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パスカル・キニャール――文学のオリエント

 佐藤亜紀先生と岡和田晃氏が出るので、行ってまいりましたよ。11月16日(土)、日仏会館にて。
 会場は恵比寿。乗り換え以外で下車するのは十一年ぶりくらいである。駅から会場まで、途中で一回曲がるだけという単純極まりない道筋なのに、その曲がる方向を間違える。時間までに会場には辿り着けたものの、自分の間抜けさ加減に今更ながら落ち込む。
 
 百人弱の入りで半数がフランス人。キニャール本人の講演は日本語のレジュメ付きで通訳なし。タイトルは「文学という言葉には起源がない」
「文学」Littérature(仏語)はラテン語ではlitteraeといい、「文字」litteraの複数形なのだが、この「文字」という語の起源は共和制ローマの時代にはすでに不明になっていたのだそうだ。つまり、タイトルどおり「文学」という言葉の起源も不明なのだそうである。古代ローマ人たち自身もこの謎に挑み、さまざまな説をひねり出したが、結局言葉遊びの域を出なかったとのこと。これが前半。後半は、書くという行為、エクリチュールについての省察。

 ところどころ語句は聞き取れるので、概ねレジュメどおりに進めていて、内容が前後したり飛ばされたりはしていないということは判りました。が、合間合間にレジュメにないことも喋っている。それについてはまったく理解できないので、何を喋ってはるのかなあ、と大変気になったり。
 それと、私のフランス語は『グアルディア』を書いた時に少し齧って、それから数年後にもう少し齧っただけの雑学レベルで、実地には全然役に立たない、と思っていたのですが、全然役に立たないわけでもないんだなあと、ちょっと嬉しかったり。
 
 以降はパスカル・キニャールの研究者の発表(シンポジウムなので)。イヤホンで同時通訳を聞きながらの講演は初めての体験だったのだが、最初の発表者クリスチャン・ドゥメ氏(最近、『日本のうしろ姿』という本を刊行)はまるでフランス語会話の教材のようにゆっくりはっきり喋ったので、つい理解もできないのに耳を傾けてしまい、同時通訳のほうにまったく集中できずに難儀する。
 以降の発表者はかなり早口で喋ったので、こちらは同時通訳に集中できたが、次第に耳が痛くなってくる。私はやや難聴の気味があるのだが、そのせいだろうか。中耳(鼓膜より奥)ではなく外耳道がズキズキと痛む。
 
 昼休みは一時間余りだったが、時間を過ぎても御本尊が戻ってこないので午後の部を始められず。結局30分の遅れで開始。
 プログラムが進行するにつれ、耳はどんどん痛くなってくる。音量を聞き取れる限界まで下げ、イヤホンを右に左に替えながら聞いていたが、そのうち頭痛まで始まり、首、肩がガチガチに固くなる。気分も悪くなってくる。
 もうじき日本人の発表が始まるからそれまで我慢しようと頑張ったが、小川美登里氏(キニャールの新刊『秘められた生』の翻訳者)がフランス語で発表を始めたので、限界だー!とロビーに退散。相変わらずヘタレです。
 
 その後の休憩ではロビーに飲み物が用意されたが、ここでもフランス人たちはキニャール本人を筆頭に、時間になっても誰も会場に戻ろうとしない。さすがだ。
 私が日本人らしくホールに戻ろうとしたところ、キニャールが入口近くで何やら話し込んでいる。Pardonと言って通してもらおうかという誘惑に一瞬駆られたが、馬鹿な真似はやめて迂回する。
 ちなみにキニャールの印象は、気さくでお茶目なおじさま、と言ったところでした(だからこそ、上記のように馬鹿な気を起こしかけたわけだが)。会場で会った友人知人は皆、「作品から受ける印象と違う。もっと尖って、やばそうな人かと思ってた」というようなことを言っていたが、あの人は小さな子供や犬猫をとても可愛く書くので、その点ではイメージどおりだ、と私には思えた。と皆に言ったところ、誰も犬猫や子供の可愛さは印象に残っていないとのこと。相変わらず私は人と視点がずれているようです。
 
 最後は佐藤亜紀先生と小野正嗣氏が岡和田君の司会で、キニャール作品についてそれぞれ語る「パスカル・キニャールを読む日本の作家」。このお三方のうち、フランス語ができないのは岡和田氏一人。というわけで岡和田氏のお蔭をもちまして、この最後の演目は日本語で行われる。体調はだいぶ持ち直していたものの、頭と耳の痛みはまだ続いていたので集中しているのは大変でしたが、メモから幾つか拾い上げると、

 佐藤先生は、まず『めぐり逢う朝』で描かれるバロック期の音楽家の修行が、「考えるな、感じるんだ」式の非常に東洋的なものでありながら、曖昧模糊にではなく明晰に理知的に書かれていることに深く感銘を受けたということを語った。そしてキニャールの作品群の中でも特に過去の時代を扱ったもの、それらはいわゆる「歴史小説」というジャンルに押し込まれてしまうわけだが、あたかもその時代を生きているかの如く、「たとえば目の前にある木のテーブルを触ってどんな感触がするか」が解るほどの視点の没入を実現できているそれら作品を、果たして他の凡百の「歴史小説」と同じ括りに入れることができるのか(いや、できない)。
 小野氏のキニャール作品との出会いは『アメリカの贈り物』。牛の死産の場面が衝撃的だったとのこと。自分の故郷について書くには故郷から離れる必要がある。

 司会の岡和田氏はいつもに増してテンションが高く、日本人聴衆には、明らかに彼を知らない人にまで大いに受けていました。終わった後、近くの席の、SFなんぞ読まないどころかそんなジャンルがあることすら知らなさそうなハイソなおばさま二人が、「あの司会の若い人、おもしろかったわね」と言い合っていたほど。
 しかしフランス人の聴衆にはどうだったんだろうな。というか、いつもに増して早口だったから、ちゃんと同時通訳できてたのだろうか。通訳が追いつけてるかだけでも確認したかったが、耳の痛みのため断念。残念。あと、佐藤先生の独特の言い回し(「信長秀吉家康小説」とか)はどう訳されてたんだろなあ、とか。

 閉会の後、ロビーで赤ワインが振舞われる。ちょびっと飲んだだけだが、非常に美味しくて、頭痛は完全に消える。さすがフランスワインだ(いや、確認はしてないんだがフランス産だよね。まさか、そうじゃないなんてことは)。

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ディナー・ラッシュ

 ルイジは父親の代から続くイタリアン・レストランを営む傍ら、長年ノミ行為にも手を染めてきた。シェフの座を息子に譲ったところ、その息子が天才シェフとして持ち上げられ、店の人気は急上昇する。そこでそろそろノミ屋から足を洗おうとした矢先、ノミ屋のパートナーがマフィアに殺されてしまう。

 この殺人事件をプロローグとして、本編は数日後、イタリアン・レストランの一夜。オーナーのルイジを中心とする群像劇で、群像劇というとロバート・アルトマンがまず思い浮かぶ。アルトマン作品は嫌いじゃないが、これまで観たのはどれも散漫でテンポが悪い印象が否めないんだな。
 それに比べると、本作はテンポがよく、緊密な印象。アルトマン作品よりも、人物から人物への切り替えが早いからだと思う。ただし登場人物がかなり多いため、あるキャラクターにちょっとスポットが当てられたと思ったら、すぐに別のキャラクターに、という具合で(まさに「ラッシュ」状態)、最初のうちはキャラクターの相関や状況をなかなか把握できない。把握できてからはおもしろくなるが。

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『「世界内戦」とわずかな希望』

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 岡和田晃氏の批評集で初の単著『「世界内戦」とわずかな希望――伊藤計劃・SF・現代文学』が先日発売されました。本文300頁以上、短いのから長いのまで、すんごいたくさん(数えかけたけど、やめた)の批評が収録されています。

 テーマ別に、次のような構成になっています。

 第一部 「伊藤計劃以後」の現代SF――伊藤計劃、仁木稔、樺山三英、八杉将司、宮内悠介
 第二部 スペキュレイティヴ・フィクションの可能性
 第三部 世界文学のニューウェーブ

 冒頭から順番にではなく、あっちを齧り、こっちを齧りという読み方で七割方読んだところで、冒頭に戻って今度は順番に、まだ読んでなかったものも既に読んだものも通して読み、現在は第三部に入ったところです。
 なので、まだ幾つか未読のものもあるのですが、とにかくこういう読み方をして解るのは、論旨の一貫性です。たいへん多くの、多岐にわたる作品を論じていながら、その一貫性は驚くほどです。
 それは岡和田氏の思想(「思想」という言葉はいろいろ語弊があるんで、主張とか考え方とか言い換えてもいいですが)が一貫しているからで、かと言って、他者の作品を自分の思想やら主張やらのダシにしているとか、自分の考えに都合のいいところだけ取り出したりこじつけたりしているんではもちろんない。世界(「セカイ」ではなく)の捉え方が一貫しており、あらゆる作家の作品も、その世界の一部として把握されているから、なのだと思います。

 だから、彼の批評の価値は雑誌等に掲載されるものを個々に読むよりも、こうして一冊にまとめられたものを読んでこそ見えてくるのではないかと思います。
 そういうわけで、第一部では私の作品も幾つか取り上げてもらってますが、それらも全体の一部を成してるわけなのですよ。

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リアル・スティール

 優れたSFの条件の一つは、世界に対する読者(鑑賞者)の認識に変化を強いることである、と私は信じているのだが、映画というメディアにおいては残念ながらその条件に当て嵌るSFは非常に少ない。
 なぜなら多くの人にとって、認識(もう少し小規模に価値観や視点でもいいが)の変化を強いられるというのは、多かれ少なかれ不快な体験だからだ。できるだけ多数の観客を動員して制作費を回収しなくちゃならん映画で、観客に不快な体験を強いるような危険を冒せないのは当然のことである。
 
 ではSFに限らず、大多数の鑑賞者が物語に求めるのは何か、というと、己の価値観を心地よく肯定してくれること、である。近未来のアメリカを舞台にした本作は、陳腐な価値観をたいへん優しく肯定してくれている。
 ……とここまでだと、あたかもクソミソに貶す文章が続くかのようですが、随分とよくできた映画だと思っているのですよ。以下、ネタバレ注意。
 
 主人公は負け犬である。すると当然ながら、物語は「負け犬の再起」となる。もちろん、再起は成功する。さらにアメリカ映画なので、再起には家族の協力(この場合は幼い息子)が欠かせない。その過程で、失われていた家族との絆が回復されるのである。
 主人公が負け犬なのは、決して元から駄目人間だったからではない。時代の変化に取り残されたためである。それも天才ボクサーだったのが、「ロボット格闘技」の流行によって職を失ったのだ。つまり、科学技術の発展や時代の変化に対する不安や不満の代弁である。
 
 というわけで、主人公の再起および父子の絆の回復を担うのは、最先端技術の粋を集めたロボットなどではなく、廃品置き場で見つけた旧式のロボットとなる。ただし闇雲に古い世代を賛美し新世代を否定するのではなく、アトムと名付けられたこのロボットに適切なプログラミングを行い、能力を強化する役割を担うのは弱冠11歳の息子だ。
 トーナメントを順当に勝ち上がっていくアトムと父子の前に、お約束通り最強のロボットが立ち塞がる。
 もちろんこのチャンピオン・ロボットは主人公チームに敗れることになるのだが、負かしてしまうのが申し訳なくなってしまうような、たとえば下町の職人たちが血の滲むような努力を重ねた作り上げた叩き上げとか、あるいは難病の天才少年が肉体的な強さへの憧れを託してとか、そんなタマではない。オーナーもデザイナーも大金持ちで傲慢、そのうえ外国人(見るからに非アメリカ的な容姿に訛りの強い英語)という、観客(アメリカの)が一片の共感も抱けない、まさに敗北を運命づけられた憎々しいヒールである。
 
 そして対決の時を迎える。戦えば戦うほど強くなり、どんな勝負にも対応できるというプログラムのチャンピオンに、アトムは防戦一方に追い込まれる。とうにマットに沈められているはずなのに「根性」で耐え抜くものの、ついに音声コマンドシステムが壊れてしまい、命令に反応しなくなる。
 しかしアトムには、まだシャドーシステムがあった。人間の動きをそっくり模倣するという能力である。そう、まさに今この時こそ、主人公の「元ボクサー」という設定が生きてくる。リング脇でシャドーボクシングをする主人公の動きを真似することで、アトムはチャンピオンに勝利するのだ。

 このクライマックスには、実にわかりやすい図式が見て取れる。まず、機械(ソフトも含めて)はいざという時に壊れるから頼りにならないのだ、という不信。特に自分で学習し判断するような自律的、すなわち人間のコントロールを離れた機械に対する不信。これらの不信は、不安の反映だ。
 このような人間の手を(ある程度)離れた機械に勝利するのは、人間の「鍛え抜かれた肉体」なのである。たとえ引退して久しかろうと、鍛え抜かれた肉体が機械なんかに負けるはずはない、ということなのだ。
 これは単に「所詮、機械は人間様には敵わない」とういだけの図式ではない。「所詮、頭脳は肉体には敵わない」という肉体至上主義の図式でもあるのだ。自律的だろうとなんだろうと、機械を生み出したのは人間の頭脳だからね。最後に頼れるのは筋肉だけですか。いやはや。
 
 すべてが心地よく、収まるべきところに収まる予定調和である。「予定調和」というのを貶し言葉として使う人もいるようですが(「御都合主義」とほとんど同義で)、私は褒め言葉として使っています。すべてのピースがぴったりと収まるようにするのは、結構大変なものなのですよ。
 先日たまたま、『ジョン・カーター』と『ロード・オブ・ザ・クエスト』という、ヒットしなかった「陳腐な物語」を鑑賞したわけですが(まあ古典作品である『ジョン・カーター』を陳腐と呼ぶのは大変に語弊がありますが、そこは話の流れで)。この二作と『リアル・スティール』との違いは、「鑑賞者の陳腐な価値観を心地よく肯定してくれる」ものであるか、ということに尽きるでしょう。
 
 物語とはまったく別の次元の、ガジェットや映像について。
 かつて「ロボット・プロレス」という言葉がありました。ガンダムによって切り拓かれたリアル・ロボットアニメより過去のロボットアニメに対する蔑称です。
 しかしロボットどうしの「プロレス」(格闘技や刀剣様武器を使った近接戦)が、ロボットアニメの醍醐味の一つであることは否定できない事実です。というか、それがなかったらロボットが人型をしてる意味がない。ファースト・ガンダムは、「ロボット・プロレス」としても過去のロボットアニメより格段に優れていたエポック・メイキングな作品なのである。
 実写映画で「ロボット・プロレス」が鑑賞に耐えうるものとなったのは、『トランスフォーマー』が最初だろう。ただし一作目を観た限りでは、ロボットが巨大すぎるしデザインが複雑すぎるし動きが速すぎる。大画面上でさえ、何が起きてるのか(何がどう動いてるのか)よく判らない有様だ。
『リアル・スティール』のロボット格闘技は、あくまで人間の格闘技の延長という設定なので、サイズはせいぜい3メートル弱、デザインもそれほど複雑ではないし、スピードも視認が困難なほどではない。とても「リアル」だ。このリアルさは、CGだけではなく実物大模型も使っていることによるものだろう。実に素晴らしい(ね、褒めてるでしょ)。

 それにしても、ロボットのボディに漢字で「超悪男子」と電飾するセンスの持ち主は、どこのどいつだ。
 
 一つだけ苦言。ヒールが外人(ロシア系とアジア系)ってのはさすがに引いた。大金持ちで傲慢ってだけで「負」の要素は充分じゃないのか。ただでさえ不穏で不寛容な御時世に、これ以上ゼノフォビアを煽る気か。観客に媚びるのもたいがいにせえよ。
 

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善き人

 ナチスが台頭する1930年代後半のドイツ。ヴィゴ・モーテンセン演じる主人公ハルダーは、うだつが上がらない文学部教授である。
 うだつが上がらないのは、ナチスに批判的なため出世の道が閉ざされているからであり、当時のドイツで見向きもされないプルーストを講義しているためである……だけではない。二人の子供と認知症で慢性結核の(しかし当分死にそうもない)母親、そしてピアノを弾く以外何もしない神経症の妻を抱えた灰色の日々を送っている。魅力的な女子学生に迫られても、むしろ彼女の積極性に及び腰になってしまう有様だ。
 
 そんな日々の中、彼は一篇の小説を書き上げる。病で苦しむ若い女を恋人が安楽死させるという物語である。実際に母親を安楽死させたいという願望の反映ではなく、灰色の現実を美しく甘ったるいロマンスに変換することで、逃避というか多少はしのぎ易くするためだったのだろう。しかしこの作品が、ヒトラーの気に入るところとなる。
 
 優生思想に基づくナチの政策には、不適者(心身の障害者や不治の病人、および「劣等人種」)廃絶と適者増産の両面があって、どちらのプロパガンダにも科学(擬似科学含む)のみならず芸術までもが動員されていた。ハルダーが灰色の現実の昇華あるいは一時的な逃避として書いた小説は、安楽死のプロパガンダに最適だとして目をつけられてしまったわけだ。
 芸術(科学や思想でもいいが)が圧制者によって迫害される、というプロットなら、ごまんとあるが、圧制者に対して批判的なのにもかかわらず圧制者に気に入られてしまう、というのは結構珍しいんじゃなかろうか。しかもそれにより、自分の作品が他の多くの人々を迫害するのに利用されてしまうのだ。

 文学者であるハルダーにとって、焚書を行うような粗暴で野卑な組織は軽蔑と嫌悪の対象でしかない。そんな組織のトップに気に入られ、プロパガンダの旗振り役に選ばれてしまった。当時、ナチの残虐性はまだそれほど露わになっていなかったとはいえ、拒絶すれば職を失うどころでは済まない仕置が待ち受けていることは明らかである。
 結局、ハルダーは己の無力を言い訳に、体制に取り込まれる。彼の親友であるユダヤ人の精神分析医モーリスは、この裏切りを責める。板挟みになったハルダーは、「だったら、さっさと国外に移住すればいい」と言い放つ。だがモーリスをはじめ多くのドイツ系ユダヤ人にとって、生まれ育った国は簡単に捨てられるものではない。

 その後も状況は悪化の一途を辿り、モーリスもついに耐え切れなくなる。しかしその頃には、ユダヤ人が旅券を手に入れることは不可能になっていた。彼が縋れるのは、今やSS将校となったハルダーだけである。パリへの切符を手に入れてくれ、と懇願されたハルダーは大いに困惑する。SS将校といっても、その肩書きは彼を「安楽死問題の権威」に祭り上げるためのお飾りに過ぎず、それほど階級が高いわけでもないので(正確な階級は忘れたが、尉官だったはず)、権威もそれなりでしかない。
 それでも一般市民に比べれば、切符を手に入れられる可能性は遥かに高いのである。にもかかわらず、ハルダーはただ一度試みて、偶然生じた障害にぶつかって失敗すると、もう諦めてしまう。
 
 このただ一度の試み(と失敗)を言い訳にしつつも良心の咎めを抱えていたハルダーは、ある時、ついにパリへの切符を手に入れることに成功する。だがそれは、まさに1938年11月9日、「水晶の夜」だった。大混乱の中、モーリスは行方不明となってしまう。
 
「よくリサーチした上でのナチス・ドイツのカリカチュア」といった趣である。ナチほど戯画化しやすい組織は、そうそう無いんじゃなかろうかと思う。何しろヒトラーと制服(特にSS)の表象(デザイン)を取り上げただけで、カリカチュアとして成立してしまうほどなのだ。
 あんまりにも戯画化・パロディ化が容易いから、映画に限らずフィクションにおけるナチのカリカチュア/パロディは往々にして安易で底が浅いものになる。リサーチなんぞしなくても、ヒトラーやSSの見た目を取り上げただけでカリカチュア/パロディとして成立するからね。というか、たとえ作り手が真面目でも、あの絵面だけでカリカチュアに見えかねないんだが(同様に、どれほどの名優がどれほど真摯にヒトラーを演じても、それは「ヒトラーのパロディ」に見えてしまう。『ヒトラー最後の12日間』とか)。

 本作『善き人』は、ナチという組織のみならず、当時のドイツ社会について、よく調べてあると思う。例えばユダヤ人迫害が増していく中、ハルダーが人目を忍んでモーリスを訪ねていくと、家政婦の姿がない。解雇したのか、と尋ねるハルダーに、ユダヤ人は45歳以下のドイツ人家政婦を雇えないからだ、とモーリスは答える。
 作中ではそれ以上の説明はないが、これは優生主義政策の一つである。つまり、生殖可能な年齢のドイツ人(高貴なアーリア人)女性をユダヤ人の毒牙から守り、間違っても混血児なんかが生まれないようにする、というわけだ(この背後にはさらに、ユダヤ男は好色でドイツ娘を見れば襲いかからずにいられない、という偏見がある)。

 このようなリサーチの跡が細部にわたって見られる上に、カリカチュアライズしてあるのである。つまり、誇張されていて且つ笑える。
 なんかね、細部にわたって微妙にツボを突いてるっていうか。安楽死正当化の道具として利用される小説が、甘ったるいラブロマンスってだけじゃなく、ゲッペルスによって映画化されるとか(御丁寧にも撮影シーンまである)、多産奨励と「性の解放」が一緒くたにされてるとか、ユダヤ人モーリスの職業は前述のとおり精神分析医で、しかもフロイト派だとか(リビドーに基づく精神分析を披露してくれる)。主人公の妻が神経症っていうのも、いかにも両大戦間のドイツ人女性っぽい。

 ヴィゴ・モーテンセンは、出演作を全部観てるわけじゃないが、これまで観た中では一番いい演技をしている。アラゴルン以来、「強い男」の役ばかりだったが(『危険なメソッド』でもフロイトという「権威ある父親」だった)、本作で演じるのは善良だが弱い、平凡な男だ。しかも不器用で、時としてかなりかっこ悪い。
 わりと長身のはずだが、意図的な演出なのか共演者に大柄な俳優が多いので、気弱そうな印象が強められている。
「水晶の夜」に、彼は初めてSS将校の制服に身を包む。これまでのモーテンセンの役からすれば、いかにも冷酷そうな、典型的なSS将校が出来上がりそうなものだが、そこにいるのはあくまで、似合わない制服を着た気弱な文学教授なのである。

 終幕(原作は戯曲)は、モーリスが消えてしまってから四年後である。主人公は体制において安定した地位を築いており、以前よりずっとそつが無くなっている。あくまで以前に比べればではあるが、堂々としている上に嘘や言い抜けも巧くなっているのだ。気弱で不器用なりに懸命に処世術を身につけてきたことが窺われる、そういう違いを演じ分けているのが巧い。

ナチもの映画の感想いくつか
『アイアン・スカイ』
『アドルフの画集』
『イングロリアス・バスターズ』
『わが教え子、ヒトラー』

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ロード・オブ・ザ・クエスト

 ゆるいファンタジーが観たかったのである。すみません、ちょっと疲れてます。
 というわけで、その条件に当てはまりそうなものを借りる。

 西洋中世風の異世界のある王国に、絵に描いたような、というか、絵でもここまで描かんだろうという賢兄愚弟の王子二人がいるのだが、兄の結婚式に花嫁が邪悪な魔法使いにさらわれてしまう。
 当然、兄は花嫁救出に向かうが、弟のろくでなしぶりに業を煮やした父王が、兄を手助けするか国を追放されるか選べ、と迫るので、弟も仕方なく一緒に付いていくことになるのであった。
 
 弟王子がダニー・マクブライド、兄王子がジェームズ・フランコ、さらわれた花嫁がゾーイ・デシャネル、旅の途中で王子たちが出会う女戦士が『ブラックスワン』でレベルアップしてゆるい演技もできるようになったナタリー・ポートマン。
 なんの捻りもない、王道というより単に陳腐で凡庸なファンタジーの枠組の中で、上記の豪華なキャストがダニー・マクブライドを中心に、主に下ネタからなるゆるいギャグを延々と繰り広げる、という(だけの)作品。ファンタジーのお約束を忠実になぞっているのだが(『ロード・オブ・ザ・リング』以来、異世界ファンタジー映画ではお約束となった、「ニュージーランドの雄大な山野を歩くパーティーを空撮」も含めて)、別にパロディを意図しているわけでもない、というところもまたゆるい。

 それにしてもジェームズ・フランコは長髪が似合わんな。中世(風)世界の人物というより、80年代の安いロックバンドのメンバーみたいだ(衣装が革と金属だからまた)。

 以下、ネタバレ注意。

 駄目弟王子が冒険を通じて人間的に成長し、彼を冷たくあしらっていた女戦士の心を射止める、という展開もまたお約束どおりなのだが、成長したと言っても、徹底的な駄目人間が普通程度になったというだけなので、終盤でナタリー・ポートマンが「あなたのことが忘れられなくて」とか言い出すのが唐突にも程があるのであった。それもゆるさのうちではあるのだが、それだけに、でも二人が結ばれるには、また一つ冒険を乗り越えないとね、というオチは結構気に入った。本作中、唯一の捻りである。

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ジョン・カーター

 小学一年生だった私が生まれて初めて読んだSFであり、SFというジャンルに文字通り首まで浸かるきっかけとなったのが、これの原作である。もちろんジュヴナイル版で、タイトルは『火星のプリンセス』ではなく『火星のジョン・カーター』だったような気がする。で、このタイトルだと岩崎書店の「SF子供シリーズ」だということになるんだが、書影が見つからんので確認できない。
 そもそもSFという概念すら知らなかった私が、どうしてこの本を読んでみようという気になったのか、まったく思い出せません。作風等、特に影響は受けていないと思うが、まあなんというか「道を踏み誤る」きっかけではあったわけだから、人生において非常に重要な作品には違いないですね。
 それから同じ版で一、二回再読したはずだが、どのみち小学生の間なので、実に三十数年ぶりの再会なのであった。以下、一応ネタバレ注意。

 小さい頃に読んだお話ってたいがいそうだが、どうでもいいような細部ばっかり憶えてて、プロットのほうはぼんやりとしか憶えてないのな。「主人公がお姫様を助けてハッピーエンド」という、あまりに古典的な(というか、本作はまさに「古典」なわけだが)プロットは忘れようにも忘れられないが、途中の展開はほとんど憶えてませんでした。
 原作に忠実なプロットなのだそうだが、どの程度忠実なのか比較できないほど忘れてる……。「古典」はそのパターンが繰り返し繰り返し模倣されるからこそ古典なのだが、それによってオリジナルが古臭く類型的(悪い意味で「古典的」)になってしまう場合と、あらゆる二番煎じに勝る「原型」であり続ける場合とがある。残念ながら、本作は後者だなあ。
 しかしそれも、制作者たちの原作への愛ゆえであり、「現代の観客に受けるように」という理由による粗悪な改変がなされていないのは結構なことである。

 憶えていた「どうでもいい細部」の一つ。二種の火星人のうち人間に近い「赤肌人」の皮膚の色が、私が読んだ児童版では「ピンク色」と描写されていた、と記憶している。それが正しいか正しくないかはともかく、「ピンク色の肌」だという記憶と、「赤肌人」たちがどこかしら脆弱な印象がある種族だという記憶は無関係ではあるまい。
 しかし映画だと、昔のハリウッドで白人俳優がインディアンに扮した時みたいな赤銅色になっていた。同じ赤系でも「赤銅色」と「ピンク色」じゃ、だいぶ印象が違う。赤銅色の肌の映画版デジャー・ソリスは、勇猛な女戦士でした。
「どうでもいい細部」その二。緑肌人は「じょうろのように」大粒の涙を流して泣くんだが、映画ではそんなふうには泣きませんでした。

 脚本はマイケル・シェイボンなんだが、『ユダヤ警官同盟』のコーエン兄弟による映画化の話はどうなったのかな。『ジョン・カーター』がこけたのが響いてる、なんてことはないと思うけど。

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