ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち Ⅰ
『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収。初出は『SFマガジン』2012年6月号。
『グアルディア』『ラ・イストリア』『ミカイールの階梯』は、いずれも22世紀末に始まる「大災厄」より後の時代を舞台とし、未来史を構成する。「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」はHISTORIAシリーズに属するものの、時代設定は近過去(2001年)である。
2001年の時点で、作品内の世界では現実の2001年当時よりも、歴然と遺伝子工学が発達している。遺伝子組換はもちろん、人工ゲノムのデザイン、人工子宮によるクローニングから臓器培養まで可能な世界だ。
そう、実はこのシリーズは歴史改変ものでもあるのですよ。
2001年春現在、世界情勢にも相違が生じている。舞台となるのは、ソ連崩壊後の唯一の超大国である。誰がどう見てもアメリカ合衆国なのに頑なに国名を出さないのは、単なるネタである。
もう少し真面目な話をすると、この「某超大国」において繰り広げられる愚行は、決して「アメリカ合衆国」に限定されたものではないからである。現実の国の現実の愚行を描きたいのなら、わざわざ歴史改変をする必要はない。
そもそもHISTORIAシリーズで、「開明的なカトリック」対「狂信的で科学を弾圧するプロテスタント」という構図を作ったのには、『グアルディア』執筆の数年前にキース・ロバーツの『パヴァーヌ』を読んで、「狂信的で科学を弾圧するカトリック」というステレオタイプに呆れ返った、というか、そのようなステレオタイプが英語圏(およびその影響を受けた日本の)フィクションの世界に溢れていることに初めて気づかされたという経緯がある。
ステレオタイプがあると弄りたくなる性分なので、生まれたのが前記の構図である。ロバーツはイギリス人なのに、「狂信的で科学を弾圧するプロテスタント」の親玉にアメリカ合衆国(に似た国)を据えるのは不当と言えば不当なのだが、現実にファンダメンタリズムの本拠地はイギリスじゃなくてアメリカだし、今回みたいな時代設定(21世紀初頭)でイギリスを「悪の帝国」にするにはどんだけ歴史改変が必要になるんだか……という次第なのでした。
本作の背景としてさらに、アメリカ合衆国によく似た「某超大国」は、現実のアメリカ合衆国よりもさらに強力な聖書原理主義と白人至上主義によって支配されてきた。それらが反知性主義と手を携え、まともな教育を根絶やしにしてしまったため、国全体の知的水準が低い上に陰謀論の温床となっている。さらに、そうした状況を嫌う人々が国外に移住し、空洞化は進むばかりである。
1991年の湾岸戦争で、この国は国連を無視してバグダッド占領とサダム・フセインの逮捕・処刑を強行。その結果、国際的な非難を浴び、孤立した。国際世論の圧力によって軍縮や経済活動の規制が進められてきたのだが、軍隊は民営化、企業は多国籍化することで対処し、依然として世界随一の国力を誇る。
しかし全世界からの非難に晒されたことで国全体が被害妄想に陥り、思想の統制、人種差別はさらに厳しくなっている。あらゆる分野での民営化によって、貧富の差も大きくばかりである。
20世紀末、「妖精」と呼ばれる人工生命体が登場する。人間の労働力を肩代わりすることを目的に、ヒト体細胞をベースに人工遺伝子を組み込まれた彼らは、いわばチャペック的生体ロボットである。知性や感情は抑制され、外見も画一的だ。
人工子宮で量産された「妖精」たちは、劣悪な環境専用の労働力として世界中で受け入れられた。遺伝子工学を禁じる某超大国でも、法の抜け穴の利用と各界の有力者たちへの賄賂によって認可される。
妖精は単純作業しかできず、また妖精を製造・販売する企業(通称「妖精企業」)が低所得層を懐柔する方策をとったため、「仕事を奪われる」という危機感で妖精が排斥されることはなかった。「妖精撲滅派」と呼ばれるのは、人工生命体というものに生理的・観念的嫌悪を抱く人々、特に低所得層が妖精企業に取り込まれたことに不安を感じる中間層である。幾つかの大企業は、妖精という安くて扱いやすい労働力の独占を目論み、撲滅派を煽る。
コンセプトは『地球最後の男』である。邪悪な怪物を退治しているつもりの男が、違う立場から見れば……という話で、邦題よりも原題のI am legendのほうが相応しいだろう。
なお、あくまでマシスンの原作であって、映画の『アイ・アム・レジェンド』ではない。幾つもある映画版はどれも機会がなくて未見なんだが、『アイ・アム・レジェンド』は機会があっても観たくない。ウィル・スミスが好きじゃないんだよ。
以下、ネタばれ注意。
主人公のケイシーは、30代前半~半ばと思われる。某超大国のごく普通の中流白人としての半生を送ってきたが、失業と不本意な再就職によって「中の下」へと滑り落ちてしまっている。
自国の価値観に疑問を抱くことなく生きてきたので無知と偏見の塊だが、決して狂信的な人物ではなかった。ごく普通の中流白人として当然ながらファンダメンタリストだが、教会に通ったり宗教番組を習慣的に視聴するほど熱心な信者となったのは、失業以降である。企業と癒着し裕福な信者を優遇する教会の在り方に疑問を抱きつつも、良き信者たらんと努めてきた。
そこへ妖精が登場する。子供のような外見をしたこの人工生命たちに、ケイシーは強い生理的嫌悪を抱く。遺伝子工学を禁忌としてきた彼の国でさえ、妖精を忌避する「撲滅派」は少数派で、さらにその撲滅派の中でさえ自分ほどの激しい嫌悪感を抱いている者は稀であることに、ケイシーは危機感を抱く。妖精の存在は、神への冒瀆であるばかりか人間の精神を歪めているのではないか、と。
「妖精は人間の精神を歪める」というケイシーの直感はある意味では正しい。「人間より一段劣った奴隷種」である妖精の存在は、人間の暴力性、ひいては我執を抑制する作用を持つのだ。
人間の暴力性や利己性が抑制されること自体は、よいことである。しかしそれが、奴隷種の犠牲によってもたらされるのだとしたら、果たして「善い」と言えるだろうか?
ケイシーは、妖精が人間社会(と神の摂理)に害をなす怪物だと信じて撲滅しようとする。その行為は、妖精によってもたらされる世界平和の破壊にほかならない。「怪物」は彼である。しかしさらに翻って見れば、彼は妖精の犠牲を必要とする「不善」を拒否しているとも言えるのだ。
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