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コレラの時代の愛

『コレラの時代の愛』 ガルシア・マルケス 木村榮一・訳 新潮社 2006(1985)
El amor en los tiempos del colera

 これが『わが悲しき娼婦たちの思い出』と前後して刊行されたのは、もう5年も前になるわけだが、これで(2011年現在に至るまで)ガルシア・マルケスの長編は全部邦訳されてしまったので、もったいないからしばらく読まないでおくことにしたのであった。
「数に限りがあるから、読んでしまうのがもったいない」というのは、ガルシア・マルケスに限らずラテンアメリカ文学全般に言えることだが、バルガス・リョサがノーベル賞をを取ったお蔭で、ラテンアメリカ文学の邦訳刊行にいくらか(相対的には、かなり)弾みがついた。で、そろそろこれを読んでもいいかな、という気になった次第である。

 以下、一応ネタばれ注意。

 今のところ、邦訳されたガルシア・マルケス作品は『わが悲しき娼婦たちの思い出』ほか幾つかの中編、短編以外は全部読んでいるが、ハッピーエンドは初めてである。
 19世紀末から20世紀初頭のコロンビアを舞台に、没落した上流階級と新興の中産階級の人々を中心として、テーマは「永遠の愛」という、非常に大時代的な構えの作品である。常軌を逸した人々も出来事も描かれない(まあ多少は常軌を逸してたりもするが、少なくとも空中浮揚したりする人はいない)。「魔術的リアリズム」的ではない。
 しかし結末に於いて、「永遠の愛」という、およそありえないことが本当に成就してしまうに至って、物語はまさに魔術的リアリズムへと昇華されるのだ。

 ガルシア・マルケスのこれまでの長編に共通して言えるのは、とにかくアンチクライマクスであることだ。『百年の孤独』や『族長の秋』など、それこそ魔術的リアリズムに華々しく展開しても、最後は尻すぼみ的に終わる。まあ、好みの問題ではあるんだけどさ。
 しかし本作品の結末では、無限に続く川の流れとともに具現する「永遠の愛」が、力強いカタルシスをもたらす。その点では、実にガルシア・マルケスらしくない作品だ。

 らしくない、と言えば、主人公フロレンティアーノについても言える。彼は半世紀以上にわたって愛を貫き、しかもそれを己の意志によって成就させるのだ。ガルシア・マルケス作品には、結構意志の強いキャラクターが多いのだが、最後には必ず運命に敗北し、絶望に塗れて死んでいく。
 己の力で運命を切り開く主人公ばっかり、というのも芸がないが、逆もまた然りである。

 それにしても、訳注がうざくて水を差された。「月明かりの下で金の角を光らせている夫」(「寝取られ亭主」の意だそうな)とか「千日戦争」とかくらいは注があったほうがいいかもしらんが、「リネン」とか「ケープ」とか「ピューレ」とか「ハイチ」とか……
 編集部の意向なのか訳者自身の判断なのか知らんが、たとえそういった語の正確な意味を知らなくても、「衣類/食べ物/地名なんだな」と適当に察してそのまま読み進めることもできない程度の読者を想定してるのであろうか。そんな読者にいったい何を期待するというのであろうか。

 あと、訳文そのものでは、主語のない文が頻出するのが目障りだった。これは、スペイン語の主語省略文をそのまま訳していると思われる。日本語もある程度主語を省略したほうが自然だが、しかしスペイン語と違って動詞で主語を判断することはできないのだから、適宜、補うべきだろう。

 本作は映画化され、2008年に公開されてるのだが、「原作を読んでから」と楽しみにしてたのに……近所のツタヤに置いてないじゃないか。なんだよもー。;

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フィッシャー・キング

 テリー・ギリアム監督作。
 おお、91年公開だ。「ヤッピー」とか言っとる。少し前までは、90年代初頭以前の映画って、ファッションが痛くて見ていられなかったんだが(70年代以前まで行けば平気)、世の中に80年代ファッションが溢れてしまったせいで何か免疫がついてきたなあ。
 まあ、良くも悪くも現代(その当時の)性が薄いのがギリアム作品だ。本作では良いほうに働いている。
 
 ヒューマンドラマであることが「ギリアムらしくない」と批判するほどギリアム・ファンじゃないが、前半の異様さが後半では薄れてしまっているのは惜しい。特にロビン・ウィリアムズの前半の怪演はただごとではないので、それが最後までもたなかったのが残念だ。
 ロビン・ウィリアムズの「奇矯な善人」という役は、いつもだと押し付けがましく暑苦しくて嫌いなんだが、今回は暑苦しくも押し付けがましくもなく、前半の半端ない奇矯さが薄れてしまう後半でも、本当に「無垢」に見えたので大したものである。

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失われた週末

 ビリー・ワイルダー監督作。
 売れない作家、というかかつて売れない作家だった無職でアル中の三十男が、金曜の午後から翌週の月曜の朝にかけて、かつて売れない作家だった無職でアル中の三十男振りを披露する話。
 
 ワイルダー作品としてはシリアス路線になるんだろうけど、主人公のどうしようもないグダグダを、余計な意味や感情を付与せずに描いている。このグダグダのリアルさは、40年代のハリウッド映画としては破格ではなかろうか。
 アル中患者収容病院の看護人が、出番は少ないが印象的。この看護人の台詞で知ったんだが、「ピンクの象」って、ドラッグ文化の産物じゃなかったんだな。40年代の時点ですでに「いっちゃってる時の幻覚」の代表とされてたということは、いったいいつから存在する事象なんだろう。

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天災は天災、人災は人災

 東北関東大震災では、私が住む地域も震度5の揺れと津波が来ましたが、私と家族と家は無事でした。
 大変な被害を前に、「無事でした」と言うのも何か気が引けるのですが、とりあえず御報告として。

 しかし「計画停電」とやらは、今回の災害自体を愚弄するかの如き馬鹿馬鹿しい展開に陥っていますね。なんだこりゃ。

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続・夕陽のガンマン

 何年も前に『荒野の用心棒』と『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』と観て、あんまりいいと思わなかったので、セルジオ・レオーネは合わないのかもしれないと避けていたのであった(『ワンス・アポン』のほうは、おもしろいとかおもしろくないとか言う以前に、ロバート・デニーロがどうにもキモかったのである。嫌いな役者じゃないが、あれは駄目だった)。
 まあもう一本くらいは、という風の吹きまわして観てみたのが、この『続・夕陽のガンマン』である(というわけで『夕陽のガンマン』は未見だ。ツタヤの兄ちゃんに「続編ですが、よろしいでしょうか?」と尋ねられたので、にっこり笑って「ええ、大丈夫です」と答える)。
 
 いや、おもしろかった。隠された財宝を巡る三人の男の探索行に、南北戦争が至るところで通行の障害となる、というだけの話で、三時間近くもあって、しかも半分まで進んだところでようやく三つ巴の争奪戦が始まる、という構成なのに、少しもダレない。結果が予想できる場面をものすごくものすごくものすごく引っ張るのだが(そして結局は予想どおりの結果になるのだが)、なぜか見入ってしまう。いや、今まですみませんでした。

 クリント・イーストウッドが傷めつけられる場面では、イーストウッドの自己陶酔に監督までがシンクロしてるのが見えて、これはある種のお約束というか様式美と捉えるべきなんだろうなあと、やや生温かく見守る心境に…………それも含めておもしろかったですよ。

『夕陽のギャングたち』感想

『ウエスタン』感想

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夜になるまえに

 キューバの亡命作家レイナルド・アレナス(1943-1990)の自伝の映画化。

 監督の前作『バスキア』は、「理解されなかった天才」というありきたりなテーマをありきたりに描いた上に(スカしてるのだが、そのスカし振りすら凡庸)、自身をバスキアの「唯一の理解者」と位置付けてるあたりがうっすらと寒い作品であった(図々しくもゲイリー・オールドマンに演じさせてるし)。
 それに対し、本作はずいぶんと完成度が高い。ま、最大の要因は客観性の有無だろうな。

 それまで評価していなかった監督や俳優の「そこそこ」以上に良い作品を観た場合、私の中では評価が3割増しくらいになってまうのだが、この『夜になるまえに』は、その3割を差し引いても充分によくできた映画であろう。
 アレナスの原作は、淡々とした、写実的ともいえる(つまりマジックリアリズム的でない)「普通」のスタイルで、語られる内容はまったく普通どころではない。このスタイルと内容のギャップが、眩惑的な効果をもたらしている。
 映画は原作のスタイルを踏襲し、比較的淡々と、ほぼ時系列どおりに進む。想像や妄想、極限状態での幻覚めいたシーンが時折挿入されるほかは、特に奇を衒ってもいない。にもかかわらず、見事に眩惑的なマジックリアリズムが具現されている。
 同じく中米の芸術家の伝記映画である『フリーダ』が、一生懸命奇を衒いました、一生懸命マジックリアリズムを目指してみました、的な努力の跡が見られる上に、ごく表層に留まっているのとは対照的である。

 また、伝記映画というのは散漫なものになり易く、『フリーダ』はその一例でもある。ひと一人の一生を描くのに映画の尺は短すぎるので、どう纏めるかは大きな問題だ。その点、『夜になるまえに』は、結構な長さのある原作を巧く消化している。
 アレナスは同性愛者だが、原作で随分と露骨に語られている「エロティックな冒険」の数々が、映画ではかなり抑えた描写になっている。まあそのまんまだとその半端ない「冒険」が、弾圧の結果(反動)ではなく原因だと観客に見做されかねないだろうからな。

 台詞はスペイン語と英語(スペイン語訛り)が入り混じってたんだが、何を基準に使い分けてんだか、いまいちよく解らんかった。アレナスの作品(原作および他の作品)からの引用がちょくちょくあって、それも原語のままのこともあれば、英訳の場合もある。
 映画の中でも言及されていたように、アレナスは「ピアニストのように」リズミカルにタイプライターのキーを打ち、そのリズムが作品にそのまま反映されていたという。原語による引用(=アレナスを演じたハビエル・バデムによる朗読)は、確かに律動が力強く、美しい。

 特に奇を衒ってもいない、と上で述べたが、ショーン・ペンとジョニー・デップについては、奇を衒ってるとしか言いようがないな。ジョニー・デップが監獄の尋問担当の軍人とホモの囚人の二役を務めたのは、アレナスの「抑圧する側もされる側もホモばっかし」という主張を体現してるんだろうけど、ショーン・ペンの「通りすがりの農夫」は、いったい何が言いたかったんだか。
 ひょっとしたら私が未読のアレナス作品から引っ張ってきたのかもしらんが、たった2分ほどの出番のためだけに凝ったメイクとものすごいスペイン語訛りの英語の、いかにも「作り込んでます」演技が鼻に衝く。まあそう感じたのは、多分に私がジョニー・デップは好きだがショーン・ペンは嫌い(稀に役によってはいいと思うこともあるが、大概イラっとさせられる演技ばかり)だからなんだろうけど。

 ところで、魔術的リアリズムといえばガルシア・マルケスで、ガルシア・マルケスといえばカストロびいきなわけで、『夜になるまえに』の原作では後半、二度ほど名指しで彼を批判している。
 しかしそれよりも序盤、アレナスが幼少時に土を食べる癖があったことを語ったついでの、「あらかじめはっきりさせておかなくてはならないが、土を食べるということはまったく文学的なことでもなければセンセーショナルなことでもない。田舎ではどの子もそうしていたのであり、魔術的リアリズムやなんかとはまったく関係がない。何かを食べなくてはならなかった。そしてあったのが土だった。たぶんそれだからこそ食べていたのだ……。」というくだりのほうが、ガルシア・マルケスと彼を持て囃す読者への、遥かに痛烈な批判だと言える(『百年の孤独』には、土を食べる女が登場するのである)。いや、笑ってもうたけどね。

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