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パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉

 とりあえず、オーランド・ブルームの生気のなさと(いや、彼には頑張ってもらいたいと思っているのだが)キーラ・ナイトレイの小娘傍若無人にはいい加減食傷していたので、彼らが一掃されたのは結構なことである。
 練られていない設定を詰め込んだ挙句、消化不良を起こしているのは相変わらずだが、前シリーズの2作目3作目ほどはひどくない。オーランド・ブルームとジョニー・デップのどっちに焦点を当てるべきか……という座りの悪さがない分、1作目よりはすっきりまとまっているし。新鮮味に欠けるのは致し方なし。

 しかしそれにしても、海賊映画と銘打ってるのに、海上シーンが全体の1割程度とは如何なものか。前シリーズ第1作の最大の魅力は、帆船の機構を細部まで描写していることだった。だぶついてメタボ状態になっていった続編でも、その魅力はどうにか維持されてたんだけどなー。

 ディズニー映画なのに、人がばっさばっさ殺されます。ディズニー映画なので、流血はほとんどありません。死体をじっくり映したりもしません。ディズニー映画なのに、猛火で焼き殺される人までいます。ディズニー映画なので、悶え苦しむ姿は映しません……ネタでそう演出してるんじゃないんだな、これが。

 おっぱいを頑なに映さないのは御愛嬌(別に見たいわけではなく、絶対に映すまいカメラワークを駆使し、どうしても角度的に映ってしまう場合は泡やら髪の毛やらで隠しているので、『オースティン・パワーズ』を思い出さずにはいられないのである)。

「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールズ・エンド」感想

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キックアス

 アメリカでは反知性主義によって、高校までは文化や学問といったものは蔑まれる。それらを愛好する子供は、そうでない連中にナードとかギークとか呼ばれてひたすら虐げられる運命だ。
 アメリカ映画に於ける高校の九割方は、そういうナードたちの視点から描いた地獄かそれに近い場所である。非ナードの生徒は、性格のねじ曲がったクズか頭空っぽ、もしくはギャング紛いとして描かれる。
 そらそうだよな、映画制作者になるようなアメリカ人は、高校時代はナードまたは自らのナード性を必死で押し隠してきた奴に決まってる(役者の過半もそうだろう)。で、そんな彼らの怨念が凝縮された作品を、現役ナード高校生や元ナード高校生たちが観て溜飲を下げる、と。ナード要素が一切ない真正非ナードは、高校時代もそれ以降も映画なんて観ないから、自分たちがどんな扱いを受けてるのか知らないんだろう、きっと。

 本作の主人公は、そんな生殺しの地獄に似た場所を生きる少年である。『スパイダーマン』1作目を観た時は、ピーター・パーカーのナード振りは相当だと思ったものだが、本作はその数倍ひどい(少なくともピーター・パーカーには最初からMJがいたしね。キルスティン・ダンストだとはいえ)。
 こういう「リアルさ」は、この十年ばかりの傾向だろうな。たぶん現実にはもっとひどい奴はいくらでもいるんだろうけど。

 しかしこの主人公、キモさがリアルすぎて、引いてしまった。
 同じ「若い男のキモさ」でも、「個性」で済む程度のトビー・マグワイアや、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のこの世のものとは思えないほどのポール・ダノ(『リトル・ミス・サンシャイン』では、「個性」で済む程度だった)とは違って、ああいたいた身近にこういう奴……的リアルさで、観ていて非常にいたたまれない思いになってしまったのであった(キモいオタク君に美人で優しい彼女ができるという一見都合の良い展開も、実は彼女がダメ男好きだから、という理由があるので、将来の見通しはあんまり明るくもないのであった。ヤク中の更生施設でボランティアをしてるという設定も、ダメ男好きに説得力を与えている)。

 それよりはオタク全開のニコラス・ケイジの怪演を、もっと観たかったなあ。あと、ヒットガールは大層愛らしいが(私服も可愛いが、制服姿は微妙だった)、平たく言えばあれは復讐に燃えるイカレ親父に洗脳され、学校にも行かせてもらえずに殺人マシンに仕立て上げられた可哀想な女の子なんだよな。
 作中でも、抑え気味とはいえその方向からの描写もあって、時々かなり痛々しい。この痛々しささえ消費されることを前提としているのだろうかとか考えてしまって、少なくとも私は、だって娯楽映画じゃん、と割り切って楽しむことができなかったのであった。

「ナード」について御参考までに……
 ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』感想

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マイ・フェア・レディ

 先日、バーナード・ショーの『ピグマリオン』を読んだので、十数年ぶりに映画版を再鑑賞したくなったのであった。ネタばれ注意とか言う必要もないと思うけど言っておきます。

『ティファニーで朝食を』もそうだが、結末でヒロインが男の許を去る原作(『ピグマリオン』では完全に縁が切れるわけではないが)が、映画では「そして二人は結婚し、末永く幸せになりました」にされている。
『ピグマリオン』では、バーナード・ショーは戯曲の結末でイライザにヒギンズ教授の許を去らせる結末では飽き足らずに、「後編」と称する文章で、二人は絶対に結婚しないのだということをわざわざ宣言している。

 それほどまでに自分の作品が陳腐なロマンスに貶められることを恐れたショーの意思も、死後にはものの見事に踏みにじられるわけですが。
 まあミュージカルだし、ニューシネマ以前のハリウッド映画だし、オードリー・ヘップバーンだしね。彼女に「自立した女」は演じられないし、貧民街にゴミ一つ落ちていない世界にリアリズムやシニシズムを持ち込んでも無意味というものでしょう。そこまで造り込んだ「おとぎ話」は、現在じゃもはや成立不可能だということを考えれば、むしろ貴重というものだ。
 映画の「ロマンティックな」展開や雰囲気と、原作からそのまま引っ張ってきてるシニカルな台詞が多少噛み合ってなかったりするけどな。

 しかしオードリー・ヘップバーンは細い上に手足と首が長いなあ。両手を脇に下ろした時の、ウエストから指先までの距離とか信じられないんですけど。永野護キャラか。
 あと、フレディ役がジェレミー・ブレッドだと知ってびっくらこいた。あのシャーロック・ホームズ役者である。若い頃はあんな面白味のない美男だったとは。

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