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The Show Must Go on!

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収。初出は『SFマガジン』2013年6月号掲載。

「はじまりと終わりの世界樹」では、2012年の時点ですでに亜人は広く普及し、亜人を排斥しようとしていた人々も自滅のかたちで完全に弱体化していたことが明らかにされている。したがって「絶対平和」の完成は、この時点から一世代以内に実現したと予想される(一応、2030年代を想定)。
『グアルディア』第八章でアンヘルが述べているとおり、「絶対平和」は停滞の時代である。より進歩しよう、より豊かになろう、より消費しよう、という欲望を人類が失ったためだ。つまり、「絶対平和」というシステムが完成した後は、崩壊が始まる22世紀末まではほとんど変化らしい変化のない時代なのである。
 本作「The Show Must Go on!」は、いわば「絶対平和」というシステム/時代のスケッチであり、すなわち2030年代から2190年頃までのいつを舞台としても構わないわけである。そのため作中の時代については、22世紀という以外は明記していない(時代設定の詳細については、ネタばれとなるので後述)。

 冒頭で述べたとおり、絶対平和は亜人の奉仕によって支えられている。単に労働を肩代わりしているだけでない。人間の暴力性をも肩代わりしているのだ。それは亜人同士の殺し合い、すなわち戦争と闘技によって行われる。血と苦痛、そして命をも捧げる、究極の奉仕である。
「絶対平和」のスケッチである本作は、主な題材としてこの「戦争」を取り上げる。

「進歩」を破壊を伴いがちで好ましくないものと見做す絶対平和において、文化は自ずと懐古趣味へと向かった。
 およそ文化と呼ばれるものが旧時代の模倣と応用に徹する中で、ほとんど唯一の「創造芸術」が、戦争と闘技である(作中で言及はされていないが、戦争と闘技に関係しない分野で新たな芸術を創造しようという試みが完全に絶えたとも思えないので「ほとんど唯一」としておく)。
 戦争と闘技は本質的に、古代ローマの闘技と同じく娯楽である(ローマの闘技場においても模擬戦が行われることがあった)。純粋な娯楽と見做される闘技に対し、戦争には政治的問題の解決手段であるとか、旧人類文化の保存(暴力がヒトという種の本能であったとしても、戦争は文化的営為である)といった大義名分が付与されているが、娯楽であることに変わりはない。

 一回の戦闘は長くても数時間で終わる。それ自体が19世紀以前の戦争を模した(ただし忠実な再現ではない)作品だが、「作戦」はそれで終わりではない。戦闘と、それを題材とした派生作品(スピンオフ)の制作と公開をひっくるめたすべてが、一つの作戦なのだ。スピンオフの媒体にはアニメ、ゲーム、マンガ、小説などがある。新時代の芸術は原則として旧時代(21世紀初頭以前)の模倣と応用なので、媒体も基本的に変わっていないのである(技術はいろいろと改良されているだろうけど)。アニメ等の声優は人間が務めるが、人間の俳優による実写化はない。時間とコストが掛かりすぎるためだろう。加えて、アマチュアによる二次創作も盛んに行われる。
 闘技も同様に派生作品と二次創作という裾野を持つが、規模はずっと小さいし1回の戦闘(興行)ごとでもない。

 戦争も闘技も、人気の焦点となるのは「キャラクター」と呼ばれる特殊な戦闘種たちである。彼らは個性(キャラクター)と名前を与えられ、フィクションの登場人物(キャラクター)のようにプロフィールを設定されている。
 なお闘技は個人戦が基本であり、すべての闘奴は最初からキャラクターとして製造される。一方、戦争は闘技のように頻繁に行われはしないものの、一回の戦闘に数百~数千体が投入される。兵士はすべて無個性で能力も均等な量産品(「モブ」と通称される。外見はそれなりに個体差がある)であり、そこから視聴者の人気投票を受けて徐々に外見や能力をカスタマイズされていき、やがてキャラクターに「昇格」するのである。ただし、そこまで生き延びられる兵士はごくわずかである。
 本作の主人公アキラは、このキャラクターのデザイナーである。

  現実においてゼロ年代後半、「クールジャパン」が世界を支配したとか、これからするとか盛んに言われていたものであるが(日本国内で)、その熱狂が冷めると、いや実はそこまですごくなかったんだとか言われ出し、どうやら今後もそこまですごくなりそうにない。しかしこの歴史改変の世界では1990年代後半、日本のポップカルチャーが世界を席捲している。「クールジャパン」の熱狂が頂点に達した当時に言われていたことが、この世界では実現していたのである。
  が、そのブームが日本経済の立て直しに活かされることはなかった(そうなる前に亜人が誕生し、やがて経済そのものが根底から覆る)。日本のポップカルチャーを大いに活用したのは、亜人の創造者たちである。

  亜人のプロトタイプは、「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」で描かれたとおり、あまり魅力的でない外見である。その後、魅力的な外見の亜人が次々と登場することになるが、それらのデザインを行ったのは、日本人と追随者たちだった。
  戦争が亜人同士のものとなり、ショウ化する過程で取り入れられた「キャラクター」も、日本的な概念である。そして22世紀の本作においても、日本人は伝統的にキャラクターのデザインおよび扱いに長けていると見做されている。主人公である日本人青年アキラも、モブ(量産品の一般兵士)を扱うアシスタント・デザイナーだったのが、ある新兵のキャラクターとしての素質を見抜いたことがきっかけで、キャラクター・デザイナーに昇進する。

  本作では、1999年に『AKIRA』がハリウッド(正確にはその人材)と香港との協同で実写映画化されたことになっている。90年代の日本のポップカルチャー興隆の象徴的作品として歴史に刻まれており、主人公は日本人クリエイターとしてのアイデンティティを表明するため、この名を選んでいる(この時代、成人は自由に改名できる)。
  ……というネタを思いついたのは、『SFマガジン』2012年2月号掲載の堺三保氏のコラム「アメリカンゴシップ」で、ハリウッド版『AKIRA』の企画が迷走しているという記事からです。
  HISTORIAシリーズの歴史改変について私自身は、ダーウィンがメンデルの論文の重要性に気づいて(現実には読んだのに気づけなかった)、進化論と遺伝学がその創成期において統合されることで現実よりも遥かに遺伝子工学が発展する、というところまでなら充分あり得たと思っています。その後の改変の可能性については、1999年にハリウッド版『AKIRA』が実現して(そこに至る経緯がどのようなものせよ)、しかもそれが大傑作である、というのと同程度ということにしておきます。
  1999年といえば、すでに『マトリックス』は作られてたし、じきに『ロード・オブ・ザ・リング』も作られるという時代ですから、ハリウッド版『AKIRA』成功の可能性がゼロだったということはないでしょう。1~99%(100%=実現していた)のうちのどの辺りかについては、皆様各自で御判断いただきたく存じます。

「絶対平和」においては亜人による殺し合いである戦争および闘技がほぼ唯一の創造芸術であり、そこからさまざまなメディア展開でスピンオフ作品が生み出されている――という設定は、かなり早い段階からありました。2005年にアニメのノベライズをお受けした理由は幾つかありますが、その一つは、メディアミックスに関わる仕事をしておけば、いつか上記の設定で作品を書く時、役に立つに違いない、という期待でした。つまり、自分の好きなように書くのではなく、アニメの制作者の方々の方針に合わせて、綿密な打ち合わせをするとか細かく指示を与えられるとか、そういうような体験ができるのではないか、と勝手に想像していたのでした。

 実際はどうだったかと言いますと、打ち合わせというかそれに類したものはプロデューサーの方と顔合わせで一回飲んだだけ、後はもうほとんど完全に自由に書かせていただきました。オリジナルのエピソードも含めて。
 お蔭さまで、ストレスも少なく大変楽しく仕事をさせていただきましたが、この「The Show Must Go on!」を書く上で直接役立つ経験ができたかというと……どうなんでしょう。貴重な体験だったのは確かですし、間接的にはいろいろ役立っているんだろうとは思いますが。
 いずれにせよ、お仕事を受けた最大の理由は、あわよくばキャラクター・デザインのコザキユースケ氏に表紙イラストを描いていただけるかもしれない、という思惑で、それは見事に叶ったので、何も言うことはないんですけどね。あ、もちろん、私から要求したわけではありませんよ。

 余談的なもの、もう一つ。
 ルウルウというキャラクターが登場しますが、この名前は「真珠」を意味するアラビア語です(アラビア語・ペルシア語圏では普通の女性名)。「ルールー」ではなく「ルウルウ」という表記なのは、原語の発音に沿ったものです。
 原語は、アラビア語だと文字化けするかもしれんので、対応するローマ字で表記するとlu’lu’となります。この「’」という文字の発音は、喉の奥で出すア行音(アラビア語だと「ア、イ、ウ」のみ)。だからlu’だと、「ル」の後に喉を詰まらせたように「ウ」と付けると、それっぽい発音になります。
「ルールー」ではなく「ルウルウ」なのは、そういうわけなのでした。とか言いつつ、実のところ私は「原語の発音に忠実な表記」なんてものはほどほどしておけばいい、と思ってるんですけどね。あまりにも懸け離れた表記もどうかと思いますが、「忠実」を目指し過ぎても無意味だろ、と。ただ単に、「ルールー」よりも「ルウルウ」の表記のほうが気に入った、というだけなのでした。

関連記事: 「連作〈The Show Must Go On〉」 「遺伝子管理局」 

       「HISTORIAにおける歴史改変」 「絶対平和の社会」 

       「絶対平和の戦争」 

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以下、「名無し」について、ネタばれ注意。

 戦闘種一個体に複数のキャラクターが与えられるのは珍しいことではない。また「キャラクター」はそのデザイン(意匠)そのものを指すこともあれば、派生作品の登場人物(正確には「人物」ではないが)でもある。
  そのため、「キャラクター」とそれを与えられた個体(「本体」という呼び方が一般的)とを区別する時は、本体固有の名で呼ぶ。それは、各個体の製造番号の最初の二文字か三文字のアルファベットである。

 亜人を人間として扱ってはならない。人間のような名前を与えることも、当然この禁止事項に含まれる。だからすべての亜人は、原則として上記のように頭文字で呼ばなければならないことになっている。
 ただし、それでは呼びづらい場合、頭文字から通称を作り出してもよい。この時代の法律は、かなり融通が利くのである。
 戦闘種に与えられるキャラクター名も、この慣例に従っている。だからたとえば、戦闘種ESTH1722MSF68のキャラクター名は「イヴニング・スター Evening Star」および「イヴィル・スネーク Evil Snake」であり、本体の呼び名はESである。
 その他大勢のモブは名前を与えられないので、頭文字だけで呼ばれるのが普通である。

 なお、作中でドゥニヤザードとシェヘラザードという亜人たちについて言及されているが、これらは個体の呼び名ではなく、デザインのタイプの呼び名のようなものだと思われる。

 さて序盤、アキラは一体のモブ兵士に目を付け、その製造番号を確かめ、「名無しJohn Doe」と呼ぶ。以後、これがこの個体の通称となる。キャラクターに昇格した「名無し」に与えられた名は「ジャンピング・ディア Jumping Deer」「ジェット・ドッグ Jet Dog」。
「ヨーゼフ・フォン・ダンネッカー  Josef von Dannecker 」のvonは、本来「~出身」を意味する前置詞である。日本でもたとえば「藤原道長(ふじわらのみちなが)」のような名前は姓は「藤原(ふじわら)」、個人名は「道長(みちなが)」であり「の」は単なる助詞であってミドルネームとは見做されない。
「ジャマル・ウッディーン Jamal Al-Dīn」の場合、al(発音の規則上の変化で「ウッ」と読む)は定冠詞である。

 ……というわけで、『グアルディア』の読者の皆様はもうお解りですね。主人公(の一人)であるJDです。製造番号(認識番号)は第9章で本人が述べています。

「絶対平和」の情景スケッチである「The Show Must Go on!」は、当初の予定では絶対平和の絶頂期とその直後の崩壊の始まりを描くつもりでした。災厄の始まりは22世紀末ですから、その十年前、2190年前後から始めようと。スケッチ的な構成なら、長いスパンを扱っても少ない枚数で収まるだろうと考えたわけです。
 が、構想を捻くり回しているうちに、どう考えても短編では収まらん、と気づき、「そうだ、絶頂期の話と崩壊の始まりの話の二篇にしよう。それなら絶対短編になる」と。というわけで、まず前篇「The Show Must Go on!」を書き上げたわけですが……ものの見事に100枚超。おかしいな、なんでこんなことに。

 まあ枚数のことはさておき、主題を亜人の戦争としたからには当然、亜人兵士のことを描くことになるのですが、長さの制約もあるから、何体もの兵士を出すより、代表となる一個体に絞ったほうがいい。JDが亜人兵士だったことはすでに『グアルディア』で明らかにされていますし、続く『ラ・イストリア』では2202年に「生体甲冑」の着用者となった亜人兵士がJDだったらしい(ほぼ確実)ことが示唆されています。
 22世紀末~23世紀初頭に生きた亜人兵士がJDである必要性は特にはないのですが、逆に言えばJDであってはいけない必要性も特にはないわけです。だったら新キャラを出すよりJDにしよう、と。

 最初のほうで述べたとおり、この「The Show Must Go on!」一作だけに限って言えば、2030年代~2190年頃のいつの時代でもいい話です。したがって亜人兵士の代表として登場させるキャラがJDである必要性は、2200年前後に明確に設定した続編(現在執筆中)よりもはるかに低い。というわけで、「名無し」がJDだということを意図的に解りにくく書いているのでした。
『グアルディア』のJDは過去の記憶を失っており、その過去も最後にはアンヘルにより、「亜人兵士という空っぽの存在」だったと明らかにされています。「The Show Must Go on!」で明らかになるのは、JDの「過去」はそのとおり本当に空っぽだったよ、という話で、ま、ですから『グアルディア』を読んでいなくても、あるいは読んだけど忘れたというのでも、全然まったく問題はないのでした。
 そもそも、生体甲冑の着用者になる前となった(そして侵蝕された)後とでは、ゲノム配列が同じでも同一人物(個体)と言えるのか、という問題がありますしねー。

関連記事: 「JD(2190~)」  「JD(2540~)」  「生体甲冑 Ⅲ」 

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