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ヤギと男と男と壁と

 原題はthe men who stare at goats(ヤギを睨む男たち)。一応ネタバレ注意。
 
 ジョージ・クルーニーの容姿にはまったく魅力を感じないので、二枚目より三枚目を演じてくれたほうがいいのである。コーエン兄弟の「バカ三部作」(『オー・ブラザー』『ディボース・ショウ』『バーン・アフター・リーディング』、「ジョージ・クルーニーがバカを演じた三作」のこと。クルーニーによればコーエン兄弟自身の発言)から明らかなように、「自分が実際よりもかっこいいと信じてるアホ」の役が一番はまってるよな。
 
 つまり、ジョージ・クルーニーは顔が濃すぎて、演技の巧拙以前に何をやってもジョージ・クルーニーにしか見えないのである(まあ下手だとまでは思ってなかったが)。
 今作の過去パートでは、「長髪+口髭のジョージ・クルーニー」が登場する。あの濃いい顔に長髪+口髭とは、想像するだに胸焼けしそうだが、実際には現在パートの短髪無鬚クルーニーに比べれば相当あっさりしていたのであった。
 
 この過去パートは作中時間にして二十年ほども前であり、ジョージ・クルーニーは若者にして、かつ「ダークサイド」を知る前の無垢な状態であったという設定である。過去パートの「無垢な若者」と現在パートの「暑苦しいイカレ親父」が、「濃さ」にまで変化をつけて、きちんと演じ分けられていたのだ。もちろん、メイクでも濃淡をつけてたんだろうけど。
 というわけで、だいぶ感心しました。あと、確かに「ヤギをも睨み殺す眼力」の持ち主は、ハリウッド広しといえど、そう何人もいそうにない。
 
 ユアン・マクレガーとジェフ・ブリッジズも、バカ(と言って悪ければ、「あまり物を考えるのが得意でない」)がはまり役である。マクレガーについては、『スター・ウォーズ』のエピソード2および3は例外で、かなり賢そうに見えた。それだけ、ほかのキャラクターがアホばっかりということなのであろう。
 そのジェダイの騎士ことマクレガーが、かつて米軍の「超能力部隊」でジェダイの騎士になることを目指した男たちを取材する、というお話なのでした。なお、この超能力部隊は実在したそうな。
 ユアン“オビ・ワン”マクレガーが、「僕もジェダイになれるだろうか」とか(で、ジェフ・ブリッジズが「ああ、なれるとも」)、完全に悪ノリである。

 ソ連に対抗して作られた超能力部隊を率いるのが、ベトナム戦争で啓示を受け、愛と平和に目覚めたジェフ・ブリッジズであった。ジェフ・ブリッジズは、「ヒッピーの成れの果て」役も巧いかもしれない。

 フラワー・ピープルの「愛と平和」という目的自体は大変結構なことである。しかしそこに至るために彼らが用いた手段や理論(と彼らが呼ぶもの)の阿呆さ加減と、何よりあの独善性と押し付けがましさが嫌。体験しなくて済んでよかった、とつくづく思う(73年生まれだが、田舎育ちだったので、まったく影響を被らなかったのであった)。
 しかし、じゃあアンチ70年代ならなんでもいいか、というと無論そんなことはない。本作でも、ヒッピー文化の「愛と平和」が滅び、その「ダークサイド」だけが生き残る過程が描かれている。すなわち、LSDをはじめとするドラッグと、事態を悪化させることはできても改善はできないマインドコントロール技術だ。

 そのダークサイド(『スターウォーズ』から引っ張ってきた言葉なのだから、字幕は「暗黒面」にすべきであった)を体現するのがケヴィン・スペイシー。暗黒のマインドコントロール技術は90年代をどうにか生き伸び、イラク戦争によって見事に返り咲く。しかも、もはや国家には属さない委託会社というところが当世風である。

 自らの暗黒面に対し、フラワー・ピープルは結局無力だったのか? その問いへの答えとして、結末で彼ら(フラワー・ピープルの成れの果て)はLSDによって非常に限定的にとはいえ、イラクに愛と平和をもたらすのである。いや、ほんとに限定的でしかないんだけどね。

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