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お知らせ

お知らせ其の壱

 こんにちは、仁木稔です。
 この二年余り、調べものをしては書き、調べものをしては書き……をひたすら続けてたわけですが、そのうちの一作が来月発売の『SFマガジン』6月号に掲載されますよ。

『SFマガジン』2012年6月号(4月25日水曜日発売)掲載:
「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」

 400字詰め換算で100枚強の読み切りです。タイトルの「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」とはこれのことですが、ソ連やロシアとは関係ありません。

 HISTORIAシリーズに連なる一作ですが、時代設定が未来ではなく近過去の歴史改変ものになります。これまでの同シリーズの作品とは、いろいろと雰囲気の違うものになったのではないかと思われます。

 21世紀初頭、労働力として生みだされた人造人間(チャペック的生体ロボット)の受容が世界規模で進む中、聖書原理主義と反知性主義に支配される某超大国では排斥運動が過熱する。その陰で暗躍する金髪碧眼の美少女……って、やってることはこれまでとあんまり変わらないような気もしますが気のせいですね。

 何はともあれ、仁木稔作品が好きだという方々も、仁木稔作品を読んだことがない方々も、仁木稔作品を読んだことがあるけどあまりおもしろいと思わなかった方々も、栄えある『SFマガジン』初掲載作品となる「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」をよろしくお願いいたします。

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お知らせ其の弐

 神林長平氏のデビュー30周年(2009年)に出版された『神林長平トリビュート』が文庫化します。神林氏の作品を八名の作家がトリビュートするという企画で、私は「完璧な涙」を選ばせていただきました。

『神林長平トリビュート』 早川書房 2012年4月刊行

ほかの執筆者の方々(敬称略)とトリビュート作品:
 海猫沢めろん「言葉使い師」
 虚淵玄「敵は海賊」
 円城塔「死して咲く花、実のある夢」
 桜坂洋「狐と踊れ」
 辻村深月「七胴落とし」
 元長柾木「我語りて世界あり」
 森深紅「魂の駆動体」

 神林氏御本人による序文が素晴らしいです。神林氏のファンの方々はもちろん、氏の作品を読まれたことのない方々でも、この執筆陣に興味を覚えられましたら、どうかお手に取ってみてください。

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グランド・ホテル

 ホテルを舞台にした群像劇というジャンルの元祖。
 何しろ1932年制作なので、グレタ・ガルボは寝起きでもばっちりメイクで寝ぐせの一つもない上に、バレリーナの役なのに姿勢一つ取ってもそう見えないのだが、これも一つの様式美である。映画がリアリズム路線を取るようになったのは、ガルボのような女優がもはやいなくなってしまったからではないかという気もする。

 しかし、ジョーン・クロフォードがタイピストを演じているのだが、タイピストとか秘書といった職業婦人は雇い主(男)に性的奉仕をするのも仕事のうち、という前提で話が進んでいくのでちょっと驚いた。ポルノならまだしも、こういう作品なのだから、フィクションのお約束ではなく当時の実際の社会通念だったのか(ラテンアメリカでは割と最近までそういう偏見があったそうだが)。

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スターダスト

 映画版が好きなんだが、原作者がニール・ゲイマンだということを(というか、そもそも原作があるということを)つい最近まで知らなかったのであった。いや、その情報には一度ならず接しているはずなんだが、なぜだかその都度、記憶の底に沈んでしまってたようだ。
 そういうわけで、同名の原作(角川文庫)を読む。以下、原作と比較しながら映画版の思い出し鑑賞記。

 んー、映画を最初に観て気に入ったがゆえの感想だというのは承知の上で敢えて言うが、映画のほうがおもしろかったなあ。もう何年も経ってるから忘れちゃってる部分もあるけど、プロットに関しては、映画のほうが枝葉が刈り込まれててシンプルだった(すなわち原作は枝葉が多い)印象だ。
 キャラクターについては逆に、映画のほうが作り込まれている。全体にどのキャラクターも、原作を土台に役者の個性が巧く活かされて、より魅力的になってる感じ。主人公、ロバート・デニーロ演じる空中帆船の船長(原作では印象が薄い)、謀略好きだが間抜けな王子たち(ジェイソン・フレミングとかルパート・エヴェレットとか)、主人公の父親(の青年時代を演じたベン・バーンズは、この後のカスピアン王子よりずっといい)らにも言えることだが、特にヒロイン(クレア・デーンズ)、悪い魔女(ミシェル・ファイファー)、悪い国王(ピーター・オトゥール)の三人については役者の個性によるところが非常に大きい。

 世間知らずで(何しろ、落ちてきた星の精である)子供っぽいけど、意外にがさつというか図太いヒロインと、魔法で一時的に若返ってるけど本当は超高齢の魔女のどちらも、一時ほどの人気がなくなっていたデーンズとファイファーの二人だからこそ、このように演じられた役だ。
 若返りの魔法がどんどん解けていって、皺やシミが出るどころか髪までなくなっていく過程を嬉々として演じるミシェル・ファイファーも凄いが、普通なら原作どおりの「女の子」を演じるには薹が立ちすぎているにもかかわらず、敢えて子供っぽく演じることで、年齢を超越した星の精を表現している(しかも可愛い)クレア・デーンズには感心した。

 しかし何より素晴らしいのは、邪悪な国王ピーター・オトゥールである。登場場面は十分にも満たないし、臨終の床に横たわってるだけなんだが、圧倒的な存在感である。あんなふうに邪悪かつ愛らしく微笑むことのできる役者が、彼のほかにいるであろうか、いやきっといない。実に素晴しい笑顔なんだ。あの年齢だからこその笑顔であって、オトゥール本人でも若い時分には無理だね。

 もう何年か経ってもう少し記憶が薄れたら、あの笑顔のためだけでも再鑑賞したいものである。

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グリーン・ホーネット

『エターナル・サンシャイン』『恋愛睡眠のすすめ』のミシェル・ゴンドリー監督作(ほかは観てない)。

『エターナル・サンシャイン』みたいに、エピソードが時系列どおりではないのに加えて「現実と虚構(作品内での)」が入り乱れる作品は、SF者にはお馴染みだが「普通の人たち」にとっては非常に難解らしい(SF者が優越感を抱ける数少ないケースの一つである)。まあ要するに、『エターナル』のエピソードのシャッフルの仕方はSFの定型にはかなり忠実なので、慣れてる人間には読み解くのに困難はないということなんだけど。
 対して『恋愛睡眠』のシャッフルの仕方はSFの定型からも外れているので、SF者にとってもかなり読み解きにくい(「普通の人たち」にとっては言うまでもなかろう)。

 そういうゴンドリー監督が撮ったアメコミヒーローものの本作は、ごくシンプルで解り易いプロット・演出であった。観客を馬鹿にしてんのか、というのんとは違う、いい意味でのシンプルさである。
 アメコミヒーローものなのに(と敢えて言うが)やたらと重いテーマ、入り組みすぎたプロット、作り込みすぎたキャラクター(なのでやたらと煩悶したり大演説をしたりする)、錯綜に錯綜を重ねた人間関係、というのは好きじゃないんで(どれとは言わんが……)、このくらいがちょうどいいです。
 原作は未読ですが、映画化にあたって設定やキャラクターに考え抜かれた解釈がほどこされた跡が窺われ、それがシンプルだけど奥行のある、ほどよいバランスを生み出しているように思えます。

 悪役は『イングロリアス・バスターズ』のクリストフ・ヴァルツ。そうか、現代の格好するとこういう容姿なのか。『イングロリアス』の時にも見られた、決して二流ではないんだけど一流にはなりきれない悪党の悲哀、がより前面に押し出された感じでした。
 クレジットにエドワード・ファーロングの名前を見つけてびっくりする。ど、どこに出てたっけ、としばらく悩み、きっとクリストフ・ヴァルツの手下で麻薬の精製をやってた小汚い男に違いないと見当をつけたら、やっぱりそうでした。

『恋愛睡眠のすすめ』感想

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宮廷画家ゴヤは見た

「観たいDVDを50音順に片っ端から観ていく」企画が昨秋から進行中。
「観たいDVDを片っ端に」といっても、近所のツタヤに置いてないのでとりあえず飛ばしたものも少なくない。加えて、せいぜい1週間に1本のペースなので、早く先に進みたい気持ちもあり、今観るべきか後回し(二巡目)にすべきか迷う作品もある。これもその一つであった。

 いや、監督がミロス・フォアマンだし、ハビエル・バデムがヘタレ神父という素晴らしい役どころだしで、それだけなら公開時に劇場に足を運んでいたんだろうけど、そうしなかったのは、「スペインの異端審問」というただでさえ痛々しいシチュエーションに、審問にかけられるヒロインが、いろんな意味で痛々しいナタリー・ポートマンだからなのであった。
 そういうわけでDVDが出てからも回避し続けてきたのだが、ええい、いずれ観る予定の『ブラックスワン』の予行だ、というわけで今回観た次第である。
 以下、ネタばれ注意。

 やー、ハビエル・バデムは予想を超えたヘタレでした。
 18世紀も末、スペインの異端審問でさえ拷問を廃止していた理性の時代、バデム演じる神父は「無実ならば神が拷問に耐える力をお与え下さる」との信念から審問に拷問を復活。ユダヤ教徒であるという嘘の告白を強いられた娘(ポートマン)を救ってくれ、という商人の懇願も一蹴する。怒った商人が神父を捕らえて拷問に掛けると、神父はものの数分で音を上げて己が猿で悪魔の手先であると認めるのであった。
 そこから先は、ヘタレ街道まっしぐらなわけだが、ただ芸もなく転落していくのではない。ナポレオンがスペインを占領すると、その手先として華々しく再登場するのである。いや、素晴らしい。

 バデム演じる神父の浮き沈みが、ナポレオン前後のスペインを見事に体現しているわけだが、ゴヤの造形もそれらしいし(ステラン・スカルスガルドは自画像に結構似てる)、彼の作品の不穏さを良く反映した造りになっている(ゴヤの作品で始まってゴヤの作品で終わる)。
 そこまでよくできた作品で、ただ一点微妙なのが、やはりナタリー・ポートマンなのであった。

 危惧していたのは、彼女一人が浮きまくって台無し、であったが、そこまでひどくはなかった。拷問シーンもかなり短かったし。でもやっぱり全体に微妙……
 彼女の「痛々しさ」の原因の一つが、小柄で童顔という容姿であるのは間違いない。しかし、それは今回のような役柄ではむしろプラスになるはずである。そのプラスを帳消しにするマイナスの痛々しさの原因は……まあ要するに彼女自身の余裕のなさだな。
 巧いんだけど必死すぎて、その必死さが空回ってて痛い。例えば同じく作り込んだ演技でもハビエル・バデムのすべてを計算尽くした上での余裕、みたいなのがなくて、いっぱいいっぱいなのが痛い。しかもそこまでいっぱいいっぱいなのに、なおも頭で考えた演技なのが痛い。
 これでますます『ブラックスワン』が「怖いもの見たさ」と化すなあ。

 これでもかとばかりに不幸な目に遭う薄倖のヒロインと、娼婦に身を持ち崩してるその娘、という二役をやってるわけだが、上記の「痛さ」は母親役のほうに言えることであって、蓮っ葉な娘役の時は登場場面が少ないせいもあってか余裕が感じられ、あんまり痛くなかったのでした。

 後もう一つ難を言うなら、スペイン人もフランス人もイギリス人も全員英語を話すのは、もうちょっとどうにかならなかったんだろうか。もっと昔の作品ならまだしも。せめて訛りを強調するとか。

 前述のように、ゴヤの作品が効果的に使われてるわけだが、その中には「巨人」も含まれている。本人作じゃないと断定されたのは、この映画が公開された3年後ぐらい。
 ここでの使われ方が如実に示しているように、「巨人」はいかにも当時のヨーロッパの混沌を表現しているように、つまりいかにもゴヤっぽい作品に見えるわけだが、でもゴヤ作じゃないんだよね。まあ弟子の作品ではあるわけだから、「ゴヤっぽい」作品であるのは確かなんだけど。

『ブーリン家の姉妹』感想

『ブラックスワン』感想

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