ありもしない故郷への珍道中が始まる。

 主人公の青年はお伽話的もしくは寓話的に無垢であり、モロッコについて知識もない代わりに偏見もない、いわば「聖なる無知」である。「純粋な」眼差しでもってすべてを受け入れる。まあ、フランスが舞台のままであれば、こういうキャラクターを置いておくだけで風刺になるが、モロッコに連れてくると話が成り立たなくなる。彼のアイデンティティはあくまで「フランスでジプシーに育てられたモロッコ人」であり、本物のモロッコ人になる気など毛頭ないのである。
 そこでモロッコ篇は、主人公ではなく人道担当官がメインになる。彼は「故郷へ帰るモロッコ青年」にロマンを投影し、モロッコにもロマンを投影し、両者がそのロマンに沿ったものであることを望む。主人公はとても優しい青年なので、人道担当官が望むとおりに作り話をするが、モロッコは彼の願望どおりに振る舞ってくれないので(貧しく不潔な上に観光地化している)彼を失望させる。

 それでも人道担当官はロマンに固執し続ける。彼のロマンとはすなわち、彼自身がアイデンティティを取り戻すことなのである。実は彼は、アルザスの製鉄工の息子として生まれた作家志望だったのであった。故郷にも馴染めず、パリに出たはいいが作家にもなれなかった彼は、二重にアイデンティティを喪失した人間である。
「モロッコ青年の故郷への旅」に同伴することで、人道担当官は自己のアイデンティティを回復していくのである。まず物語る力を取り戻し、さらに捨てた故郷の思い出へと回帰していき、そしてついに「帰れなくなる」。

 まあつまり人道担当官をメインにすると、白人が北アフリカに己の内面の問題を勝手に投影するだけの典型的な話でしかない。「片道切符」というタイトルどおり、「帰れなくなる」話なわけだが、死の直前に彼はアイデンティティを取り戻しているので、「再生」の物語ではある。
 彼の旅の道連れである「モロッコ青年」がモロッコ青年なんぞではなく、その故郷も存在しないので、スラップスティック的な風刺が生まれているが、モロッコ人(非白人)とモロッコ(異文化圏)が白人の自己投影の対象でしかないことには、従来のオリエンタリズム作品と変わりがない。

 モロッコを舞台にしているものの、この作品はオリエンタリズムをおそらく意図的に排除しようとしている。風物のエキゾティシズムはほとんど強調されいないし、オリエンタリズムに付き物の「官能」を担当するのは、現地女性ではなくフランス人女性でしかも不感症である。イスラム圏に於いて物語るといえば『千夜一夜』であり、作中にも「アラブの語り部」という表現が一ヵ所出てくるので、著者も念頭に置いていると思われるが、特に強調はされていない。
 あと、オリエンタリズムな紋切り型の一つとして、主人公と恋仲になる女もしくは男が、「実は白人」というのんがある。白人だけど非白人に育てられた、とか、片親が白人だとか(インディアンものにも結構ある)。たぶんそのほうが白人読者にとってお手軽なんだろう。まったくの非白人だと距離感があり過ぎるから。その上、貴種流離譚的なロマンも生じると思われる。
 主人公は「実は白人」(御丁寧にも金髪である)なのだが、この場合、上の効果を狙ってはいないと思われる。単に、デラシネっぷりを強調しているだけなのだろう。

 しかしオリエンタリズムの根源的な問題は、白人にとって「オリエント」が自己投影の対象以上のものでないところにある。オリエントという他者が身に着けた金属製品などに映った己の歪んだ小さな像を、一生懸命描写しているだけだ(虹彩に映った像かもしれない)。他者本人や服装、体臭やら何やらは、ひっくるめて「鏡」の装飾部分だとしか思っていない(オリエンタリズム作品の「異国情緒」がこれに当たる)。「オリエントという他者」が主体性のある一個人だなどとは、想像もできないのである。
だからこの『片道切符』は見事にオリエンタリズム作品だし、とりあえず私は作者のコーヴラールがその点にどれだけ自覚的であるのかが、よくわからんかった。

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