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ミステリウム

『ミステリウム』 エリック・マコーマック 増田まもる・訳 国書刊行会 2011(1992)
The Mysterium

 タイトルはラテン語で「秘儀、奥義、秘密、神秘」を意味し、mysteryの語源だが、英語化して「技術、手仕事、同業者組合」といった意味も持つ。作中では2番目の意味として挙げられているが、もちろん(ジャンルとしての)「ミステリ」の意味も含んでいる。

 フィクション全般について、「ネタばれ」されてその作品のおもしろさが減じたと感じるような鑑賞者は二流だし、実際におもしろさが減じてしまう作品も二流である。
 しかしまあ、狭義のミステリ(謎解き)にまでこの原則を当て嵌めるのは酷だ、とは思う。私にとってミステリはそれほど興味のある分野じゃないにしてもだ。いや、謎解きとかどうでもいいしー。

 もちろんミステリで重要なのは、謎の答えそのものよりも謎解きの過程である。そして、この『ミステリウム』は紛れもなく「謎解き」作品だ。しかし、通常のミステリと違うのは、ネタばれをされてもそのおもしろさが少しも減じないことである。
 というわけで、ネタばれは作品の価値を減じるとあくまで信じる繊細な方には、一応ネタばれ注意と言っておきますよ。

 いわゆる「信用できない語り手」なのだが、これが非常に徹底している。語り手が複数いて、語りが多重構造になっていて、それらがことごとく「信用できない」のである。
 小さな閉鎖的な町キャリックで、住人(と家畜)が奇怪な病で次々と死んでいく、という事件が起きる。毒なのか伝染病なのか、死因すら特定できぬまま、キャリックの薬剤師が第一容疑者として逮捕される。彼の指名により、見習記者の「私」は封鎖された町での取材を特別に許可される。

「私」が取材で見聞きしたことと、容疑者の薬剤師ロバート・エーケンの手記、その他古い記録等によって本書は構成されている。「私」の一人称で書かれた部分の大半も、エーケンおよび死に瀕した住民たちへのインタビューで占められている。
 つまり重層構造の語りになっているのだが、それだけではない。謎の死病は、精神に作用するという設定である。彼らは皆多弁だが、「おかしくなった」状態で喋っていることになるので、到底鵜呑みにするわけにはいかない。もちろん、意識的な嘘も含まれていないとは言いきれない。
 エーケンが容疑者とされた理由は、その職業に加えて、彼だけが発病を免れているためである。すなわち彼の発言や手記(事件発生後に書かれたもの)は、意識的に嘘をついている部分があったとしても、少なくともその意識は明晰だということだ。
 ところがその後、エーケンは偶々ほかの人々より症状がはっきり出ていなかっただけで、やはり発症していたことが、彼の死によって判明する。

 エーケンは、町の過去が事件の背景になっていることを示唆する。「私」が調査してみると、かつて町に収容されていた戦争捕虜の殺害、エーケンの出生の秘密等々、ごろごろ出てくる。正直言って、非常に陳腐である。どれもこれも伏線が出てきた時点で予想がつき、やがてほぼそのとおりの「真相」が明らかになるのだ。
 それでも飽きさせずに読ませるのは、「語り手」たちが誰一人として信用できないからである。
 それらの陳腐な「真相」は、どれ一つとっても、あるいはすべてを総合しても、大量殺人の動機として納得のいくものではない。キャリックの事件が解決を見ぬまま終息してから数年後、「私」は事件についての本を書くことになる。
 改めて事件を回顧し、情報を整理した「私」は、「狂人の行動や動機について筋の通った説明を見つけようとするのはおそらく不毛だ」と結論する。「動機なき大量殺人」として書かれた本のタイトルは、『キャリックの野獣』。間もなく完成しようとしていた時、新たな「真相」が出現する。エーケンが犯人ではなかったという確たる証拠だ。

「私」は『キャリックの野獣』の出版を取りやめる。本書『ミステリウム』は『キャリックの野獣』に、それが出版されなかった顛末を加えたもの、という体裁を取っている。
 語りの一番の外側にいる「私」だけは、意図的に「事実」を隠したり歪曲したりということはしていない、と読者としては信じたい。てゆうか、さすがにそこまでは付き合いきれん。
 しかしいずれにせよ、「私」も紋切り型に毒されているという点で、「信用できない語り手」には変わりないのである。過去の因縁やら何やらから作り上げた事件の「真相」という「お話」も陳腐だが、解明を放棄した「動機なき大量殺人」というお話も、前者よりは新しいとはいえ、とっくに陳腐化している。その陳腐さは、『キャリックの野獣』という如何にも駄目なタイトルに集約されている(原稿を読んだ「私」の師は、「キャリックでのきみのインタビューの文字起こしと要約は、きわめて選択的だ。どうしてより扇動的な部分を選んでその他を省略したのかわからない」と苦言を呈する)。

 陳腐な因縁の数々は、「お話」に纏め上げられることを拒否し、まったく無意味に無造作に無様に転がるだけとなる。最終的に明かされる、容疑者エーケンと「私」が血縁であった(かもしれない)という「真相」など、陳腐さの最たるものだが、ここまで陳腐さ、紋切り型というものが剥ぎ取られた後では、まったく別の意味を持ってくる。

 著者はカナダ在住のスコットランド人。本書の舞台は、風土も文化も20世紀後半のスコットランドだとしか思えないのだが、実はそうだとは一言も述べられていない。ただ「島の北部」とあるだけだ。事件の発端となるよそ者カークの出身地はアメリカとしか思えないのだが、同様に「植民地」とされている。容疑者エーケンが生まれたのは戦争中で、状況からすれば第二次大戦で、捕虜たちはドイツ人だということになろうが、やはり一切そうとは書かれていない。「戦争」「敵」とあるだけだ。こうした操作は一見意味がないようにも思えるのだが、全体を通して微妙な乖離感を与えている。

 マコーマック『パラダイス・モーテル』感想

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