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レイヤー・ケーキ

 ダニエル・クレイグ演じる麻薬の売人が、堅実に稼いでそろそろ足を洗おうと考えているところへ、次から次へと災難が降りかかる。
 監督のマシュー・ヴォーンは『スナッチ』等ガイ・リッチー映画のプロデューサー。なのでこれもイギリスのギャング(とちんぴら)の映画なんだが、何かと騒々しいガイ・リッチーに比べて抑制が効いている。

 イギリスの犯罪ドラマは、どれもこれも女の占める比重が軽く、しかもこれならぞんざいに扱われても仕方ないよね、という女がほとんどだ。実にイギリス的と言おうか。
 本作でも、ダニエル・クレイグが惹かれるお姉ちゃんがシエナ・ミラーなんだが、これが非常に安っぽい。一目で惹かれるような女じゃないよな。そういう女に一目惚れするような安い男、という設定だとも思えんのだが。

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レ・ミゼラブル

 ダンスなしのミュージカルには興味がないんだが、そんなに評判なら観てみよう、と。舞台版は未見。

『レ・ミゼラブル』のような大河小説は、一本の映画にまとめるには無理がある。だから98年の映画版は、原作のダイジェストに過ぎなかった。それに比べれば本作ははるかに手際よくまとめられており、歌が効果的に使われていることが大きい。
 大方のミュージカルでは、物語は普通の芝居によって進み、途中で入る歌は物語の流れを中断してしまいがちである。しかし本作は「普通の芝居+歌」ではなく、レチタティーヴォ+アリア+重唱のオペラ仕立てなので、物語は歌によって中断されるのではなく歌によって進行するし、「登場人物がいきなり歌い出す」という不自然さもない。
 また歌による芝居は、物語を単なるダイジェストではなく凝縮されたものにしており、見事である。

 とはいえやっぱり原作は映画の尺に収まる分量ではない。特に、命拾いをしたマリウスが上流社会に戻ってしまう下りは、原作はペースがゆっくりなのでまだしもだが、映画だと「寝返り」にしか見えない。
 それと、フィナーレが「民衆の歌」なのも違和感がある。原作は群像劇の要素が強いが、映画はジャン・バルジャンの物語に絞られているため、学生たちの蜂起のエピソードとの繋がりを強めようとした結果なんだろうけど、かなり無理やり感がある。

「ライブで録音した歌」が本作の一番の売りということになるが、これについては、確かに普通のミュージカル映画より自然な感じだが、でもそれだけだなあ。冒頭の船の陸揚げのシーンはすごい迫力だが、後はそれに匹敵するシーンはなかったし。ヒュー・ジャックマンとラッセル・クロウの歌いながらのアクションにはちょっと感心しましたが。
 ヒュー・ジャックマンのジャン・バルジャンは非常に良い。ところで冒頭で彼が折れたマストを担ぎ上げるシーンは、やっぱりキリストの暗喩だよな。

 ジャベール役はラッセル・クロウ。ようやく確信したが、私はラッセル・クロウが「好きじゃない」んじゃなくて、はっきり「嫌い」だ。『L.A.コンフィデンシャル』が良かったから、その余波で以後もなんとなく「こいつはいい役者だ」という印象を持続させていたが、改めて思い返してみると、『L.A.』以外は良いと思ったのは一個もないじゃないか(全作観てるわけじゃないが)。
 何が嫌いかと言うと、演技が全部暑苦しく重苦しく、かつ表情がない。前々から薄々思ってたことだが、でかくて太った犬に似てるのだ。ドーベルマンとチャウチャウの雑種とかそんな感じの。
 犬派か猫派かと問われれば猫派だが、中型犬や大型犬も好きである(小型犬は嫌い)。だけど例えるならラッセル・クロウは、可愛げの欠片もない、動きも頭も鈍い犬である。犬は結構表情があるものだが、この犬は表情もない。『L.A.』の時は、まだ体も締まって動きも俊敏だったが、後はずっと鈍重。長髪のラッセル・クロウが見るに堪えないのは、そういう犬にヅラを被せたみたいな滑稽さとグロテスクさがあるからなんだな。

 人の顔がどう見えるかという私の意見は、往々にして賛同してもらえないので、もしかすると感覚が少しずれているかもしれません。例えばアン・ハサウェイは、晩年のマイケル・ジャクソン似に見えます(特にフルメイクの時)。いや、好きですけどね、アン・ハサウェイ。
 
 ヘレナ・ボナム・カーターとサシャ・バロン・コーエンのテナルディエ夫婦は、もう少し出番が多くてもよかった。エポニーヌが美人じゃないのも良し。

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Based on my own experience

 デビュー以前は、SFではない普通の現代小説も書いていたのだが、それらを読んだ人たち(友人知己など)から、私の体験がそのまま反映されているものだと一度ならず決めつけられて難儀したものである。晴れてSF作家となってからは、そのようなことは一度もない。
 これはもちろん、デビュー以前に私の小説を読んでくれる人は小説を読まない人ばかり(そういう友人知己しかいなかったのだが、少しでもアドバイスを得られないものかと、頼み込んで読んでもらっていたのである……双方にとって徒労でしかなかったのだが)だったのに対し、以後はそうではない、というのが最大の理由であろう。しかしもし、「SF作家だから」という理由もあるとしたら、それはSFに対する偏見というものである。いずれにせよ、馬鹿げた詮索をされないのは本当にありがたくはあるのですがね。

 SFだろうが普通小説だろうが、私は作品に体験を「そのまま」反映することはない。それは私が、小説の作者として常に「無」でありたいからだ。というか、ある意味では「無」であるために小説を書いているのだ。
 しかし当然ながら、間接的になら体験は作品に反映されている。何ものも、無から生じることはあり得ない。インスピレーションの訪れは、感覚的にはあたかも天から降ってきたかの如くだが、実際には私がこれまで脳に取り込んできた大量の情報が蓄積し、化学変化を起こしてなんだかわけがわからなくなったものから生じていることは承知している。
 それらの断片的なアイデアやヴィジョンやイメージを、意識的な思考によって組み立て、足りないところはさらに情報を取り込んだり知恵を絞って捻り出したりし、その過程でさらなるインスピレーションも得て、一篇の小説に仕立て上げるのである。情報の取得が「体験」であるのは言うまでもない。創作の指針となる、私自身のものの見方・考え方、嗜好も、これまでの体験すべてから構成されている。
 
 キャラクターの造形について言えば、これもまた体験の「間接的な」反映である。つまり、人間に関して直接または間接に得た知識を基盤としているが、直接知っている個人を特定のキャラクターのモデルにすることはない。
 直接知っているのではない特定の個人、例えば歴史上の人物とか映画俳優とかなら、モデルにすることは時々ある。映画俳優の場合は、当人というより演じた役柄のイメージの反映である。まあだいたい、その俳優の名前をそのままかちょっと変えるかしてキャラクター名にしてます。
 俳優をモデルにするのは、単に映画をよく鑑賞するからというより、私自身に演劇の経験があり、かつ初めてまともに完成させた長編小説が、学生時代の友人が作演出した舞台劇のノベライズだったからであろう。以来、キャラクターを動かす時は、キャラクターそのものではなく、誰か(空想上の)俳優がその役を演じているのを演出するイメージで行うのが身についているのである。
 だからアニメのノベライズの仕事をいただいた時も、参考にならないかとアフレコ現場を見学させていただき(1回だけでしたが)、実際、一部のキャラクターにはその時の声優さんたちのイメージを反映させている。この場合も、「直接知っている個人」をモデルにしたというのには当てはまらない。

 ところで、何事においても例外というものはあり、実は一度だけ「直接知っている個人」をモデルにしたことある。いや、ここまで長々と書いてきたのは全部話の枕で、今回はその人物のことについて回顧したかったのですよ。その人物との出会いからもう10年以上も経ってることに、ふと気が付いたので。まあ聞いてください、ちょっとすごいから。

「直接知っている」と言っても、その人物と会って話をしたのは、ただの一度きりである。が、一度で充分すぎるほどであった。その30代半ば(当時)の男性の名前は伏せる以前にとっくに忘れてしまったので、仮にA氏としておく。
 A氏をモデルにしたキャラクターは、『グアルディア』の伝道師ホセ・ルイス・バスコンセロスである。このキャラクター名は、1920年代にメキシコで二度文部大臣を務め、壁画運動や「宇宙的人種」を提唱したホセ・バスコンセロスに因んだものである(以下、「伝道師バスコンセロス」「文部大臣バスコンセロス」と呼び分ける)。
 伝道師バスコンセロスが創り上げる奇妙な混淆宗教は、文部大臣バスコンセロスの奇妙な思想やラテンアメリカの奇妙なフォーク・カトリシズムを基に構成したものであるが、キャラクター造形(容姿ではなく性格)そのものはA氏を直接のモデルとしている。より正確に言えば、A氏との一度きりの会見で観察し得たことをモデルとしているのである。相手の意見を決して否定せず、まず一通り聞いてから、今度は相手に口を挟む隙を与えずに滔々と自分の意見を述べ、その過程でいつの間にか相手の意見を自分の都合のいいように捻じ曲げてしまうとか(間違いなく無自覚に)、事実を無視または歪曲して(これも無自覚に)性善説を押し通すとか。いや、本当にそのまんまなのですよ。
 
 伝道師バスコンセロスが絶大なカリスマを発揮したのは、特殊な条件下のことであり、サンディアゴ降臨という出来事がなければ、文明の退行した土地で土着化カトリシズムを説いて回っては、そこそこ人気を博すだけで終わったはずである。が、そのような「平時」であってもカリスマの片鱗は窺わせたわけであり、モデルとなったA氏もまた、本人の言から察するに、小なりといえどもカリスマの持ち主であった。
 A氏いわく、彼は「宇宙哲学」(ママ)なるものを提唱しており、数人の「弟子」(同じくママ)がいるのだそうな。そしてその流れるような弁舌でもって、宇宙についても哲学についても一般常識以下の知識しか有していないことと、それで何ら問題はないと思っていることとをたちまち露呈したのであった。ある事柄について無知な者ほど、自分がそれについて充分知っていると思い込むものである。
 
 宇宙哲学とやらの具体的な内容は不明である。いや、A氏はそのことについて滔々と語ったに違いないのだが、生憎私はそれを聞いていられない状況に陥ってしまったのである。
 私は普段から顔色が悪く、ちょっと体調が良くないだけで非常に具合が悪く見えるらしい。ひとに気を使わせてしまって申し訳ないのだが、自律神経の調子が狂っているので、「ちょっと体調が良くない」のはしょっちゅうである。
 しかしこの日は、本当に非常に具合が悪かった。前夜、いきなり中耳炎に罹ってしまい、痛みで一睡もできなかったのだ。朝一で病院に行き、とりあえず痛みは軽減したのだが、A氏と話を始めた昼ごろから寝不足で気分が悪くなってきた。30分も経つと相槌さえ打てなくなり、テーブルに突っ伏してゼエゼエ言ってるだけとなったのである。
 
 A氏はそんな私の状態にはお構いなし、というか、気づいてもいないらしかった。大丈夫ですか、とかその類の気遣いの言葉を一切掛けることなく、一人で滔々と語り続けたのである。いや、別に気遣ってほしかったとかそういうんじゃなくて、どう考えても異様な光景だろう、満席で賑やかな喫茶店で、テーブルに突っ伏して肩で息をしてる女を前に、男は気持ちよくペラペラ捲し立ててるって。
 私はA氏の言葉が耳に入らないどころか、途中からは完全に朦朧としていたのだが、ある時点でやや意識がはっきりし、このままではマジで動けなくなる、と深刻な危機感を抱いた。どうにか身を起こすと、具合が悪いから帰ります、と告げた。
 
 A氏は驚いていたが、それは私がそこまで具合が悪かったことに初めて気づいたからではなく、いきなり話をぶった切った非礼に対してのようであった。この期に及んでも、お大事にとか、気づかなくてすみませんとかの言葉は一言もなく、あなたと話すのはとても楽しいからまた今度ゆっくり話しましょう、と自分の電話番号を書いた紙を私に押し付け、私の電話番号を聞き出そうとした。
 それを振り切り、身体を引きずるようにして会計を済ませて店を出たのだが、時計を見ると入店から2時間半余りが経っていた。つまり少なくとも2時間にわたって、A氏は一人で喋り続けたことになる。
 彼は席に腰を据えたまま私を見送った。勘定を持とうとか(私が頼んだのはコーヒー一杯だけである)、改札まで送ろうとか(駅ビル内の店にいたのである)いった類の提案がなかったのは言うまでもない。もちろん、そうしてほしかったのではなく、単に礼儀の問題である。
 よろよろと改札に向かう途中、通路にあった鏡に目が留まったのだが、見たこともないほど顔が真っ白だったのでびっくりした。蒼褪めてるとかを通り越して、文字どおり紙のように白かったんだよ。

 さて、そもそもなぜA氏と私が知り合うことになったのかというと、小説市民講座の受講生同士だったからである。そう、A氏は小説家志望だったのだ。
 なぜ小説家にならんと欲するのか。それは己の「宇宙哲学」を世に広めるためである――とA氏は真顔で語った。宇宙の真理について説くのであるから、それは他のどのジャンルでもなくSFなのである。
 当時、SFは長かった「冬の時代」をようやく脱しつつあったのだが、私がそう述べたのに対して、A氏はその流れるような弁舌でもって、昨今のSF事情はおろか「冬の時代」があったこと、SFが文学の非主流と見做されていること、それ以前にSF自体についてすら何一つ知らず、科学全般についても一般常識以下の知識しか持たず、そしてそれで何ら問題はないと思っていることなどをたちまち露呈したのであった。ある事柄について無知な者ほど(以下略)。

 小説家志望だが長らく小説が書けなかった私は、そのことに対する羞恥心と、小説の感想を述べるのが大の苦手(今でもかなり苦手である。克服しようと頑張ってるが)なのもあって、学生時代はずっと文芸部やその類の集団は避けてきた。その結果、いざ小説が書けるようになった時、周囲には小説家志望どころか小説好きの友人知人がまったくいなかったのである。
 小説講座を受講したのは、互いに切磋琢磨とまではいかなくても、執筆を続ける上で刺激となるような出会いはないものかと期待したからであった。適切な指導を得ることについては、全然期待していなかった。ひとにものを教わるのは苦手なのである。
 
 結果はひどいもので、この手の市民講座・教養講座の類が皆そうだとは思いたくないが、一期三ヵ月、二週に一度の開講で、ほぼ毎回出席する受講生は二十人以上、大半は年配の女性だったが二十代、三十代も少しはいたというのに、「作品」を講師に提出するのは私とA氏だけという有様だった。しかも講師の質問に対する反応等からすると、小説を好きでよく読むという人もいない。
 A氏も「最近の小説は理解できないから読まない」とのことであった。価値があるのは過去の文豪と呼ばれた人々の作品だけだ、とのたまうので、私が高校の教科書に載ってるくらいメジャーな作家を二、三挙げたところ、返ってきたのは見事に内容を欠いた言葉の奔流であった。言わずもがなというものである。
 
 受講生の程度に相応しく講師(男性作家、当時60歳前後)もまたやる気がなく、提出された作品(A氏と私の。どちらも毎回提出されたわけではない)についてほんの数言評するほかは、指導の真似事すらせず、専ら自分のこと(それも専ら創作とは無関係な)だけを喋っていた。
 そして私の作品(短編数本)については、「前衛的すぎてよくわからない」とか「巧いんだけど、男ってものをよくわかってないなあ(以下、セクハラ発言が続く)」とか愚にもつかない贅言を吐くだけで、最後に提出した長編については興奮しきって「この人は才能がある。必ず作家になれる」とうわ言のように繰り返していたが、微塵もありがたみを感じなかったのは言うまでもない。またしてもセクハラ発言付きだったし。
 A氏は何期も続けて受講しており、すでにかなりの数の作品を提出していたようなのだが、私が受講した時にはすでに、「この人はどう教えても無駄だから、我が道を行ってください」と言われるだけであった。指導の放棄以外の何ものでもないのだが、本人はそれが自慢であり、私に向かってもそう語った。
 
 小説を書きも読みもしない受講生たちのうち、少なからぬ数の年配の女性たちもまた、何期も続けて受講しているようであったが、A氏はこのおばさま方に大変人気があった。講義は正午前に終わるのだが、毎回、彼女たちに囲まれてランチに向かう氏の姿を目撃したものである。「伝道活動」を行っていたかどうかまでは知らないが、彼の「小カリスマ」の傍証と言えよう(おばさま方が受講し続けた目的がA氏だったかどうかまでは知らないが)。
 A氏が彼の「ファン」たちを差し置いて、二人で話がしたいと私に声を掛けてきたのは、「この人は必ず作家になれる」発言のあった講義の後であった。彼の言う「二人で話をする」ことがどういうものなのかは、すでに述べたとおりである。
 三ヵ月の講義期間は、この後もう1回か2回残っていたのだが、もはや完全に見限った私はそれ以上行かず、押し付けられた電話番号も当然ながら黙殺したので、A氏とはそれきりだ。

 この時の長編小説は某新人賞の三次選考通過止まりだった。そしてこれ以上どう書いていいのか解らなくなった私は、大学の小説講座ならばもう少しマシなはず、と一縷の望みを抱き、それが佐藤亜紀先生との出会いに繋がる。先生に見ていただく作品として書き始めたSF長編(普通小説にはすっかり嫌気がさしていたし、「春」の訪れはますます確実に思われたのである)が、『グアルディア』である。
『グアルディア』の主役たちはいずれも超常の力を持つが、物語の最後には彼らは皆、退場する。神話の時代が終わり、人間の時代が始まるのである。人間たちを牽引することになるのが、伝道師ホセ・ルイス・バスコンセロスが創り上げた混沌の宗教である。つまり物語の半ばで死んでしまうものの、彼はある意味では物語世界において最も重要なキャラクターなのだ。
 文部大臣ホセ・バスコンセロスとA氏の合成という造形は、考えて捻り出したものではなく、「降りてきた」ものである。あの死にざまもまた、その直後に「降りてきた」のである。だから、なぜA氏なのかとか、なぜあんな死に方なのかとか問われても、私自身にも解らない。が、間違ってもA氏に対する怒りとか恨みとかからではない。呆れはしても、怒ったり恨んだりするようなことはされてないからね(二度と会いたくないのもまた確かだが)。
 たぶん、いや間違いなくA氏(および文部大臣バスコンセロス)という特異な人格に対する絶大なる敬意の表れなのである。いや、ほんとほんと。

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RED

『隣のヒットマン』と同じく、ブルース・ウィリスのセルフパロディ。ただし今回は、「ブルース・ウィリスが年金生活者になったら」。同じくモーガン・フリーマンとジョン・マルコヴィッチもセルフパロディを演じている。だから捻りはないんだが、腹に爆弾を巻き付けたジョン・マルコヴィッチが奇声を上げながら走ってきたら、誰でも逃げると思う。
 いつもの役柄そのまんまでなかったのは、「元・凄腕の暗殺者」を演じたヘレン・ミレン。しかしこれも、「上品なおばさま」という彼女自身のイメージそのままに「元・凄腕の暗殺者」を演じてるからおもしろいんだけど。まあとにかく、彼女はかっこよかった。

 カール・アーバンが真面目なCIA役で頑張ってる。

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アジャストメント

 ネタばれ注意。

「運命」というものがあって、そのとおりに物事が進むよう調整(アジャストメント)する連中がいて、彼らによって愛する女から引き離された男が、運命に逆らって彼女を取り戻そうと奮闘する……という話をハリウッド映画でやったら、結末は九割九分九厘決まっている。

 運命は克服されるべきものだから、まず結末ありきなのである。まあ『ウォンテッド』みたいに、運命がそう決まってるんだから、どんな困難があろうとそのとおり行動しなければならない、という話にされても、何か釈然としないけどね。
 大方のハリウッド映画において運命が克服されるべきものなのは、自由意志至上主義だからだ。そうすると、『ウォンテッド』がああいう結論なのは、監督がイスラム文化圏の人(本人がムスリムかどうかは知らないが、少なくとも民族的に)なのと関係してるのかもしれない。イスラムでは自由意志は否定または条件付で肯定が優勢だからな。
『アジャストメント』に話を戻すと、主人公とヒロインが惹かれあうのも、「運命」だからなのであった。「出会い」が運命なのは、ハリウッド的にオッケーなのね。

 それはともかく、本作はSFに分類されてるけど、「運命の書」を書いている「議長」とやらが露骨に「神」であると仄めし、それ以上の背景の構築を放棄している点でSFではない。神様に全部丸投げ、って怠慢だよ。デザインやガジェットにこだわりが見られない点もSFじゃない。

 運命を克服しようと奮闘するのがマット・デイモンだが、超人(ジェイソン・ボーン)ではなく普通の人間で、奮闘するといっても駆けずり回ってるだけなのは悪くなかった。

『ウォンテッド』感想

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アルゴ

 1979年、イランの米大使館占拠事件の際、大使館を脱出してカナダ大使の私邸に匿われた6人の外交官の救出作戦。
 同時期公開の『ボス その男シヴァージ』とどちらを観ようか迷った挙句、主役のベン・アフレックに興味がないという理由で『ボス』を選んだのだった。で、大方の映画館で上映が終わった頃、救出作戦の要となる「偽映画」の「原作」がロジャー・ゼラズニイの『光の王』だと知る。
 インド神話を題材にしたSFの舞台が、なんでイラン? それに『アルゴ』というタイトルの意味は? という疑問を解くべく、まだ上映している劇場を探したのであった。

 上映前に、いつもの習慣でパンフレットを買う。偽映画『アルゴ』のあらすじが述べられている。以下、引用すると「舞台は中東の風景にも似た、砂漠に覆われた星。3つの太陽に照らされたこの星は宇宙からやって来た独裁者に侵略され、人々は希望を失っていた。この絶望的な状況を打破すべく、ひとりの勇者が立ち上がる。この勇者こそ、星を救う宿命を担った“選ばれし者”。しかし、それを知った独裁者は彼の息子をバザールで拉致。怒った勇者は息子を取り戻すため、愛する妻とともに独裁者の城へと向かう。虐げられていた農民たちも続いて蜂起し、独裁者の軍と戦いを繰り広げる。激闘の末に独裁者は倒され、星に平和が戻った――」

 どうやったら『光の王』がこんな駄目な話に?
 パンフのライターがいい加減なことを書いたのだろうか? ちなみにパンフレットに記載された映画(もちろん本編)のあらすじがいい加減なのは、よくあることである。このパンフにはゼラズニイの『光の王』のあらすじも載っていたが、かなり微妙だ。
 というわけで上映が始まっても、頭の中は偽映画『アルゴ』のことでいっぱいである。しばらくして、いよいよ脚本が登場する……どうも、パンフに書かれたとおりのあらすじのようだ。絵コンテも登場する。こちらも実際に当時描かれたものと同じなのだろう……糞デザインである。どうせ大方のアメリカ人にはインドも中東も区別がつかないのだろうけど、絵コンテ描きが「もっと中東らしく」と注文をつけられて描き直す場面があるのだが、描き直しの前も後も全然変わらない。つまり、全然「中東らしく」ない。

 というわけで偽映画『アルゴ』が気に掛かり、『アルゴ』本編にはまったく集中できなかったのであった、というのはまあ誇張だが、終幕に至るまでずっと「なんでこんな糞脚本と糞デザインに、なんでこんな糞脚本と糞デザインに、なんでこんな糞脚本と糞デザインに、なんでこんな……」とぐるぐるし続けていたのは事実である。
 いや、駄作となることが初めから約束されていたSF映画『アルゴ』が実際に制作されなくてよかったね。SF史上に燦然と輝く汚点となったか、黒歴史として葬られたかのどちらかでしょう。

 それはさておき、本篇はおもしろかったですよ。ベン・アフレックは『グッド・ウィル・ハンティング』の頃から大して興味を持てなかったところに、『ハリウッドランド』では顔も身体もぬぼーっと間延びしてる上に目が死んでて、まあそれはそういう役だからと言えなくもなかったんだが、その次の『スモーキン・エース』でも変わらなかったため、完全に興味の対象から外れていた。しかし今回は、敢えて陳腐な表現を使わせてもらえば、オーラが違う。同じ役者とは思えないほどだ。髭と前髪のお蔭か、顔が長いのも目立たなかったしね。

 ちなみに『アルゴ』のタイトルの意味は、誰にもわからないとのことでした。

『ハリウッドランド』感想

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ニュートン・ボーイズ

 1920年代初め、けちな盗みで服役を繰り返していたウィリアム・ニュートンは、金庫爆破の専門家と組んで銀行強盗を始める。弟たちも仲間に引き入れ、4年にわたってアメリカ全土を荒らし回る。
 1998年制作で、長男にマシュー・マコノヒー、次男にヴィンセント・ドノフリオ、三男にイーサン・ホーク、四男にスキート・ウールリッチ。
 出番が少なくこれといった見せ場もないドノフリオを除く3人が皆、魅力的だった。彼らの出演作はこれまであまり観たことがなく、興味もなかったので、かなり意外。特にお調子者の三男を演じたイーサン・ホークが素晴らしく、ここ数年のしょぼくれぶりとはまるきり別人である。
 
 ジェシー・ジェームズ、ジョン・デリンジャー、ベビー・フェース・ネルソン、それにボニー&クライドとかについてなら、映画以外の媒体を介しても知識があるが、ニュートン兄弟については全然知らなかった。これは彼らの活動のほとんどが夜中にこっそり行われるものであり、したがって一度も殺人を犯さなかったこと、またマスコミに自分たちを売り込んだりもしなかったことによるところが大きいのだろう。
 というわけで本作はアクション映画ではなく、派手な暴力行為は全然ない(兄弟がニトログリセンンを景気よく使うので、爆発シーンは結構派手だが)。盗る側も盗られる側も、さらには追う側もかなりのんびりしており、しばしば間抜けである。ジェシー・ジェームズのような西部的な無法者たちはすでに退場したが、都市のギャングはまだ表舞台に上がっていない、狭間の時代の犯罪だ。兄弟の最後の(そして逮捕のきっかけとなった)仕事である列車強盗が1924年。後にジョン・デリンジャーらの象徴となる機関銃が、初めてギャングの闘争に使われる1年前である。

 兄弟たちの結束は非常に固いが、他人にはまったく心を許さない。裏切ったりはしないが、あくまで他人と見做している。4年にわたって危険を共にした仲間でさえ、例外ではない。
 この異様なまでに強い、家族への信頼と他人への不信は、『ザ・ファイター』の主人公の家族にも共通している。アメリカの貧乏人(白人)の心性なのかね。

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ナイト&デイ

 トム・クルーズは何をやってもトム・クルーズで、その最大の原因が強烈なナルシズムであるの明らかだ。それだけだったら最も興味を持てないタイプの役者なんだが、なぜだか彼はその一方で、大好きなはずの「トム・クルーズ」のイメージを破ろうと頑張り続けているのである。頑張っても頑張っても、やっぱりトム・クルーズ。でも彼が本気で頑張ってるのは観ていてわかる。身の丈(文字どおりの意味ではない……いや、文字どおりの意味も含むかも)に合わない役に挑戦し続けるトムを、私はこれからも応援しますよ!

 あとそれから、トム・クルーズのナルシズムはどこまでも陽性で真っ直ぐだというのも、多少は好感につながってるかもしれない。ウッディ・アレンみたいな、押し隠してるくせにダダ漏れな捩じれたナルシズムよりは遥かにマシだ。

 しかしその努力にもかかわらず、「何をやってもトム・クルーズ」の呪縛から逃れ得たのは『トロピック・サンダー』の時くらいである。あれは単に特殊メイクで外見が完全に別人になってたというだけじゃなく、見事に外見に相応しい演技をしていた。
『宇宙戦争』の時の平凡なブルーカラーの役も、実は結構巧い。それでもあれは、極限状態を表現する手段の一つではあるからな。「トム・クルーズでさえ無力な一市民になってしまうほどの極限状態」という。つまり、あくまで「トム・クルーズである」ことが前提。

 そうやって努力が空回りし続けるトムだが、今回は余裕をもってセルフ・パロディを演じている。余裕と言っても、相変わらず多勢に無勢で戦ったり、逆さ吊りにされてりして大変なんだけど。
『ザ・エージェント』と『マグノリア』でもセルフ・パロディ的な役を演じて巧かったが、今回は完全にイーサン・ハントのパロディ。それも、一般人がイーサン・ハントを目の当たりにしたら、どのように見えるか、というキャラクターである。
 どのように見えるかというと、完全にやばい人ですね。『Mi:2』の中であれば不敵かつ爽やかに見えるはずの笑顔も、狂気を孕んでいるとしか見えない。そのことを本人はちゃんと承知して演技しているのである。なのになんで、「何をやってもトム・クルーズ」の殻を破ろうと頑張る演技は、「何をやってもトム・クルーズ」にしかならないんだろうなあ。

 一般人役がキャメロン・ディアス。これも上記と同じリアリズムでもって扱われているので、危機にあっては役立たずどころか完全に足手まといであり、パニックを起こして銃を乱射したりするので、ヒーローであるトム・クルーズによって毎回手際よく気絶させられてしまう。
 本作は「トム・クルーズがヒーロー役のアクション映画」のパロディなので、トム・クルーズのヒーローとしての活躍はある程度描かれるものの、最も激しいアクションが予想される場面は、キャメロン・ディアスの失神によってあっさりカットされている。しかし観客が『Mi:2』 ばりのアクションを容易に想像できるような構成になっており、なかなか巧みである。
 
 キャメロン・ディアスは結構好きなんだけど、私が好むタイプの作品にはあまり出演してくれないので、『チャーリーズ・エンジェル2』以来である。あの時は、あまりにも明るく陽気な笑顔が、すでに薹が立ち始めてるのと相まって、明らかに狂気を孕んでいて怖かった。いや、演技でやってるのは判るんだけど。
 久しぶりに観た本作では、年月の分さらに老けたものの、まだまだ可愛く、相変わらずちょっとドジで素っ頓狂で、つまり『メリーに首ったけ』以来の、「頑張れば手が届きそうな親しみやすい美人」役である。老けた分、さらに手が届きやすそうになったかもしれない。つまり彼女の役も、これまで演じてきた役のパロディなのである。
 あくまで一般人の役なので今回は「狂気を孕んだ笑顔」は無しかと思われたが、巻き込まれるだけだった彼女が最後に居直って行動を起こした時に浮かべる笑顔は、まさしく狂気を孕んでおり、つまり「美人だけど、ちょっとドジで素っ頓狂で親しみやすい」キャメロン・ディアスも、「ヒーロー」トム・クルーズと同じくらいやばい人でした、というオチなのであった。

 かように主役2人のための映画であり、構成も巧みなんだが、脇役に見るべき役者がいない。悪役が類型的なのは様式美だとしても、おもしろみがないのは如何ともしがたい。ポール・ダノがオタクで天才の高校生役というのも、年齢的にさすがに無理があるというのはさておき、あまりにも捻りがない。
 しかしポール・ダノと言えば、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』では、つるりとした外見全体から得体の知れない粘液が滲み出ているような気持ち悪い奴、『リトル・ミス・サンシャイン』の変人高校生役は、ちょっとネトっとした質感だが若いし風呂にあんまり入ってなさそうだから、という程度だった。つまり、役に応じて「出し入れ」自由らしい。
 この推測を裏付けるように、脇役に徹した今回は、「ネトネト」が全然出ていなかったのであった。巧さの証明ではあるが、おもしろみはない。

 キャメロン・ディアスにプロポーズする消防士が、出番は少ないが結構巧かった。特にプロポーズの際、完全に自分に酔っていて、一方、「ヒーロー」トム・クルーズに遭遇してしまったショックから未だ醒めやらぬキャメロン・ディアスが「私の話を聞いて」と遮ると、すっごく不満げに口を噤むとことか。

『トロピック・サンダー』感想
『ワルキューレ』感想

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レジェンド・オブ・ウォーリアー

 ヴァイキングによる北米植民が頓挫したのは、先住民との軋轢が原因らしい。という史実を基にしたフィクション。DVD特典の解説によると、ヴァイキングと先住民との接触を描いた映画はこれまでなかったんだそうだ。へー。なんとなく、モンティパイソンとかがコメディでやってそうなイメージがあるんだけど。

 原題はpathfinderなので、邦題は『レジェンド・オブ・メキシコ』みたいに勝手に付けたのかと思ったのだが(レンタル店でタイトル検索すると、レジェンド・オブなんちゃらという洋画は結構な数がある)、原題の副題がlegend of the ghost warriorであった。なお、ゴーストというのは北米先住民に育てられたヴァイキングの子である主人公の呼び名であると同時に、「歴史に残らなかった戦士」を意味しているようだ。主人公役はカール・アーバン。

 特典解説では制作者たちが、「ヴァイキングのデザインや設定は(見栄えをよくするため)ほぼ架空のものだが、北米先住民については正確さを心がけた」と自慢していた。英語を話すのはともかく、握手を交わすインディアンがか? 文化考証にしたって、17世紀以前に遡るのはほぼ不可能だろう。しかもカナダ東部という設定なのに、合衆国の平原地方がかなり混じってるみたいだし、ダンスはゴースト・ダンス(19世紀後半に興隆した新興宗教)っぽい。

 対してヴァイキングのほうは、実物のヴァイキングと角のある兜に代表される従来の空想上のヴァイキングとを巧く活かし、なかなか独創的なデザインになっている。
 兜や遮光器、髭やペインティングの組み合わせはほとんど特殊メイクの域に達しており、身体のシルエットも鎧や毛皮のコートで著しく変形している彼らが世界中の大半の観客には理解不能であろうアイスランド語を喋り、鋼鉄の武器や馬という「文明の利器」を駆使して「先住民」を虐殺するさまは、ほとんど凶悪なエイリアンであった。
 
 異星人(エイリアン)による侵略、という『宇宙戦争』以来のテーマは異邦人(エイリアン)による侵略に対する恐怖や批判のメタファーであったわけだが、ここではさらにぐるっと回って、異邦人による侵略が異星人による侵略の文法で描かれているのである。
 しかし、9世紀のヴァイキングの言語の代替物として現代アイスランド語は妥当だとは思うが、「エイリアンの侵略者」の言語にされて、アイスランドの人はどう思うのかな。
 

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マイティ・ソー

 ケネス・ブラナーは、役者としては結構好きだが監督としては特に好きでも嫌いでもない。まあ、監督作は3、4本しか観たことないけど。役者としてはお馬鹿な役を嬉々として演じることも少なくないが、監督作品は格調高い「芸術的」なものが多かった(『フランケンシュタイン』だって、文芸作品として撮ってるしな)ブラナーが撮るアメコミ・ヒーローは、北欧神話の雷神トールである。いいんだけどさ、トールがソーでも。

 ティム・バートンとかブライアン・シンガーとかサム・ライミとかクリストファー・ノーランとかミシェル・ゴンドリーとかギジェルモ・デル・トロとか、アメコミ映画って意外に監督の個性が顕著に出やすいんだが、本作はよくも悪くも無個性であった。「ケネス・ブラナーらしさ」が判るほど監督作を観てるわけじゃないが。とにかく、特に欠点もないけど、これといった特徴もない。

 原作は知らないので、あくまで映画を観た限りでの所感だが、無味無臭になってもうてるのは、北欧の神々が品行方正すぎるせいであろう。オーディーン役がアンソニー・ホプキンスだなんて、どれだけずるくて悪いオヤジかといやがうえでも期待が高まろうというものなのに、なんだよこの凡庸なキャラは。こんな頭の悪いロキなんかロキじゃない、とか。トールもカップを割った以外は、やたらと礼儀正しい。

 ヒロインはナタリー・ポートマン。肩の力が抜けた自然な演技で、『ブラックスワン』でほんとに殻を破ることができたんだねえ。

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