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チョコレート・ファイター

『トム・ヤン・クン!』『マッハ!』に比べて、技術的にずいぶん進歩している。ずいぶんハリウッド的な型に嵌りつつあるとも言え、それがいいことなのかどうかは、どうとも言いかねるが、アクションの撮り方が巧くなっていることに関しては、大変結構だと言えよう。あんだけ役者が身体張ってるのに、撮り方が稚拙じゃ気の毒だ。
 役者たちの演技のメソッドも、前作までは日本人には少々不自然に感じられたのだが、今回はずいぶん「自然」に見える。これもいいことなのかどうかはわからない。そしてまた、今回はずいぶんと「スタイリッシュ」で「アーティスティック」なものを作ろうとした痕跡が見える。アクションには撮影も含めてかなりの工夫と洗練が見られるし、アニメのシーンも結構成功してたと思うが、乾燥剤のメタファーは意味不明だ(そもそもメタファーだったのか?)。

 以下、一応ネタばれ注意。ばれて困るようなネタがあるとも思えんが。
 とりあえず、「病気の母親の治療代を稼ぐために闘う主人公」という極めてシンプルな物語である。そのシンプルな物語に、ヒロインがある種のサヴァンで、目にしただけの他人の動作をコピーすることができる、というアイデアは悪くない。日本に於ける宣伝では(DVDのパッケージも含めて)、彼女は自閉症だと説明されているが、作中では一言も自閉症だとは言っていない(単に邦訳しなかったのではなく、本当にダイアログにないのだろう)。インタビューによれば、監督も自閉症でそのような能力が確認されていないことは承知している。

 そういうわけで、「ヒロインの戦闘能力の説明」と「ヒロインが戦う理由(=母親の病気)の説明」が済めば、後は華奢な少女がひたすら敵を叩きのめし続けるだけの映画である。しかし、物語に膨らみを持たせようとでも思ったのか(これも「アーティスティック」志向の表れであったかもしれない)、シンプルにヒロインが賭けトーナメントで勝ち進む類の展開にはせず、母親の過去に因縁があることにしたために、途中から「格闘技もの」であることがまったく不合理になってくる。
 いや、こういう話に合理も何もないんだけど、銃を持ってるマフィアが、なぜ素手(武器はせいぜい棒や包丁)にこだわり続ける?

 で、母親の過去の因縁というのが、彼女はかつてタイのマフィアの情婦で、タイに進出してきたヤクザと道ならぬ恋に落ちて……というものなのであった。相手がヤクザである必要が、日本人である必要が、少なくとも作品上あったのか? 別に阿倍寛は嫌いな役者じゃないが、いなくてええやん。
 或いはもしかしたら、クライマックスに至る長々しい戦闘シーンが日本風の店で行われ、日本刀が持ち出されたりするのは、青葉屋を意識したのかもしれない。まあジャージャーのアクションは、ユマ・サーマンよりずっと見ごたえがあったけどね。彼女が一人一人敵を倒している間、黒幕のマフィアは彼女の母親(彼にとっては元情婦)を人質にとってまでいながら、木偶の坊のように突っ立っているだけなのであった。そこへ阿部寛が救援に駆けつける。それまで素手で少女と闘っていた戦闘員たちは、ちょうどその場にあった日本刀を持ち出してくる。対する阿部ちゃんは泰然と丸腰である。白刃を振りかざして襲い掛かるタイ人たち。まさか彼も格闘技を? と、いきなり阿部ちゃんは拳銃を抜いて「パン! パン! パン!」とやったので、笑ってもた。しかしその後、阿部寛はタイ人から日本刀を奪ってそれで闘い始めたので、どうやらあれはギャグではなかったらしい。

 まあヒロインが可愛いのでなんでもいいです。
 前作もそうだったが、エンドクレジットにはメイキングが入っている。本篇から想像される以上に痛々しく、まじで顔から血の気が引いた。

『トム・ヤン・クン!』感想

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