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夜になるまえに

 キューバの亡命作家レイナルド・アレナス(1943-1990)の自伝の映画化。

 監督の前作『バスキア』は、「理解されなかった天才」というありきたりなテーマをありきたりに描いた上に(スカしてるのだが、そのスカし振りすら凡庸)、自身をバスキアの「唯一の理解者」と位置付けてるあたりがうっすらと寒い作品であった(図々しくもゲイリー・オールドマンに演じさせてるし)。
 それに対し、本作はずいぶんと完成度が高い。ま、最大の要因は客観性の有無だろうな。

 それまで評価していなかった監督や俳優の「そこそこ」以上に良い作品を観た場合、私の中では評価が3割増しくらいになってまうのだが、この『夜になるまえに』は、その3割を差し引いても充分によくできた映画であろう。
 アレナスの原作は、淡々とした、写実的ともいえる(つまりマジックリアリズム的でない)「普通」のスタイルで、語られる内容はまったく普通どころではない。このスタイルと内容のギャップが、眩惑的な効果をもたらしている。
 映画は原作のスタイルを踏襲し、比較的淡々と、ほぼ時系列どおりに進む。想像や妄想、極限状態での幻覚めいたシーンが時折挿入されるほかは、特に奇を衒ってもいない。にもかかわらず、見事に眩惑的なマジックリアリズムが具現されている。
 同じく中米の芸術家の伝記映画である『フリーダ』が、一生懸命奇を衒いました、一生懸命マジックリアリズムを目指してみました、的な努力の跡が見られる上に、ごく表層に留まっているのとは対照的である。

 また、伝記映画というのは散漫なものになり易く、『フリーダ』はその一例でもある。ひと一人の一生を描くのに映画の尺は短すぎるので、どう纏めるかは大きな問題だ。その点、『夜になるまえに』は、結構な長さのある原作を巧く消化している。
 アレナスは同性愛者だが、原作で随分と露骨に語られている「エロティックな冒険」の数々が、映画ではかなり抑えた描写になっている。まあそのまんまだとその半端ない「冒険」が、弾圧の結果(反動)ではなく原因だと観客に見做されかねないだろうからな。

 台詞はスペイン語と英語(スペイン語訛り)が入り混じってたんだが、何を基準に使い分けてんだか、いまいちよく解らんかった。アレナスの作品(原作および他の作品)からの引用がちょくちょくあって、それも原語のままのこともあれば、英訳の場合もある。
 映画の中でも言及されていたように、アレナスは「ピアニストのように」リズミカルにタイプライターのキーを打ち、そのリズムが作品にそのまま反映されていたという。原語による引用(=アレナスを演じたハビエル・バデムによる朗読)は、確かに律動が力強く、美しい。

 特に奇を衒ってもいない、と上で述べたが、ショーン・ペンとジョニー・デップについては、奇を衒ってるとしか言いようがないな。ジョニー・デップが監獄の尋問担当の軍人とホモの囚人の二役を務めたのは、アレナスの「抑圧する側もされる側もホモばっかし」という主張を体現してるんだろうけど、ショーン・ペンの「通りすがりの農夫」は、いったい何が言いたかったんだか。
 ひょっとしたら私が未読のアレナス作品から引っ張ってきたのかもしらんが、たった2分ほどの出番のためだけに凝ったメイクとものすごいスペイン語訛りの英語の、いかにも「作り込んでます」演技が鼻に衝く。まあそう感じたのは、多分に私がジョニー・デップは好きだがショーン・ペンは嫌い(稀に役によってはいいと思うこともあるが、大概イラっとさせられる演技ばかり)だからなんだろうけど。

 ところで、魔術的リアリズムといえばガルシア・マルケスで、ガルシア・マルケスといえばカストロびいきなわけで、『夜になるまえに』の原作では後半、二度ほど名指しで彼を批判している。
 しかしそれよりも序盤、アレナスが幼少時に土を食べる癖があったことを語ったついでの、「あらかじめはっきりさせておかなくてはならないが、土を食べるということはまったく文学的なことでもなければセンセーショナルなことでもない。田舎ではどの子もそうしていたのであり、魔術的リアリズムやなんかとはまったく関係がない。何かを食べなくてはならなかった。そしてあったのが土だった。たぶんそれだからこそ食べていたのだ……。」というくだりのほうが、ガルシア・マルケスと彼を持て囃す読者への、遥かに痛烈な批判だと言える(『百年の孤独』には、土を食べる女が登場するのである)。いや、笑ってもうたけどね。

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