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カポーティ

 ネタばれ注意。

 才能が枯渇しかけたかつての文壇の寵児が、起死回生を図って殺人事件のノンフィクションを手掛ける。逮捕された犯人たちのために腕のいい弁護士を雇ってやり、獄中の彼らを足しげく訪ね、交流を深める。
 無論、作家の目的は、情報を得るためである。弁護士を雇ってやったのも、話を聞き出す時間が欲しかったからだ。それが済むと、文字どおり用済みとばかりに、刑務所通いをやめ手紙も書かなくなる。死刑判決が下っても、もはや援助するどころか、作品を完結させるために一日でも早くカタが付く(=死刑が執行される)ことを願う。
 そして彼らは処刑され、作家は最高傑作を書きあげる。しかしその人を人とも思わぬ冷酷さが祟って、残り20年の生涯、一冊も本を完成させることができなくなってしまったのであった――という因果応報のお話。

 これは観客が結末を承知していることを前提とした映画である(だからネタばれも何もないんだが)。そして前面に押し出されているのは、トルーマン・カポーティという肥大しきった自我を抱えた男の性格描写と、フィリップ・シーモア・ホフマンの一分の隙もなく作り込まれた演技である。
 随意筋どころか自律神経まで完璧にコントロールしてるんじゃなかろうか、というほどの作り込みようで、しかもそれが物語の上ではカポーティという人物の過剰な自意識の表れとして機能している。まさしく独演会であり、ほかの要素はすべて背景に退いている。

 よくこんな映画がメジャー作品として作られたな、と感心する。フィリップ・シーモア・ホフマンのようなマニアックな俳優の独演会というだけでなく、彼が演じるのは、観客がこれっぽっちも共感できない、卑小で利己的な人物なのである。
 まあお蔭で、あの結末でもまったく後味の悪さを感じることなく、「自業自得」の一言で済ませられるんだけど。犯人たちの処刑にあたって、カポーティは確かに良心の呵責を抱いてはいるんだが、それは最大限に見積もってもその時の苦悩のせいぜい半分であり、残りはまったくの自己憐憫である。「こんなことでこんなに苦しまなくてはいけない自分は、なんて不幸なんだ」
 そこまで徹底した人でなしがきっちり酬いを受けるという結末なので、観ているほうはすっきりしますね。

 それにしても、いくら申し開きようのない殺人者だとはいえ、死刑になることがほぼ確定している人間をあんなふうに利用するのは、現代の先進国の感覚からすれば非道である。
 しかし本作(1960年前後のアメリカ)では、実際にそうだったのか話の都合なのかは不明だが、カポーティの遣り口が非難されることはない。彼に最も親しい二人の人物が、やんわりと批判するだけである。それに対して本人も自己正当化はしてみせるものの、それほど躍起になってではない。その必要性があまりないからだ。

 犯人の若者二人は、自分たちが利用されているだけなのは気づいているが、彼らは非常に孤独である。どんなかたちにせよ、関心を向けてくれるのはカポーティだけだ。だからあまり強く非難はできない、というのは解るんだが、もう少し応酬があったってよさそうなものである。
 フィリップ・シーモア・ホフマン入魂の演技以外はすべて背景に退いている、と前述したが、普通だったら物語の核となるであろう、殺人犯たちとの交流でさえ背景に押しやられてしまっているのである。
 カポーティと犯人それぞれとの駆け引き、犯人たちの葛藤等も一応描かれてはいるものの、至極あっさり流されてしまっている。脚本、演出、配役すべてにおいて、フィリップ・シーモア・ホフマンに匹敵するだけのキャラクターが用意されていないのだ。たとえばキャサリン・キーナー、『マルコヴィッチの穴』ではあんなに印象的だったのに、本作ではあまりの地味さに驚かされたという以外、まったく印象に残らない。

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