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近況

 ここは小説家である仁木稔のブログですが、メインは映画感想ですが、更新は頻繁とは言えません。困ったもんだ。
 
「観たいDVDを50音順に片っ端から観ていく」企画を一昨年11月から実施中なのであるが、2年以上経ってもまだ「し」までしか進んでいない。観たい作品が多い上にせいぜい週に1本の頻度だから時間がかかるのは当然としても、しばしば中断するのでどないもならん。
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 中断の理由はただ一つ、執筆だが、せいぜい週に1本の鑑賞もできなくなるほど余裕がなくなるのは、主に物理的にではなく精神的にである。ほかのことがなんにもできなくなるのですよ。
 というわけで、DVD鑑賞記の更新中断が1ヵ月以内だったら、物理的に余裕がないか、あるいは偶々、感想をブログに上げるほどもない可もなく不可もない凡作に続けて当たってしまったかですが、1ヵ月以上続いた場合は、「ああ、精神的に余裕がなくなってるんだな」と思ってください。わかりやすいですね。
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 余裕ができたので(脱稿したので)、8月以来中断していた「片っ端から観る」企画再開ですが、このペースじゃ50音順の後ろのほうに辿り着くのに何年かかるかわからんので、しばらく駆け足で「し」から「そ」以外の作品を何本か観てしまうことにしました。
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 今年は中断するのは物理的に余裕がなくなった時だけにしたいなあ。

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ブラックスワン

 私の感想は誉めてるのか貶してるのか解りにくいんだそうで、今回は特に解りにくいのではないかと思いますが、誉めてるんですよこれは。一応ネタバレ注意。
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 キワモノ映画。しかし監督が最初からキワモノ映画にするつもりで作っているので、キワモノ呼ばわりはなんの批判にもならないのである。
 ミッキー・ロークに当て書きで『レスラー』というのであれば、俳優としてどん底まで落ちた彼を再起させようとする厳しくも愛情ある行為として美談になる。いや、実際には『シン・シティ』や『ドミノ』等で微かとはいえキャリアは上向きにはなってたんだけどね。どん底を脱するきっかけは、『レジェンド・オブ・メキシコ』だろうな。気の毒なくらいしょぼい役で目が死んでたけど。
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 しかしナタリー・ポートマンに『ブラック・スワン』となると、相当微妙である。その時点での彼女のキャリアは確実に行き詰まりつつあり、原因は優等生すぎることだというのもすでに周知となっていた。その彼女に、同じ理由で行き詰まっているバレリーナの役を当て書きというのは、底意地の悪い行為以外の何ものでもない。
 その底意地の悪さは広報を含めて最初から前面に押し出されており、余程素朴でない限り、観客もまた底意地の悪さを共有することになる。
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 という時点ですでにキワモノの要素が強いところに、アロノフスキー監督はこれでもかとばかりに三流サイコホラーの演出を盛り込むのである。あまりに過剰でしつこいので、意図的にやってるのは了解しつつも、ホラー的な演出が大嫌いな私はかなり辟易させられた……のだけれど、クライマックス近くなってポートマンの脚が棒のようにボッキリ折れたり首がにゅーっと伸びたりする悪ノリには、うんざりを通り越して愉快になってしまいましたよ。
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 いやはや、こんなキワモノが感動作扱いとは、世の中には私が予想する以上に素朴な人々で溢れているようだ。ホラー映画的演出を腐した批評もちらほらとは見たが、監督がそういうつもりで作ってるんだから、全然批判にならないって。
 ま、「女苛めたいだけじゃねえか」ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』その他が「泣ける」映画だと信じてる人も未だに大勢いるだろうしね。主演女優を苛めたいだけ、というのはアロノフスキー監督も一緒だが、こちらはその意図を糊塗するどころか前面に押し出しているのが、いっそ清々しい。
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 バレエダンサーの筋肉というのは本当に美しく、最前列の席から眺めるとうっとりしてしまうのだが、バレエを主題とした映画はほとんど観たことがない。予告を見る限りではどれも、血豆だらけで変形したつま先とか傷めた筋とかの「痛さ」てんこもりが予想されるからである(小学校に上がるか上がらないかの頃、そういうドキュメンタリーを見てほとんどトラウマになっちゃってね……)。
 ナタリー・ポートマン自身が痛いし、その彼女に当て書きした役も痛いところに、バレエの痛さまでが加わってるのが、今まで本作を観るのを避けていた理由である。
 で、実際観たところどうだったかというと、役とバレエの痛さは上記の悪趣味な演出に紛れ込み、しかも驚いたことにポートマンも痛くなかったのであった。
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 あまりに悪趣味で馬鹿馬鹿しい演出のお蔭で、自分を客観視する余裕ができたのではないだろうか。まあ監督が彼女のためにそういう演出にしたんじゃないのは確実だが。
 映画ではヒロインは死をもってしか殻を破ることができなかったわけだが、ポートマンはこれまでのいっぱいいっぱいの演技から、余裕のある演技をものにすることができたわけで、いや、よかったね。間違っても美談じゃないけど。
 
 安いサイコホラー的演出は本当にしつこく、途中からはどれだけ「衝撃的」な映像でも、「どうせまた幻覚だろ」とげんなりさせられるだけである。しかし割合初めのほうで、ポートマンが振付師の言い付けどおり部屋で自慰を始め(真面目なので、そんな指示にまで従うのである)、気分が乗ってきたところで傍に母親がいるのに気づく、という場面は、明らかに「現実」である。あそこだけはほんとに怖いよな。
 
 その振付師を演じるのが、ヴァンサン・カッセル。指導と称してセクハラをする屑野郎かと見せて、どうやらそれが本当にダンサーのためになっていると心から信じる熱血指導者らしいのであった。それはそれで頭の痛い話である。
 一部の芸術家(あるいは表現者)が抑制を欠いた性格だからといって、抑制を欠いた振る舞いをすれば芸術家あるいは表現者として成功するわけではない。ということを監督が承知しているのは、落ち目の元プリマの役をウィノナ・ライダーの当てたことからも明らかである。せっかくの才能と築きかけていたキャリアを抑制の欠如で台無しにした、生きた見本だもんな。
 
 それにしても、彼女の今後がますます心配である。ポートマンが捨て身で挑んだ役で見事にステップアップを果たしたのに対して、同じく捨て身で演じたウィノナ・ライダーが何かを得たようには思えないので。ポートマンに当てた役はまだ「底意地が悪い」で済むレベルだけど、ライダーの役は本当に残酷だよ。役では長期間にわたってトップに君臨していたことになってるけど、本人はそこまで行ってないんだから。
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ザ・ファイター

 実話に基づいているそうで(『ファーゴ』という例があるので、こういう言い方をしてみました)、愚兄賢弟を演じるクリスチャン・ベールとマーク・ウォルバーグは、最後に登場する「本人」たちに結構雰囲気が似ている。
 絵に描いたようなホワイト・トラッシュと移民ばかりが住む地区。ボクサーのクリスチャン・ベールは、一度は地元の誇りと呼ばれるほどの栄光を手にするが、やがてドラッグに溺れ、以後は負け犬人生を送っている。
 マーク・ウォルバーグは兄に憧れてボクサーになるも、絵に描いたようにホワイト・トラッシュな家族(ウォルバーグが稼いでいるお蔭で金銭的にはそこそこ余裕があるが、文化水準はホワイト・トラッシュなままである)に足を引っ張られ、その成績は振るわない。このままでは自分も駄目になると家族離れしようとする弟を引き留めようと、兄は金を稼ぐことにするが、その方法というのが美人局なので間もなく逮捕される。
 
 以下、ネタばれ注意。
 ネタばれというか、筋立ては家族の再生とか転落からの再起とか絵に描いたようにわかりやすく、単なる枠でしかない。観るべきところは、その枠の中での俳優たちの達者な芸である。特にクリスチャン・ベールはここ何年もずっと、「巧いんだけど埋没してる」演技ばかりが続いていたのが、ようやく個性の立った演技になっていて、見事オスカー獲得である。よかったね。

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SFマガジン読者賞

『SFマガジン』2012年8月号に掲載された「はじまりと終わりの世界樹」が、SFマガジン読者賞を受賞いたしました。本日発売の3月号の受賞コメントでも述べていますが、投票してくださった皆様に、改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

 毎年2月に刊行される『SFが読みたい』では、その年の「SFマガジン読者が選ぶベストSF」も発表されるのですが、HISTORIAシリーズの本はこれまで3作とも、アンケートによる「ベストSF」よりも高くランキングしていただいております。以前も書きましたが、SFMは子供の頃から憧れていた雑誌なので、その読者の方々に評価していただけるのは、本当に嬉しいことです。

 ところで、「はじまりと終わりの世界樹」は、デビューが決まった時点から構想していた、というようなことを以前書きましたが、実はルーツはもっと古くて高校時代からだったりするのでした。
 といっても、構想二十余年とか御大層なものじゃなくて、ネタを思いついて以来、そのまま放っておいただけなんですが。HISTORIAシリーズに組み込もうと決めてからも、ほぼ放置だったし。

「ハヤカワSFコンテストでデビューして、『SFマガジン』に作品が掲載される」という夢は中学時代以来のもので、だから当時からSFコンテストへの応募作品のネタを幾つも考えてたんですが、どれも書き出す端から空中分解する……高校時代には、もう書くことはほぼ諦め、ネタを思いついてもプロットどころかメモすら書かないという体たらくでした。
 そういう泡沫の如きネタの数々のほとんどは、とっくに忘れてしまいましたが、忘れずにいた数少ないのんの一つが「はじまりと終わりの世界樹」なわけです。

 あれは「SF冬の時代」が厳しさを増すばかりで、私自身、すでにSFから離れかけていた頃だから、高二か高三。本当に「思いついただけ」で構想を「練る」段階にすら達しなかったネタでした。舞台も決めていなくて、時代は漠然と遠未来を想定していただけです。
 だから「はじまりと終わりの世界樹」の背景となる設定は、当然ながら新たに考え出したものです。しかし中心となる「姉」と「弟」、そして彼らの「娘」の三者の関係は、当初のものとまったく変わっていません。
 当時すでに嗜好というか方向性ができあがってたんだなあ……近親同士の入り組んだ愛憎が基本という。あと、「女は凶悪、男はヘタレ」。凶悪女性キャラは、いわば「とっておき」ですが、男性キャラはどう書いてもヘタレになってまいます。ヘタレじゃなくしようと頑張ってもヘタレる。それは私自身が「ヘタレじゃない男はいない」という偏見の持ち主だからでしょう。でも高校時代にはまだそんな偏見は持ってなかったはずなんだけどな。
 
 それはともかく、89年か90年当時、SFはあまり読まなくなっていたにもかかわらず、相変わらず書きたいものはSFだけで、ハヤカワSFコンテストでデビューする夢も諦めていなかった頃に思いついたネタを、こうしてきちんとかたちにしたものがSFマガジン読者賞をいただけて、なんだかまるで夢(SFコンテスト入選)が叶ったかのようです。何度でも言います。ありがとうございました。
 いや、もしSFコンテストが当時の規定のまま存続または復活していたとしても、「はじまりと終わり」は規定枚数(40~100)を大幅に超えちゃってるから、応募できないんですけどね。

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ホビット

 2012年12月鑑賞。
 アクション映画が『マトリックス』の前と後で大きく変わったように、ファンタジー映画も『ロード・オブ・ザ・リング』前と後に分けることができる。しかしアクション映画がその後、ジェイソン・ボーン・シリーズでまた新たな方向性が登場したりして多様に展開しているのに対して、ファンタジー映画は『指輪』の亜流しか出とらんのな。

 で、『指輪』から十年ちょっと経って、ようやく登場した『指輪』を超える作品が、『指輪』の前日譚ていうのは、なんだかなあ。「超える」と断言してしまうのは早計かもしらんが、とにかくいろんな面でスケールアップしていることは確かである。
 しかしファンタジー映画としての新しい表現とか路線とかいったものが生まれたかというと、そんなことはない。前日譚としてはそれで正しいんだが、この10年間、ほかの連中(今回の監督もピーター・ジャクソンである)は何をしてたんだという気がしてならないのであった。

『指輪』と違ってまったくの子供向けである原作を、『シルマリル』とかの設定を組み込んで、巧いこと対処年齢を上げてるなあ。原作への多大な愛と敬意があって初めてできることで、『ナルニア』のスタッフは爪の垢を煎じて飲みやがれ(あんなクソ映画にしやがって……)。
 とにかく、第2作(1年後)も観に行こうという気にはさせられました。

 ところで『マトリックス』はSF映画にとってもエポック・メイキングであったはずなんだが、「大きく変わった」と言えるほど、その後SF映画は作られてないんだよなあ……

『ホビット2』感想

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ボス その男シヴァージ

 2012年12月鑑賞。
『ロボット』よりおもしろかったが、その主な理由はやはり、ダンスシーンがカットされていないことだろう。「なぜそこで踊る?」というわけのわからなさなのに、強引に魅せてしまう力業こそがインド映画の魅力ですよ。

 西原理恵子によれば、どんな料理もインド人が作るとカレーになるそうである。『ロボット』はハリウッド+香港をインドで料理したらこうなりました、という感じだった。インド人が作ってインド風味になってるけど、とりあえず一応、インド料理ではない、という感じ。
 一方、『ボス』はハリウッドと香港の影響を多大に受けてはいるが、あくまでインド料理であった。『ロボット』が最初から海外進出を視野に入れてると思しいのに対し、こちらはインド人のためにだけ作られている「本場もの」であって、くせは強いが、私はそのほうが良い。太鼓腹に絵を描いた男性ダンサーたちの群舞とか、頭がクラクラした。
 まあインド人のためだけ、といっても、インドは広くて多様だから、特定の地方だけではなく全インド人向けに作れば、それだけである程度の普遍性が生じ、だから外国人にも楽しめるのだろうけど。
 
 ストーリーは……あってなきが如きだから説明は省略するが、ラジニ・カーント演じる主人公は、『ロボット』と違って普通の人間である。なのに『ロボット』の時と大して変わらんくらい強いのである。そして、なぜ強いのか、説明がまったくない。
 説明がないのは『ムトゥ』も同じだが、当時(95年)はまだせいぜいカンフーを取り入れてる程度だったので大した問題はなかったが、2007年の本作では完全にワイヤーアクションと化しているので、もはや人間じゃないレベルです。なのに格闘技を学んだという設定すらない。たぶんインド人にとっては、「スーパースター・ラジニだから」ですべて説明がつくんだろうなあ。
 今回もラジニは黒のロングコートを着用。これもハリウッド経由の香港映画からの影響だろうけど、還暦近い(当時)ラジニが熱中症で死んじゃわないか心配だ。

 悪党の一人が日本刀っぽい武器を持ってましたが、微妙に幅広い刀身に鍔が溶接されているという代物でした。残念ながら日本文化はインドにあまり影響を与えていないようです(アニメは人気があるって聞くけどね)。

『ロボット』感想

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