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ラム・ダイアリー

 以前にも書いたと思うが、ジョニー・デップは実は意外と演技のバリエーションが少なく、一番根底にあるのが①「迷子の目をした青年」で、そこから派生したのが②「奇人または怪人」と③「アル中またはヤク中」。大部分の役柄が①②③のどれかか、それらを適宜混ぜ合わせたものだと言える。
 で、今回は①と③の混合のバリエーション。

 ハンター・J・トンプソンとジョニー・デップの組み合わせは『ラスベガスをやっつけろ』以来だが、今回はまだハンターがクスリは(ほとんど)やってない時代の話なので、あれほど無茶苦茶ではない。
「無茶苦茶」というのは褒め言葉として使われる場合もあるけど、この場合は文字どおりの意味でしかなく、あの作品はまったく共感を抱けないヤク中二人の生態観察記録といった趣であったが(そういう意味ではおもしろくはあったが)、今回は一応ストーリーはある。ジョニー・デップがマイケル・リスボリとジョヴァンニ・リビシと一緒にひたすら酔っ払い(かつ1回だけラリる)続ける合間にかろうじて進行するストーリーだが。

 以下、ネタばれ注意。
 プエルトリコで暴利を貪る、絵に描いたような悪徳アメリカ人実業家役が、ナイスガイ面した嫌な奴を演じさせたら右に出る者がいないアーロン・エッカート。
 この男に利用され掛けた揚句、あっさりお払い箱にされたジョニー・デップは、不正を暴く決意をするのだが、それまで悪徳アメリカ人たちの行動に顰蹙するよりも酔って醜態を晒している時間のほうがずっと長かったので、いきなり「闘おう」とか言い出しても説得力がない。
 義憤は本物だとしても、酩酊してる時間がもう少し短かったら、もう少し早い段階でもう少しマシな対処ができたんじゃないか、としか思えないのである。

 あと、原作が自伝(的)だけあって、主人公の義憤やら心意気やらにナルシズムが芬々と。結局、間抜けな理由で失敗に終わるのだが(印刷機が押収されたことくらい、先に調べておこうよ)、それを自嘲している気配はない。
 どうも自伝の映画化って、なぜか作者のナルシズムや身勝手さが浮き彫りになる傾向が強い気がするんだが、つまりはこれも例に漏れず。
 1950年代のプエルトリコの街や自然の映像は、文句なしに素晴らしかった。

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