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千年紀の民

『千年紀の民』 J・G・バラード 増田まもる 東京創元社 2011(2003)
Millennium people

 増田氏による巻末解説によれば、バラードは9.11の実行犯が「貧しい狂信者」などではなく、裕福な家庭に育った、欧化したインテリであったことに触発され本書を執筆したという。

 自爆テロリストとなる人々が、無知文盲な貧民などではなく、中程度以上の教育を受けた、食うや食わずというほど困窮もしていない人々であるということは、繰り返し報告されていることである。他人の考えを受け入れることに慣れている上に、抽象概念のために死ぬことができるのは、教育を受けた人間だからこそである(だから富国強兵策には義務教育が必須だ)。
 そしてテロと革命は紙一重というか、革命はテロの延長線上にある。

 それにもかかわらず、「テロリスト=無学で貧しい狂信者」というステレオタイプが根強いのは、そのような暴力を実行するのは自分たちとは異質の存在だと思いたい、という願望からだろう。
 無学や貧困に「純粋さ」というロマンティシズムやヒロイズムを結び付けがちなのも、自分たちはそうではない、という安心感があるからだ。

 人々は世界を変えたいと思っている。必要なら暴力も使うという。でもその生活でセントラルヒーティングのスイッチが切られたことはいちどもないんだ。

 ロンドンの高級住宅地に住む人々の「革命」を描いた『千年紀の民』は、テロ/革命から幻想を剥ぎ取ろうとした作品だと言えよう。また、「裕福な中産階級」という幻想を剥ぎ取ろうともしている。実際のところ、彼らは家のローンや子供の学費に首が回らず、閉塞感と倦怠で窒息死しかけている。
 学がある上に、閉塞感と倦怠をもてあましているから、彼らは「世界を変える」という抽象概念に捉われるのである。そして彼らの「革命」は、本人たちは真剣そのものだが、詳しく観察できる立場の傍観者からすると、どこか生温さを否めない。
 実際、イスラムの「中産階級のテロリストたち」もそうであったのかもしれない。悲壮感に酔っていて、かつ自分たちの行動がどんな結果を引き起こすのか、よく解っていなかったのかもしれない。彼らはあくまで「異質」だという感覚が拭えないなら、ここ数年増加している、イスラムに改宗してテロリストとなるヨーロッパの白人に当て嵌めてみれば解り易いかもしれない。倦怠と閉塞感以上に、彼らがそうした行為に走る動機があるだろうか。

 とはいえ本書は、「裕福な中産階級」という幻想を剥ぎ取り、その下にある倦怠と閉塞感を剥き出しにすることには成功しているが、イギリスの中産階級とイスラム圏の中産階級(テロリストおよびテロリスト予備軍)を結び付けるところまでは行っていない。
 少なくとも私は、増田氏の巻末解説を読まなかったら、結び付けて考えることができなかったと思うし。まあ、バラードの主眼はたぶん「倦怠と閉塞感」のほうにあったんだと思うけど。

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