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アデル

 ハリウッドではなくフランスのリュック・ベッソン監督作で、実にハリウッドではなくフランスのリュック・ベッソン監督作らしい映画。つまり、より好き放題やっている。

 ポスターやチラシ等では気づかなかったのだが、ヒロインが角度によってはレニー・セルヴィガー似であった(セルヴィガーより美人だし身のこなしも軽かったが)。どうやらそのせいで、好感が持てなかったのであった。そんなにセルヴィガーが嫌いだとは自分でも知らなんだよ。しかしベッソンは相変わらずでかい女が好きだな。

 違う女優だったら、もっと楽しめたんだろうけどねえ。
 あと、マチュー・アルマリックが出るんで楽しみにしてたんだが、あまりに特殊メイクだし出番も少ないしで、別にアルマリックじゃなくてもいいような役だったよ。特殊メイクにもかかわらず、全身から滲み出る苛められっ子オーラは健在でしたがね。

 それにしても『ミッション・クレオパトラ』といい、フランス人は未だにエジプトが自分のものだと思ってるんだな。

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攻殻機動隊2.0

「物語」に関してはわりあい記憶力がいいし、映像作品を鑑賞する時の集中力も高いほうである、と自負している。それなのに2004年に『イノセンス』を劇場で観た時、その7、8年前にビデオ観賞しているはずの前作の内容をまったく思い出せないことに気が付いたのであった。

 そのことがずっと引っ掛かっていたので、今回まあなんとなく見返してみたわけである。新しいヴァージョンのほうだが、別に話や場面が大きく変更されてるわけでもない(しかし3Dとセルが噛み合ってないなあ)。
  それにもかかわらず話の展開(原作を読んでいるのでプロット自体は知っているが)から断片的なセリフや場面に至るまで、ほとんど憶えがない。かろうじて見覚えがあるカットを繋ぎ合せても、3分にも満たないであろう。記憶喪失?

 脚本に問題はないし、映像やガジェットも音楽も印象的なんだけどねえ。『イノセンス』のほうはちゃんと憶えてるし。
 よっぽど集中力に欠けた状態で鑑賞したということに尽きるんだろうけど、ほかに大きな要因としては、この作品で描かれているサイバーパンク的テーマ(「高度に発達したコンピュータ・ネットワークと接続することによる意識の変容」「“意識の座”が脳から機械に換わることによる“私”の変容」等)が、私にとって心底どうでもいいからなんだろうな。
 サイバーパンクのガジェットとか設定は好きなんだが、コンピュータが発達したからってどないやねん、としか思えないんだな。電力の供給が切れたらお終いじゃん、とSF作家にあるまじきことを考えているのです。

 まあそれを言ったら人間が生存できる環境だって限られてるし、「人間らしい」形質である知能や意識を存続できる環境となると、さらに限られてくるわけですが。

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ブッシュ

 ブッシュ・ジュニアというと、やたら泳ぐ目と下唇を突き出した子供っぽい表情(そのせいで父親によく似た容姿のはずなのに、父親より遥かに意志薄弱に見える)が印象的なのだが、彼に扮したジョシュ・ブローリンはそういう表情をほとんど見せていない。なので、話題になったほど「そっくりさん」だとは思わなかったな。
 まあたぶん主に真似たのは喋り方なんだろう。私は自主的にTVを観る習慣がないので、ブッシュ・ジュニア本人が喋るのをちゃんと聞いたことがなく、したがって似てたかどうかは判らないんだけど。ライスやパウエルなど、その他の登場人物たちの喋り方についても同様。彼らに関しては、単純なカリカチュアという意味では容姿や表情は随分似ていたと思う(ライスが常に苦虫を噛み潰した表情なのには笑えた)。
 ブッシュ・シニア役のジェームズ・クロムウェルは、似ているとか似ていないとかいう以前に、「良くも悪くも父権的な上司」役をやるために生まれてきた男である。

 ジェームズ・クロムウェルがブッシュ・シニア役なので、ジョシュ・ブローリンが演じるブッシュ・ジュニアは当然ながら「偉大な父親にコンプレックスを持つダメ息子」である。実際の父子関係がどうなのかは知らないし、軸に据えるにはあまりにも陳腐だという気がするが、演出があっさりしているので、そう辟易させられることもなかった。
 全体として手堅く手際よくまとめられているという印象で、オリヴァー・ストーンの職人芸に感心させられた作品。

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新宿インシデント

 ジャッキー・チェンは別に好きでも嫌いでもなく、彼の映画は子供の頃の○曜洋画劇場とか含めても数本しか観ていない。あまり興味が持てない理由としては、いつも同じような役ばかり、というのが一番大きい。で、私はそういう役者がいつもと違うことに挑戦していると、よっぽど駄目な結果にでもならない限り、それだけで高く評価してしまうのである。

 というわけで、今回のジャッキー・チェンは普通のしょぼくれたおっさんを演じている。仲間思いで、正義感も強いほうだが、どちらも不徹底である。生きるため、仲間のため、ということで犯罪に手を染め、がむしゃらに突き進んでいくうちに、新宿の中国人社会を任されるところまで伸し上がってしまう。しかし、その時点でそれ以上裏社会に関わるのがいやになり、面倒で後ろ暗い部分は全部仲間に押しつけ、自分は堅気の会社の社長に収まる。
 そうして彼らが何をやっているのか見ざる聞かざるを決め込み、何年も経ってから初めて、自分が「堅気の会社社長というのは表の顔、裏では巨大犯罪組織のボス」という立場にいることに気づき、周章狼狽する。
 仲間を詰るが、「俺たちに面倒なことを押しつけておいて、何を今さら」と当然の反論をされ、返答に窮する。そして「あんただって人殺しのくせに」と言われて逆上し、「おまえたちのためにやったんだ。誰のお蔭で生きてこられたと思ってる」と、これまでのジャッキー・チェンなら絶対に言わない台詞を吐く。

 要するに肉体的にも精神的にも限界を持った、超人ではない普通の人間の役である。で、「ジャッキー・チェンがこんなことを」という意外性(ファンにとっては「衝撃」であろう)を取り除いて、「こういう役を演じる一個の役者」として観ればどうかというと…………まあ普通に巧いんじゃない?
 つまり、「ジャッキーがこんなことを」という意外性はあるが違和感はなく、私のように彼に別段思い入れのない人間が作品そのものを鑑賞するのに妨げにはならない巧さである。そして作品自体も、この「意外性」が大きな付加価値となっているのは確かだが、そこに付加価値を見出さない観客にとっても充分おもしろい。

 違和感はない、と述べたが、アクションシーンは別であった。一生懸命素人っぽい動きを出そうとしていて、終始腰が引けてるし動きに無駄も多いんだけどねー。得物(棒とか刃物とか椅子とか)を構えたり、逃げようと後退ってたりするならともかく、得物を振り回したりするだけで動きに切れがありすぎる。いわんや実際に相手と組み合ったりすれば。素人っぽい無駄な動きと、明らかに素人じゃねー切れのある動きが、はっきり見わけがつく状態で混在してるので、かなり変だった。

 ところで本作品で描かれるようなどぎつい暴力は、観客に恐怖や嫌悪といった負の情動と同時に爽快感をもたらす。それは我々「健全な一般市民」は暴力を厭うと同時に、暴力を振るってみたいという抑制された欲望を抱えているからである(この欲望が抑制されていない者は、「健全な一般市民」ではない)。その相反する心理を、我々は暴力を振るう者に投射する。
 暴力を振るう者が集団で、且つ独自の慣習(すなわち「我々」とは異なる「文化」)を持っている、と「我々」が見做した場合、そこに我々が投射する恐れと憧憬はある種のエキゾティシズムと言っていいだろう。「我々」は「彼ら」に投射するイメージを、彼らの「実体」そのものか、もしくは「実体」に非常に近いものだと信じているが、もちろんそれらのイメージは我々の心の中にあるもので、すなわち幻想である。

『新宿インシデント』では種々のアウトロー集団が登場する。彼ら中国人(台湾や福建など、出身地ごとの組織がある)や日本のヤクザは、独自の文化をもったエキゾティックな集団としての面も強調される。
 日本人にとってのヤクザ(すなわちそこに投射される幻想)は「同じ日本人」であると同時に、「我々」とは明確な違いを持った、いわば内なる他者である。他者だから無責任に恐れと憧憬を投射できるのと同時に、「同じ日本人」なので完全に他者である外国人のアウトロー集団よりは親近感がある。

 中国人の監督が中国人の視点から描いた本作だが、その視点からすると完全に他者であるヤクザは、中国人マフィアに比べて特に残虐すぎたり間抜けだったりすることもなく、適度にカッコよく描かれている。まあ日本人観客に配慮したんだろうな。
 では、監督や脚本家など主要なスタッフにとって、「在日中国人の犯罪者たち」(という幻想)への心理的距離はどの程度なんだろうか。という疑問を鑑賞しながら抱いていたのであった。
 無責任に恐れや憧憬を投射できる、「我々とは違う存在」と感じているのは確かだろうけど、それなりに親近感も抱いているはずで、日本人全般がヤクザに対して抱くような「内なる他者」という距離感なのか、それとも中国国内じゃなくて日本にいるからもう少し距離があるのか、とか。

 そんなことをぼんやり考えながら観ていたら、最後に出たテロップで「日本への不法入国は90年代に急増したが、経済成長に伴い2000年代には減少した」というようなことが述べられていて、非常に腑に落ちたのであった。
 つまり現在の中国人(映画公開は2009年)、少なくとも経済成長の恩恵を受けている中国人にとっては、「日本に不法入国せざるを得ないほど貧しい中国」はもはや「過去」なのである。こんなにも早く「過去」化したのは、もちろん彼らがそれを「過去」だということにしたがっているからだ。

 ノスタルジーというのは、過去の私もしくは我々を、現在の自己とはもはや違う存在だと見做すから生じる心情である。自身が体験していない時代(例えば昭和30年代など)にノスタルジーを抱き得ることからも解るように、ノスタルジーとは美化されたイメージであり、当時の実際の状況がどんなものだったかは関係ない。その点でエキゾティシズムに似ている。また、過去の「野蛮な時代」はエキゾティシズムの対象の一つである。
『新宿インシデント』は、「豊な現在の中国人」がたかだか十数年前を「貧しくて、良くも悪くもがむしゃらだった昔の中国」というノスタルジーとエキゾティシズムの対象にしたがっている作品なのである。いや、推測ですが。で、その「過去の中国」「貧しかったあの頃」の代表としてジャッキー・チェンを選んだとか、そういうわけではないだろうと思う。

 ところで、台南系組織のボスが仕切る店の名前がFORMOSAだった。つまらんことを知ってる奴がおるなあ。

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トゥルー・グリッド

『シリアスマン』見損ねちゃったよ……

 コーエン兄弟は映画を心底愛し、深く敬意を払っているが、観客には鐚一文敬意を払っていないに違いない。彼らは観客を弄んでいる。彼らの作品を褒めようが貶そうが、すべて彼らの思う壺である。彼らの掌から一歩も出ていない。
 そのように確信し、且つ毎回弄ばれたと喜んでいる私は、きっとマゾなんだろう。

 観客への思惑が実際のところどうなのかはともかく、全作品に共通するのは「意地の悪さ」である。「悪意」だと陰湿で偏執的なルサンチマンといったところだが、彼らはあくまで明るく軽く意地が悪い。
 今回は、その意地の悪さがまったく感じられない。それでまず戸惑った。以下、一応ネタバレ注意。
 
 これまでのコーエン兄弟作品は既存ジャンルのパスティーシュが多いし、『マダムと泥棒』のリメイクもしている。それら先行作品への愛と敬意が感じられる一方、数少ない原作付き作品では原作に対する敬意があまり感じられない。
『ノーカントリー』では明らかに原作のテーマ(原作者いわく「純粋悪」)には微塵も関心がなく、映画史上稀に見るキモい殺人鬼ハビエル・バデムと変な武器と変な髪型、そしてジョシュ・ブローリンの不運振りを描くことだけに腐心している。『オー・ブラザー』の「原作」『オデュッセイア』に至っては、「コミックでしか読んだことがないけどね!」とほざく有様だ。『ファーゴ』でも「実話に基づく」とやっておいて、何年も経ってから「実は嘘」。

 今回の原作は時間がなくて未読だし(英文を読むのが遅い)、『勇気ある追跡』もレンタルできなかったので未見だが、どうも『勇気ある追跡』よりも原作小説に対して、コーエン兄弟の敬意が感じられる。
 少女マティは父の仇を取るが、その直後に蛇に咬まれて左腕を失う(その後の人生も孤独であることが示唆される)。可愛がっていた馬も死なせてしまう。復讐には代償が必要であるということが、明言はされないが明示されている。結末には割り切れない重苦しさが漂う。

 この重苦しさは賛否両論のようだが、しかしコーエン兄弟にしてみれば、単に原作に敬意を表して結末まで忠実に映画化しただけであって、「復讐には代償が必要」というテーマで映画を撮ったわけではなかろう。『ノーカントリー』の時と同じく、原作のテーマをなぞっているだけで、別段自分たちがそう主張したいわけではない(『ノーカントリー』の時よりは敬意を籠めてなぞっているとは思うが)。
 そもそも、これまでの彼らの映画にも、テーマなどあった試しがない。意地の悪さをテーマだと見る向きもあるが、あれは単に意地が悪いだけだと私は思う。

 そして一見、「コーエン兄弟らしくなく」意地の悪さがない『トゥルー・グリッド』は、もしかしたらこれまで以上に底意地が悪いのかもしれない。「感動するテーマ」を求める観客にも、一つの原作の再映画化と聞いて、「リメイク? じゃあ駄目に決まってる」と脊髄反射で判断する観客(批評家)にも、そしてコーエン兄弟に解り易い意地の悪さを期待するファンにも、等しく意地が悪いのではあるまいか。

 まあ今後も、付いて行けるところまでは付いて行こうと思う。

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ミステリウム

『ミステリウム』 エリック・マコーマック 増田まもる・訳 国書刊行会 2011(1992)
The Mysterium

 タイトルはラテン語で「秘儀、奥義、秘密、神秘」を意味し、mysteryの語源だが、英語化して「技術、手仕事、同業者組合」といった意味も持つ。作中では2番目の意味として挙げられているが、もちろん(ジャンルとしての)「ミステリ」の意味も含んでいる。

 フィクション全般について、「ネタばれ」されてその作品のおもしろさが減じたと感じるような鑑賞者は二流だし、実際におもしろさが減じてしまう作品も二流である。
 しかしまあ、狭義のミステリ(謎解き)にまでこの原則を当て嵌めるのは酷だ、とは思う。私にとってミステリはそれほど興味のある分野じゃないにしてもだ。いや、謎解きとかどうでもいいしー。

 もちろんミステリで重要なのは、謎の答えそのものよりも謎解きの過程である。そして、この『ミステリウム』は紛れもなく「謎解き」作品だ。しかし、通常のミステリと違うのは、ネタばれをされてもそのおもしろさが少しも減じないことである。
 というわけで、ネタばれは作品の価値を減じるとあくまで信じる繊細な方には、一応ネタばれ注意と言っておきますよ。

 いわゆる「信用できない語り手」なのだが、これが非常に徹底している。語り手が複数いて、語りが多重構造になっていて、それらがことごとく「信用できない」のである。
 小さな閉鎖的な町キャリックで、住人(と家畜)が奇怪な病で次々と死んでいく、という事件が起きる。毒なのか伝染病なのか、死因すら特定できぬまま、キャリックの薬剤師が第一容疑者として逮捕される。彼の指名により、見習記者の「私」は封鎖された町での取材を特別に許可される。

「私」が取材で見聞きしたことと、容疑者の薬剤師ロバート・エーケンの手記、その他古い記録等によって本書は構成されている。「私」の一人称で書かれた部分の大半も、エーケンおよび死に瀕した住民たちへのインタビューで占められている。
 つまり重層構造の語りになっているのだが、それだけではない。謎の死病は、精神に作用するという設定である。彼らは皆多弁だが、「おかしくなった」状態で喋っていることになるので、到底鵜呑みにするわけにはいかない。もちろん、意識的な嘘も含まれていないとは言いきれない。
 エーケンが容疑者とされた理由は、その職業に加えて、彼だけが発病を免れているためである。すなわち彼の発言や手記(事件発生後に書かれたもの)は、意識的に嘘をついている部分があったとしても、少なくともその意識は明晰だということだ。
 ところがその後、エーケンは偶々ほかの人々より症状がはっきり出ていなかっただけで、やはり発症していたことが、彼の死によって判明する。

 エーケンは、町の過去が事件の背景になっていることを示唆する。「私」が調査してみると、かつて町に収容されていた戦争捕虜の殺害、エーケンの出生の秘密等々、ごろごろ出てくる。正直言って、非常に陳腐である。どれもこれも伏線が出てきた時点で予想がつき、やがてほぼそのとおりの「真相」が明らかになるのだ。
 それでも飽きさせずに読ませるのは、「語り手」たちが誰一人として信用できないからである。
 それらの陳腐な「真相」は、どれ一つとっても、あるいはすべてを総合しても、大量殺人の動機として納得のいくものではない。キャリックの事件が解決を見ぬまま終息してから数年後、「私」は事件についての本を書くことになる。
 改めて事件を回顧し、情報を整理した「私」は、「狂人の行動や動機について筋の通った説明を見つけようとするのはおそらく不毛だ」と結論する。「動機なき大量殺人」として書かれた本のタイトルは、『キャリックの野獣』。間もなく完成しようとしていた時、新たな「真相」が出現する。エーケンが犯人ではなかったという確たる証拠だ。

「私」は『キャリックの野獣』の出版を取りやめる。本書『ミステリウム』は『キャリックの野獣』に、それが出版されなかった顛末を加えたもの、という体裁を取っている。
 語りの一番の外側にいる「私」だけは、意図的に「事実」を隠したり歪曲したりということはしていない、と読者としては信じたい。てゆうか、さすがにそこまでは付き合いきれん。
 しかしいずれにせよ、「私」も紋切り型に毒されているという点で、「信用できない語り手」には変わりないのである。過去の因縁やら何やらから作り上げた事件の「真相」という「お話」も陳腐だが、解明を放棄した「動機なき大量殺人」というお話も、前者よりは新しいとはいえ、とっくに陳腐化している。その陳腐さは、『キャリックの野獣』という如何にも駄目なタイトルに集約されている(原稿を読んだ「私」の師は、「キャリックでのきみのインタビューの文字起こしと要約は、きわめて選択的だ。どうしてより扇動的な部分を選んでその他を省略したのかわからない」と苦言を呈する)。

 陳腐な因縁の数々は、「お話」に纏め上げられることを拒否し、まったく無意味に無造作に無様に転がるだけとなる。最終的に明かされる、容疑者エーケンと「私」が血縁であった(かもしれない)という「真相」など、陳腐さの最たるものだが、ここまで陳腐さ、紋切り型というものが剥ぎ取られた後では、まったく別の意味を持ってくる。

 著者はカナダ在住のスコットランド人。本書の舞台は、風土も文化も20世紀後半のスコットランドだとしか思えないのだが、実はそうだとは一言も述べられていない。ただ「島の北部」とあるだけだ。事件の発端となるよそ者カークの出身地はアメリカとしか思えないのだが、同様に「植民地」とされている。容疑者エーケンが生まれたのは戦争中で、状況からすれば第二次大戦で、捕虜たちはドイツ人だということになろうが、やはり一切そうとは書かれていない。「戦争」「敵」とあるだけだ。こうした操作は一見意味がないようにも思えるのだが、全体を通して微妙な乖離感を与えている。

 マコーマック『パラダイス・モーテル』感想

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