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ドラゴン・タトゥーの女

 原作および映画について感想。
 少し前に、我が家に『ミレニアム』ブームが訪れたのであった。ミステリ好きの妹二人と父が次々とこの長大なシリーズに嵌まり、何週間にもわたって話題に上らせ続けたのである。ミステリがあまり好きでない上に、その時偶々長い小説を読める精神状態になかった私と、そもそも小説を一切読まない母は完全に蚊帳の外であった。
 特に父はほとんど熱狂していたと言ってもよく、還暦をとうに過ぎた人間がここまで小説に嵌まれるものなのかと、傍で見ていて少々感動を覚えたほどであった。「俺も才能があったらこんな小説を書くんだが」とまで口走った。落ち着け、おっさん。
 ちなみに父は理系のくせに文学青年崩れで、若い頃は私小説のようなものを書いていたが、私が知る限りでは上記のような発言は初めてである。

 ブームが去ってしばらくしてから私も読んでみました。
 ミステリは好きじゃない、と書いたが、ミステリに分類される作品(小説、映画等)でも好きなものは結構ある。つまり、より正確には「好きじゃないミステリが多い」ということになる。
 で、それらの作品の何が好きじゃないのか。一言で言うと「真相(あるいはトリック)至上主義」とでもなるでしょうか。作中の人間関係とかいろんなエピソードとか何もかもが、真相/トリックの伏線もしくは読者をミスリードする目的なのがあからさますぎて、興醒めしてまうのである。
『ドラゴン・タトゥーの女』の例で言えば、依頼主の一族がやたらと奇人揃いで入り組んだ歴史を持つ設定なのは、読者を混乱させ謎解きを困難にするのが主目的であって、そういう一族を描くこと(ほかにも親ナチというスウェーデンの負の歴史など)自体は二の次に過ぎないとしか思えてならない。そして、そういうのんは楽しくないのである。要するに私は、ミステリをミステリたらしめている最重要素=謎解きに関心がないんだな。

 そういうわけで、私にとって『ミレニアム』第1部は、確かに一気読みできるおもしろさはあるものの、じっくり読むほどの価値はなく、自分のミステリ属性のなさを再確認させられただけであった。それでも話がヒロイン中心になりすぎてる第2部以降よりは好きだが。
 で、映画版。本国版ではなくハリウッド・リメイクのほうにしたのは、ダニエル・クレイグがわりと好きだし、スチールで見る限り本国版よりヒロインが原作のイメージに近かったから(本国版だと結構ごついし老けてる)。そして何より、デヴィッド・フィンチャーの「成長」に関心があったからである。
 
 この監督の作品は、『セブン』『エイリアン3』の頃からほとんどすべて観ているが、偶々他人に付き合って観る機会が重なってそうなっただけで、少なくとも数年前までは嫌いな監督の一人であった。
 何が嫌いかって言うと、まずテーマもしくは「一発ネタ」ありきで(後者は『ゲーム』や『パニック・ルーム』)、それを成立させるために他のすべての要素を無理矢理にこじつけている。そのこじつけ方が強引を通り越して、拙劣ですらあること。第二に、話が主役の周囲のごく狭い人間関係に終始しているだけでなく、そこからいきなり「セカイ」に短絡する幼稚さである(『パニック・ルーム』は完全に一軒の家の中だけに終始しており、「セカイ」が語られない分、むしろマシである)。

 それが『ゾディアック』では、「狭い人間関係」と「セカイ」の間にある物事に目を向け、それらを描こうとする努力が見受けられるようになり、『ベンジャミン・バトン』ではその努力の成果が確実に見られる。
『ソーシャル・ネットワーク』は未見だが(そのうち観る予定)、この『ドラゴン・タトゥーの女』に至っては、上記の欠点(悪い意味での「デヴィッド・フィンチャーらしさ」)がまったく感じられなかった。
確かに原作ではキャラクター一人一人(かなりの端役に至るまで)の背景がしっかり作り込まれているが、映画では尺の問題で削らざるを得ないから、やりようによっては以前どおりの「フィンチャーらしい」話になった可能性もある。特にヒロインがああいうキャラだからね。
 にもかかわらず、ちゃんとバランスの取れた作品に仕上がっていたわけで、いやー大人になったねえ、と生温かい目で見守ってしまうのであった。

 あと、フィンチャー作品に毎回あるブラックなつもりらしいジョークは、鼻について笑えないんだが、今回のあのシチュエーションでエンヤが掛かったのには笑った。

 外国映画をハリウッドでリメイクすると、往々にして無理やりアメリカが舞台のアメリカ人の話に変えられてしまうのだが、アメリカ人は外国人への共感能力を欠いているのであろうか。しかし本作はハリウッドの俳優が英語で演じているとはいえ、ちゃんとスウェーデンが舞台のスウェーデン人の話であった。
 本国版と見比べる気は今のところないし、リメイクの意義を云々する気もないが、原作を巧く消化したという点も含めて、映画としてよく出来ていたと思う。フィンチャーの「成長」と切り離しても、充分評価できますよ。

 スウェーデン文化はよく知らんので(リンドグレーンは愛読してたが)、役者たちがちゃんとスウェーデン人らしかったかどうかはわからないんだけど、例えばダニエル・クレイグ演じる主人公の、女に対する良くも悪くも自由な態度は原作どおりであり、それは明らかにアメリカ文化とは異質なものだ。あと、彼がやたらと喫煙するのも(ストレスで禁煙を破っているという設定だとはいえ)、昨今のハリウッドの時流に逆らってますね。
 
 ダニエル・クレイグは、若いヒロインに対しておっさんという役柄。クレイグの出演作でこれまで印象に残っているのは007シリーズと『ミュンヘン』だけだが(ほかにも幾つか観てるんだが憶えてない)、どれも何年も前でもないのに「若造」の役だった。おっさんのほうが好きです。
 ルーニー・マーラーは本作で初めて観たのだが、小柄で不健康でひ弱そうという容姿だけでなく、それにもかかわらず強烈な怒りのエネルギーを抱えているという役に巧く嵌まっていたと思う。エキセントリックなキャラクターというのは、しばしば役者が「エキセントリックに演じる自分」に酔ってるのが見え透いていて辟易させられるのだが、そういう印象は受けなかったし。

 以下、一応ネタばれ注意。
 ステラン・スカルスガルドは、『宮廷画家ゴヤは見た』で温厚で堅実な人物としてのゴヤを好演していたが、今回はいかにも裏がありそうに見えてしまう。特に笑顔が不気味だ。単に眉毛がないせいかもしれないけど。
 謎の真相の変更については、私はプロットを簡潔にする(尺の問題で)ための適切な処置だと思ったのだが、父は映画のほかの要素は気に入ったようだが「あれじゃ台無しだ」とずいぶん不満げだった。ミステリ者かそうじゃないかの差だなー。

『ゾディアック』感想
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』感

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