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新宿インシデント

 ジャッキー・チェンは別に好きでも嫌いでもなく、彼の映画は子供の頃の○曜洋画劇場とか含めても数本しか観ていない。あまり興味が持てない理由としては、いつも同じような役ばかり、というのが一番大きい。で、私はそういう役者がいつもと違うことに挑戦していると、よっぽど駄目な結果にでもならない限り、それだけで高く評価してしまうのである。

 というわけで、今回のジャッキー・チェンは普通のしょぼくれたおっさんを演じている。仲間思いで、正義感も強いほうだが、どちらも不徹底である。生きるため、仲間のため、ということで犯罪に手を染め、がむしゃらに突き進んでいくうちに、新宿の中国人社会を任されるところまで伸し上がってしまう。しかし、その時点でそれ以上裏社会に関わるのがいやになり、面倒で後ろ暗い部分は全部仲間に押しつけ、自分は堅気の会社の社長に収まる。
 そうして彼らが何をやっているのか見ざる聞かざるを決め込み、何年も経ってから初めて、自分が「堅気の会社社長というのは表の顔、裏では巨大犯罪組織のボス」という立場にいることに気づき、周章狼狽する。
 仲間を詰るが、「俺たちに面倒なことを押しつけておいて、何を今さら」と当然の反論をされ、返答に窮する。そして「あんただって人殺しのくせに」と言われて逆上し、「おまえたちのためにやったんだ。誰のお蔭で生きてこられたと思ってる」と、これまでのジャッキー・チェンなら絶対に言わない台詞を吐く。

 要するに肉体的にも精神的にも限界を持った、超人ではない普通の人間の役である。で、「ジャッキー・チェンがこんなことを」という意外性(ファンにとっては「衝撃」であろう)を取り除いて、「こういう役を演じる一個の役者」として観ればどうかというと…………まあ普通に巧いんじゃない?
 つまり、「ジャッキーがこんなことを」という意外性はあるが違和感はなく、私のように彼に別段思い入れのない人間が作品そのものを鑑賞するのに妨げにはならない巧さである。そして作品自体も、この「意外性」が大きな付加価値となっているのは確かだが、そこに付加価値を見出さない観客にとっても充分おもしろい。

 違和感はない、と述べたが、アクションシーンは別であった。一生懸命素人っぽい動きを出そうとしていて、終始腰が引けてるし動きに無駄も多いんだけどねー。得物(棒とか刃物とか椅子とか)を構えたり、逃げようと後退ってたりするならともかく、得物を振り回したりするだけで動きに切れがありすぎる。いわんや実際に相手と組み合ったりすれば。素人っぽい無駄な動きと、明らかに素人じゃねー切れのある動きが、はっきり見わけがつく状態で混在してるので、かなり変だった。

 ところで本作品で描かれるようなどぎつい暴力は、観客に恐怖や嫌悪といった負の情動と同時に爽快感をもたらす。それは我々「健全な一般市民」は暴力を厭うと同時に、暴力を振るってみたいという抑制された欲望を抱えているからである(この欲望が抑制されていない者は、「健全な一般市民」ではない)。その相反する心理を、我々は暴力を振るう者に投射する。
 暴力を振るう者が集団で、且つ独自の慣習(すなわち「我々」とは異なる「文化」)を持っている、と「我々」が見做した場合、そこに我々が投射する恐れと憧憬はある種のエキゾティシズムと言っていいだろう。「我々」は「彼ら」に投射するイメージを、彼らの「実体」そのものか、もしくは「実体」に非常に近いものだと信じているが、もちろんそれらのイメージは我々の心の中にあるもので、すなわち幻想である。

『新宿インシデント』では種々のアウトロー集団が登場する。彼ら中国人(台湾や福建など、出身地ごとの組織がある)や日本のヤクザは、独自の文化をもったエキゾティックな集団としての面も強調される。
 日本人にとってのヤクザ(すなわちそこに投射される幻想)は「同じ日本人」であると同時に、「我々」とは明確な違いを持った、いわば内なる他者である。他者だから無責任に恐れと憧憬を投射できるのと同時に、「同じ日本人」なので完全に他者である外国人のアウトロー集団よりは親近感がある。

 中国人の監督が中国人の視点から描いた本作だが、その視点からすると完全に他者であるヤクザは、中国人マフィアに比べて特に残虐すぎたり間抜けだったりすることもなく、適度にカッコよく描かれている。まあ日本人観客に配慮したんだろうな。
 では、監督や脚本家など主要なスタッフにとって、「在日中国人の犯罪者たち」(という幻想)への心理的距離はどの程度なんだろうか。という疑問を鑑賞しながら抱いていたのであった。
 無責任に恐れや憧憬を投射できる、「我々とは違う存在」と感じているのは確かだろうけど、それなりに親近感も抱いているはずで、日本人全般がヤクザに対して抱くような「内なる他者」という距離感なのか、それとも中国国内じゃなくて日本にいるからもう少し距離があるのか、とか。

 そんなことをぼんやり考えながら観ていたら、最後に出たテロップで「日本への不法入国は90年代に急増したが、経済成長に伴い2000年代には減少した」というようなことが述べられていて、非常に腑に落ちたのであった。
 つまり現在の中国人(映画公開は2009年)、少なくとも経済成長の恩恵を受けている中国人にとっては、「日本に不法入国せざるを得ないほど貧しい中国」はもはや「過去」なのである。こんなにも早く「過去」化したのは、もちろん彼らがそれを「過去」だということにしたがっているからだ。

 ノスタルジーというのは、過去の私もしくは我々を、現在の自己とはもはや違う存在だと見做すから生じる心情である。自身が体験していない時代(例えば昭和30年代など)にノスタルジーを抱き得ることからも解るように、ノスタルジーとは美化されたイメージであり、当時の実際の状況がどんなものだったかは関係ない。その点でエキゾティシズムに似ている。また、過去の「野蛮な時代」はエキゾティシズムの対象の一つである。
『新宿インシデント』は、「豊な現在の中国人」がたかだか十数年前を「貧しくて、良くも悪くもがむしゃらだった昔の中国」というノスタルジーとエキゾティシズムの対象にしたがっている作品なのである。いや、推測ですが。で、その「過去の中国」「貧しかったあの頃」の代表としてジャッキー・チェンを選んだとか、そういうわけではないだろうと思う。

 ところで、台南系組織のボスが仕切る店の名前がFORMOSAだった。つまらんことを知ってる奴がおるなあ。

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