« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »

オスカー・ワオの短く凄まじい人生

『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』 ジュノ・ディアス 都甲幸治/久保尚美・訳 新潮社 2011(2007 )
The brief wondrous life of oscar wao

 マジックリアリズムとポップカルチャー(サブカルチャー)との相性の良さはラシュディで実証済みだが、それをさらに追求したのが本書。ちなみに作中でラシュディについて、ちょっとだけだが言及している。

 語り手は、語られる者に対し支配者である。弱者であっても、語ることで強者となる。語ることができる、ただそれだけで強者/支配者の地位にあるのだ。
 たとえば迫害の犠牲者が、加害者について語る。それは一つの勝利であり、最低限でも一矢報いることである。如何にして巧みに語るか、という技術上の問題しかそこにはない。
 しかし同じ犠牲者同士でも、語り手(語ることができる者)と語ることのできない語られる対象との間には、歴然とした格差が生まれる。、語り手は語られる対象を、どのようにも語ることができるからだ。語られる者を、「キャラクター(=型)」に変えてしまうからだ。たとえどれほどの善意や誠意をもって語ろうと、語られる者がその語りに満足したとしても、そこには強者と弱者の関係しか存在しない。

 語り手が加害者である場合の暴力性については言うまでもない。たとえ加害者が心の底から悔いていて、一切自己正当化をしていないということがあり得たとしてもだ。

 第三者が語る場合はどうか。本書の訳者解説によれば、著者ディアスは祖国ドミニカの独裁者トルヒーヨについての物語を、ペルーのインテリであるバルガス・リョサが書いた(『チボの狂宴』)ことがどうにも釈然としなかったのだそうである(ただし本書は『チボの狂宴』の刊行以前に書き始められているので、このことが執筆の動機だったわけではない)。
 まあ、それを言い出したら、およそ作家(作品の表現形式は問わず)は自分の周辺のことか、まったくの絵空事しか語れなくなってしまうわけで、ディアスにしたところでドミニカにいたのは6歳までで、その後困窮生活を送ったにしても、少なくともトルヒーヨによる迫害は直接体験していない。

 作品および巻末に抜粋されているインタビューから見る限り、ディアスは語り手=独裁者であると自覚しているようだ。そのうえで、したり顔の第三者ではなく、1968年生まれの合衆国育ちのドミニカ人としてトルヒーヨ政権を語る方法として選んだのが、マジックリアリズム+ポップカルチャー/サブカルチャーだったわけである。

 真面目な話はさておき、この長いタイトルの作品が一つ明示しているのは、どんな背景があろうとオタクはなるべくしてなる、という真実である。たとえ、独裁政権の犠牲者の一族という重い歴史を背負っていようと。
『ペルセポリス』の作者マルジャン・サトラピーの場合は、弾圧された一族の歴史を背負い、自身も革命と戦争と抑圧を体験したイラン人であるにもかかわらず、留学先のドイツで恋にうつつを抜かし、失恋し、なぜかホームレスになって喀血して死にかける、というわけのわからん暴走のしかたをする。
「可哀想な途上国の人」だからといって、「我々」とは違って「つまらないこと」に情熱を燃やして阿呆なことや間抜けなことをしでかしたりしない、などということはない。彼らはそのようなことをするのを許されない「聖別」された特殊な人々ではない。我々と同じく、機会さえあれば、いつだってそうする。
 そしてオタクの素質(疑似遺伝学的な言葉を使うなら「オタク因子」)を持つ人というのは、どんな時代/社会にも一定の割合で存在し、対象(サブカルチャー)に接触しさえすれば必ずオタクになるだろうと思う。てか、そうに違いない。

 語り手によれば、合衆国育ちのドミニカ人青年オスカーは、次のような人物である(ちなみに詳細で数の多い訳注は、岡和田晃氏が担当している)。

 おれはアドバイスしようとした。本当に。別に難しい話をしたわけじゃない。例えば、道で知らない女の子に向かって叫ぶなとか、むやみにビヨンダー(訳注:マーベルコミックス作品に描かれる異星人)についてしゃべるなということだ。オスカーが聞いたかって? もちろん聞きやしないさ! (中略)オスカーは頑固だった。おれの話を最後まで聞き肩をすくめた。何をしても効果なんかないし、僕はありのままでいくよ。
 そのありのままが最悪なんだろうが。

 うあー、いたいた、こういう奴(ら)。
 オスカーはもちろん、アメリカのサブカルチャーだけでなく、日本のアニメも愛好している(90年代以前の話なので、まだアニメ以外は進出していない)。巻末解説で都甲氏は、「だが日本のオタクと違うのは、二次元の女性に対する「萌え」感覚が皆無なことだ。だからこそ三次元の大量の女性を口説き、ふられ、傷つき、命を懸けた危険な恋に突っ走る。ここら辺はやはりドミニカ系アメリカ人である」と述べている。

 いやー、萌えという言葉が登場するずっと前からその概念はあったし、三次元より二次元、という奴もずっと前からいたんだろうけど、学生時代からほんの数年前まで私の周囲には、「二次元もいいけど、でもやっぱりリアルで彼女欲しい」という男がいっぱいいたぞ。
 で、彼らもオスカーのように、次から次へと女の子に近付こうとしては、やたら濃いアニメや漫画の話をしたり、アニメソングを自分で編集したカセットテープ(90年代初めの話)をプレゼントしては自滅していたのであった。
 しかも彼らはたいていの場合、あくまで「普通の」女子を望んでいた。普通の女子に、上記のようなことをしたわけである。

 つれなく袖にされても、逆恨みして軽犯罪行為に走るような奴はいるにはいたがごく少数で、彼らの9割9分はオスカーと同じく心優しく純真で、不屈の魂を持っていたのであった。
 当時の交友関係は完全に消滅してしまったので、彼らがその後どうしているかは知らない。現在の友人知己に彼らのようなタイプはいない(ひょっとしたら、関西という土地柄も多少は関係があったのかもしれない)。私と同年代以上で、未だになんらかの形で落ち着いていないのはさすがにやばいが、もっと若い人であれば、男と生まれたからには不屈の挑戦を続け、是非とも幸せを摑んでもらいたいものである。

 他人事だと思って気軽に言ってるって? あたりまえだよ、幸いなことに私は男じゃないからな。

|

愛についてのキンゼイ・レポート

 何事にも加減というものを知らないアメリカ人の心性が最も端的に現れるのが、性の分野においてである。隠すなら徹底的に隠し、曝け出すなら徹底的に曝け出す。後者の先鞭となったのが、「キンゼイ・レポート」だ。

 それがどういうものかは一応知ってたけど、アルフレッド・キンゼイ(1894-1956)の人となりについては全然知らなかったし、今も知らない。まあ映画を観た限りでは、あれほど事態が捩じれたのは、彼が性欲を「純粋に生理的欲求であり、感情や道徳を絡めるのは間違い」と信じていたことに起因するようである。それもまた極論。
 結局、彼の目指していたこと自体は、「もう少し性に関する罪悪感から自由になろう」という、ごく中庸なものであったが(少なくとも映画ではそう描いている)、それに対する世間の反応は保守反動とその後に来る「性の革命」という両極端であった。ちなみにイスラム圏では、キンゼイ・レポートは「堕落したアメリカ文化」の証拠と受け取られたそうな。

 ある意味アメリカ文化を象徴する一人といえる奇人を、アイルランド出身のリーアム・ニーソンが節度をもって演じている。折り合いの悪い父親役はジョン・リスゴーで、この人のことは『レイダーズ』と『ロード・オブ・ザ・リング』でしか知らないと思っていたのだが、『ガープの世界』でも観たことがあったのを、はたと思い出した。そういえばそうだった、性転換したアメフト選手だったよな。

 キンゼイの助手の一人を演じたピーター・サースガードは、常に何か企んでそうに見える顔(というか目つき)で、『ニュースの天才』では真面目ないい人なのに悪者にされてしまう可哀想な編集長を好演していたが、今回はいかにも波風立てそうなのに結局大したことはしないままに終わってた……あの目つきは使いどころが結構難しいよな。『フライトプラン』みたいに犯人役だと意外性も何もあったもんじゃないし。

|

千年紀の民

『千年紀の民』 J・G・バラード 増田まもる 東京創元社 2011(2003)
Millennium people

 増田氏による巻末解説によれば、バラードは9.11の実行犯が「貧しい狂信者」などではなく、裕福な家庭に育った、欧化したインテリであったことに触発され本書を執筆したという。

 自爆テロリストとなる人々が、無知文盲な貧民などではなく、中程度以上の教育を受けた、食うや食わずというほど困窮もしていない人々であるということは、繰り返し報告されていることである。他人の考えを受け入れることに慣れている上に、抽象概念のために死ぬことができるのは、教育を受けた人間だからこそである(だから富国強兵策には義務教育が必須だ)。
 そしてテロと革命は紙一重というか、革命はテロの延長線上にある。

 それにもかかわらず、「テロリスト=無学で貧しい狂信者」というステレオタイプが根強いのは、そのような暴力を実行するのは自分たちとは異質の存在だと思いたい、という願望からだろう。
 無学や貧困に「純粋さ」というロマンティシズムやヒロイズムを結び付けがちなのも、自分たちはそうではない、という安心感があるからだ。

 人々は世界を変えたいと思っている。必要なら暴力も使うという。でもその生活でセントラルヒーティングのスイッチが切られたことはいちどもないんだ。

 ロンドンの高級住宅地に住む人々の「革命」を描いた『千年紀の民』は、テロ/革命から幻想を剥ぎ取ろうとした作品だと言えよう。また、「裕福な中産階級」という幻想を剥ぎ取ろうともしている。実際のところ、彼らは家のローンや子供の学費に首が回らず、閉塞感と倦怠で窒息死しかけている。
 学がある上に、閉塞感と倦怠をもてあましているから、彼らは「世界を変える」という抽象概念に捉われるのである。そして彼らの「革命」は、本人たちは真剣そのものだが、詳しく観察できる立場の傍観者からすると、どこか生温さを否めない。
 実際、イスラムの「中産階級のテロリストたち」もそうであったのかもしれない。悲壮感に酔っていて、かつ自分たちの行動がどんな結果を引き起こすのか、よく解っていなかったのかもしれない。彼らはあくまで「異質」だという感覚が拭えないなら、ここ数年増加している、イスラムに改宗してテロリストとなるヨーロッパの白人に当て嵌めてみれば解り易いかもしれない。倦怠と閉塞感以上に、彼らがそうした行為に走る動機があるだろうか。

 とはいえ本書は、「裕福な中産階級」という幻想を剥ぎ取り、その下にある倦怠と閉塞感を剥き出しにすることには成功しているが、イギリスの中産階級とイスラム圏の中産階級(テロリストおよびテロリスト予備軍)を結び付けるところまでは行っていない。
 少なくとも私は、増田氏の巻末解説を読まなかったら、結び付けて考えることができなかったと思うし。まあ、バラードの主眼はたぶん「倦怠と閉塞感」のほうにあったんだと思うけど。

2009年SFセミナー バラード追悼企画

|

アイアンマン2

 前作に比べればずいぶんおもしろかったけど、単体としてはどうかというと、まあ中の上くらい?
 前作に比べ、構成や演出はだいぶ工夫がある。でもレギュラーの三人、スターク(ロバート・ダウニーJr)、ペッパー(グウィネス・パルトロウ)、ローズ大佐(ドン・チードルに交代してしまったが)に、どうにも魅力がない。
この三人のことはどうでもいいから、ミッキー・ロークとスカーレット・ヨハンソンの出番をもっと増やしてほしかった。二人とも、せっかく造り込んでるのにもったいない。

 ロークは『レスラー』で造った筋肉を保っている上に、銀歯まで入れて凶悪そうな面構えとなっている。あの善良そうな円らな瞳(実際に善良かどうかは知らんが、小動物好きで寂しがり屋なのは確かである)は悪役には不利ではないかと思いきや、凶悪そうな他のパーツと相俟って、むしろ「純粋な狂気」を醸し出す。
 とにかく、大して背景を描かれていないキャラクターを、これだけ奥行きがありそうに見せるのは、大したものである(そしてそれを活用しない制作者たちは無能である)。

 ヨハンソンの格闘シーンは、ハリウッドが香港から移植して以来長年追求してきた「小柄な人物による格闘をかっこよく見せる技術」の粋だ。いや、本人もすごく頑張ってるけどね。あれだけで終わりなのがもったいない。
 あと、サム・ロックウェルの小物ぶりも結構よかった。

 あんなに簡単に「新元素」が作れてしまうあたりが、いかにもアミコミだなあ(もちろん悪い意味で)。あんなふうに設計図(というのか?)を隠していた意味が不明だ。
 というわけで、三作目には別に期待しない。

前作『アイアンマン』感想

『レスラー』感想

|

アイアンマン

 一作目。周囲での評判がいまいちだったので観ずに済ませ、ミッキー・ロークとスカーレット・ヨハンソンが出演している(しかもアクション要員で)二作目だけ観るつもりであった。
 しかし「一作目を観ないと話が解らない」と言われたので、まあロバート・ダウニーJrもジェフ・ブリッジズも嫌いな役者じゃないしな、しゃあないな、と観てみたのであった。一応ネタばれ注意。

 うん、いまいち。
 基本的に、とりたてて褒めるところのない映画の感想はブログには上げないのである。あまりにも腹に据えかねてボロクソ書いたこともあったような気がしないでもないが、それはあくまで例外だ。
 どうも私の感想は褒めてるのか貶してるのか解りにくいらしく、褒めてるのに「ボロクソだね」とか言われたり、貶してるのに「やっぱりいいよね」とか言われてしまったりすることがあるのだが、とりあえず本人のスタンスとしては上記のとおりである。

 そういうわけで、本作は「いまいち」であって、腹に据えかねるほどひどいわけでもない。しかし二作目はおもしろいだろうと信じているので、きっと感想を上げることになるだろう、ならばついでに一作目も上げておこうか、という次第である。

 別に腹も立たないんだが、とにかく呆れたのであった。まずその凡庸さにだ。

  • 冒頭、戦闘車両内で兵士がロバート・ダウニーJrの写真を撮ろうとすると、シャッターを切った瞬間に前を走る車両が華々しく爆発する。
  • 悪い重役であるジェフ・ブリッジズが、パーティーの会場で「スタークは来られないんだ」とか話していると、ざわめき(女たちの黄色い声)が上がり、ロバート・ダウニーJr(スターク)が華々しく登場する。
  • 悪いテロリストが罪もない貧しい村人を泣き叫ぶ家族の前で傷めつけ、射殺を命じたまさにその時、アイアンマンが華々しく登場する。

 といった具合に、演出がことごとく陳腐なのである。もちろん陳腐さを敢えて「お約束」とし、ギャグまたは「様式美」として演出するという手もあるが、どうも制作者たちがそのように考えている気配は皆無である。本気で観客がハラハラドキドキすると思っているようなのだ。馬鹿なのか、観客を馬鹿にしているのか、あるいはその両方であろう。

 役者の演技も凡庸である。ロバート・ダウニーJrは「金持ちで天才で鼻持ちならない奴→正義に目覚めるがやっぱり身勝手」という、如何にも似合ってそうな役だし、ジェフ・ブリッジズも珍しく悪役なのに、別に彼らじゃなく、誰がやってもいいような。グウィネス・パルトロウが凡庸なのは、まあグウィネス・パルトロウだから。まあ、「一応美人なのに、地味」というのは、彼女に似合ってる役ではある。

 呆れたこと二つ目。設定の頭の悪さ。
 アメコミ・ヒーローものの映画化の成功は、そもそも原作のいい加減な設定をいかにもっともらしく解釈し直すかに掛かっている。リアリズムを極限まで追求するとシャマランの傑作『アンブレイカブル』(原作つきじゃないけど)になるが、そうじゃなくても、「その作品内でのリアリズム、もっともらしさ、説得力」は絶対不可欠だ。それが駄目だったら、すべて駄目。
 最新の精密兵器をアフガンの洞窟内で作れと脅された主人公は、ミサイルではなく自分用のパワードスーツを作って脱出することにする。その発想も阿呆なら、一緒に囚われている医師兼通訳が「さすがだ」と称賛するのも阿呆。主人公が何日も(おそらく何週間も)掛けて制作している間、工房のすぐ隣に寝泊まりしている上に監視カメラで24時間見張っているにも関わらず、ミサイルではなくパワードスーツが作られていることに気が付かないテロリストたちも阿呆。

 ここまで阿呆揃いならギャグにしてしまうこともできるのに、そうしようとした形跡はまったくない。馬鹿なのか、観客を(以下略)。
 今後、『ハルク』(新しいほう)とリンクした展開にするつもりらしいが、こんなんと繋げられる『ハルク』が気の毒だ。

 本作より遥かに気が利いていておもしろかった『ハルク』だが、一つ唖然とさせられたことがあった。ある夜、ブラジルの都市で変身してしまった主人公が、翌朝我に返ると己が中米(パナマ運河より北のグアテマラかどっか)にいることに気づくのである。アメリカ人の地理感覚はどうなってんだ。
 しかしそんなのはまだマシなのであった。本作『アイアンマン』では、パワードスーツをまとった主人公がひとっ飛びすると、文字どおりあっという間にアフガンの山奥に着いてしまうのである。制作者たちがあれを、「中途省略しているだけで、あれは本当は何時間も飛んでいるんですよ」などと考えていた気配はない。明らかに、その前にアメリカ国内で飛行テストをしていた時より短時間(せいぜい20分といったところ)だ。
 序盤、自家用機でアフガニスタンに赴いた時は、それなりの時間(少なくとも“サキ”の熱燗でべろべろに酔っ払い、客室添乗員たちと乱交に及ぶくらいの時間)が掛かっていた。パワードスーツだと「音速を超えるから」という頭の悪い理由で、あっという間なのである。

 つまり、アメリカ人は、映画プロデューサーや監督、脚本家といった人々(すなわちある程度は教育のある人々)でさえ、世界(たぶん平らなのであろう)には巨大な大陸が一つ存在するだけ、という世界観を持っているに違いない。その周囲を取り巻く海の向こうは無が広がっている。
 で、その大陸の大半を占めるのがU.S.Aで、沿岸部のわずかな部分や幾つかの島に、カナダやメキシコや西ヨーロッパやオーストラリアとかがへばり付いてるんだろう。ブッシュJrが「メキシコとカナダは国境を接している」と認識していたのも、むべなるかな。あれは平均的アメリカ人の「常識」だったらしい。
 そしてワームホールか何かを抜けた先の「世界の果て」に、それ以外の国々が存在するのだ(日本はかろうじて「周縁部」と認識してもらっているかもしれない)。ただの飛行機だとワームホールを抜けるのに何時間も掛かるけど、アイアンマンは「音速を超えるから」ワームホールもあっという間に抜けられるのであろう。

 とはいえ先述のとおり、決して観るに堪えないほどひどいわけではないのである。飛び抜けてひどいわけではない、という点でも「凡庸」なのだ。二作目に期待します。

『インクレディブル・ハルク』感想

|

ボラット

 お笑い芸人サシャ・バロン・コーエンが、「カザフスタン」のTVリポーターに扮してアメリカ文化を風刺する、という趣旨らしい。

 異文化圏からの来訪者を「鏡」として「我々」を風刺するのは、啓蒙時代以来の伝統である。来訪者は何やら深遠ぽい言葉を吐く賢人だったり高貴あるいは無邪気な野蛮人であり、風刺の対象となる「我々」にはない美徳を備えているのが定石だ。
 しかし本作品では、「我々」の悪徳を映し出す鏡となる来訪者は、下品な差別主義者(そもそも差別は下品なものだが)という不快な人物である。
 あられもない差別や野蛮さに直面したアメリカ人は、あるいは嬉々として同調し(相手が未知の外国人なので、かえって気を許すのである)、あるいは不快感を抱く。ボラットの言動に不快さを覚えるようなデリカシーを持つ人は、同時に「異文化は尊重すべきである」というデリカシーも持ち合わせているので、ジレンマを抱くことになる。ある意味では偽善であるこのようなジレンマは、提起するに値する問題だ。

 そういうわけで大変意欲的な試みであり、評価すべきである。しかし従来、このようなタイプの「来訪者」が少なかったのは扱いが非常に難しいからであり、結局、本作品もところどころは風刺として機能しているものの、あとはただただ下品で不快なだけで終わっている。

 伝統的な作品でも、「鏡」の来訪者の出身地は異文化圏ならどこでもいいわけで、作者にとっても読者(観客)にとっても、その出身地が現実にどのような場所であるか、その異文化が現実にどのようなものであるかは、本当にどうでもよかった。都合良く設定された架空の国同然である。
 本作でも「カザフスタン」というのは、要するに「バーバリアンの国」の言い換えであり、バーバリアンの国でさえあればどこでもいい。すなわち半数のアメリカ国民にとってはアメリカ以外の国全部、残りのアメリカ国民にとっても、せいぜいカナダや西ヨーロッパ以外全部、ということになる。
 アメリカ人が外国全般についてどれだけ無知と偏見の塊か、ということを風刺したかったのであろうと思われるが、結局、作り手側も外国全般に対して無知と偏見の塊を露呈しているだけである。今さら旧共産圏の風刺もないだろうし。

 どこまでがやらせで、どこまでがそうじゃないとかは、大した問題ではないので措く。しかし例えばフェミニストとの対談などは、編集の仕方などからすると、明らかに「不発」(つまりおもしろい展開にならなかった)で終わったと思しい。
 しかしまあ、ところどころは風刺が機能しているし、ユダヤ人ネタも本人がユダヤ人なのでギャグとして成立してる。ペンタテコステ派集会のキ○ガイ加減ばかりでなく恐るべき独善が際立つのも、彼がユダヤ人なればこそ、と言えよう。

|

« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »