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終着駅

 トルストイの妻は悪妻として知られるが、本当にそうだったのか。晩年のトルストイとその妻の関係を、秘書を務めた青年の視点から描く。秘書のヴァレンティン・ブルガーコフは後にチェコに移住して作家になったそうだが、その回顧録にでも基づいてるのかな。
 秘書がジェイムズ・マカヴォイ。『ラスト・キング・オヴ・スコットランド』と同様、偉人(良くも悪くも)を間近で目撃した人物の役。トルストイがクリストファー・プラマー、その妻がヘレン・ミレン。

 予想されるとおり、「悪妻ではない」というのがその答えなのであるが、ただし元から相当感情的な人のようだから、家族は大変そうだな。一時の怒りに任せて、ひとの臓腑を抉るようなことを言っておいて、機嫌が直るとあっさり忘れてそう。終盤、娘を「ほかの子供じゃなくて、おまえが死んでいればよかった」とまで罵るが、たぶんこれも忘れるんだろうな。
 トルストイを崇める「トルストイ主義者」たちは彼の領地内にコミュニティを作り、彼の死後もコミュニティを存続させようと遺産を狙っている。トルストイを尊敬してはいるが、その神格化を胡散臭く思う妻にとっては大変苛立たしい状況であり、映画の中で彼女は始終ヒステリーを起こしているのだが、そんな姿をも魅力的に演じるヘレン・ミレンはさすがである。『RED』の時みたいに若作りしてなくても充分きれいだし。

 ロシア語では「名前+父称」(トルストイだったら、「レフ・ニコラエヴィチ」)は丁寧な呼び掛けで、作中では台詞は英語にもかかわらず(トルストイの名前も「レフ」じゃなくて「レオ」って言ってたし)、その呼び掛けが使われていたが、英語圏の観客のどんだけが知ってるのかね。日本語字幕では、それらを状況に即して「先生」とか「奥様」というように「意訳」していました。

『戦争と平和』感想

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ウエスタン

 辺境の町の小さな駅に、白昼、三人の男がやってくる。彼らは老駅長をクローゼットに押し込んで駅を占拠すると、誰かを待ちうける。
 むさ苦しい野郎三人が、ほとんど動きもせずにひたすら待ち続けるだけの場面が延々と続く。それだけでよくもここまで緊張感を持たせられるものだと感心する。三人ともただならぬ面構えの持ち主であることも一役買ってるのであろうが。
 でもきっとセルジオ・レオーネのことだから、彼らは単なる脇役で、この後登場するメインキャラクターにあっさり殺されるに違いない、と思っていると、案の定、汽車でやってきた主人公(チャールズ・ブロンソン) にあっさり殺されてしまうのであった。
 映画とは何よりも映像を見せるものであり、物語やキャラクターは副次的のものであることを、改めて確認させられる。まあ誰にでもできることではなく、そこはセルジオ・レオーネならではなんだけど。

『続・夕陽のガンマン』と同じく「お宝」をめぐる男たちの三つ巴で、うち二人が行き掛かり上共闘関係にあるのも同じ。
今回の「お宝」は未亡人クラウディア・カルディナーレが持つ土地である。何かの鉱脈があるとかではなく、沙漠の真ん中でそこだけ水が出るので、鉄道伸長のルート上にあるのだ。
『続・夕陽のガンマン』が、南北戦争が背景にあるものの、漠然と「19世紀の西部」だったらいつでもいいような設定だったのに対し、今回は時代設定が重要である。特に、土地の横取りを目論む鉄道王に雇われた冷酷非情の殺し屋(珍しく悪役のヘンリー・フォンダ)の造形によく活きている。本当に冷酷非情で女子供も容赦なく殺すのだが、時代の変化についていけなくなっていることを自覚しており、それをなんとかしようと足掻きつつ、かつその努力に虚しさを感じているという複雑なキャラクターである。

 チャールズ・ブロンソンの主演映画を観るのはこれが初めてなので、ここまで長時間ブロンソンの顔のアップを眺めるのも初めてである。なので初めて知ったのだが、ブロンソンの目って灰色なんだな。それも大概の灰色の虹彩と違って、ほかの色(青や緑、あるいは茶色)が混じっていない。ここまで混じりけのない綺麗なシルバー・グレーというのも珍しい。ブロンソンだけど。

『続・夕陽のガンマン』感想

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SFマガジン6月号

 4月25日発売の『SFマガジン』6月号に短編が載ります。

 いや、400字詰め換算110枚は短編じゃなくて中編か? まあとにかく「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」と「はじまりと終わりの世界樹」よりは短いです。

 連作の3話めですが、単独でも読めるのはこれまでどおり。そして『グアルディア』のキャラクターが約1名カメオ出演します。よろしくー。

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ゴースト・ライター

 ロマン・ポランスキー監督作品。
 英国の元首相が自伝を書いたが、あまりにひどい出来なのでリライトが必要となる。副官がリライトを担当していたが、フェリーから転落して溺死する。そこで自伝のゴーストライターを専門とする男が代役に選ばれる。
 ゴーストライターをユアン・マクレガー、元首相をピアース・ブロンソンが演じる。

 ユアン・マクレガーは頭が悪そうに見えるので(実際にどうかはともかく)、頭が悪そうな役が似合うんだが、本作は頭が特に良くも悪くもない男を好演している。仕事の速さが売りのゴーストライターだが、作家になる望みも捨てきれない鬱屈を時折覗かせて巧い。
 ピアース・ブロンソンは、ジェイムズ・ボンドの時は完全に時代遅れになったマチスモが、なんというか人工的で気持ち悪かったんだが、今や老境に入り、ええ感じに枯れたというか、かつての人工添加物たっぷりな感じが洗い流されていてよかった。

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インフォーマント!

 マット・デイモン演じる主人公の視点にほぼ終始して、時系列どおりにエピソードを連ねた、ソダーバーグにしては単純明快な作り。しかし主人公が妙な具合によじれた人物なので、作品自体も妙な具合によじれているのであった。以下、ネタばれ注意。

「歪んでる」とか「ねじ曲がってる」とかとは違うのである。「歪んでる」だと心に闇を抱えてるみたいだし、「ねじ曲がってる」というと単にひねくれ方の度合いが大きいというだけのようだが、そういうんではなくて、「妙な具合によじれている」としか言いようがない。
 最初は、真っ直ぐな奴に見えるのである。食品会社のエリート社員が、業界内で価格協定が結ばれている、という情報をFBIにもたらす。なぜ会社を裏切る行動を? と問うエージェントたちに、インフォーマント(情報提供者)となった社員は、正義感からだ、と答える。

 前半、主人公は高潔なヒーローというよりは、ヒーロー願望に突き動かされているだけのお人好しのように見える。ただ、しばしば入るモノローグが、ところどころ脈絡がなくなるので、「どうも変だ」という印象を受ける。
 そしていよいよ捜査が大詰めになってきた頃、主人公は妻に向かって述べる。「これで社長や副社長が逮捕され、会社は僕のものだ」
 つまりこれが彼の狙いで、内部告発は失業を覚悟した上ではなかったのである。間抜けな奴だな、と観ているほうは思う。FBIの捜査官たちも、彼の目論見までは知らないものの、会社に残れる気満々なのはわかるので、気の毒でたまらない、といった目で見ている。

 ところが後半、強制捜査が行われると、主人公自身が次々とボロを出すのである。不正行為、経歴詐称、さらには価格協定そのものも彼が仕組んだ可能性まで出てくる。そして、これらの暴露に対する本人の反応は、まったく支離滅裂である。
 あっけらかんとした人格破綻者を、マット・デイモンは実に巧みに演じている。というか、これまで観たマット・デイモンの役の中では、最もよく似合っている。この人、本当は頭がいいんだけど、とてもそうは見えないんだよね。にもかかわらず、この「頭悪そうに見える容姿」を活かした役は、少なくとも私がこれまで観た中では本作が初めてである。

 うん、やっぱり口を半開きにしてぼけーっとしてるとか、なんにも考えてなさそうな笑顔とか、嘘がばれて稚拙な言い訳をしてるとか、すごく似合ってる。これだけめちゃくちゃなことをした人物(実話だそうである)を演じて後味の悪さを感じさせないのは、貴重な資質だ。

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インベージョン

『ボディ・スナッチャー』の何度目かのリメイク。いや、前作はどれも未見なんだが(原作『盗まれた町』も)。宇宙からやってきた寄生体に身体と精神を乗っ取られる、というジャンルの古典で、かつては社会(アメリカの)に紛れ込んだ共産圏のスパイのメタファーだったりしたのが、この2007年版ではもっとストレートに「感染」のメタファーになっている。いや、ストレートすぎて暗喩じゃないか。

 しかし寄生体(ウイルス状なのか胞子状なのかはっきりしない)に操られる、という設定だったら、現実の寄生体が宿主の行動を操る例が幾つもあるんだから、作中で言及したほうが説得力が出ただろうにな。
 説得力といえば、カプグラ症候群というものがあって、これは事故などで脳に損傷を受けることによって、家族や友人など馴染み深い相手(場合によっては馴染み深い物品も)を、新皮質のレベルでは以前どおり認識できるのに、情動レベルでは認識できなくなってしまう障害だ。そうすると、患者本人にとってその相手は、姿や声はそのままなのに、もはや「馴染み深さ」を感じられないということになる。
 このような矛盾した心的状態に対し、人間は無意識で「説明」を捻り出す。この障害の場合は、「親しい人々が、外見はそっくりの別人に入れ替わっている」あるいは「何ものかに乗っ取られている」。
二コール・キッドマン演じるヒロインは精神科医なんだから、患者が「夫の精神が別人に入れ替わっている。わたしにはわかる」とか言い出した時は、真っ先にカプグラを疑うべきだよな。

 それ以前に、世界中の国々の首脳部が寄生体に乗っ取られるかと思えば、「ノーベル賞受賞の科学者たち」を中心とする対策本部がきちんと機能してたりして、どうも設定をきちんと詰めているとは思えないんだよね。とにかく、いろいろ粗が目につきました。
本作とソダーバーグの『コンテイジョン』は、ともに「感染パニックもの」という括りに入れることができるんだが、前者がSFに分類されるのに後者がそうではないのは、ひとえに前者の病原体の来歴が宇宙だからである。
 しかし本作(および他のSFに分類されたりされなかったりする感染パニックもの映画すべて)に比較して、科学考証から設定の作り込みまで遥かにきっちりしている『コンテイジョン』のほうが、遥かにきっちりSFなのである。SFは「サイエンス・フィクション」の略であって「スペース・ファンタジー」じゃないのですよ(数年前、非SFファンである妹2人にそう言ったら、2人とも「えっ、そうなの? スペース・ファンタジーだと思ってた」と本気で驚きやがりましたよ)。

 その他の感想としては、二コール・キッドマンは最近、整形しすぎで顔の皮膚がつっぱってきてるけど、この頃はまだ綺麗だなー、とか、ダニエル・クレイグの髪がまだふさふさで妙に笑える、とか。キッドマンの息子役の子が可愛かった。

『コンテイジョン』感想

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ツーリスト

 ヨーロッパ(主にヴェネツィア)を舞台に、往年のハリウッド映画のようなテンポと雰囲気のサスペンス。
 雰囲気が往年のハリウッド映画的、というのは、特にアンジェリーナ・ジョリーの役柄によく表れている。あのパーツが派手な顔は意外にヨーロッパの風景に似合うのであった。ヨーロッパ風のドレスやスーツもよく似合って美しく、ゴージャス。というか、今までアンジェリーナ・ジョリーのことは「漢前」だとは思っても、「美女」だとはあまり思ったことはなかったんだが、本作では見事に「謎の美女」でした。というわけで、アンジェリーナ・ジョリー鑑賞映画。
 
 ジョニー・デップはいつもどおりの演技だが、状況に振り回されてオロオロする、というのは嵌まり役。ちょろちょろ顔を出しているルパート・シーウェルがいい。

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カティンの森

 ツタヤのジャンル分けは時々甚だしく奇怪である。およそアクションと呼べるシーンのないシリアスなドラマである本作が「アクション」に分類してあるのは、中身を見ないで粗筋を流し読みして決めたのかもしらんが、例えば『ラスト・オブ・モヒカン』が「恋愛ドラマ」に入れられてるのはどういうわけだ。

 第二次大戦中、ソ連軍の捕虜となったポーランド軍将校1万2000人が殺害された事件を中心としたドラマ。前半が将校の一人とその妻(および両親)を中心に話が進むのに、後半は群像劇となるのでややバランスが悪い印象なのが残念である。全体を貫く淡々として簡潔な描写は、むしろ後半の群像劇に合っているので、最初からその構成であればよかったと思う。この淡々として簡潔な描写は、最後に置かれている将校殺害の場面で恐ろしいほどの(というか本当に恐ろしい)効果を上げている。

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アザー・ガイズ

 型破りだが街のヒーローとして讃えられる刑事コンビ(サミュエル・L・ジャクソンとドウェイン“ザ・ロック”ジョンソンという無駄に豪華な配役)が殉職(?)し、同じ部署のアザー・ガイズ(その他大勢)は今度は自分たちがヒーローになる番、と意気込む。
 
 ウィル・フェレルのコメディの例に漏れずテンポが悪いが、時々は笑える。いつもより軽快な印象なのは、相方がマーク・ウォルバーグだからかもしれない。小柄でお猿っぽい(apeではなくmonkey)彼がシリアスな役をやって悪いということはないんだが、やっぱり『ブギーナイツ』や『ビッグヒット』みたいなののほうが私は好きなので、今回は適材適所だと思う。ウィル・フェレルと並ぶと小柄なのが強調されて、いつもより余計にお猿っぽいし。
 あと、ドウェイン・ジョンソンは意外にコメディと相性がよいようである。
 

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