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オスカー・ワオの短く凄まじい人生

『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』 ジュノ・ディアス 都甲幸治/久保尚美・訳 新潮社 2011(2007 )
The brief wondrous life of oscar wao

 マジックリアリズムとポップカルチャー(サブカルチャー)との相性の良さはラシュディで実証済みだが、それをさらに追求したのが本書。ちなみに作中でラシュディについて、ちょっとだけだが言及している。

 語り手は、語られる者に対し支配者である。弱者であっても、語ることで強者となる。語ることができる、ただそれだけで強者/支配者の地位にあるのだ。
 たとえば迫害の犠牲者が、加害者について語る。それは一つの勝利であり、最低限でも一矢報いることである。如何にして巧みに語るか、という技術上の問題しかそこにはない。
 しかし同じ犠牲者同士でも、語り手(語ることができる者)と語ることのできない語られる対象との間には、歴然とした格差が生まれる。、語り手は語られる対象を、どのようにも語ることができるからだ。語られる者を、「キャラクター(=型)」に変えてしまうからだ。たとえどれほどの善意や誠意をもって語ろうと、語られる者がその語りに満足したとしても、そこには強者と弱者の関係しか存在しない。

 語り手が加害者である場合の暴力性については言うまでもない。たとえ加害者が心の底から悔いていて、一切自己正当化をしていないということがあり得たとしてもだ。

 第三者が語る場合はどうか。本書の訳者解説によれば、著者ディアスは祖国ドミニカの独裁者トルヒーヨについての物語を、ペルーのインテリであるバルガス・リョサが書いた(『チボの狂宴』)ことがどうにも釈然としなかったのだそうである(ただし本書は『チボの狂宴』の刊行以前に書き始められているので、このことが執筆の動機だったわけではない)。
 まあ、それを言い出したら、およそ作家(作品の表現形式は問わず)は自分の周辺のことか、まったくの絵空事しか語れなくなってしまうわけで、ディアスにしたところでドミニカにいたのは6歳までで、その後困窮生活を送ったにしても、少なくともトルヒーヨによる迫害は直接体験していない。

 作品および巻末に抜粋されているインタビューから見る限り、ディアスは語り手=独裁者であると自覚しているようだ。そのうえで、したり顔の第三者ではなく、1968年生まれの合衆国育ちのドミニカ人としてトルヒーヨ政権を語る方法として選んだのが、マジックリアリズム+ポップカルチャー/サブカルチャーだったわけである。

 真面目な話はさておき、この長いタイトルの作品が一つ明示しているのは、どんな背景があろうとオタクはなるべくしてなる、という真実である。たとえ、独裁政権の犠牲者の一族という重い歴史を背負っていようと。
『ペルセポリス』の作者マルジャン・サトラピーの場合は、弾圧された一族の歴史を背負い、自身も革命と戦争と抑圧を体験したイラン人であるにもかかわらず、留学先のドイツで恋にうつつを抜かし、失恋し、なぜかホームレスになって喀血して死にかける、というわけのわからん暴走のしかたをする。
「可哀想な途上国の人」だからといって、「我々」とは違って「つまらないこと」に情熱を燃やして阿呆なことや間抜けなことをしでかしたりしない、などということはない。彼らはそのようなことをするのを許されない「聖別」された特殊な人々ではない。我々と同じく、機会さえあれば、いつだってそうする。
 そしてオタクの素質(疑似遺伝学的な言葉を使うなら「オタク因子」)を持つ人というのは、どんな時代/社会にも一定の割合で存在し、対象(サブカルチャー)に接触しさえすれば必ずオタクになるだろうと思う。てか、そうに違いない。

 語り手によれば、合衆国育ちのドミニカ人青年オスカーは、次のような人物である(ちなみに詳細で数の多い訳注は、岡和田晃氏が担当している)。

 おれはアドバイスしようとした。本当に。別に難しい話をしたわけじゃない。例えば、道で知らない女の子に向かって叫ぶなとか、むやみにビヨンダー(訳注:マーベルコミックス作品に描かれる異星人)についてしゃべるなということだ。オスカーが聞いたかって? もちろん聞きやしないさ! (中略)オスカーは頑固だった。おれの話を最後まで聞き肩をすくめた。何をしても効果なんかないし、僕はありのままでいくよ。
 そのありのままが最悪なんだろうが。

 うあー、いたいた、こういう奴(ら)。
 オスカーはもちろん、アメリカのサブカルチャーだけでなく、日本のアニメも愛好している(90年代以前の話なので、まだアニメ以外は進出していない)。巻末解説で都甲氏は、「だが日本のオタクと違うのは、二次元の女性に対する「萌え」感覚が皆無なことだ。だからこそ三次元の大量の女性を口説き、ふられ、傷つき、命を懸けた危険な恋に突っ走る。ここら辺はやはりドミニカ系アメリカ人である」と述べている。

 いやー、萌えという言葉が登場するずっと前からその概念はあったし、三次元より二次元、という奴もずっと前からいたんだろうけど、学生時代からほんの数年前まで私の周囲には、「二次元もいいけど、でもやっぱりリアルで彼女欲しい」という男がいっぱいいたぞ。
 で、彼らもオスカーのように、次から次へと女の子に近付こうとしては、やたら濃いアニメや漫画の話をしたり、アニメソングを自分で編集したカセットテープ(90年代初めの話)をプレゼントしては自滅していたのであった。
 しかも彼らはたいていの場合、あくまで「普通の」女子を望んでいた。普通の女子に、上記のようなことをしたわけである。

 つれなく袖にされても、逆恨みして軽犯罪行為に走るような奴はいるにはいたがごく少数で、彼らの9割9分はオスカーと同じく心優しく純真で、不屈の魂を持っていたのであった。
 当時の交友関係は完全に消滅してしまったので、彼らがその後どうしているかは知らない。現在の友人知己に彼らのようなタイプはいない(ひょっとしたら、関西という土地柄も多少は関係があったのかもしれない)。私と同年代以上で、未だになんらかの形で落ち着いていないのはさすがにやばいが、もっと若い人であれば、男と生まれたからには不屈の挑戦を続け、是非とも幸せを摑んでもらいたいものである。

 他人事だと思って気軽に言ってるって? あたりまえだよ、幸いなことに私は男じゃないからな。

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