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Dreams came true

721206

『SFマガジン』6月号が発売しましたよ。
 仁木の中篇(短篇?)「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」が掲載されています。イラストは橋賢亀氏。

 これは「ハヤカワSFシリーズJコレクション創刊10周年記念特集」の一環ということで、Jコレクション既刊53点全レビューには、岡和田晃氏による『グアルディア』と『ミカイールの階梯』のレビューもあります。『グアルディア』はJコレの22点目、『ミカイール』は42点目なんですね。

 そういうわけで、『SFマガジン』初掲載(小説)です。表紙に! 『SFマガジン』の表紙に私の名前が!
「Jコレ10周年記念特集」では、大森望氏が「Jコレクション10年史」を書かれておられるのですが、まず冒頭で「Jコレクションに至るまでの早川書房の日本SF専門叢書の歴史」が回顧されています。

「……つまり、60年代、70年代、80年代と、早川書房のSF専門叢書が日本SFの求心点をつくってきた格好だ。
 ところが、90年代に入ると日本SFの売れ行きは低迷。長い“冬の時代”が続き、98年には、SFと銘打つ新刊の単行本がまったく出なくなるところまで追い込まれた。……」

 73年生まれの私がSFに嵌まったのは小学校に上がってから、つまり79年か80年。学校や市の図書館に充実した児童SFコレクションが入っていたのは、もちろん早川書房が日本におけるSF黄金時代を牽引してきたお蔭です。
 早川SF文庫を読み始めたのは小六の後半からで、市立図書館に『SFマガジン』が入っていることを「発見」したのはその数ヵ月後だったから、もう中学には上がってたかな。85年です。

 あの頃のSFは、本当に輝いていた。当時からのSFファンなら、そのことを認めない人はいないだろう。しかし誰にも解るまい、当時の私にとって、SFがどんなに輝いていたかを……
 周囲にSFファンが一人もいない田舎で(図書館に『SFマガジン』が入っていたから、一定数存在していたのは間違いないんだが、一人も遭遇できなかった)、中学の制服は最悪にださく(女子は襟なしブレザーにボックススカートだった。今でもそうである。お気の毒に)、髪が長いと怖い先輩方にシメられる(男子だけではない、女子もだ)というので、長くしていた髪を小学校卒業と同時に切ったらサラサラストレートがくるんくるんの天パに変わってしまい(ホビットみたいになった。思春期女子にとってどれだけ痛手か、御想像いただきたい)、いやつまり何が言いたいのかと言うと、そういうこともすべてひっくるめた冴えない灰色のどんづまりの世界において、『SFマガジン』は眩い別世界への扉だったのだ。

 だからSF作家になりたいと夢見たのは当然だった。それも、早川書房からデビューしなくてはいけない。「ハヤカワSFコンテスト」でデビューし、その作品が『SFマガジン』に載る……魂を売り渡してもいいほどの夢だった。
 いやほんとに、当時の私だったら、その夢を叶えるためには魂くらい売ってたと思います。だって、小説が書けなかったんだもん。頭の中に素晴らしい物語は広がってるのに、それを文章にしようとすると、まったく形にならずに空中分解してしまう。そのうえ「素晴らしい物語」であるはずのものも、どうしようもなく無価値でくだらなく思えてくる。
 絶望に追い打ちをかけるが如く「SF冬の時代」が到来し、かくて私の夢は潰えたかに見えたのでした。

 再び、大森氏の「Jコレクション10年史」から引用(上記の続き)。
「しかし、その翌年(注・99年)から状況が少しずつ好転。00年には、SFマガジンの年間総括企画を独立させた『SFが読みたい!』が誕生、徳間書店の〈SF Japan〉や徳間デュアル文庫、ハルキ文庫《ヌーヴェルSF》シリーズも創刊された。
 そして02年、早川書房にとって十九年ぶりの新しい日本SF専門叢書となる《ハヤカワSFシリーズ Jコレクション》が登場する。……」

 小説家になる夢なぞ、とうに諦めていた99年、どういうわけか唐突に小説が書けるようになった、つまり、「頭の中にある物語を文章にすることができるようになった」のでした。
 どうしてなのか、要因は一応いろいろ考えられるのですが、それでもやっぱり、「どういうわけか唐突に」としか言いようがない。練習も準備運動もなんにもなしに、やってみたらできました、という感じで。
 お蔭で小説家になる夢は再燃したわけですが、SF作家になれるとは思っていませんでした。私自身、SFから遠ざかっていた時期が長すぎて。
 しかしSFを取り巻く状況が好転しつつあったことには気づき、その後少しずつSFに回帰していき、そうして02年に書き始め、丸一年掛けて書き上げたのが『グアルディア』です。

 どこか、SFでも採用してくれそうな新人賞に出すつもりで、400字詰め換算500枚の予定で書いたら、でき上がったのは約1000枚……それまでに書いてた何本かの長編(どれも非SF)は、どれも300枚台だってのに。
 そしてそれがJコレクションの1冊として刊行されたことで、「早川書房からSF作家デビューする」という夢が、まったく予想もしなかった経緯で実現したのでした。

「ハヤカワSFコンテストでデビュー」は、同コンテストがなくなったことで永遠に実現不可能となってしまったのですが、しかし、大学ノート数ページに箸にも棒にも掛からない文章を書き綴っては「コンテスト規定の400字詰め原稿40枚以上も書くなんて絶対無理だ」と絶望していた中学高校時代には想像もつかなかったことですが、小説が書けるようになった私は500枚予定が1000枚、600枚予定が1200枚(『ミカイールの階梯』)となる長編体質と化していたので、たとえハヤカワSFコンテストが存続または復活していても、それでデビューするのは絶対不可能でしたね……本当に、佐藤亜紀先生と塩沢快浩編集長(当時)には、どれだけ感謝しても足りません。

 というわけで、晴れてSF作家となった私の前には、夢の後半「小説が『SFマガジン』に掲載される」を実現するまでの長い道のりが待っていたのでした。そう、実は長編と長編の合間に、何度も短編に挑戦しているのですが、どうしても長くなる……
 短編にこだわったのは、実は「短編こそがSFの真髄を表現できる」と思っているからなのです。SFで「物語」は重要ではないのです。この考えは、中学高校時代から変わらない。
 なのに、短い話が書けない……一番ひどかったのは、150枚くらいの中編だったら二回に分けて掲載してもらえるかも、と書いてみたら4倍近い長さになった『ラ・イストリア』ですね……
 ならばなぜ、『神林長平トリビュート』の「完璧な涙」が既定の50枚にぴったり納まったのかといえば、与えられた企画で書いてるからです。『スピードグラファー』のノベライズも、規定枚数どおりだし。
 当ブログのお蔵出し「鴉の右目の物語」も、実は2001年頃、所属していた創作サークルの会誌に書いたものです。連載なんかしたって誰も読んでくれないだろうから短い話を、と考えたのがあれ。要するに、好き勝手書いていいとなると歯止めがなくなるわけですねー……
『トリビュート』の「完璧な涙」は、私にとって最もSFが輝いていた80年代後半の日本SFの雰囲気の再現を試みたもので、自分ではかなり巧くいったと満足してます。しかも短編だし、時間SFだし。

 試行錯誤の末、ついに『SFマガジン』に作品掲載が実現し、感無量です。80年代後半、SF最盛期に「早川書房からSF作家デビューし、作品が『SFマガジン』に掲載される」という夢を抱き、SFの衰退によってその夢を失い、SFの復活によって夢も復活し、実現にまで至ったわけです。
 85年からだとして、夢の前半が叶うのに19年、後半が叶うのに27年……いやー長かった。

 ちなみに、小学1年生の私をSFに嵌まらせたのは、『火星のプリンセス』でしたよ。これの実写映画化も「当時は想像もできなかったこと」ですね。

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