パラダイス・モーテル
エリック・マコーマック著 増田まもる・訳 1994/2011(1989)
The pridise motel
「枠物語」という文学の一形式があって、登場人物によって幾つもの物語が語られるのだがそれらの物語の中の登場人物もまた物語を語り……という入れ子構造で、『千夜一夜』がその典型。
一見複雑そうな構造だが、実際には互いに繋がりのない幾つもの説話を編纂するための方便に過ぎないので(編纂手段としては秀逸ではあるが)、ある話が別の話の伏線になってるとかそういうことはない。まあ古典の場合は。
現代の作家が枠物語をやるなら、もちろん物語同士に緊密な関係を持たして入り組んだ構造にしようとするだろう。この『パラダイス・モーテル』も、期待に違わず非常に入り組んだ構造だ。
一応ネタばれ注意。
まず一番外側の枠は、エズラ・スティーヴンソンの一人称で語られる。彼は、「パラダイス」という名の海辺のモーテルで我々に向かって物語を語る。それは彼が子供の頃、祖父からある物語を聞かされたことから始まる。
祖父はエズラが生まれるずっと前に失踪し、死を前にして帰宅したという充分に奇妙な経歴を持っているのだが、エズラをして後に語らせることになるのは祖父自身の物語ではなく、祖父がザカリー・マッケンジーという男から聞かされた物語だ。
かつて、ある島に住む若い医者が妻を殺し、その死体の一部を四人の子供たち(男の子と女の子が二人ずつ)にそれぞれ埋め込んだ。当然ながら子供たちは母親の一部によってひどい炎症を起こして苦しんだため、事件は発覚した――という次第を語った上で、ザカリーは自分がその子供たちの一人(長男)であることを明かし、証拠として腹部の縫合跡を見せた。
それはエズラにとって忘れ難い物語ではあったが、彼が成長するにつれ、「文字どおりに受け止めることはできない」ものとなっていった。時が過ぎ、自分の人生を振り返る年齢となったエズラは、恋人にこの物語を語り聞かせる。そして彼女の勧めで、マッケンジー家の四人の子供たちの探求を始める。
といっても自分で探求するのではなく、旧友のドナルド・クロマティに調査を依頼したのである。ところがクロマティからなんの連絡もないうちに、エズラは偶然、マッケンジー家の長男ザカリー以外のエイモス、レイチェル、エスターと思われる三人の人物の物語に、次から次へと遭遇することになる。そして最後に、クロマティがザカリーの物語を探し出してくる。
このように複雑な構造を取っているからには、各物語は互いに緊密に関係し合っていると予想される。ところが、実際には物語たちは古典的な枠物語の如く互いに関連が見出せないのである。「一番外側の語り手」エズラは行く先々で物語を聞かされることになり、その中には四人のマッケンジーの物語もあれば、彼らとはなんの関係もない物語もある。
しかし、「本筋」であるはずの四人のマッケンジーの物語にしたところで、名前を別のものに変えてしまえば、一番最初にエズラの祖父が語った「父親によって母親の死体を一部を埋め込まれた四人の子供たち」の物語とはまったく、なんの関連もないのである。
どの物語も、どこかで聞いたことがあるようなものばかりである。というか、どこかで聞いたことがあるような紋切り型を寄せ集めてさらに徹底して俗悪にしたような物語ばかりなのだ。そういうものが一つや二つだけならげんなりさせられるだけだが、数が集まると一種異様な様相を呈してくる。
ところで、イスラムの説話集である『千夜一夜』は、欧米ではゴシック小説流行の一環で受容されたのであった。だから西洋人による『千夜一夜』の翻訳はゴシック小説の味付けがしてあるし、欧米人によるその翻案物は多かれ少なかれゴシック的である。でも本来の『千夜一夜』には、別段ゴシック的ではない。
マコーマックが果たして意識しているのかは不明だが、この『パラダイス・モーテル』はオリエント的要素は皆無にもかかわらず、何重もの入れ子構造と互いに関連のない物語群、という点では本来の『千夜一夜』を踏襲しており、どの物語もこれでもかと言わんばかりに俗悪でゴテゴテしている点では欧米における『アラビアン・ナイト』翻案ものの伝統を踏襲しているように思える。
四人の子供たちの物語を祖父に語ったザカリー・マッケンジーが後に作家になっていたことが判明し、また彼が自分と弟妹たちが登場する小説を構想していたらしいことから、発端となった猟奇事件は彼の創作だったという可能性が出てくる。祖父が見たというザカリーの手術痕を彼の恋人であった女性が見ていないらしいという小さな矛盾や、エズラがマッケンジーたちの探求を開始した途端、彼らの物語が集まってきたのは果たして偶然なのかという謎を無視しさえすれば、合理的な解釈が成立する。
だがそこまで来た時、すべての物語は「合理的な解釈」など拒むかのように一挙に瓦解する。そして、「一番外側の語り手」たるエズラの存在すら消し去られてしまうのである。
いや実はこの時点でもまだ、《自己喪失者研究所》の患者マリアの物語と同じことが起こったのではないか、という解釈がまだ可能なのだが、それではあまりにも安易すぎて、プライドのある読者なら拒否することであろう。それもまた計算のうちなのかもしれないが。
物語はいずれも互いに関連が見出せない、と何度も述べたが、実は微妙に関連があるようでもある。たとえば、エズラが訪ねた《自己喪失者研究所》の女所長とザカリーの作品『独房』に登場する「市民に人格の交換を奨励する女市長」とか(この『独房』は(長編)小説の体裁を取ってはいるが、実際には「ゆるやかに結び付けられた短編の集まり」である)。
「一番外側の語り手」たるエズラは、消し去られるべくして消し去られたと言える。彼自身はまったく物語を持たない存在で、どうやって生計を立てているのかすら不明である。語るべき物語がすべて崩壊してしまえば、彼もまた消えるしかないのだ。
それはともかくとして、結末近く、エズラの恋人ヘレン(彼女も物語を持たない希薄な存在である)は「すると、わたしたちがどこにいるのかわかるのも、もうすぐなのね」という謎めいた発言をする。
このすぐ後に彼らはパラダイス・モーテルに行き、そこですべての物語は崩壊する。ヘレンはパラダイス・モーテルを出ていき、エズラは留まる。
パラダイスは楽園/天国/エデンの園であるが、そもそもの語源はペルシア語で「壁で囲まれた(庭)」なんだそうな。ペルシアでは緑豊かな土地というのは結構希少だが、そういう土地を王侯貴族が狩猟のために囲い込んだ場所を指す。
時代が下るにつれて、パラダイスとは壁に囲まれた広大な狩猟場ではなく、もっと小規模でよく整備された庭園となる。泉水を引き込み、草木を茂らせた「人工の自然」である。
このような「壁で囲まれた庭園」の文化はアジア・イスラムおよび西洋に受け継がれ、どちらにもいても楽園/天国のイメージとなる――ということを著者が知ってるのか、知ってるとしたらそれを踏まえてこのタイトルにしたのかは不明だが、本書において「パラダイス」という言葉が表象するのは、楽園/天国あるいはエデンの園というよりもむしろ、本来の「閉鎖空間に人の手で作り出され、コントロールされた自然」に近いように思えるのである。
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