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夕陽のギャングたち

 セルジオ・レオーネの、それまでの西部劇と最後の作品『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』との間に位置する作品。
 ヨーロッパでもアメリカでも革命を礼賛する映画ばかりが作られていた1970年代初頭に革命の暴力性を批判した本作は、批評家やほかの映画監督たちから酷評された上に、単純な娯楽作を求めていた従来のファンからも受け入れられなかったそうである。

 いや、テーマもその料理の仕方も非常にいいと思うんだけどね。でもやっぱり『続・夕陽のガンマン』のほうが好き。シリアスに問題提起してる作品と「単純な娯楽作」のどっちが上か、とかいう話ではなく、たぶん本作は間の取り方が『続・夕陽のガンマン』のように巧くないのと、あと、ロッド・スタイガーがどうもメキシコの山賊兼農民に見えないのが問題なんだろうなあ。『続・夕陽のガンマン』のイーライ・ウォラックのほうが、ずっとメキシコの田舎の悪党っぽかった。
 ウォラックが「本当に野卑で頭悪そう」に見えるのに対し、スタイガーは「本当は野卑でも頭悪くもない奴が、野卑で頭悪い奴を演じてる」ようにしか見えないんだよな。演技の巧拙とはまた別の次元で。いや、実際に彼らがどういう人なのかは知らないんだけどさ。

 実はロッド・スタイガーの役は、イーライ・ウォラックを想定した当て書きだったんだそうな。ハリウッドがもっと有名な役者を要求したからウォラックは降板されてしまったそうだが、当初の予定どおりだったら、『続・夕陽のガンマン』と同じくらい好きになってたかもしれん。

 ジェームズ・コバーンは、同じ「寡黙なヒーロー」でも、クリント・イーストウッドよりもよかった。ウエスタンの世界でバイクに乗ってダイナマイトを駆使する元IRAという、場違いなキャラクターの場違いなおもしろさを活かしきって演じている。
 音楽の使い方も、同じエンニオ・モリコーネでも本作のほうがよりおもしろくなってると思う。

『続・夕陽のガンマン』感想

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ザ・ロード

 んー…………

 文明も環境も壊滅して、わずかに生き残った人々は飢えに苦しみ、カニバリズムが横行している、というありがちな設定にもかかわらず、ありがちな作り(アクションもの)になってないのは大変宜しいことだと思います。
 この作品に於けるアポカリプスが抽象的なものだということは、理解しています。だから具体的に何が起きたのか、敢えて空白のままにしておくのも良いことだと思います(世界は灰に覆われているが深刻な放射能汚染がある様子はなく、小規模だが地震がしばしば起きていることから、核戦争とかではなく天変地異系だということは示唆されている)。

 だけど、食糧生産が完全に停止し、野生の動植物もほとんど消滅してしまった世界で、人類が十年も生き延びられるとは、どうしても思えん。

 短期間で人口が激減したから生き残った人々は備蓄だけでしばらく食いつなげました、ということはあり得るにしても、数年が限界だろ。アポカリプスを空白にするのはよくても、その後人類がどうやって生き伸びたかを空白にするのは、どうしても目を瞑れない。
 目を瞑れない最大の理由は、登場人物たちの栄養状態があまりに良すぎるから、なのであった。

 もちろんリアルにすればいいというものではないから、もっと役者たちを痩せさせろ、とは言わん(子役に対してその要求は酷だし)。でも髪や皮膚や歯の状態が良すぎるんだよ。それはメイクで解決できる問題だ。まあヴィゴ・モーテンセンは隙っ歯だし、ガイ・ピアースもあんまり歯並びよくなかったけどね(後者も自前なのか?)。
 汚れ方も中途半端だ。ヴィゴ・モーテンセンなんて、アラゴルンやアラトリステの時のほうが汚れてたじゃん。

 もちろんリアルにすればいいというものではないが、あれじゃ大して過酷な状況に見えないのである。従来のSFアクションものならその辺いい加減でも許されかもしらんが(実は私は許したくないが)、そうじゃないものを作ろうとしてるんだからさあ……
 メインキャストの演技は悪くなかったと思うが、深刻そうな演技をしてるのに状況がそう見えない、という致命的な欠陥によって、どうにも乗れなかったのであった。
唯一それらしく「悲惨」だったのは、食糧として地下室に「貯蔵」されてる皆さんだけだったなー。

「悲惨な設定なのに大してそう見えない」のが制作者の杜撰さ(そこまで気が回らなかった)によるものなのか、意図したもの (悲惨さを抑えて「父と子の絆」を強調する、とか?) なのかは知らんが、いずれにせよ、少なくとも私にとってはこの欠陥のせいで、制作側が最も強調したかったであろう「親子の絆」が上滑りしてしまったのであった。

 どうでもいいがヴィゴ・モーテンセン、脱ぎ癖付いたんか。

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地獄の黙示録

 先日、コンラッドの『闇の奥』を読んだのである。そういや、これ『地獄の黙示録』なんだよな、以前観てからもう十年くらい経ってるし再鑑賞してもいいかな、と思った次第である。
 で、ツ○ヤに行ったら、「特別完全版」しかなかったのであった。

 私は、好きな作品であっても、こういった「完全版」の類(「特別じゃない完全版」ってあるのか?)と劇場公開版をわざわざ見比べるほどの熱心な映画ファンではない。両方観ている作品は数えるほどで、それもたいがいは、今回のように偶々再鑑賞する気になってレンタル店に行くと「完全版」しか置いてない、というケースである。
「未公開映像」と聞いても、それがどれだけ好きな作品であっても、別に興味も湧かんしな。今まで観た「完全版」に追加されてる「未公開映像」も、「なくてもいい」か「ないほうがいい」のんばっかしだ。
 配給会社の勝手な編集で作品がズタボロに、という例も偶にはあるんだろうけど、やっぱ「他人の意見」はそれなりに尊重すべきだよね、と思うのであった。

 今回も、例外ではなく。ただでさえ長いのんに53分の追加で、202分だ。三日掛けて観たよ。「ないほうがいい」とは言わんが「なくてもいい」ってーか、もはや映画じゃなくて、大長編小説の映像版という例のない形態(TVドラマシリーズともまた違う)になってもうてるがな。

 さて、『地獄の黙示録』はベトナムだが、『闇の奥』はコンゴである。要するに「土人のいるジャングル」ならどこでもいいんじゃん、という話だ。
 マーロン・ブランドは禿頭と厚い脂肪がぬめぬめとした異様な質感で、異教の偶像のような迫力があると言えんこともないが、コッポラによる「痩せろ、台詞を覚えろ」という、当然至極の指示にさえ従えなかった、という事実を踏まえると、信楽の狸にしか見えないのであった。いや、これも「異教の偶像」と言えないこともないですね。
 なんかさー、どうせ当時の欧米人で信楽の狸を知ってる奴なんかほとんどいなかったんだしさー、ほんとに狸を置いて台詞はテープで流しときゃよかったんだ。全然動かないんだし。『闇の奥』でカーツ/クルツが痩せてる、という描写を読んだ時は、思わず笑ったよ。

 ベトナム戦争でアメリカ人は、西洋人が19世紀末に達していた境地に達することができた、と言えなくもないから(でも結局、何も教訓を学ばなかったから現在のイラク・アフガンがあるわけだが)、ベトナムで『闇の奥』をやる必要はなかった、とまでは言わん。でもキルゴア大佐やプレイメイトの前半と、カーツ大佐の後半は明らかに断絶してるよな。
 で、私は前半だけでいいや、と思うのであった。

 それにしても、「ワルキューレの騎行」を聴くとヘリコプターの編隊が、「ツァラストラかく語りき」を聴くと骨を手にした猿が思い浮かんじゃうってのも、困ったものだね。

『トロピック・サンダー』感想

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