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アイアンマン

 一作目。周囲での評判がいまいちだったので観ずに済ませ、ミッキー・ロークとスカーレット・ヨハンソンが出演している(しかもアクション要員で)二作目だけ観るつもりであった。
 しかし「一作目を観ないと話が解らない」と言われたので、まあロバート・ダウニーJrもジェフ・ブリッジズも嫌いな役者じゃないしな、しゃあないな、と観てみたのであった。一応ネタばれ注意。

 うん、いまいち。
 基本的に、とりたてて褒めるところのない映画の感想はブログには上げないのである。あまりにも腹に据えかねてボロクソ書いたこともあったような気がしないでもないが、それはあくまで例外だ。
 どうも私の感想は褒めてるのか貶してるのか解りにくいらしく、褒めてるのに「ボロクソだね」とか言われたり、貶してるのに「やっぱりいいよね」とか言われてしまったりすることがあるのだが、とりあえず本人のスタンスとしては上記のとおりである。

 そういうわけで、本作は「いまいち」であって、腹に据えかねるほどひどいわけでもない。しかし二作目はおもしろいだろうと信じているので、きっと感想を上げることになるだろう、ならばついでに一作目も上げておこうか、という次第である。

 別に腹も立たないんだが、とにかく呆れたのであった。まずその凡庸さにだ。

  • 冒頭、戦闘車両内で兵士がロバート・ダウニーJrの写真を撮ろうとすると、シャッターを切った瞬間に前を走る車両が華々しく爆発する。
  • 悪い重役であるジェフ・ブリッジズが、パーティーの会場で「スタークは来られないんだ」とか話していると、ざわめき(女たちの黄色い声)が上がり、ロバート・ダウニーJr(スターク)が華々しく登場する。
  • 悪いテロリストが罪もない貧しい村人を泣き叫ぶ家族の前で傷めつけ、射殺を命じたまさにその時、アイアンマンが華々しく登場する。

 といった具合に、演出がことごとく陳腐なのである。もちろん陳腐さを敢えて「お約束」とし、ギャグまたは「様式美」として演出するという手もあるが、どうも制作者たちがそのように考えている気配は皆無である。本気で観客がハラハラドキドキすると思っているようなのだ。馬鹿なのか、観客を馬鹿にしているのか、あるいはその両方であろう。

 役者の演技も凡庸である。ロバート・ダウニーJrは「金持ちで天才で鼻持ちならない奴→正義に目覚めるがやっぱり身勝手」という、如何にも似合ってそうな役だし、ジェフ・ブリッジズも珍しく悪役なのに、別に彼らじゃなく、誰がやってもいいような。グウィネス・パルトロウが凡庸なのは、まあグウィネス・パルトロウだから。まあ、「一応美人なのに、地味」というのは、彼女に似合ってる役ではある。

 呆れたこと二つ目。設定の頭の悪さ。
 アメコミ・ヒーローものの映画化の成功は、そもそも原作のいい加減な設定をいかにもっともらしく解釈し直すかに掛かっている。リアリズムを極限まで追求するとシャマランの傑作『アンブレイカブル』(原作つきじゃないけど)になるが、そうじゃなくても、「その作品内でのリアリズム、もっともらしさ、説得力」は絶対不可欠だ。それが駄目だったら、すべて駄目。
 最新の精密兵器をアフガンの洞窟内で作れと脅された主人公は、ミサイルではなく自分用のパワードスーツを作って脱出することにする。その発想も阿呆なら、一緒に囚われている医師兼通訳が「さすがだ」と称賛するのも阿呆。主人公が何日も(おそらく何週間も)掛けて制作している間、工房のすぐ隣に寝泊まりしている上に監視カメラで24時間見張っているにも関わらず、ミサイルではなくパワードスーツが作られていることに気が付かないテロリストたちも阿呆。

 ここまで阿呆揃いならギャグにしてしまうこともできるのに、そうしようとした形跡はまったくない。馬鹿なのか、観客を(以下略)。
 今後、『ハルク』(新しいほう)とリンクした展開にするつもりらしいが、こんなんと繋げられる『ハルク』が気の毒だ。

 本作より遥かに気が利いていておもしろかった『ハルク』だが、一つ唖然とさせられたことがあった。ある夜、ブラジルの都市で変身してしまった主人公が、翌朝我に返ると己が中米(パナマ運河より北のグアテマラかどっか)にいることに気づくのである。アメリカ人の地理感覚はどうなってんだ。
 しかしそんなのはまだマシなのであった。本作『アイアンマン』では、パワードスーツをまとった主人公がひとっ飛びすると、文字どおりあっという間にアフガンの山奥に着いてしまうのである。制作者たちがあれを、「中途省略しているだけで、あれは本当は何時間も飛んでいるんですよ」などと考えていた気配はない。明らかに、その前にアメリカ国内で飛行テストをしていた時より短時間(せいぜい20分といったところ)だ。
 序盤、自家用機でアフガニスタンに赴いた時は、それなりの時間(少なくとも“サキ”の熱燗でべろべろに酔っ払い、客室添乗員たちと乱交に及ぶくらいの時間)が掛かっていた。パワードスーツだと「音速を超えるから」という頭の悪い理由で、あっという間なのである。

 つまり、アメリカ人は、映画プロデューサーや監督、脚本家といった人々(すなわちある程度は教育のある人々)でさえ、世界(たぶん平らなのであろう)には巨大な大陸が一つ存在するだけ、という世界観を持っているに違いない。その周囲を取り巻く海の向こうは無が広がっている。
 で、その大陸の大半を占めるのがU.S.Aで、沿岸部のわずかな部分や幾つかの島に、カナダやメキシコや西ヨーロッパやオーストラリアとかがへばり付いてるんだろう。ブッシュJrが「メキシコとカナダは国境を接している」と認識していたのも、むべなるかな。あれは平均的アメリカ人の「常識」だったらしい。
 そしてワームホールか何かを抜けた先の「世界の果て」に、それ以外の国々が存在するのだ(日本はかろうじて「周縁部」と認識してもらっているかもしれない)。ただの飛行機だとワームホールを抜けるのに何時間も掛かるけど、アイアンマンは「音速を超えるから」ワームホールもあっという間に抜けられるのであろう。

 とはいえ先述のとおり、決して観るに堪えないほどひどいわけではないのである。飛び抜けてひどいわけではない、という点でも「凡庸」なのだ。二作目に期待します。

『インクレディブル・ハルク』感想

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