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お知らせ

 現在発売中の『SFマガジン』7月号で予告していただいていますが、6月25日発売の『SFマガジン』8月号に中編「はじまりと終わりの世界樹」が掲載されます。

 こんなにも早く再びお目に掛かれるとは、望外の喜びです。6月号掲載の「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」とは連作という形で、つまり同じHISTORIAシリーズの中でも、特に「現代に近い時代」を舞台とした、「歴史改変もの」要素の強い小シリーズという形になります。
 具体的には、1985年生まれの人物が2012年の時点でその半生を回想するという体裁をとって、亜人(妖精)誕生の経緯が「ミーチャ・ベリャエフ」とは別の角度から語られます。
「ミーチャ・ベリャーエフ」からは「オブザーバー(エイプリル)」と「ディーラー」の2人が再登場。オブザーバーがなぜ金髪碧眼の美少女に身をやつしているかが明らかになります。いや、それがメインの話ではありませんが。

 それにしても、またしても短編を書くつもりで中編になってまいましたよ(一応、「400字詰め換算100枚」を短編と中編の分かれ目としています)。しかも「ミーチャ・ベリャーエフ」が110枚なのに、今回は150枚近くある……今後とも精進します。

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ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち Ⅱ

 の続き。ネタばれ注意

 人工生命体「妖精」の製造・販売を行う通称「妖精企業」は、妖精を全世界に普及させるため、さまざまな裏工作を行ってきた。そうしたエージェントたちとして、本作では「オブザーバー」と「ディーラー」が登場する。なお、彼らのこの呼び名は、2001年春の某超大国における任務によるものであり、別の任務では別の呼び名が用いられることだろう。

 ディーラーは、妖精企業の製品(=妖精)売り込みのための裏取引を担当している。金髪に緑色の瞳の白人青年で、外見年齢は20代前半~半ばを想定。彼の顔を見知っている「牧師」は、若返り処置を受けていると推測しているが、おそらく見た目どおりの年齢であろう。オブザーバーとの会話から、実は有色人種であり、遺伝子操作で色素を薄くしていることが判る。顔立ちや骨格なども変えているかどうかは不明。

 オブザーバーは、妖精に対する人々の反応を観察する役割を担当。十二、三歳の金髪碧眼白皙の美少女という外見。ケイシーには「エイプリル」と名乗る。この偽名を選んだ理由は、ケイシーが推測したとおりだと思われる。
 ディーラーとの遣り取りから、彼女は若返り処置に加えて相当に容姿を変えていることが窺われる。では、真の姿はどのようなものかというと、私にもわかりません。いつか彼女が再登場する話を書くことがあったら、その時決めるかもしれないけど、現段階では敢えて何も考えていません。HISTORIAシリーズには、原則として「裏設定」は存在しないのです。
 ディーラーの態度からすると、「おっさん」というのが一番あり得そうで、その場合、「性転換」は外科手術じゃなくアンドロゲン受容体の不活性化(つまり人為的に男性仮性半陰陽をつくり出す)とかなんだろうなあとか予想はしてますが、どのみち何も決めていません。

 私個人としては「おばさん」もありじゃないかと思っています。それも、ディーラーの母親くらいの年齢で、やたらいかついか、痩せてギスギスした感じとか。皆さんのご想像にお任せします。
 学校の制服っぽい服にツインテールというスタイルは、『キック・アス』のクロエ・グレース・モレッツから。ただし、もっと可愛い。ヒットガールのコスチュームや私服は可愛かったのに、あの制服姿はいまいちだったなー。

 最後に、参考資料のことなど。

 私は頭が悪いので、読んだ資料の内容をきちんと憶えていられません。後で確認したいと思うことがあっても、どの資料だったかも思い出せない有様です。『グアルディア』執筆時(2002‐2003)、それで少々困ったことになって以来、読んだ資料で役に立つ、あるいは興味深いと思った情報は片端からノートを取っています。買った本でも図書館で借りた本でも同じようにします。
 かれこれ10年近く、そうやって書き溜めた情報は相当な量になります。本作「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」は、そうした蓄積に拠って書かれたもので、特に本作のためだけに新たに読んだ資料はニューヨークのガイドブックくらいですが、以前に読んだ資料で特に参考になったものを何点か挙げますと、まずタイトルのドミトリ・ベリャーエフの狐の交配実験について知ったのは、6年ほど前に読んだ『本能はどこまで本能か――ヒトど動物の行動の起源』(マーク・S・ブランバーグ、早川書房)で。人間でも同じことができるんじゃないかと考えたのが、そもそもの着想でした。

 創造論およびインデリジェンス・デザイン説を批判した本は数多くありますが(ドーキンスとか)、『人類最後のタブー――バイオテクノロジーが直面する生命倫理』(リー・M・シルヴァー、NHK出版)はそれに加えてヨーロッパに多い「無神論的自然崇拝派」(有機食品とか代替療法とかに嵌まる人たち)についても詳しく、参考になりました。反バイオテクノロジー活動家ジェレミー・リフキンの大活躍も、この本で読めます。

「即死させない串刺し刑」については、ボスニア(旧ユーゴスラヴィア)のノーベル賞作家イヴォ・アンドリッチの『ドリナの橋』で知りました。想像力の産物などではなく、ほんとに東欧で行われてたそうです。ヴラド・ツェペシュもこの方法を使っていたのかどうかは確認できませんでしたが、まあいいや。

関連記事: 「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たちⅠ」 「HISTORIAにおける歴史改変」 

       「亜人」 「連作〈The Show Must Go On〉」 

設定集コンテンツ

ドミトリ・ベリャーエフの狐の交配実験(wikipedia)

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ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち Ⅰ

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収。初出は『SFマガジン』2012年6月号。

『グアルディア』『ラ・イストリア』『ミカイールの階梯』は、いずれも22世紀末に始まる「大災厄」より後の時代を舞台とし、未来史を構成する。「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」はHISTORIAシリーズに属するものの、時代設定は近過去(2001年)である。
 2001年の時点で、作品内の世界では現実の2001年当時よりも、歴然と遺伝子工学が発達している。遺伝子組換はもちろん、人工ゲノムのデザイン、人工子宮によるクローニングから臓器培養まで可能な世界だ。

 そう、実はこのシリーズは歴史改変ものでもあるのですよ。

 2001年春現在、世界情勢にも相違が生じている。舞台となるのは、ソ連崩壊後の唯一の超大国である。誰がどう見てもアメリカ合衆国なのに頑なに国名を出さないのは、単なるネタである。
 もう少し真面目な話をすると、この「某超大国」において繰り広げられる愚行は、決して「アメリカ合衆国」に限定されたものではないからである。現実の国の現実の愚行を描きたいのなら、わざわざ歴史改変をする必要はない。

 そもそもHISTORIAシリーズで、「開明的なカトリック」対「狂信的で科学を弾圧するプロテスタント」という構図を作ったのには、『グアルディア』執筆の数年前にキース・ロバーツの『パヴァーヌ』を読んで、「狂信的で科学を弾圧するカトリック」というステレオタイプに呆れ返った、というか、そのようなステレオタイプが英語圏(およびその影響を受けた日本の)フィクションの世界に溢れていることに初めて気づかされたという経緯がある。

 ステレオタイプがあると弄りたくなる性分なので、生まれたのが前記の構図である。ロバーツはイギリス人なのに、「狂信的で科学を弾圧するプロテスタント」の親玉にアメリカ合衆国(に似た国)を据えるのは不当と言えば不当なのだが、現実にファンダメンタリズムの本拠地はイギリスじゃなくてアメリカだし、今回みたいな時代設定(21世紀初頭)でイギリスを「悪の帝国」にするにはどんだけ歴史改変が必要になるんだか……という次第なのでした。

 本作の背景としてさらに、アメリカ合衆国によく似た「某超大国」は、現実のアメリカ合衆国よりもさらに強力な聖書原理主義と白人至上主義によって支配されてきた。それらが反知性主義と手を携え、まともな教育を根絶やしにしてしまったため、国全体の知的水準が低い上に陰謀論の温床となっている。さらに、そうした状況を嫌う人々が国外に移住し、空洞化は進むばかりである。
 1991年の湾岸戦争で、この国は国連を無視してバグダッド占領とサダム・フセインの逮捕・処刑を強行。その結果、国際的な非難を浴び、孤立した。国際世論の圧力によって軍縮や経済活動の規制が進められてきたのだが、軍隊は民営化、企業は多国籍化することで対処し、依然として世界随一の国力を誇る。
 しかし全世界からの非難に晒されたことで国全体が被害妄想に陥り、思想の統制、人種差別はさらに厳しくなっている。あらゆる分野での民営化によって、貧富の差も大きくばかりである。

 20世紀末、「妖精」と呼ばれる人工生命体が登場する。人間の労働力を肩代わりすることを目的に、ヒト体細胞をベースに人工遺伝子を組み込まれた彼らは、いわばチャペック的生体ロボットである。知性や感情は抑制され、外見も画一的だ。
 人工子宮で量産された「妖精」たちは、劣悪な環境専用の労働力として世界中で受け入れられた。遺伝子工学を禁じる某超大国でも、法の抜け穴の利用と各界の有力者たちへの賄賂によって認可される。
 妖精は単純作業しかできず、また妖精を製造・販売する企業(通称「妖精企業」)が低所得層を懐柔する方策をとったため、「仕事を奪われる」という危機感で妖精が排斥されることはなかった。「妖精撲滅派」と呼ばれるのは、人工生命体というものに生理的・観念的嫌悪を抱く人々、特に低所得層が妖精企業に取り込まれたことに不安を感じる中間層である。幾つかの大企業は、妖精という安くて扱いやすい労働力の独占を目論み、撲滅派を煽る。

 コンセプトは『地球最後の男』である。邪悪な怪物を退治しているつもりの男が、違う立場から見れば……という話で、邦題よりも原題のI am legendのほうが相応しいだろう。

なお、あくまでマシスンの原作であって、映画の『アイ・アム・レジェンド』ではない。幾つもある映画版はどれも機会がなくて未見なんだが、『アイ・アム・レジェンド』は機会があっても観たくない。ウィル・スミスが好きじゃないんだよ。

設定集コンテンツ

 以下、ネタばれ注意。

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ケイン号の反乱

 太平洋戦争のさ中、掃海艇ケイン号では、任務が急を要さないことや船が老朽化していることもあって、全体に士気が低く規律も乱れていた。そこへ艦長が交代し、新たな艦長クイーグは規律の引き締めを宣言するが、枝葉末節にこだわる上に、自分の間違いを認めようとしないので、まったく人望が得られない。

 以下、ネタバレ注意。
 ハンフリー・ボガードが徹底的に無能な艦長を演じている。1950年代の映画は、現在とは演技や演出の様式が異なっており、単なる様式の問題だとは解っていても、多かれ少なかれ「大袈裟」で「不自然」に見えてしまいがちである。しかしこの作品は、演技も演出も(BGMさえ含めて)非常に抑制が利いている。
 ボガードの偏執的な演技はちょっとした表情や仕草のレベルから非常に巧いのだが、なんでこんなかっこ悪い役が彼に振り当てられたのだろうかと、観ていて不思議であった。共演者が彼より長身の俳優ばかりで固められてるのも、意図的にだよな。

 あまりに無能だし次第に言動も常軌を逸していくので、これは精神を病んでいるのではなかろうかと上級士官たちが疑い始め、ついに副艦長による権限奪取という事態に至る。副艦長は軍事裁判に掛けられるが、結局、誰の目から見ても艦長はおかしいことが明らかになる。
 晴れて無罪となった副艦長を囲んで、皆が祝杯をしていると、裁判を勝訴に導いた弁護士がやってくる。そして、艦長が心を病んでいたのは間違いないが、それは彼が何年にも渡って国を守り続けて神経を擦り減らしたためであり、しかもケイン号で艦長がそこまで追い詰められたのは、副艦長以下、乗組員たちが、一度は艦長が謝罪しているのにそれを受け入れずに彼を疎外してきたからだ、と非難する。そして皆が嫌な気分になったところへ、それもこれも、背後に通信長の暗躍があったからだと解き明かす。
 作家志望のインテリである通信長は、作品のネタにするために、乗組員たちの艦長への反感を煽り、さらに副艦長が無学なのに付け込んで、艦長は心を病んでいるという話を吹き込み、反乱に至らせたというのだ。

 まあ要するに歴戦の軍人には敬意を払え、という話らしい。らしい、というのは、どうにも焦点がぼやけた話だからだ。二時間の作品の最後の最後の数分で、①艦長は英雄であり、心を病んでいるのはその代償である。その彼を蔑ろにしたおまえらはけしからん。②通信長は卑劣で狡猾なインテリである。
 という二点を口早に捲くし立てられてもね。①と②のどっちに重点を置きたいんだかわからないし。今さら、艦長が無能で言動がおかしい人だという印象も覆らないし。

 時系列をひっくり返して裁判の準備を冒頭に持ってきた上で、弁護士を探偵役にして、なぜ反乱が起きたのか、そこに至るまで何があったのかを解き明かしていく構成にしたほうがよかったと思うよ。

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黒猫・白猫

 1998年のクストリッツァ監督作品。

『パパは出張中!』『アリゾナ・ドリーム』『アンダーグラウンド』『ライフ・イズ・ミラクル』とこれまで観てきたが(『ジプシーのとき』は残念ながら未見)、これは『アンダーグラウンド』に次いで好きかも。いや、『アンダーグラウンド』は別格だが。『ライフ・イズ・ミラクル』はちょっと長すぎるし、まあ偶には政治色のないハッピーエンドでもいいじゃない、ということで。

 父と息子の関係が大きなウェイトを占めていたり(そして父が駄目人間)、河が流れてたりするところは、これまで観たクストリッツァ作品の多くに共通してるな。それほど気にはならないけど。どのクストリッツァ作品にも増して音楽と動物に満ちていて、素晴らしい(ただし、動物がみな芸達者という点では『ライフ・イズ・ミラクル』のほうが上)

『アンダーグラウンド』 『パパは出張中!』 『ライフ・イズ・ミラクル』感想

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SFセミナー2012

 54日に行われたSFセミナーに行って参りました。昼の部では「インタビュー・ウィズ・ニンジャ・エクストラ・イシュー」で、インタビュアーの斎藤高吉氏からの鋭いツッコミに対する『ニンジャスレイヤー』の翻訳者(を自称する)本兌有氏と杉ライカ氏の当意即妙の受け答えに、口を開けて感心しておりました。頭の回転が速くて羨ましいです。

夜の部では、『原色の想像力2』読書会に参加させていただきました。読書会というものに出るのは初めてだったので、どういう流れになるのか見当が付かず、レジュメ等は用意していかなかったのですが、まあ各作品について思うことは概ね言えました。つまり、概ね言いたい放題しました。その後はバッテリー切れになって、おとなしくしてました。

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ロビン・フッド

 ゴールデンウィークで暇を持て余している父のために借りる。父はラッセル・クロウが好きなのである。私は嫌いだが。

 ラッセル・クロウを嫌いな理由は暑苦しい(演技も容姿も)からで、だから『LAコンフィデンシャル』では、まだ暑苦しくないので嫌いじゃない。まあとにかく、これも親孝行だと、ラッセル・クロウ主演、リドリー・スコット監督の『ロビン・フッド』を一緒に観る。

 一応ネタばれ注意。

『キングダム・オヴ・ヘヴン』は、リチャード獅子心王が十字軍に向かうところで終わってたが、『ロビン・フッド』はリチャード王が十字軍から帰ってくるところから始まる。

『グラディエーター』ではカタパルトや鎌付き戦車(ほかにも剣闘士の武器いろいろ)、『キングダム・オヴ・ヘヴン』では「ギリシャ火」付きカタパルトや架台付き弩、攻城塔、と登場させてきた古代・中世武兵器おたくのリドリー・スコットだが、今回登場した兵器は破城槌と揚陸艇。

しかしリチャード獅子心王は、十字軍から攻城技術を学ばなかったわけだ。門を破壊した焼夷兵器は、中東から持ち帰ったという設定なんだろうか。

 武器のほうは、フランス人が短い弓と弩を使ってたのに対し、イギリス人は長弓。どっちの弓も単弓ですな。『キングダム・オヴ・ヘヴン』では、確かイスラム軍は合成弓を使ってたと思うが、十字軍側はどんな弓を使ってたっけか。

 ラッセル・クロウ演じるロビン・フッドはこの長弓の名手で、リチャード王の軍の射手隊にいたという設定。長弓は射るのには剛腕と長年の丹錬を要し、中世の射手の人骨は上半身が変形しちゃってるそうだ。

 つまり、別段ごつくもないケイト・ブランシェットが長弓であれだけ距離を射るのはもちろん、そもそも引き絞ることすら無理という話で、まあ映画にそこまでリアリティを求めたってしょうがないんだが(今回の揚陸艇とか『グラディエーター』や『キングダム・オヴ・ヘヴン』のカタパルトなどは、リアリティは疑わしいが迫力があるのでそれでいい)、ケイト・ブランシェットが浅瀬で倒れて、鎖帷子が重くて起き上がれないという「リアリズム」をやるんだったら、その前に鎖帷子を着て段平を振り回すのも無理だろーという話で、いや何かもやもやしますな。

 武器兵器以外のことはどうだったかと言いますと、ラッセル・クロウ演じるロビン・フッドは前半、なかなか抜け目なく、かと思うと少々間抜けだったりして、つまり『グラディエーター』のマクシムスより個性が付与されている。三人の仲間+神父も結構キャラが立っていて、笑いどころもあちこちにある。

 しかし後半になって、自由がどうの権利がどうのとか言い出すと、『グラディエーター』と同じになっちゃうんだよ(ついでに言うと、オーランド・ブルーム主演の『キングダム・オブ・ヘヴン』もそうだ)。なんでそういうことを言いたがるんだろうなあリドリー・スコット。『ブラックホーク・ダウン』みたいなのを作ってればいいのに。

父親がカリスマ石工(技術がカリスマ的という意味ではない)だというのは、フリーメーソンに関連付けてるんだろうか? 、平民の反逆者が剣で斬首(高貴な身分の罪人の特権。刑吏の腕さえ良ければ、苦しまずに死ねるから)のわけねーだろとか、これがメル・ギブソンだったら、そこだけは史実に忠実に、それはそれはしつこく残虐に描写するんだろうなあとか、そういうことは言わないでおく。

『キングダム・オヴ・ヘヴン』感想

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