« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »

お知らせ

 昨日(25日)発売の『SFマガジン』2012年8月号に、読切中編「はじまりと終わりの世界樹」が掲載されています。

 今号の特集は「日本作家特集」でして、その一環として、宮内悠介氏(「ロワーサイドの幽霊たち」)、籐真千歳氏(「スワロウテイル人工少女販売処――蝶と夕桜とラウダーテのセミラミス」前篇)と共に、「現在の日本SFシーンの最前線を駆ける3人の俊英作家」ということだそうです……えーと、なぜそこに仁木稔が? と一番怪訝に思ってるのは、たぶん本人でしょう。

 何はともあれ、「はじまりと終わりの世界樹」は先々月号掲載の「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」と同じ世界、同じ時代を、異なる視点から切り取った物語です。イラストは今回も橋賢亀氏に担当していただきました。HISTORIAシリーズのこれまでの作品同様、単独でも読めます。
 それと同時に、『グアルディア』以来のHISTORIAシリーズで張ってきた伏線の多くが回収されてもいます。そう、実は「彼女」がすべての元凶だったのですよ。いやー、やっとここまで来れた。

「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」「はじまりと終わりの世界樹」と続いたこの連作は、HISTORIAシリーズ内の小シリーズ(という言い方でいいのか?)《ショウ・マスト・ゴー・オン》として、もう何編か「短い話」を書いていく予定です。このタイトルの意味は、次作で明らかになるのではないかと。
 本当は連作「短編」の予定だったんですが、二編続けて「中編」になって、えらい御迷惑を掛けてもうたから、残りの話は短く収められるよう頑張りますのでよろしくお願いいたします……

|

サイモン・バーチ

 原作は未読なのだが、いかにもジョン・アーヴィングらしい作品だった。
「アーヴィングらしい」とは、どういうことなのかと言うと、
①世間一般的にはタブーと見做されかねない題材を敢えて持ってくる。
②ほかの作家ならそういう題材に対する下世話な興味を前面に押し出したゲテモノか、下世話な興味を糊塗して「泣ける」話に仕立てるところを、前者寄りのスタイルを踏まえつつ、結末では凡庸な作家には及びもつかない感動を生み出すというアクロバット(そこにあざとさがないとは言わんが)。

 小さな身体で生まれた少年サイモンと父親不明の少年ジョーの友情を描いた本作は、たぶん原作よりだいぶソフトでストレートな語り口になってるんだろうなあと推測されるが、それでも凡百の「泣ける」映画よりも遥かに捻りが利いており、また主役二人の演技が素晴らしく、風景の映像も美しい。笑わせられるところではしっかり笑わせられ(特にクリスマス劇の騒動)、結末では率直に言って感動した。

 ところで、サイモンを初めて見た余所者の少年たちが、やれホビットだマンチキンだと囃し立てるのだが、ホビットは「トールキンの小人」、マンチキンは「『オズの魔法使い』に出てた」という字幕になってた。『ロード・オヴ・ザ・リング』以後の現在だったら、ホビットはホビットで通じるだろうな。

|

ダーク・シャドウ

『スウィーニー・トッド』はいまいちで、『アリス・イン・ワンダーランド』には心底げんなりさせられたのだが、今回はバートン作品としては久々に見応えがあった。バートンの原作への愛情が感じられるという点だけでも、『アリス・イン・ワンダーランド』より遥かにマシである。

 およそ吸血鬼という代物には一切魅力を感じないのだが、まあそう感じる人々(多数派)の感性には文句をつけまい。血なんて不味いし臭いしベタベタするし、乾いてきたら色も汚くなるじゃん。そんなアレなものを吸うクリーチャーのどこが……いや、なんでもありません。
 というわけでジョニー・デップ演じる吸血鬼については、ひたすら「滑稽なもの」として楽しむことにし、後は専ら女優陣を楽しんだのであった。以下、ネタバレ注意かもしれない。

 バートン作品ヒロインの典型は、端的に言うと金髪で目がでかくて痩せてるお嬢様(程度の差はあれ育ちがいい)で、まったく精彩に欠けている。『シザー・ハンズ』のウィノナ・ライダーと『スリーピーホロー』のクリスティーナ・リッチがそうだ。
『ビッグ・フィッシュ』では、現在パートのジェシカ・ラングの存在感でもっているのであって、回想パートでは、やはり綺麗なだけのお人形である(なお、育ちがよくて金髪で痩せてはいるが、ジェシカ・ラング似ということなので目は切れ長)。『アリス』は彼女自身が主人公であって、「男性主人公の恋人」という位置づけではなく、さらに目もどちらかといえば細いが、「金髪で痩せててお嬢様で精彩に欠ける」のは一緒。
『スウィーニー・トッド』では、主人公の娘が「金髪で目がでかくて痩せてるお嬢様」という条件を満たしており、準ヒロイン的な位置にいるにもかかわらず、全然精彩がなく目立たないというところまで合致している。
 この「ヒロイン(男性主人公の恋人)の法則」の例外は『エド・ウッド』とアニメの『コープス・ブライド』くらいか。『エド・ウッド』で脇役で出たリサ・マリーは、この時はヴァンパイラなので黒髪で目が細いが、本当は金髪で目がでかい(もちろん痩せている)。で、バートンが嫁にしたんだよね。

 かと言って、バートンに女性キャラが描けないかというと、そんなことはなく、「金髪で目がでかくて痩せてる清純な若い女」以外の女性キャラだったら、結構な存在感があるんだよね。いやはや。『猿の惑星』では、普通ならヒロインになるであろう「人間」役の女優(スレンダーでもギョロ目でもお嬢様でもないが、金髪である)が全然目立たなくて、スポットが当たってるのはチンパンジーですから(そしてそれを嫁にするバートン。リサ・マリーを捨てて……)。なんなんだ。

 で、今回は主人公の恋人で呪いによって殺されてしまうベラ・ヒースコートも、ものの見事に三拍子揃っていたのでした。彼女が二役で演じるヴィクトリアが、普通ならヒロインとしてもっとスポットが当たっていいはずなのに、全然そうならない。埋没してる。
 この「本来ならヒロインになるはず」のベラ・ヒースコート以外の主要な女優はみんな非常な存在感でした。ジョンソン老婦人も含めて。
 特に強烈なのが魔女役のエヴァ・グリーンで、毒々しさでは『スウィーニー・トッド』のヘレナ・ボナム・カーターすら遥かに超越する。というか、これまでのバートン作品には存在しなかった女の色気を、時に毒々しく、時に滑稽にすら演じ切っているのですが、ここまでやっちゃってるのは、自分が美人であることに絶大な自身を持っているからだろうなあ。

 美人女優が汚れ役を演じるのは、例えばミシェル・ファイファー(今回、家長役)が『スターダスト』や『ヘアスプレー』で演じたような、いわば絶頂期を過ぎた女優の「潔い自虐」と呼ぶべき場合か、もっと若い女優が自分のイメージを払拭したくて挑む場合のどちらかが多いのではないかと思います。つまり、「もう美人女優ではなくなった」か「もう美人女優ではいたくない」。
 しかしエヴァ・グリーンの場合、自分が美人女優であることをまったく否定していなのではないかと。どれだけ滑稽かつ毒々しい役を演じようと、自分が美人女優であるという「事実」には微塵も傷が付かないという自信が凄まじい迫力となって現れ、圧倒されたというか怖かったというか。

 ミシェル・ファイファーは、今回は若作り(および老け作り)せずに、貫録ある女家長を演じていました。ヘレナ・ボナム・カーターは自堕落な心理学者を演じて巧かったけど、「自分とは全然違うキャラクターを楽しんで演じてます」感がうっすら透けてたなあ。気に障るほどじゃなかったけど、
 クロエ・グレース・モレッツが少々肉付きが良くなりすぎてたのは、役作りだよな。ヘッドフォンで音楽を聴きながらホールにふらふら入ってきて、しばらくしてからエヴァ・グリーンがいることに気づいて、びくっとするのが、この年頃の女の子の動物っぽさを表してて巧いなあと思ってたら、本当に動物でしたね。
 いや、まさかそれが伏線だってことはないだろうけど。まったく伏線なしのあの唐突さは、B級っぽさを狙ったのかもしれないけど、いくらなんでもなあ。

 クリストファー・リーが船長役でカメオ出演(吸血鬼役の大先輩だからであろう)。座ってるだけの登場だったが、相変わらず20以上若く見える上に美声も健在。

『スウィーニー・トッド』感想
『アリス・イン・ワンダーランド』感想

|

最高の人生の見つけ方

 ロブ・ライナー監督作品。
 一代で富を築き上げた病院経営者ジャック・ニコルソンが末期癌で自分の病院に入院すると、同じく末期癌のモーガン・フリーマンと同室になる。「一室二床、例外は無し」を自らモットーとしてきたので、病院経営者自身が個室を望んでも周囲が許してくれないのであった。
  この作品は予告を何度も見てるんで、なぜ大富豪なのに一般人の患者と同室になるんだろうと疑問に思ってたら、そういうことだったのね。二人を同室にするために考え出された設定なのは明らかだが。

 然るべき展開で然るべき結末を迎えた作品だった。それ自体は悪いことではなく、「然るべき展開・然るべき結末」だからこそ素晴らしいという作品はたくさんあるが、本作は今一つであった。
 まあジャック・ニコルソンを久しぶりに見れただけでも良しとするか(2007年頃の作品だが、考えてみれば2000年代に入ってニコルソン作品を観たのは初めてだったかもしれん)。しかし頭頂の髪が常に逆立ってるのは天然だったのか。

|

コンテイジョン

 えーと、contagionは「感染/接触伝染病」。
 パニックものやホラーは好きではないジャンルなので、「感染もの」はそうたくさん観ているわけではないんだが、どうも制作者が「感染」というものを明らかに理解していないか、一応理解はしてるかもしれないが話をおもしろくするために知見を無視している作品ばかりである。娯楽作品なんだから、いちいち目くじら立てるのもな、とは思うんだが、やっぱり見ていて釈然としないのである(そうして、ますます遠ざかるのであった)。

 ソダーバーグ監督はその辺どうするんだろう、という興味から観てみました。あと、キャストが豪華だったんで。以下、ネタばれ注意。
 
 疫学的な考証は、わりあいちゃんとしてたと思います。あんなに変異の速いウイルス、という設定なら、せっかくワクチンを作っても、すぐに効かない変種が出てきそうな気もしますが。
 豪華なキャストについては、実にこの監督らしく、惜しげもない使い方をしている。グウィネス・パルトロウもケイト・ウィンスレットもあっさり死んじゃうし、マリオン・コティヤールももっと重要な扱いでもいいような役柄なのに。
 
 ソダーバーグ作品は全部観てるわけじゃないんだが、好感を持てるキャラクターがあんまりいない、というのが特徴の一つだと把握しておったわけです。しかしこの作品は、誠実に自分の務めをこなしているキャラクターが多い。
 観客のキャラクターへの「感情移入」なんぞに頼らず勝負するのがソダーバーグ節だと思いますが、やはり全然好感の持てないキャラクターよりも、好感の持てるキャラクター(ローレンス・フィッシュバーンのような人間的な弱さを持ったキャラも含めて)がいるほうが、観るほうは楽ですわな。

 とはいえ本作で一番印象が強かったのは、ジュード・ロウ演じる煽動ブロガーなのでした。現実の医療関係の問題には、世間の不安を徒に煽るこの手の人間が必ずいるのですが、そういう輩の典型として巧く造形されてるし、巧く演じられている。こいつが最後に感染したりしたら、さぞや溜飲が下がると思われますが、そうならないのがソダーバーグ的であり、また現実でも概ねそうなのでしょうね。

|

亜人

2008年10月の記事に加筆修正。

 シリーズの基本設定の一つ。人間に奉仕するため、遺伝子工学で生み出された奴隷種。人と獣の中間の存在として「亜人」と呼ばれる(『ラ・イストリア』では、北米人たちは「サブヒューマンsubhuman」と呼んでいた)。
 ヒトの細胞をベースに作られており、アンヘルによると亜人の定義は「規定値以上の遺伝子改造を受けた体細胞クローン」。
 この定義から、亜人が仕える対象すなわち「人間」は、「ヒト受精卵から発生し(受精卵クローンも含まれる)、規定値以上の遺伝子改造を受けていない」個体という定義が導かれる。規定値以上の改造を受けたヒト受精卵由来の個体や、改造を受けていないヒト体細胞クローンがどのような位置付けだったのかは、今のところ不明。
 ただし、法で定められた「規定値」は時代、地域、文化によってまちまちであり、しかも結構抜け穴があったらしい。

 亜人は遺伝子管理局によって造り出され、2007年に合法化された。促成培養(1年で肉体年齢15歳まで成長させる)と大量生産を可能にしたのは、20世紀末に実用化されていた人工子宮である。
 培養期間中、用途に合わせた知識と性向が脳(神経細胞)を直接刺激することで刻み付けされる。このため、亜人の思考や感情は単純で制限されたものになる。なお、人間に対しても脳神経の直接刺激によって知識を記憶させることは行われたが、これは刺激の程度が軽い「学習の補助」であり、「刷り込み(imprinting)」と呼ばれ、亜人に行われる「刻印(caracter)」とは区別された。また、亜人は生殖能力も停止されていた。

 奴隷である亜人に対し、人間は人権を保障された「市民」であった。亜人と人間の区別は厳格に法制化され、亜人を人間と同等に扱うのは禁止されていた。促成培養や思考・感情の制御も、人間との差異化のためである。外見だけで簡単に区別が付けられるような改造もなされていた。『ラ・イストリア』に登場した亜人たちも、羽毛状の頭髪や尖った耳、尻尾や角などを有している。
「亜人」は正式名称であり、1999年に発表されたプロトタイプは、「妖精」の名で呼ばれた。このことから、21世紀に入ってから「亜人」の名が正式に定められた後も、俗称として「妖精」の名が残った。
 なお、プロトタイプの亜人は身長150センチ足らずの丸ぽちゃの子供のような外見をしており、「妖精」という呼び名は相応しいとは言えなかった。

 各言語・文化圏での亜人の俗称は、例えばスペイン語では「ニンファninfa」、英語では「ニンフnymph」「フェアリーfairy」など。すでに亜人の生産が停止していた2250年代、北米の白人至上主義者たちの中には、有色人種を「妖精」と呼ぶ者もいた。
 ほかには、ルース(ロシア)語の「ニンファниmфа(妖精)」、中国語の「クイgui(鬼)」、イスラム圏の「ジンjin(妖魔)」(ペルシア語の発音は「ジェンjen」ですが、ややこしくなるのでアラビア語発音に合わせました)など。
 イラン語(ペルシア語と同系統の言語の総称)圏では、特に美しい外見の亜人を「パリーサparisa(妖精)」と呼んだ。ペルシアの伝説では、妖精パリーサは白い鳩のような翼を持った美しい乙女とされる。
 なお、『ミカイールの階梯』第五章でレズヴァーンが語るパリーサの物語は、実はペルシアの伝説そのものではなく、それに基づいたバレエ「ラ・ペリ」から。「ラ・ペリ」は1912年、ロシアのバレエ団のためにデュカスによって作曲された。
「パリーサ」は「パリpari/ペリperi」ともいい(というか、「パリーサ」のほうが派生語なわけだが)、一説によるとfairyの語源だとされる。

 遺伝子管理局の体制は「絶対平和」(スペイン語では「パス・アブソルートpaz absoluto」)と称されたが、これは戦争をはじめとする暴力が抑制されていたということではない。「人間同士」の暴力が抑制されていたのである。兵士はすべて亜人であり(将校は人間であろう)、戦闘は人間とその財産を決して傷つけない条件下で行われた。
 人間たちは亜人同士の殺し合いをショーとして楽しんだが、個人が亜人を傷つけることは禁じられていた。重労働に従事させることも含めて、亜人への暴力は体制によって完璧にコントロールされていた。亜人の労働力が提供する豊かさだけでなく、この「暴力のコントロール」こそが、絶対平和を支える強固な基盤となっていたのである。
 なお、今のところ「絶対平和」の時代は直接描かれておらず、上記の情報も真偽のほどが定かでない部分もある。とはいえ「知性機械」に保存された記録に拠っているので、それなりに信憑性は高いと思われる。

『ミカイールの階梯』では、タリム盆地最大の都市だったクチャに、絶対平和時代の遺跡である円形闘技場が残っている。
 作中では「円形闘技場」に「キルクス」とルビを振っている。「キルクスcircus」とはローマでは楕円形の競技場を指し、円形闘技場(コロセウム)とは区別することもあったようだが、circusは「輪・円」の意味であり、現在も英語をはじめ各欧州言語で「円形闘技場・円形競技場」を意味する(ローマの楕円競技場でも、剣闘士の試合は行われていた)。
 剣闘士の闘いは見世物であり、それはcircusすなわち「サーカス」という現代の用法にも残っている。『ミカイールの階梯』で、円形闘技場の遺跡に於いてマフディ教団による残虐な公開処刑が行われ、またパリーサとリューダの戦闘が公開されるのも、亜人同士の殺し合いという見世物の記憶、そしてタリバンによる「サッカー・スタジアムの公開処刑」の記憶の残滓である。

 妖精に関する国際法が制定されるのは2007年だが、それ以前から妖精を傷付けた場合には「器物損壊罪」が世界共通で適用されていた。「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」では、妖精同士に殺し合いをさせる(覚醒剤などが投与される)非合法の闘技場について言及されているが、こうした地下闘技場が後に合法化されたものが、亜人同士の殺し合いという見世物であったと思われる。

 22世紀末に始まった「大災厄」は、新種のウイルスが元凶だった。「絶対平和」を崩壊させたのは、動植物に直接被害をもたらした疫病ではなく、亜人の大量生産の停止である。人工子宮の生体パーツである内膜組織が感染したためであった。
 亜人が大量生産できなくなった時点で、人間同士の支配‐被支配の関係が復活する。また、遺伝子管理局の支配が緩んだことで、その管理下にあった遺伝子操作技術が流出し、非合法の遺伝子改造生物が数多く造られるようになった。
 それらの遺伝子改造体たちは生殖機能を停止されることなく、子孫を残した。また、復活した人間同士の暴力の渦中で、自衛のため、自らの血統に高い戦闘能力の改造遺伝子を組み込む家系も少なくなかった。
 ただし災厄の進行に伴って文明も急速に退行したので、こうした動向は23世紀後半までである。

 上述したように、亜人たちは一目で人間と区別が付くよう、特異な外見を与えられていたが、23世紀の遺伝子改造された人間たちも、常人との区別のため、特異な外見を与える遺伝子を、異能の遺伝子と連鎖して付与されることが多かった。
 旧時代の知識と技術が失われた後、これら遺伝子改造体の末裔たちは、「変異体(ムータント、ミューテイション、ムタシオンなど)」と呼ばれるようになったが、異能のみならず特異な外見をも受け継いでいたことが、こうした呼び名の一因である。
 異能と連鎖した外見上の特徴の例としては、『グアルディア』『ラ・イストリア』に登場する「千里眼」の盲目、『ミカイールの階梯』の「グワルディア(精鋭部隊)」の赤毛などがある。生体端末(『グアルディア』『ラ・イストリア』)の極度に薄い色素、殺戮機械パリーサ(『ミカイールの階梯』)の金髪碧眼白皙なども、同様である可能性が高い。
 また、『ミカイールの階梯』の守護者(ハーフェズ)たちも、外見上の区別のため、後天的にだが遺伝子改造(ごく単純な遺伝子組み換え)によって明るい金色の虹彩を与えられている。

『ラ・イストリア』のクラウディオが生まれ育った地下施設「グロッタ」は、外部から完全に隔隔絶し、疫病や飢餓や戦乱といった災厄を免れていた。それにもかかわらず、暴力のコントロールが失われていたため、亜人への虐待や人間同士の諍いが頻繁だった。
 またアロンソも、グロッタほど完全ではないものの同じく外部から隔絶した「城」で生まれ育ったが、ここでは亜人がおらず、人間が労働力を提供していた。彼ら使用人の反乱によって、城は押し寄せる暴徒に明け渡されるのである。

関連記事; 「遺伝子管理局」 「大災厄」 「絶対平和」 「コンセプシオン」
        「グワルディア」 「殺戮機械」 「変異体」

設定集コンテンツ  

 以下、ネタばれ注意。
 

続きを読む "亜人"

|

ロボット

 久しぶりに映画館で観るのがこれ、というのもあれだが。何はともあれ、『ムトゥ 踊るマハラジャ』から14年ぶりに観る「スーパースター・ラジニカーント」である(もちろん『ムトゥ』も映画館で観ましたとも)。

『ムトゥ』はいろんな意味で途轍もなく衝撃的な作品であった。これは単にインド映画初体験であったから、ということではないと思う。元々ミュージカル映画が好きなので、「役者がいきなり踊ったり歌ったりする」という展開には特に違和感を抱かないし。少し後で観た『ジーンズ 世界は二人のために』(監督と主演女優が『ロボット』と同じ)にはそれほど感銘を受けなかったし。やはり『ムトゥ』は特別なのだと思う。
 ちなみに一番衝撃的で理解不能だったのは、「なぜ山羊が!?」だった。

 さて『ロボット』であるが、基本は『ムトゥ』と変わっていないので、あの時のような衝撃はもはやない。むしろ、15年(『ムトゥ』は1995年制作で、『ロボット』は2010年)の間に、インドも映画も変わったなあ、と感慨にふけってしまったのでした。いや、映画というのは世界規模での話ね。
『ムトゥ』が前近代的な舞台設定(確か悪役は70年代くらいの自動車に乗ってたけど)なのに対し、『ロボット』が現代の話(ロボットや人工知能の技術は現代よりはるかに進んでる設定だが)だから余計に違いが目立つというのもあるんだけど、まさに隔世の感があるなあ。インドが今や「経済成長著しい新興大国」だもんね。
 
 映画が変わった、というのはCGの進歩とグローバル化である。グローバル化の最も端的な現れは、ワイヤーアクションだ。『ムトゥ』にも格闘シーンには香港映画の影響が見られたけど、ワイヤーはなかったからな。
 ワイヤーアクションが香港から直接導入されたのではなく、ハリウッド経由なのは明らかで、ロボット軍団の黒のコートは露骨に『マトリックス』だが、しかし屋内はともかくインドの炎天下でもあの格好で撮影したんだろうか……

 ボリウッドがCGとワイヤーアクションを取り込んで何かものすごいものが出来た、ということで作品自体はグローバル化の成功例なわけだけど、A・R・ラフマーンの音楽は微妙というか、はっきり言って駄目だった。ハリウッド風の凡庸で大味なスコアにインド風の味付けが多少、と言ったところ。
「インド的でない」のが駄目、とかコロニアリズムな発言はしないがな。現在のインドではこういう音楽が好まれてるということなんだろう。ということはつまり、『ロボット』とあまり変わらない時期に作曲された『スラムドッグ・ミリオネア』音楽が、インド色が非常に強い、というか、いかにもインドの音楽を欧米人に口当たりがいいようにしました、な感じで、それでアカデミー賞獲っちゃったのは、まさしくコロニアリズムってことになるので微妙ですな。
 ともかく、『ロボット』の音楽が『ムトゥ』より凡庸なのは確かだ。

 15年後の変化、に話を戻すと、「スーパースター・ラジニカーント」もすでに61歳ですが、15年前には二重顎で腹の出たおっさんだったのに、身体はむしろ引き締まってるし(あくまで相対的にだが)、肌もきちんと手入れをしてるっぽい。こういう価値観の変化とか、アンチエイジングの概念とかも、グローバル化の一環ですな。まあそのほうが彼も末永く活躍できるから、いいことですが。

 3時間近い完全版ではなく、30分余りカットした日本公開版で鑑賞。カットされたのはほとんどミュージカルシーン。インド映画からミュージカルシーンをカットしちゃ駄目だというのが、よく解りました。でもさすがに完全版を観に行く気力はない。

『スラムドッグ・ミリオネア』感想

『ボス その男シヴァージ』感想

|

ゴスフォード・パーク

 ロバート・アルトマン監督作品。
 1930年代のイギリスは貴族の屋敷を舞台にした殺人ミステリー、というと、いかにもアガサ・クリスティ風である。実際、当初は「クリスティ作品のどれか映画化されていないもの」を映画化したかったんだそうだが、映画化されてないクリスティ作品はないため、「クリスティ風」のオリジナル脚本にしたんだそうな。

 要するに、アメリカ人アルトマンがクリスティ風の雰囲気を映画に撮りたかったということで、シチュエーションだけだとクリスティ以外の何ものでもないが、さすがにアルトマン作品だけあって、人間関係の描写はもっと生々しい。
 それに加えて、いつものアルトマン的群像劇という、それだけと言えばそれだけの作品なんだが、細部まで作り込まれて見応えがあった。上層と下層、それぞれの俗物ぶりを暴き立てるようにして描いているが、アメリカ人二人を間抜けにすることでバランスを取ってるし。

 クライブ・オーウェンがわけありの使用人を演じている。クライブ・オーウェンはとにかく容姿が気に食わないのである。いかつくて鬚の濃い顔に染み付いた風采の上がらなさ、というのはハードボイルドなかっこよさに昇華されてもいいようなものなのにそうならないのは、ごついフェイスラインと濃い鬚の剃り痕に囲まれた唇が、妙に「むにっ」としているためであろう。あの「むにっ」が意志薄弱そうな印象を与える上に、ありていに言って気色悪いんだよ。
 しかし本作でのクライブ・オーウェンは、鬚の剃り痕が目立たない上に、唇も「むにっ」としていない。たぶんまだ若いので(2001年)、鬚が濃すぎないのはもちろんのこと、唇とアンバランスさを生じるほど顔がごつくなってはいないのだろう。そこそこかっこよく見えるほどで、少々驚きであった。だからって、今のオーウェンが好きになるわけじゃないけどね。

 ケリー・マクドナルドもまだ25歳なので初々しさを残しているが、しかしまだ25歳なのに、すでにして肩や腰回りに分厚い脂肪が付いており、いかにも鈍臭そうなのであった(いくらメイド役だとはいえ)。『トレインスポッティング』の時は、あんなに印象的だったのになあ。
 

|

« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »