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英国王のスピーチ

 あんまり映画向きじゃない題材を、お涙頂戴にもせずに巧いことエンターティメントに仕上げている。

『創られた伝統』(紀伊国屋書店 1992年刊)という論集があって、その中の「コンテクスト、パフォーマンス、儀礼の意味――英国君主制と「伝統の創出」、1820-1977年」(デイヴィッド・キャナダイン)によれば、英王室が壮麗な儀式を行うようになったのは19世紀末から20世紀初めにかけてだそうである。
それ以前に壮麗な儀式が必要とされていなかった理由はいろいろあるが、一つには英国君主は実際に絶大な権力を持っていたので、虚仮威しのパフォーマンスなど必要としていなかったこと(ヴィクトリア女王の戴冠式は、リハーサルさえ行われなかったそうな)、もう一つはメディアが発達していなかったので、せっかく大掛かりな儀式をやっても見てくれる人があまりいなかった、という二点が大きかったようだ。

そういうわけで、この映画はジョージ5世(在位1910‐36)の治世末期から始まる。彼は国家と国民を結び付けるパフォーマーとしての王を演じ続けてきたのだが、もうじき王位を継ぐことになるはずの長男はシンプソン夫人にうつつをぬかし、次男すなわち主人公で後のジョージ6世は吃音で人前では碌に喋れないのであった。
 主人公がコリン・ファース、その妻がヘレナ・ボナム・カーター、お抱え治療士となる売れない役者がジェフリー・ラッシュ、父ジョージ5世がマイケル・ガンボン、兄エドワード8世がガイ・ピアース。

 私は世間と美的感覚が多少ずれてるらしく、特に「美形」とされる男性については「……そうか?」と思ってしまうことが多いのだが(「美女」に関してのほうが、ずれは小さいようである)、コリン・ファースもその一人であった(今の彼を美形と呼ぶ人はいないだろうから過去形)。
 そもそも美形かどうかという以前に、コリン・ファースには全然興味を抱けなかったのだが、今回の彼はいいですね。「童顔のおっさん」という、普通なら扱いに困る容姿を巧く活かした役どころだ。

 ヘレナ・ボナム・カーターは、ものすごく久しぶりに色モノでない役だったなあ。『ファイト・クラブ』以来か? あれも色モノに含めてしまうと、さらに『フランケンシュタイン』より前まで遡らないといけなくなる……
 一応、美人に分類される容姿だったことと(何しろここ十数年は役柄のみらならず各種授賞式や記者会見での格好も色モノだったから)、演技も巧かったんだということを久しぶりに確認させられたのでした。

 ダメ兄王を演じたガイ・ピアースは巧かったけど魅力はない……若い頃(『メメント』のあたりまで)は確かに華のある役者だったのになあ。若さとともに華がなくなっただけじゃなくて、容姿もどんどんサルっぽく貧相に……
 初めて観た時(『シャイン』)すでに中年だったので若かった頃の想像がつかないジェフリー・ラッシュは、今回は彼にしては奇矯さの少ない役だと言えるが、鬱屈のままで終わる鬱屈の表現とか、やはり彼ならでは。

 クライマックスの「戦争スピーチ」で流れるのは、ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章である。明らかに曲に合わせて演技をしており、しかも非常にネットリした演奏だ。あざといよなあ、お涙頂戴とはまた違うんだけど。いや、好きな曲なんだけどね。好きだから余計あざとく感じるっていうか。

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ウルフマン

 アンソニー・ホプキンスを初めて観たのは『羊たちの沈黙』だったんだが、そう言えばこれも『十二人の怒れる男たち』と同じく、大学の講義で途中まで観せられたんだったよな。確か同じ講義だったような気がするが……一体なんの科目だったんだ?(そしてそう言えば、『羊たちの沈黙』もその後観直してはいないんだよな。原作は読んだが)
 それ以降、アンソニー・ホプキンスは何をやってもレクター博士にしか見えなくなってしまったのであった。『ハンニバル』の一つ前の『タイタス』がそのまんまなのはまあいいとして、『永遠の愛に生きて』(ひどい邦題だが、『ナルニア』の原作者の話だ)までレクター博士に見えるというのは困りものですよ。

 さて、久しぶりのアンソニー・ホプキンスは、老いとともにいろいろ余計なもの(レクター博士で言うなら、『ハンニバル』で付け加えられたバックグラウンド的なもの)を捨て去って真に純粋な欲望だけを残した、重厚かつ軽妙とでも形容すべき完成型となっていたのであった。一言で言うと、因業親父。
 ベニシオ・デル・トロという濃い役者が「帰ってきた放蕩息子」という役柄なので、確かに父親役にはアンソニー・ホプキンスくらいでないと釣り合いは取れないわな。父親がアンソニー・ホプキンスじゃあ、どんな役者を息子役に持ってきても勝負は見えてるだろうという気もするが。
 ところで、ビジュアル的にはあの二人が父子というのは無理があるだろうと思ったら、母親役(回想シーンのみ)には、ちゃんと眉の太いラテン系を持って来てました。こういう些細な部分にも配慮があるのはいいですね。

 オリジナル版は未見ですが、19世紀末の英国という設定ならではの要素がいろいろ詰め込まれていて、楽しゅうございました。捜査に当たる警部(ヒューゴ・ウィーヴィング)が斬り裂きジャック事件を担当してたとか(つまり捜査に失敗してるとか)。ヒロインのエミリー・ブラントも古風な容貌の美人で、良い感じでした。

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インソムニア

 クリストファー・ノーラン監督作は『メメント』『プレステージ』『バットマン』新シリーズと観てるんだが、この『インソムニア』はほかの作品に比べるとこの監督の個性が薄いような気がする。何をもって「クリストファー・ノーランらしさ」とするかは、めんどくさいから省略するが。

 ロスのベテラン刑事が、アラスカで起きた殺人事件解明に協力するため派遣されてくる。なぜアラスカかというと、ノルウェー映画のリメイクだから。折しもアラスカは白夜であり、彼は不眠症でへろへろの状態で捜査することになる。
 ベテラン刑事がアル・パチーノ、彼を尊敬する地元の刑事がヒラリー・スワンク、殺人犯がロビン・ウイリアムス。

 アラスカの町の寒々しい閉塞感や、ロール・スクリーンから透ける夜の太陽(遮光性ではなく、わざわざ透け透けの生地なのである)とかがアル・パチーノを苛んでく映像や演出は、下手ではないんだけどね。こういう「登場人物の頭をおかしくするために用意されたかのような環境」(いや、物語の都合的には実際そのとおりなんだが)を撮ることにかけてはコーエン兄弟の右に出る者はいないんだなあ、という認識を新たにさせられたのでした。
 咄嗟の判断ミスが悪いほうへ悪いほうへと転がっていく悪夢的状況も、コーエン兄弟だったら、こちらの臓腑を抉るような描写をしてくれるのになあ、とか。まあそもそも彼らだったら、プロットの段階からもっとえげつないもの用意するよね。

 アル・パチーノは巧いが、彼ならこれくらいならできて当然というレベル。もっとも彼の演技は良い時と悪い時の落差が激しいから、これは相当良いと言っていいレベルなんだが。でも、できる時はもっとできるよなあ。
 ヒラリー・スワンクは、今回は彼女の(唯一の)嵌まり役であるところの「師匠的存在の年配の男に認められようと頑張る女(色気一切なし)」ポジションなので、安定はしているが目新しさはなし。

 本作を鑑賞した理由は、ロビン・ウイリアムスが悪役をやってるからなのであった。期待に違わず、いつもの善人役から滲み出ている嘘臭さと押しつけがましさが、ヘタレ殺人犯のキモさに見事に転化されていて素晴らしかったです。いや、全然好感は持てないキャラではあったんだけど。
 次に悪役をやる時は、『レディ・キラーズ』(これもコーエン兄弟だが)のトム・ハンクスみたいに嬉々として演じてもらいたいものである

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