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ハングオーバー

 昨今のダメ男系コメディ映画は、ダメ男ぶりがリアルすぎて笑えない。これもその口かと思って敬遠してたんだが、先週ツタヤに行った日は偶々DVDをゆっくり選んでいる時間がなかったので、目に付いたこれを借りたのであった。

 ダメ男系コメディとは、ちょっと違いました。主人公3人(+花婿)は花嫁の弟を除けば、特にダメ男というわけではなく、バチュラーパーティーで羽目を外しすぎただけの、普段はいたってまっとうな市民である。花嫁の弟はダメ男だが、よくいるダメ男ではなく、明らかに超が付く変人だし。
 映画の中でダメ男がどつぼに嵌るのはダメ男だからで、必然と言えば必然のことなのである。だから笑えない。対して本作は、これまでまっとうに健全に生きてきた(羽目を外すことがあっても、ほどほどの範囲内だった)、ダメさ加減も中くらいなりの男たちが、偶々ほどほどの範囲を踏み外して羽目を外して嵌った落とし穴、つまり偶然、アクシデントである。

 いや、おもしろかったっス。たぶんそのうち続編も観るでしょう。

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英雄の証明

 意味があるような無いような邦題が付いているが、シェイクスピアの『コリオレイナス』をレイフ・ファインズ監督・主演で映画化したもの。ジェラルド・バトラーが敵将オーフィディアス、ブライアン・コックスが珍しく温厚篤実な議員メニーアスを演じている。

 シェイクスピア作品の映画化で観たことあるのって、『ロミオとジュリエット』(フランコ・ゼフィレッリのとバズ・ラーマンのと両方)、『ハムレット』(イーサン・ホーク主演)、それに『タイタス』くらいか。アル・パチーノの『リチャードを探して』とタヴィアーニ兄弟の『塀の中のジュリアス・シーザー』も加えていいだろう。
 以前、日本で英会話教室の講師をしているアメリカ人に『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』のDVDを観せたら、佐藤浩市が『ヘンリー六世』を朗読するシーンで、「うわーっ、シェイクスピアがすごい日本人発音で読まれてるー!」と叫んで(英語で)、爆笑していた。ちなみに私の英語力では、彼女がそう言ったということは理解できても、それを正確に繰り返してみろと言われてもできませんよ。
 とにかく、彼女が笑ったのは画面に『ヘンリー六世』の本が出てくる前である。別に彼女はシェイクスピアを専門に学んだわけではない(大学の専攻は東洋美術だったそうである)。つまり大多数ではないにしろ少なからぬ数のアメリカ人にとってシェイクスピアは、どれが適当な一節を耳にすればシェイクスピアだと判るくらい基礎的な教養であるらしい。
 まあ、それくらい耳に馴染んだシェイクスピアが日本人発音で読まれてるのが笑える、というのは、彼女のような職業限定に違いないが。

 これまでに観た英語圏におけるシェイクスピアの映画化作品が、すべて原作の台詞を極力そのまま使おうとしているのは、そういうわけだからなんだろうなあ。シェイクスピア作品とは何よりもまず台詞である、台詞を改変しちゃったらそれはもはやシェイクスピア作品ではない、と。
 しかしシェイクスピアの台詞は、映画という表現形態にはまったくそぐわないのである。だから多くの映画化作品が、時代等の設定変更も含むめ、ことさらに奇をてらった演出にするんだろう。ゼフィレッリ版の『ロミオとジュリエット』だって、当時にしてはかなり奇をてらった演出だそうだし。

 そうして各制作陣が知恵を絞った演出は、両『ロミオとジュリエット』では成功している。が、『ハムレット』と『タイタス』は成功とは言い難い(『リチャードを探して』はとりあえず措く)。『ロミオとジュリエット』は、テーマが普遍的であることが成功の理由の一つだろう。

 で、本作。ローマと隣国ヴァルサイは架空の国ということになっているが、時代は明らかに現代である。ローマは、国(都市)全体がヨーロッパのどこかの都市の低所得者層地区みたいな感じで、ヴァルサイは旧ユーゴからイスラム的要素を抜いたような感じ。そう言えば、旧ユーゴスラビアってイタリアの隣国なんだよな。
 そういう舞台設定で、場面も台詞も多少省略がある以外、ほとんどオリジナルの戯曲どおりのようである。アクセントも仰々しくシェイクスピア調だ。
 これが意外にも違和感が少ないのである。現代の、落書きだらけでいかにも不景気そうな都市や戦闘によって荒廃した街や農村、という我々がニュース等で見慣れた風景と、長々と吐き出される仰々しい台詞の組み合わせは、『タイタス』の凝りに凝った美術と演出よりも、よほど興味深い効果を上げている。予備知識なしの観客向けでないのは確かだが。
 
 しかしさすがに、21世紀のヨーロッパ的な舞台で「国家のため」が絶対正義として叫ばれるというのは違和感がある。もちろん現代でも、「国家のため」が絶対正義な国はいくつかあるけどね。
 それよりも何よりも、シェイクスピアの戯曲『コリオレイナス』は、良くも悪くも偉大な「個」である英雄が民衆という「多頭の怪物」によって破滅に追い込まれる話、と私はしているのである。が、この映画では、「多頭の怪物」という台詞がカットされていた(少なくとも字幕には、それらしき台詞は一度も出なかった)ことからも明らかなように、そうした側面はほとんど強調されていなかった。
 
「アラブの春」に代表されるように、現代はネットという道具によって未だかつてない規模で市民が結束しうる時代である。それは圧政に対する抵抗といった「よいこと」と見倣されているが、たとえば傲慢だが高潔な英雄を失墜させる手段にもなりうるわけだ。
 貴族(すなわち選良)が団結して暴君を追い出して確立した共和制が市民という「多頭の怪物」の台頭によって脅かされているローマを現代すなわち21世紀に置き換えるなら、まさにその側面を無視してどうする、と思ったのであった。これでは単に奇をてらっただけで終わってる。

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