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ボラット

 お笑い芸人サシャ・バロン・コーエンが、「カザフスタン」のTVリポーターに扮してアメリカ文化を風刺する、という趣旨らしい。

 異文化圏からの来訪者を「鏡」として「我々」を風刺するのは、啓蒙時代以来の伝統である。来訪者は何やら深遠ぽい言葉を吐く賢人だったり高貴あるいは無邪気な野蛮人であり、風刺の対象となる「我々」にはない美徳を備えているのが定石だ。
 しかし本作品では、「我々」の悪徳を映し出す鏡となる来訪者は、下品な差別主義者(そもそも差別は下品なものだが)という不快な人物である。
 あられもない差別や野蛮さに直面したアメリカ人は、あるいは嬉々として同調し(相手が未知の外国人なので、かえって気を許すのである)、あるいは不快感を抱く。ボラットの言動に不快さを覚えるようなデリカシーを持つ人は、同時に「異文化は尊重すべきである」というデリカシーも持ち合わせているので、ジレンマを抱くことになる。ある意味では偽善であるこのようなジレンマは、提起するに値する問題だ。

 そういうわけで大変意欲的な試みであり、評価すべきである。しかし従来、このようなタイプの「来訪者」が少なかったのは扱いが非常に難しいからであり、結局、本作品もところどころは風刺として機能しているものの、あとはただただ下品で不快なだけで終わっている。

 伝統的な作品でも、「鏡」の来訪者の出身地は異文化圏ならどこでもいいわけで、作者にとっても読者(観客)にとっても、その出身地が現実にどのような場所であるか、その異文化が現実にどのようなものであるかは、本当にどうでもよかった。都合良く設定された架空の国同然である。
 本作でも「カザフスタン」というのは、要するに「バーバリアンの国」の言い換えであり、バーバリアンの国でさえあればどこでもいい。すなわち半数のアメリカ国民にとってはアメリカ以外の国全部、残りのアメリカ国民にとっても、せいぜいカナダや西ヨーロッパ以外全部、ということになる。
 アメリカ人が外国全般についてどれだけ無知と偏見の塊か、ということを風刺したかったのであろうと思われるが、結局、作り手側も外国全般に対して無知と偏見の塊を露呈しているだけである。今さら旧共産圏の風刺もないだろうし。

 どこまでがやらせで、どこまでがそうじゃないとかは、大した問題ではないので措く。しかし例えばフェミニストとの対談などは、編集の仕方などからすると、明らかに「不発」(つまりおもしろい展開にならなかった)で終わったと思しい。
 しかしまあ、ところどころは風刺が機能しているし、ユダヤ人ネタも本人がユダヤ人なのでギャグとして成立してる。ペンタテコステ派集会のキ○ガイ加減ばかりでなく恐るべき独善が際立つのも、彼がユダヤ人なればこそ、と言えよう。

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