パラダイス・モーテル

 エリック・マコーマック著 増田まもる・訳 1994/2011(1989)
The pridise motel

「枠物語」という文学の一形式があって、登場人物によって幾つもの物語が語られるのだがそれらの物語の中の登場人物もまた物語を語り……という入れ子構造で、『千夜一夜』がその典型。
 一見複雑そうな構造だが、実際には互いに繋がりのない幾つもの説話を編纂するための方便に過ぎないので(編纂手段としては秀逸ではあるが)、ある話が別の話の伏線になってるとかそういうことはない。まあ古典の場合は。
 
 現代の作家が枠物語をやるなら、もちろん物語同士に緊密な関係を持たして入り組んだ構造にしようとするだろう。この『パラダイス・モーテル』も、期待に違わず非常に入り組んだ構造だ。
 一応ネタばれ注意。

 まず一番外側の枠は、エズラ・スティーヴンソンの一人称で語られる。彼は、「パラダイス」という名の海辺のモーテルで我々に向かって物語を語る。それは彼が子供の頃、祖父からある物語を聞かされたことから始まる。
 祖父はエズラが生まれるずっと前に失踪し、死を前にして帰宅したという充分に奇妙な経歴を持っているのだが、エズラをして後に語らせることになるのは祖父自身の物語ではなく、祖父がザカリー・マッケンジーという男から聞かされた物語だ。

 かつて、ある島に住む若い医者が妻を殺し、その死体の一部を四人の子供たち(男の子と女の子が二人ずつ)にそれぞれ埋め込んだ。当然ながら子供たちは母親の一部によってひどい炎症を起こして苦しんだため、事件は発覚した――という次第を語った上で、ザカリーは自分がその子供たちの一人(長男)であることを明かし、証拠として腹部の縫合跡を見せた。

 それはエズラにとって忘れ難い物語ではあったが、彼が成長するにつれ、「文字どおりに受け止めることはできない」ものとなっていった。時が過ぎ、自分の人生を振り返る年齢となったエズラは、恋人にこの物語を語り聞かせる。そして彼女の勧めで、マッケンジー家の四人の子供たちの探求を始める。
 といっても自分で探求するのではなく、旧友のドナルド・クロマティに調査を依頼したのである。ところがクロマティからなんの連絡もないうちに、エズラは偶然、マッケンジー家の長男ザカリー以外のエイモス、レイチェル、エスターと思われる三人の人物の物語に、次から次へと遭遇することになる。そして最後に、クロマティがザカリーの物語を探し出してくる。

 このように複雑な構造を取っているからには、各物語は互いに緊密に関係し合っていると予想される。ところが、実際には物語たちは古典的な枠物語の如く互いに関連が見出せないのである。「一番外側の語り手」エズラは行く先々で物語を聞かされることになり、その中には四人のマッケンジーの物語もあれば、彼らとはなんの関係もない物語もある。
 しかし、「本筋」であるはずの四人のマッケンジーの物語にしたところで、名前を別のものに変えてしまえば、一番最初にエズラの祖父が語った「父親によって母親の死体を一部を埋め込まれた四人の子供たち」の物語とはまったく、なんの関連もないのである。

 どの物語も、どこかで聞いたことがあるようなものばかりである。というか、どこかで聞いたことがあるような紋切り型を寄せ集めてさらに徹底して俗悪にしたような物語ばかりなのだ。そういうものが一つや二つだけならげんなりさせられるだけだが、数が集まると一種異様な様相を呈してくる。

 ところで、イスラムの説話集である『千夜一夜』は、欧米ではゴシック小説流行の一環で受容されたのであった。だから西洋人による『千夜一夜』の翻訳はゴシック小説の味付けがしてあるし、欧米人によるその翻案物は多かれ少なかれゴシック的である。でも本来の『千夜一夜』には、別段ゴシック的ではない。
 マコーマックが果たして意識しているのかは不明だが、この『パラダイス・モーテル』はオリエント的要素は皆無にもかかわらず、何重もの入れ子構造と互いに関連のない物語群、という点では本来の『千夜一夜』を踏襲しており、どの物語もこれでもかと言わんばかりに俗悪でゴテゴテしている点では欧米における『アラビアン・ナイト』翻案ものの伝統を踏襲しているように思える。

 四人の子供たちの物語を祖父に語ったザカリー・マッケンジーが後に作家になっていたことが判明し、また彼が自分と弟妹たちが登場する小説を構想していたらしいことから、発端となった猟奇事件は彼の創作だったという可能性が出てくる。祖父が見たというザカリーの手術痕を彼の恋人であった女性が見ていないらしいという小さな矛盾や、エズラがマッケンジーたちの探求を開始した途端、彼らの物語が集まってきたのは果たして偶然なのかという謎を無視しさえすれば、合理的な解釈が成立する。
 だがそこまで来た時、すべての物語は「合理的な解釈」など拒むかのように一挙に瓦解する。そして、「一番外側の語り手」たるエズラの存在すら消し去られてしまうのである。
 いや実はこの時点でもまだ、《自己喪失者研究所》の患者マリアの物語と同じことが起こったのではないか、という解釈がまだ可能なのだが、それではあまりにも安易すぎて、プライドのある読者なら拒否することであろう。それもまた計算のうちなのかもしれないが。

 物語はいずれも互いに関連が見出せない、と何度も述べたが、実は微妙に関連があるようでもある。たとえば、エズラが訪ねた《自己喪失者研究所》の女所長とザカリーの作品『独房』に登場する「市民に人格の交換を奨励する女市長」とか(この『独房』は(長編)小説の体裁を取ってはいるが、実際には「ゆるやかに結び付けられた短編の集まり」である)。

「一番外側の語り手」たるエズラは、消し去られるべくして消し去られたと言える。彼自身はまったく物語を持たない存在で、どうやって生計を立てているのかすら不明である。語るべき物語がすべて崩壊してしまえば、彼もまた消えるしかないのだ。
 それはともかくとして、結末近く、エズラの恋人ヘレン(彼女も物語を持たない希薄な存在である)は「すると、わたしたちがどこにいるのかわかるのも、もうすぐなのね」という謎めいた発言をする。
 このすぐ後に彼らはパラダイス・モーテルに行き、そこですべての物語は崩壊する。ヘレンはパラダイス・モーテルを出ていき、エズラは留まる。

 パラダイスは楽園/天国/エデンの園であるが、そもそもの語源はペルシア語で「壁で囲まれた(庭)」なんだそうな。ペルシアでは緑豊かな土地というのは結構希少だが、そういう土地を王侯貴族が狩猟のために囲い込んだ場所を指す。
 時代が下るにつれて、パラダイスとは壁に囲まれた広大な狩猟場ではなく、もっと小規模でよく整備された庭園となる。泉水を引き込み、草木を茂らせた「人工の自然」である。

 このような「壁で囲まれた庭園」の文化はアジア・イスラムおよび西洋に受け継がれ、どちらにもいても楽園/天国のイメージとなる――ということを著者が知ってるのか、知ってるとしたらそれを踏まえてこのタイトルにしたのかは不明だが、本書において「パラダイス」という言葉が表象するのは、楽園/天国あるいはエデンの園というよりもむしろ、本来の「閉鎖空間に人の手で作り出され、コントロールされた自然」に近いように思えるのである。

 マコーマック『ミステリウム』感想

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鬼が来た

 原題(中国語タイトル)は「鬼子来了」。
 中国語で「鬼」は「幽霊」くらいの意味で、ポジティヴな意味も持つ日本語と違ってネガティヴな意味しかないそうだが、英語タイトルだと「鬼」はdevilになっていた。日本語での「鬼」の意味も踏まえて間を取ったという感じだな。

 一応ネタばれ注意。

 日中戦争末期。日本軍占領下の海辺の小村に住むマーの許に、深夜、謎の男が麻袋に入った日本兵と通訳を運んでくる。彼らを大晦日(数日後)まで匿い、尋問しておけ、従わなければ殺す、と脅し、男は来た時と同じように忽然と姿を消す。
 殺す、と脅されたのはマー一人だが、責任を一人で負いたくない彼は、「村人全員を殺すと言った」ということにして皆の協力を求める。かくして、麻袋の二人は村の秘密となる。

 長引く戦争と日本軍による食糧徴発によって、村は非常に貧しい。村のすぐ近くには日本軍のトーチカがあって小さな部隊が駐屯しており、村人は日常的にその横暴にさらされている。だが村に戦火が及んだことはなく、また駐屯部隊の隊長の温厚な性格(村の巡視のたびに、子供たちに飴を配るのが習慣である)もあってか、直接間接に人死が出るような目には一度も遭っていない。
 そういうわけで、村人たちにとって死の危険は想像上のものでしかない。日本兵が中国人の男を殺し女を犯すということは知っているが、それはどこか遠くの土地の話でしかなく、そのように漠然とした情報だけで目の前にいる日本兵を憎むようなメンタリティを彼らは持ち合わせていない。中国人通訳を「敵の協力者」と蔑む発想もない(そもそも、通訳という職業があることすら知らなかったのである)。
 獣のように(日本語で)吼え猛る日本兵(香川照之)の狂態に辟易しつつも、マーは恋人のユィエルと共に彼らの世話をする。村人たちもなんだかんだと言いながら、食料を分けてくれる。

 年が明けても、なぜか誰も麻袋の二人を引き取りに来ない。困った困ったと思いながら、彼らは半年も世話をし続ける。二人の存在が日本軍に知られたら、「想像を絶するほどひどい目に遭わされるだろう」と怯えているが、まさに想像上でしかないのだ。
 それでも、ひどい目に遭うことは確実なので、とうとう二人を殺してしまうことにする。善良な普通の人々(いや、普通と言うには少々間抜けすぎるが)というのは、結構ひどいことを考え付くものなのである。
 しかし善良な彼らにとって、「殺す」というのは「殺される」と同様、想像上のことに過ぎないので、いざ実行するとなると誰もが尻込みしてしまう。そこで町へ刺客を雇いに行く。
 幸か不幸か殺害は失敗し、その間に香川照之は村人たちの優しさに心を解きほぐされる。そして彼らの親切に報いようとする――のだが、まあハッピーエンドで終わるはずもなく、行く手には惨劇が用意されているのであった。

 マーをはじめ村人たちは、幾度も日本兵たちについて「同じ人間だ」と述べる。そこには「だから、想像を絶するようなひどいことはしないだろう」という期待が込められているのだが、その期待は最も無惨なかたちで裏切られる。
 しかし、「だから日本人は人間ではないのだ」というのではなく、人間とは人間の想像を絶する蛮行を為し得るということなのである。そのことは結末のマー自身の変貌によっても示されている。

 というようなことはさておき、大破局に至るまでのマーたちの村の平穏は、あまりに牧歌的で非現実的なほどである。それは、この村が現実とは薄い膜で隔てられた、ある種の異界だからにほかならない。
 現実とは薄い膜を一枚隔てているだけなので、戦争の影響は確実に村にも及んでいる。それはトーチカの日本軍による食糧徴発であり、さまざまな横暴である。しかしそれはあくまでも、薄いが強靭な膜によって隔てられたものだ。

 そこへ、麻袋に入った日本兵(と通訳)という異物が放り込まれることによって、平穏は大いに掻き乱される。二人が村に留まる期間が長くなれば長くなるほど、膜に掛けられる現実の「圧力」は高まっていくのだが、村人たちはそれを察知することができない。麻袋の二人も村に留まるうちに平和ボケしてしまい、現実の過酷さを忘れてしまう。そうして、純粋に感謝の気持ちから、膜を破ることを提案し、村人たちもそれに乗ってしまうのだ。
 襲い掛かる現実に、村が業火とともに崩壊した後、一人残ったマーの前には、荒涼とした現実がどこまでも広がっている。そして、彼が死んだ後にも現実は続いていくのである。

 ところで、その「現実」の中で、米軍(絵に描いたような米軍で、ガムをくちゃくちゃ噛んでいる)の威を借る国民党将校の偽善ぶりが風刺されている。風刺の対象が国民党だから検閲を通ったというのが、たいへんわかりやすいですね。

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大いなる幻影

 1937年、ジャン・ルノワール監督作品。ジャン・ギャバンが若いなあ。

『第十七捕虜収容所』や『大脱走』といった「捕虜収容所もの」の要素の多くが、すでにしてかなり出揃っている。敵(看守たち)との馴れ合いもその一つだが、実際の状況がどうだったのかとはまた別問題として、フィクションでそれ(敵との馴れ合い)が成り立つのは、主人公側(すなわち作り手側)が敵すなわちドイツにそれなりの親近感を抱いているからで、これが違う文化圏の人間(日本人とかアラブ人とか)が相手だったら、なかなかそうはいかんわな。実際の状況がどうなのかは別問題として。

 以下ネタばれ注意。

 ド・ボアルデュー大尉の死がクライマックスと言えるので、その後のジャン・ギャバンたちの逃避行のパートはもっと短く、モンタージュ形式とかでよかったと思う。ジャン・ギャバンとドイツの若後家のロマンスとか完全に蛇足だし。

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オール・ザット・ジャズ

『キャバレー』のボブ・フォッシー監督作品。一応ネタばれ注意。

 前半はいわゆる「ブロードウェイの内幕もの」かつ「才能はあるが破綻した生活を送る男」の話が続き、いささか退屈した。後半は主人公が心臓発作を起こし、否応なしに死と向き合わざるを得なくなる、とまあこれもいくらでもある展開なんだが、ロイ・シャイダーの演技と、彼の空想とも幻覚ともつかないダンスシーンが素晴らしい。前半がもっと切り詰められてたらと思うよ。

 退屈していた前半、何を見ていたかというと、おねえちゃんたちの化粧がみんなキャリー・フィッシャー/レイア姫みたいだなあとかそういうところを(ジェシカ・ラングは目が切れ長なせいか、違う化粧だったが)。同じ時代の作品だもんな。
  70年代末の作品はあんまり観たことがなかったので(それ以前のは結構観てるんだが)、余計にそういう点が目につくんだろうな。映画に反映される撮影時の流行は、技法や音楽とかだけじゃなく、俳優のメイクや髪型にも如実に反映されます。現代劇だろうとSF・ファンタジーだろうと歴史ものだろうと。

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英国王のスピーチ

 あんまり映画向きじゃない題材を、お涙頂戴にもせずに巧いことエンターティメントに仕上げている。

『創られた伝統』(紀伊国屋書店 1992年刊)という論集があって、その中の「コンテクスト、パフォーマンス、儀礼の意味――英国君主制と「伝統の創出」、1820-1977年」(デイヴィッド・キャナダイン)によれば、英王室が壮麗な儀式を行うようになったのは19世紀末から20世紀初めにかけてだそうである。
それ以前に壮麗な儀式が必要とされていなかった理由はいろいろあるが、一つには英国君主は実際に絶大な権力を持っていたので、虚仮威しのパフォーマンスなど必要としていなかったこと(ヴィクトリア女王の戴冠式は、リハーサルさえ行われなかったそうな)、もう一つはメディアが発達していなかったので、せっかく大掛かりな儀式をやっても見てくれる人があまりいなかった、という二点が大きかったようだ。

そういうわけで、この映画はジョージ5世(在位1910‐36)の治世末期から始まる。彼は国家と国民を結び付けるパフォーマーとしての王を演じ続けてきたのだが、もうじき王位を継ぐことになるはずの長男はシンプソン夫人にうつつをぬかし、次男すなわち主人公で後のジョージ6世は吃音で人前では碌に喋れないのであった。
 主人公がコリン・ファース、その妻がヘレナ・ボナム・カーター、お抱え治療士となる売れない役者がジェフリー・ラッシュ、父ジョージ5世がマイケル・ガンボン、兄エドワード8世がガイ・ピアース。

 私は世間と美的感覚が多少ずれてるらしく、特に「美形」とされる男性については「……そうか?」と思ってしまうことが多いのだが(「美女」に関してのほうが、ずれは小さいようである)、コリン・ファースもその一人であった(今の彼を美形と呼ぶ人はいないだろうから過去形)。
 そもそも美形かどうかという以前に、コリン・ファースには全然興味を抱けなかったのだが、今回の彼はいいですね。「童顔のおっさん」という、普通なら扱いに困る容姿を巧く活かした役どころだ。

 ヘレナ・ボナム・カーターは、ものすごく久しぶりに色モノでない役だったなあ。『ファイト・クラブ』以来か? あれも色モノに含めてしまうと、さらに『フランケンシュタイン』より前まで遡らないといけなくなる……
 一応、美人に分類される容姿だったことと(何しろここ十数年は役柄のみらならず各種授賞式や記者会見での格好も色モノだったから)、演技も巧かったんだということを久しぶりに確認させられたのでした。

 ダメ兄王を演じたガイ・ピアースは巧かったけど魅力はない……若い頃(『メメント』のあたりまで)は確かに華のある役者だったのになあ。若さとともに華がなくなっただけじゃなくて、容姿もどんどんサルっぽく貧相に……
 初めて観た時(『シャイン』)すでに中年だったので若かった頃の想像がつかないジェフリー・ラッシュは、今回は彼にしては奇矯さの少ない役だと言えるが、鬱屈のままで終わる鬱屈の表現とか、やはり彼ならでは。

 クライマックスの「戦争スピーチ」で流れるのは、ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章である。明らかに曲に合わせて演技をしており、しかも非常にネットリした演奏だ。あざといよなあ、お涙頂戴とはまた違うんだけど。いや、好きな曲なんだけどね。好きだから余計あざとく感じるっていうか。

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ウルフマン

 アンソニー・ホプキンスを初めて観たのは『羊たちの沈黙』だったんだが、そう言えばこれも『十二人の怒れる男たち』と同じく、大学の講義で途中まで観せられたんだったよな。確か同じ講義だったような気がするが……一体なんの科目だったんだ?(そしてそう言えば、『羊たちの沈黙』もその後観直してはいないんだよな。原作は読んだが)
 それ以降、アンソニー・ホプキンスは何をやってもレクター博士にしか見えなくなってしまったのであった。『ハンニバル』の一つ前の『タイタス』がそのまんまなのはまあいいとして、『永遠の愛に生きて』(ひどい邦題だが、『ナルニア』の原作者の話だ)までレクター博士に見えるというのは困りものですよ。

 さて、久しぶりのアンソニー・ホプキンスは、老いとともにいろいろ余計なもの(レクター博士で言うなら、『ハンニバル』で付け加えられたバックグラウンド的なもの)を捨て去って真に純粋な欲望だけを残した、重厚かつ軽妙とでも形容すべき完成型となっていたのであった。一言で言うと、因業親父。
 ベニシオ・デル・トロという濃い役者が「帰ってきた放蕩息子」という役柄なので、確かに父親役にはアンソニー・ホプキンスくらいでないと釣り合いは取れないわな。父親がアンソニー・ホプキンスじゃあ、どんな役者を息子役に持ってきても勝負は見えてるだろうという気もするが。
 ところで、ビジュアル的にはあの二人が父子というのは無理があるだろうと思ったら、母親役(回想シーンのみ)には、ちゃんと眉の太いラテン系を持って来てました。こういう些細な部分にも配慮があるのはいいですね。

 オリジナル版は未見ですが、19世紀末の英国という設定ならではの要素がいろいろ詰め込まれていて、楽しゅうございました。捜査に当たる警部(ヒューゴ・ウィーヴィング)が斬り裂きジャック事件を担当してたとか(つまり捜査に失敗してるとか)。ヒロインのエミリー・ブラントも古風な容貌の美人で、良い感じでした。

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インソムニア

 クリストファー・ノーラン監督作は『メメント』『プレステージ』『バットマン』新シリーズと観てるんだが、この『インソムニア』はほかの作品に比べるとこの監督の個性が薄いような気がする。何をもって「クリストファー・ノーランらしさ」とするかは、めんどくさいから省略するが。

 ロスのベテラン刑事が、アラスカで起きた殺人事件解明に協力するため派遣されてくる。なぜアラスカかというと、ノルウェー映画のリメイクだから。折しもアラスカは白夜であり、彼は不眠症でへろへろの状態で捜査することになる。
 ベテラン刑事がアル・パチーノ、彼を尊敬する地元の刑事がヒラリー・スワンク、殺人犯がロビン・ウイリアムス。

 アラスカの町の寒々しい閉塞感や、ロール・スクリーンから透ける夜の太陽(遮光性ではなく、わざわざ透け透けの生地なのである)とかがアル・パチーノを苛んでく映像や演出は、下手ではないんだけどね。こういう「登場人物の頭をおかしくするために用意されたかのような環境」(いや、物語の都合的には実際そのとおりなんだが)を撮ることにかけてはコーエン兄弟の右に出る者はいないんだなあ、という認識を新たにさせられたのでした。
 咄嗟の判断ミスが悪いほうへ悪いほうへと転がっていく悪夢的状況も、コーエン兄弟だったら、こちらの臓腑を抉るような描写をしてくれるのになあ、とか。まあそもそも彼らだったら、プロットの段階からもっとえげつないもの用意するよね。

 アル・パチーノは巧いが、彼ならこれくらいならできて当然というレベル。もっとも彼の演技は良い時と悪い時の落差が激しいから、これは相当良いと言っていいレベルなんだが。でも、できる時はもっとできるよなあ。
 ヒラリー・スワンクは、今回は彼女の(唯一の)嵌まり役であるところの「師匠的存在の年配の男に認められようと頑張る女(色気一切なし)」ポジションなので、安定はしているが目新しさはなし。

 本作を鑑賞した理由は、ロビン・ウイリアムスが悪役をやってるからなのであった。期待に違わず、いつもの善人役から滲み出ている嘘臭さと押しつけがましさが、ヘタレ殺人犯のキモさに見事に転化されていて素晴らしかったです。いや、全然好感は持てないキャラではあったんだけど。
 次に悪役をやる時は、『レディ・キラーズ』(これもコーエン兄弟だが)のトム・ハンクスみたいに嬉々として演じてもらいたいものである

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夕陽のギャングたち

 セルジオ・レオーネの、それまでの西部劇と最後の作品『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』との間に位置する作品。
 ヨーロッパでもアメリカでも革命を礼賛する映画ばかりが作られていた1970年代初頭に革命の暴力性を批判した本作は、批評家やほかの映画監督たちから酷評された上に、単純な娯楽作を求めていた従来のファンからも受け入れられなかったそうである。

 いや、テーマもその料理の仕方も非常にいいと思うんだけどね。でもやっぱり『続・夕陽のガンマン』のほうが好き。シリアスに問題提起してる作品と「単純な娯楽作」のどっちが上か、とかいう話ではなく、たぶん本作は間の取り方が『続・夕陽のガンマン』のように巧くないのと、あと、ロッド・スタイガーがどうもメキシコの山賊兼農民に見えないのが問題なんだろうなあ。『続・夕陽のガンマン』のイーライ・ウォラックのほうが、ずっとメキシコの田舎の悪党っぽかった。
 ウォラックが「本当に野卑で頭悪そう」に見えるのに対し、スタイガーは「本当は野卑でも頭悪くもない奴が、野卑で頭悪い奴を演じてる」ようにしか見えないんだよな。演技の巧拙とはまた別の次元で。いや、実際に彼らがどういう人なのかは知らないんだけどさ。

 実はロッド・スタイガーの役は、イーライ・ウォラックを想定した当て書きだったんだそうな。ハリウッドがもっと有名な役者を要求したからウォラックは降板されてしまったそうだが、当初の予定どおりだったら、『続・夕陽のガンマン』と同じくらい好きになってたかもしれん。

 ジェームズ・コバーンは、同じ「寡黙なヒーロー」でも、クリント・イーストウッドよりもよかった。ウエスタンの世界でバイクに乗ってダイナマイトを駆使する元IRAという、場違いなキャラクターの場違いなおもしろさを活かしきって演じている。
 音楽の使い方も、同じエンニオ・モリコーネでも本作のほうがよりおもしろくなってると思う。

『続・夕陽のガンマン』感想

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ザ・ロード

 んー…………

 文明も環境も壊滅して、わずかに生き残った人々は飢えに苦しみ、カニバリズムが横行している、というありがちな設定にもかかわらず、ありがちな作り(アクションもの)になってないのは大変宜しいことだと思います。
 この作品に於けるアポカリプスが抽象的なものだということは、理解しています。だから具体的に何が起きたのか、敢えて空白のままにしておくのも良いことだと思います(世界は灰に覆われているが深刻な放射能汚染がある様子はなく、小規模だが地震がしばしば起きていることから、核戦争とかではなく天変地異系だということは示唆されている)。

 だけど、食糧生産が完全に停止し、野生の動植物もほとんど消滅してしまった世界で、人類が十年も生き延びられるとは、どうしても思えん。

 短期間で人口が激減したから生き残った人々は備蓄だけでしばらく食いつなげました、ということはあり得るにしても、数年が限界だろ。アポカリプスを空白にするのはよくても、その後人類がどうやって生き伸びたかを空白にするのは、どうしても目を瞑れない。
 目を瞑れない最大の理由は、登場人物たちの栄養状態があまりに良すぎるから、なのであった。

 もちろんリアルにすればいいというものではないから、もっと役者たちを痩せさせろ、とは言わん(子役に対してその要求は酷だし)。でも髪や皮膚や歯の状態が良すぎるんだよ。それはメイクで解決できる問題だ。まあヴィゴ・モーテンセンは隙っ歯だし、ガイ・ピアースもあんまり歯並びよくなかったけどね(後者も自前なのか?)。
 汚れ方も中途半端だ。ヴィゴ・モーテンセンなんて、アラゴルンやアラトリステの時のほうが汚れてたじゃん。

 もちろんリアルにすればいいというものではないが、あれじゃ大して過酷な状況に見えないのである。従来のSFアクションものならその辺いい加減でも許されかもしらんが(実は私は許したくないが)、そうじゃないものを作ろうとしてるんだからさあ……
 メインキャストの演技は悪くなかったと思うが、深刻そうな演技をしてるのに状況がそう見えない、という致命的な欠陥によって、どうにも乗れなかったのであった。
唯一それらしく「悲惨」だったのは、食糧として地下室に「貯蔵」されてる皆さんだけだったなー。

「悲惨な設定なのに大してそう見えない」のが制作者の杜撰さ(そこまで気が回らなかった)によるものなのか、意図したもの (悲惨さを抑えて「父と子の絆」を強調する、とか?) なのかは知らんが、いずれにせよ、少なくとも私にとってはこの欠陥のせいで、制作側が最も強調したかったであろう「親子の絆」が上滑りしてしまったのであった。

 どうでもいいがヴィゴ・モーテンセン、脱ぎ癖付いたんか。

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地獄の黙示録

 先日、コンラッドの『闇の奥』を読んだのである。そういや、これ『地獄の黙示録』なんだよな、以前観てからもう十年くらい経ってるし再鑑賞してもいいかな、と思った次第である。
 で、ツ○ヤに行ったら、「特別完全版」しかなかったのであった。

 私は、好きな作品であっても、こういった「完全版」の類(「特別じゃない完全版」ってあるのか?)と劇場公開版をわざわざ見比べるほどの熱心な映画ファンではない。両方観ている作品は数えるほどで、それもたいがいは、今回のように偶々再鑑賞する気になってレンタル店に行くと「完全版」しか置いてない、というケースである。
「未公開映像」と聞いても、それがどれだけ好きな作品であっても、別に興味も湧かんしな。今まで観た「完全版」に追加されてる「未公開映像」も、「なくてもいい」か「ないほうがいい」のんばっかしだ。
 配給会社の勝手な編集で作品がズタボロに、という例も偶にはあるんだろうけど、やっぱ「他人の意見」はそれなりに尊重すべきだよね、と思うのであった。

 今回も、例外ではなく。ただでさえ長いのんに53分の追加で、202分だ。三日掛けて観たよ。「ないほうがいい」とは言わんが「なくてもいい」ってーか、もはや映画じゃなくて、大長編小説の映像版という例のない形態(TVドラマシリーズともまた違う)になってもうてるがな。

 さて、『地獄の黙示録』はベトナムだが、『闇の奥』はコンゴである。要するに「土人のいるジャングル」ならどこでもいいんじゃん、という話だ。
 マーロン・ブランドは禿頭と厚い脂肪がぬめぬめとした異様な質感で、異教の偶像のような迫力があると言えんこともないが、コッポラによる「痩せろ、台詞を覚えろ」という、当然至極の指示にさえ従えなかった、という事実を踏まえると、信楽の狸にしか見えないのであった。いや、これも「異教の偶像」と言えないこともないですね。
 なんかさー、どうせ当時の欧米人で信楽の狸を知ってる奴なんかほとんどいなかったんだしさー、ほんとに狸を置いて台詞はテープで流しときゃよかったんだ。全然動かないんだし。『闇の奥』でカーツ/クルツが痩せてる、という描写を読んだ時は、思わず笑ったよ。

 ベトナム戦争でアメリカ人は、西洋人が19世紀末に達していた境地に達することができた、と言えなくもないから(でも結局、何も教訓を学ばなかったから現在のイラク・アフガンがあるわけだが)、ベトナムで『闇の奥』をやる必要はなかった、とまでは言わん。でもキルゴア大佐やプレイメイトの前半と、カーツ大佐の後半は明らかに断絶してるよな。
 で、私は前半だけでいいや、と思うのであった。

 それにしても、「ワルキューレの騎行」を聴くとヘリコプターの編隊が、「ツァラストラかく語りき」を聴くと骨を手にした猿が思い浮かんじゃうってのも、困ったものだね。

『トロピック・サンダー』感想

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