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The Show Must Go on!

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収。初出は『SFマガジン』2013年6月号掲載。

「はじまりと終わりの世界樹」では、2012年の時点ですでに亜人は広く普及し、亜人を排斥しようとしていた人々も自滅のかたちで完全に弱体化していたことが明らかにされている。したがって「絶対平和」の完成は、この時点から一世代以内に実現したと予想される(一応、2030年代を想定)。
『グアルディア』第八章でアンヘルが述べているとおり、「絶対平和」は停滞の時代である。より進歩しよう、より豊かになろう、より消費しよう、という欲望を人類が失ったためだ。つまり、「絶対平和」というシステムが完成した後は、崩壊が始まる22世紀末まではほとんど変化らしい変化のない時代なのである。
 本作「The Show Must Go on!」は、いわば「絶対平和」というシステム/時代のスケッチであり、すなわち2030年代から2190年頃までのいつを舞台としても構わないわけである。そのため作中の時代については、22世紀という以外は明記していない(時代設定の詳細については、ネタばれとなるので後述)。

 冒頭で述べたとおり、絶対平和は亜人の奉仕によって支えられている。単に労働を肩代わりしているだけでない。人間の暴力性をも肩代わりしているのだ。それは亜人同士の殺し合い、すなわち戦争と闘技によって行われる。血と苦痛、そして命をも捧げる、究極の奉仕である。
「絶対平和」のスケッチである本作は、主な題材としてこの「戦争」を取り上げる。

「進歩」を破壊を伴いがちで好ましくないものと見做す絶対平和において、文化は自ずと懐古趣味へと向かった。
 およそ文化と呼ばれるものが旧時代の模倣と応用に徹する中で、ほとんど唯一の「創造芸術」が、戦争と闘技である(作中で言及はされていないが、戦争と闘技に関係しない分野で新たな芸術を創造しようという試みが完全に絶えたとも思えないので「ほとんど唯一」としておく)。
 戦争と闘技は本質的に、古代ローマの闘技と同じく娯楽である(ローマの闘技場においても模擬戦が行われることがあった)。純粋な娯楽と見做される闘技に対し、戦争には政治的問題の解決手段であるとか、旧人類文化の保存(暴力がヒトという種の本能であったとしても、戦争は文化的営為である)といった大義名分が付与されているが、娯楽であることに変わりはない。

 一回の戦闘は長くても数時間で終わる。それ自体が19世紀以前の戦争を模した(ただし忠実な再現ではない)作品だが、「作戦」はそれで終わりではない。戦闘と、それを題材とした派生作品(スピンオフ)の制作と公開をひっくるめたすべてが、一つの作戦なのだ。スピンオフの媒体にはアニメ、ゲーム、マンガ、小説などがある。新時代の芸術は原則として旧時代(21世紀初頭以前)の模倣と応用なので、媒体も基本的に変わっていないのである(技術はいろいろと改良されているだろうけど)。アニメ等の声優は人間が務めるが、人間の俳優による実写化はない。時間とコストが掛かりすぎるためだろう。加えて、アマチュアによる二次創作も盛んに行われる。
 闘技も同様に派生作品と二次創作という裾野を持つが、規模はずっと小さいし1回の戦闘(興行)ごとでもない。

 戦争も闘技も、人気の焦点となるのは「キャラクター」と呼ばれる特殊な戦闘種たちである。彼らは個性(キャラクター)と名前を与えられ、フィクションの登場人物(キャラクター)のようにプロフィールを設定されている。
 なお闘技は個人戦が基本であり、すべての闘奴は最初からキャラクターとして製造される。一方、戦争は闘技のように頻繁に行われはしないものの、一回の戦闘に数百~数千体が投入される。兵士はすべて無個性で能力も均等な量産品(「モブ」と通称される。外見はそれなりに個体差がある)であり、そこから視聴者の人気投票を受けて徐々に外見や能力をカスタマイズされていき、やがてキャラクターに「昇格」するのである。ただし、そこまで生き延びられる兵士はごくわずかである。
 本作の主人公アキラは、このキャラクターのデザイナーである。

  現実においてゼロ年代後半、「クールジャパン」が世界を支配したとか、これからするとか盛んに言われていたものであるが(日本国内で)、その熱狂が冷めると、いや実はそこまですごくなかったんだとか言われ出し、どうやら今後もそこまですごくなりそうにない。しかしこの歴史改変の世界では1990年代後半、日本のポップカルチャーが世界を席捲している。「クールジャパン」の熱狂が頂点に達した当時に言われていたことが、この世界では実現していたのである。
  が、そのブームが日本経済の立て直しに活かされることはなかった(そうなる前に亜人が誕生し、やがて経済そのものが根底から覆る)。日本のポップカルチャーを大いに活用したのは、亜人の創造者たちである。

  亜人のプロトタイプは、「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」で描かれたとおり、あまり魅力的でない外見である。その後、魅力的な外見の亜人が次々と登場することになるが、それらのデザインを行ったのは、日本人と追随者たちだった。
  戦争が亜人同士のものとなり、ショウ化する過程で取り入れられた「キャラクター」も、日本的な概念である。そして22世紀の本作においても、日本人は伝統的にキャラクターのデザインおよび扱いに長けていると見做されている。主人公である日本人青年アキラも、モブ(量産品の一般兵士)を扱うアシスタント・デザイナーだったのが、ある新兵のキャラクターとしての素質を見抜いたことがきっかけで、キャラクター・デザイナーに昇進する。

  本作では、1999年に『AKIRA』がハリウッド(正確にはその人材)と香港との協同で実写映画化されたことになっている。90年代の日本のポップカルチャー興隆の象徴的作品として歴史に刻まれており、主人公は日本人クリエイターとしてのアイデンティティを表明するため、この名を選んでいる(この時代、成人は自由に改名できる)。
  ……というネタを思いついたのは、『SFマガジン』2012年2月号掲載の堺三保氏のコラム「アメリカンゴシップ」で、ハリウッド版『AKIRA』の企画が迷走しているという記事からです。
  HISTORIAシリーズの歴史改変について私自身は、ダーウィンがメンデルの論文の重要性に気づいて(現実には読んだのに気づけなかった)、進化論と遺伝学がその創成期において統合されることで現実よりも遥かに遺伝子工学が発展する、というところまでなら充分あり得たと思っています。その後の改変の可能性については、1999年にハリウッド版『AKIRA』が実現して(そこに至る経緯がどのようなものせよ)、しかもそれが大傑作である、というのと同程度ということにしておきます。
  1999年といえば、すでに『マトリックス』は作られてたし、じきに『ロード・オブ・ザ・リング』も作られるという時代ですから、ハリウッド版『AKIRA』成功の可能性がゼロだったということはないでしょう。1~99%(100%=実現していた)のうちのどの辺りかについては、皆様各自で御判断いただきたく存じます。

「絶対平和」においては亜人による殺し合いである戦争および闘技がほぼ唯一の創造芸術であり、そこからさまざまなメディア展開でスピンオフ作品が生み出されている――という設定は、かなり早い段階からありました。2005年にアニメのノベライズをお受けした理由は幾つかありますが、その一つは、メディアミックスに関わる仕事をしておけば、いつか上記の設定で作品を書く時、役に立つに違いない、という期待でした。つまり、自分の好きなように書くのではなく、アニメの制作者の方々の方針に合わせて、綿密な打ち合わせをするとか細かく指示を与えられるとか、そういうような体験ができるのではないか、と勝手に想像していたのでした。

 実際はどうだったかと言いますと、打ち合わせというかそれに類したものはプロデューサーの方と顔合わせで一回飲んだだけ、後はもうほとんど完全に自由に書かせていただきました。オリジナルのエピソードも含めて。
 お蔭さまで、ストレスも少なく大変楽しく仕事をさせていただきましたが、この「The Show Must Go on!」を書く上で直接役立つ経験ができたかというと……どうなんでしょう。貴重な体験だったのは確かですし、間接的にはいろいろ役立っているんだろうとは思いますが。
 いずれにせよ、お仕事を受けた最大の理由は、あわよくばキャラクター・デザインのコザキユースケ氏に表紙イラストを描いていただけるかもしれない、という思惑で、それは見事に叶ったので、何も言うことはないんですけどね。あ、もちろん、私から要求したわけではありませんよ。

 余談的なもの、もう一つ。
 ルウルウというキャラクターが登場しますが、この名前は「真珠」を意味するアラビア語です(アラビア語・ペルシア語圏では普通の女性名)。「ルールー」ではなく「ルウルウ」という表記なのは、原語の発音に沿ったものです。
 原語は、アラビア語だと文字化けするかもしれんので、対応するローマ字で表記するとlu’lu’となります。この「’」という文字の発音は、喉の奥で出すア行音(アラビア語だと「ア、イ、ウ」のみ)。だからlu’だと、「ル」の後に喉を詰まらせたように「ウ」と付けると、それっぽい発音になります。
「ルールー」ではなく「ルウルウ」なのは、そういうわけなのでした。とか言いつつ、実のところ私は「原語の発音に忠実な表記」なんてものはほどほどしておけばいい、と思ってるんですけどね。あまりにも懸け離れた表記もどうかと思いますが、「忠実」を目指し過ぎても無意味だろ、と。ただ単に、「ルールー」よりも「ルウルウ」の表記のほうが気に入った、というだけなのでした。

関連記事: 「連作〈The Show Must Go On〉」 「遺伝子管理局」 

       「HISTORIAにおける歴史改変」 「絶対平和の社会」 

       「絶対平和の戦争」 

設定集INDEX

以下、「名無し」について、ネタばれ注意。

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『SFマガジン』6月号およびSFセミナー

 皆さん、こんにちは。仁木稔です。
 明日4月25日発売の『SFマガジン』6月号に、短編(中編?)「The Show Must Go on!」が掲載されます。昨年の6月号掲載の「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」、8月号掲載の「はじまりと終わりの世界樹」に続く、連作《ショウ・マスト・ゴー・オン》シリーズの3作目です。いよいよシリーズ・タイトルを冠した、核となる物語でございます。イラストは橋賢亀氏。
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『グアルディア』『ラ・イストリア』『ミカイールの階梯』と続いてきた《HISTORIA》シリーズにも連なるわけですが、これまでと同じく単独でも読める作品です。
「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」では遺伝子工学によって生み出された奴隷種「亜人」の登場から間もない2001年の混乱を現在視点で、「はじまりと終わりの世界樹」では1999年の亜人誕生に至る経緯を亜人がすっかり普及した2012年の人物の視点でそれぞれ語りました。
 新作「The Show Must Go on!」では、亜人の奉仕によって実現した未曾有の平和と繁栄「絶対平和」の様相を描きます。ちなみに主人公は日本人です。オリジナルでは初めてですねー。舞台は日本じゃないですけど。
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 それから、5月3日(金)、4日(土)に開催されるSFセミナー2013では、合宿(夜の部)の企画「アンナ・カヴァン『アサイラム・ピース』読書会」に参加させていただきます。時間、場所(部屋)等は、追ってお知らせします。
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 SFセミナー2013の公式サイトでは、まだ合宿企画の紹介ページがアップされていないので、読書会の詳細については、企画してくださった岡和田晃氏のブログにリンクしておきます。そちらを御覧ください。
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ザ・マスター

 ポール・トーマス・アンダーソン監督作品。
 前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』に増して、解釈を拒絶する作品である。とはいえ終幕直前までの展開は、前作よりはだいぶ解り易いと言えるだろう。
ホアキン・フェニックス演じるアルコール依存症の帰還兵フレディが、フィリップ・シーモア・ホフマン演じる「マスター」と出会い、彼に依存するようになる。といっても、フレディは「マスター」が説く怪しげな教義には関心がない。「マスター」のカリスマに惹かれたのは確かだが、何よりも自分のことを気にかけてくれる唯一の相手だからだ。
「マスター」もフレディを自分の信奉者たちの中に入り込んできた異分子だと見做しているが、むしろそれゆえにこそ彼を必要とする。彼を「治療」してみせてこそ、自分の力を証明できると思っていたようにも見える。フレディも、マスターの教義に対する懐疑を封印して、その指示に忠実に従い「治療」を受ける。
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 フレディは戦争でアルコール依存症になるのだが、直接の原因については何も触れられていない。戦地での場面は出てくるのだが、無為に過ごし、酒を飲んでいるだけである。マスターの「治療」の際に、日本兵を殺したことを告白しているが、それが原因だと窺わせるような描写は一切ない。
 また、フレディ特製のカクテル(飲みすぎると急性アルコール中毒で死にかねない強烈なもの)は、前半しばしば登場し、マスターがフレディに興味を持つきっかけともなっているのだが、中盤以降は一切出てこなくなる。それと同時に、アル中のはずのフレディが酒を飲む場面も一切出てこなくなる。マスターの胡散臭い「治療」でアル中が治ったとは到底思えないにもかかわらず、である。
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 まあそういった奇妙な点はいくつかあるものの、神経に障るジョニー・グリーンウッドの音楽(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の時ほどではないが)に乗って、フレディとマスターの緊張感に満ちた関係を追いつつ話は進んでいく。それであの結末だから、すっかり困惑させられてしまうのである。以下、ネタばれ注意。
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 フィリップ・シーモア・ホフマンがホアキン・フェニックスに向かってラブソング「the slow boat to china」を歌う結末って……えーと、つまり彼ら二人の間の愛憎って、そういう愛憎?
 愛憎でも、疑似父子とか師弟とかいろいろ入り混じったのんだと思って観てきたんだけど……いやもちろん恋愛的な要素もあるとは思ってたけど、あくまでホモ・ソーシャルなレベルに留めてほしかったというか、ああもはっきり「恋愛」に限定されてしまうと……2時間半引っ張ってきて、そりゃないだろ、っていうか。
 解釈を拒絶するというか、あの結末から引き出される解釈を作品全体に当てはめてしまうと、非常に収まりが悪いことになるのですよ。いやはや。
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 ホアキン・フェニックスは随分体重を落としたようだが、痩せたというより全体にゴツゴツした風貌になり、角度によってはダニエル・D・ルイスに似ている。常にねじ曲がったような姿勢を取っており(戦争での負傷を示唆しているのかもしれない)、全身で「異相」を表現している。
 フィリップ・シーモア・ホフマンは、胡散臭さについては申し分なかったが、カリスマについては少々足りない。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のポール・ダノのほうがよっぽど強烈だったな。
 マスターの妻役のエイミー・アダムスは、1950年代の基準からしても古風な服装のために全然気が付かなかったんだが、『ザ・ファイター』のマーク・ウォルバーグの恋人役か。あの時は大して印象に残らなかったんだが。今回はマスターの何番目かの若い妻で、ひたすら従順のように見えて実は教団が力を付けるのをマスターよりも望んでいる野心家を演じて、なかなか強烈。まあ実際の年齢はフィリップ・シーモア・ホフマンと7歳しか違わないんだけど(ホアキン・フェニックスとは同い年)。
 作中ほとんどずっと妊娠中(登場時かそのすぐ後にはもう妊娠してたから、フレディがマスターの許にいたのは10ヵ月にもならないということになる)という点からも、彼女がフレディの「ライバル」であるという位置づけなんだな。
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オズ

 サム・ライミ監督作品。『オズの魔法使い』の前日譚となるオリジナル・ストーリー。女たらしでペテン師紛いのマジシャンであるオズと3人の美しい魔女、と対象年齢は原作より少々高めだが、雰囲気をきちんと継承していると思う。

『オズの魔法使い』を最初に読んだというか、母に読んでもらったのは小学校に上がるか上がらないかの頃で、「偉大なるオズ」が本物の魔法使いではないという展開には結構びっくりしたのを憶えている。
 ジェームズ・フランコ演じる若き日のオズは、そこそこの腕しかない、ペテン師すれすれのマジシャンで、その駄目っぷりは相当なものだが、このくらいがちょうど、子供の頃に「真相」を知って受けたショックと引き合うな。

 ミラ・クニスは『ブラック・スワン』の時より少々ふっくらしてるが、このほうが可愛い。純真だが思い込みの激しい「西の魔女」によく合っている。レイチェル・ワイズは、もっと誇張した演技でもよかったんじゃなかろうか。
 ミシェル・ウィリアムズは『ブロークバック・マウンテン』の頃に比べれば随分垢抜けたけど、お姫様っぽい格好をするには少々というか、かなり庶民的過ぎる。
 アメリカの子供向け冒険映画にはよくマスコット的キャラクターがいて、これが足手まといの上に全然可愛くなくてイラっとさせられることが多い。今回はそのポジションのキャラが空飛ぶ猿のフィンリーに陶器の少女と、二人もいたわけだが、どちらもなかなか可愛かった。

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カウボーイ&エイリアン

 ここのところダニエル・クレイグ出演作をちょくちょく観てるんだが、これは彼を特別に好きだからではなく(まあ割と好きだが)、観たい映画が偶々彼の出演作なのである。

 西部の町にエイリアンが現れてカウボーイと戦う、とだけ聞くと、いかにもB級映画っぽいが、かなり丁寧に作ってあって、キャストもかなり豪華。ハリソン・フォードがこれまで観た中で一番いい演技をしている。
 とはいえ、制作者たちがやりたかったことはあくまで、「ウェスタンにエイリアンというB級的状況を丁寧に作る」というところまでなのであろう。エイリアンが地球に来た理由は結構いい加減だし、なぜこの土地にだけ、という理由にいたっては顧みられてさえいない。

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ジャンゴ 繋がれざる者

『イングロリアス・バスターズ』がホロコーストという「歴史」に対するユダヤ人の復讐物語だとすれば、本作は奴隷制という歴史に対する黒人の復讐物語だと言える。

『イングロリアス・バスターズ』は少々冗長だったが(『キル・ビル』や『デス・プルーフ』に比べれば遥かにマシだが)、本作では上映時間の長さにもかかわらず、その点は改善されていた。理由の一つとして挙げられるのは、セルジオ・レオーネ張りの「ため」がほとんど行われなかったことだろう。これまでは、やたらとためるのはいいが、セルジオ・レオーネのようには緊張感を持続させられないから、ただ冗長なだけになっていたのである(ギャグでやってる「ため」でさえ、笑わせ時のタイミングを外していた)。
 ほかの理由としては、タランティーノ作品の特徴の一つである長台詞が、今回はほぼクリストフ・ヴァルツによって独占されており、彼は台詞回しが非常に巧いので、大して中身のないことを喋っていても冗長さをまったく感じさせないのである。ほかのキャラクターによるとりわけ長い台詞はレオナルド・ディカプリオのもので、これは嬉々として行われる人種差別大演説という、なかなか素晴らしいものであった。

 ディカプリオはついに、童顔を最大限に活かしたキャラクターを創造した。すなわち、「子供じみた暴君」である。タランティーノはインタビューで、ディカプリオの役のイメージは「南部のルイ14世」だと述べていたが、ディカプリオが『仮面の男』ルイ14世そのものを演じたことには、なぜか言及しなかった(ディカプリオ本人もタランティーノの発言を繰り返しているにもかかわらず、『仮面の男』には言及していない)。
『仮面の男』のルイ14世は「子供じみた暴君」ではなく「暴君じみた子供」にしか見えず、ディカプリオの童顔がネックになった芸風の狭さが露呈した最初の瞬間であった。あれから15年、童顔は相変わらずだが演技力は大きく成長を遂げたのである。いや、よかったね。
 
 以下、ネタばれ注意。

 ジェレミー・フォクス演じる主人公ジャンゴは、ヴァルツ演じるドイツ人の賞金稼ぎシュルツによって奴隷の境遇から解放され、以後、シュルツによって導かれる。それだけなら、白人監督によって作られた「善良で優れた白人が可哀想な黒人を救ってあげる」映画になってしまうが(タランティーノが北米先住民の血を引いているのはさておき)、シュルツは途中で殺され、以後はジャンゴは自力で苦境を脱しなければならなくなる。
 しかもその後、ジャンゴは物置の隅に放り出されたシュルツの死体を発見する。その姿は襤褸切れのようで、ひたすら惨めで哀れでしかなく、「黒人を教え導く白人」という属性は完全に剥ぎ取られている。それは同時に、ジャンゴが完全に独り立ちしたことを示している。
 ……まあそこまで計算された演出なのかどうかは定かじゃないんだけどね、タランティーノだけに。ともあれ、あの場面の構図はクリストフ・ヴァルツが小柄なのが利いてるなあ。

 ジェレミー・フォックスはあまり個性的ではないが、元々キャスティングされる予定だったウィル・スミスよりは役柄に合ってると思う。スミスだとマッチョなヒーローのイメージが強すぎるから、奴隷を演じてもあまり虐げられてる感じがしなかっただろうし、ジャンゴが鞭を奪って白人をぶちのめす場面におけるカタルシスが薄れてしまっただろう。
 ディカプリオが支配するプランテーションで、ゾーイ・ベル発見。意味ありげにマスクをして、意味ありげに写真を見ているのに、ほかの有象無象と一緒にあっさり殺されてしまう。タランティーノのことだから、このキャラクターの設定を詳細に考えて、スピンオフまで妄想してそうだな。わあ、うざい。
 
『キル・ビル』感想 

『デス・プルーフ』感想 

『イングロリアス・バスターズ』感想

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塀の中のジュリアス・シーザー

 共に80歳を越えるタヴィアーニ兄弟の最新作。イタリアのレビッビア刑務所で毎年行われている演劇研修。いずれも重罪犯の囚人たちが、プロの演出家の指導で半年にわたって稽古をし、公演には一般客も招かれる。
 演出家が集まった囚人たちを前に、今年の演目はシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』に決まった、と告げる。オーディションで役者が選出され、稽古が始まる――

 というドキュメンタリーの形式で話は進んでいく。この演劇研修のことを知ったタヴィアーニ兄弟が、演出家に掛け合って撮影に協力してもらったのである。しかし実際には、演目を『ジュリアス・シーザー』に決めたのはタヴィアーニ兄弟だし、事実上の主役であるブルータス役を務める囚人は、元・囚人である。服役中にこの演劇研修で経験を積み、出所後にプロの俳優となって、すでに幾つもの映画に出演している。
 それにもかかわらず、元・囚人のプロ俳優は現役囚人ということになってるし、すべての「登場人物」は映画撮影のことなどおくびにも出さないしで、実際にはかなりコントロールされたセミ・ドキュメンタリーとでも呼ぶべき作品である。

 しかし撮影はすべて本物の刑務所内で行われているし、「俳優」たちはすべて本物の囚人(および元囚人)で、しかもその多くが元マフィアの一員だ。その彼らが暗殺が主題の『ジュリアス・シーザー』を演じるのである。
 不吉な予感に囚われ、暗殺の現場となる議場へ赴くのを躊躇うシーザーを、暗殺犯の一人が口八丁で丸む場面の稽古で、シーザー役が演技を中断して、「その役はおまえにぴったりだ。面と向かってはおべっかを使うくせに、陰で俺の悪口を言いふらしてるのを知ってるぞ」と言い出す――というような展開が、どこまでコントロールされているのかはともかく、謀略、暗殺、人心掌握、形勢逆転、戦闘、といった各場面に、囚人たちが自らの経験(マフィアの権力闘争など)を重ね合わせているのは間違いない。妙なリアリティと迫力が醸し出されているのである。

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月に囚われた男

 こういう低予算だけどきちんと作られた、ちゃんとSFになってるSF映画を観るのは久し振りである。とはいえSFにおいては映画が他の媒体による作品(小説など)の先を行くことは滅多になくて、本作もややレトロ調である(予算の制約もあるのだろう)。しかし、ちゃんとしたSFなので、そのレトロな雰囲気はかえって味になっている。「月に囚われた男」という邦題も(原題は「MOON」)、なんとなく50年代SF調でよろしい。

 それほど遠くない未来、月の裏側で発見された鉱物によって世界中のエネルギー問題は解決した。その鉱物の採掘はたった一社によって独占されている。採掘は機械によって行われているが、それらの機械を管理するのは、たった一人の人間と一台のロボットである。任期は三年間。
 ありがちなSFホラーとして、わざわざ「人がおかしくなる環境」を設定してキャラクターを放り込む、というのがある。本作の状況設定も、「さあ、おかしくなれ」と言わんばかりなのだが、東電の度重なる不祥事を2年余りにわたって見せらてきた以上、「経費削減」が理由だと言われると、充分納得できてしまう。

 以下、一応ネタバレ注意。

「低予算だけどきちんと作られた、ちゃんとSFになってるSF映画」はバッドエンドか、そこまで行かなくても遣る瀬無い終わり方をするものが多いが、これは一応ハッピーエンドである。そこは評価できるが、しかし明らかにクローンたちは寿命を3年に設定されているのに、それについての言及がまったくないとか、オリジナルはどうなったんだ、といった少々の粗が、全体としての出来はいいだけに目につく。
 

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