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リアル・スティール

 優れたSFの条件の一つは、世界に対する読者(鑑賞者)の認識に変化を強いることである、と私は信じているのだが、映画というメディアにおいては残念ながらその条件に当て嵌るSFは非常に少ない。
 なぜなら多くの人にとって、認識(もう少し小規模に価値観や視点でもいいが)の変化を強いられるというのは、多かれ少なかれ不快な体験だからだ。できるだけ多数の観客を動員して制作費を回収しなくちゃならん映画で、観客に不快な体験を強いるような危険を冒せないのは当然のことである。
 
 ではSFに限らず、大多数の鑑賞者が物語に求めるのは何か、というと、己の価値観を心地よく肯定してくれること、である。近未来のアメリカを舞台にした本作は、陳腐な価値観をたいへん優しく肯定してくれている。
 ……とここまでだと、あたかもクソミソに貶す文章が続くかのようですが、随分とよくできた映画だと思っているのですよ。以下、ネタバレ注意。
 
 主人公は負け犬である。すると当然ながら、物語は「負け犬の再起」となる。もちろん、再起は成功する。さらにアメリカ映画なので、再起には家族の協力(この場合は幼い息子)が欠かせない。その過程で、失われていた家族との絆が回復されるのである。
 主人公が負け犬なのは、決して元から駄目人間だったからではない。時代の変化に取り残されたためである。それも天才ボクサーだったのが、「ロボット格闘技」の流行によって職を失ったのだ。つまり、科学技術の発展や時代の変化に対する不安や不満の代弁である。
 
 というわけで、主人公の再起および父子の絆の回復を担うのは、最先端技術の粋を集めたロボットなどではなく、廃品置き場で見つけた旧式のロボットとなる。ただし闇雲に古い世代を賛美し新世代を否定するのではなく、アトムと名付けられたこのロボットに適切なプログラミングを行い、能力を強化する役割を担うのは弱冠11歳の息子だ。
 トーナメントを順当に勝ち上がっていくアトムと父子の前に、お約束通り最強のロボットが立ち塞がる。
 もちろんこのチャンピオン・ロボットは主人公チームに敗れることになるのだが、負かしてしまうのが申し訳なくなってしまうような、たとえば下町の職人たちが血の滲むような努力を重ねた作り上げた叩き上げとか、あるいは難病の天才少年が肉体的な強さへの憧れを託してとか、そんなタマではない。オーナーもデザイナーも大金持ちで傲慢、そのうえ外国人(見るからに非アメリカ的な容姿に訛りの強い英語)という、観客(アメリカの)が一片の共感も抱けない、まさに敗北を運命づけられた憎々しいヒールである。
 
 そして対決の時を迎える。戦えば戦うほど強くなり、どんな勝負にも対応できるというプログラムのチャンピオンに、アトムは防戦一方に追い込まれる。とうにマットに沈められているはずなのに「根性」で耐え抜くものの、ついに音声コマンドシステムが壊れてしまい、命令に反応しなくなる。
 しかしアトムには、まだシャドーシステムがあった。人間の動きをそっくり模倣するという能力である。そう、まさに今この時こそ、主人公の「元ボクサー」という設定が生きてくる。リング脇でシャドーボクシングをする主人公の動きを真似することで、アトムはチャンピオンに勝利するのだ。

 このクライマックスには、実にわかりやすい図式が見て取れる。まず、機械(ソフトも含めて)はいざという時に壊れるから頼りにならないのだ、という不信。特に自分で学習し判断するような自律的、すなわち人間のコントロールを離れた機械に対する不信。これらの不信は、不安の反映だ。
 このような人間の手を(ある程度)離れた機械に勝利するのは、人間の「鍛え抜かれた肉体」なのである。たとえ引退して久しかろうと、鍛え抜かれた肉体が機械なんかに負けるはずはない、ということなのだ。
 これは単に「所詮、機械は人間様には敵わない」とういだけの図式ではない。「所詮、頭脳は肉体には敵わない」という肉体至上主義の図式でもあるのだ。自律的だろうとなんだろうと、機械を生み出したのは人間の頭脳だからね。最後に頼れるのは筋肉だけですか。いやはや。
 
 すべてが心地よく、収まるべきところに収まる予定調和である。「予定調和」というのを貶し言葉として使う人もいるようですが(「御都合主義」とほとんど同義で)、私は褒め言葉として使っています。すべてのピースがぴったりと収まるようにするのは、結構大変なものなのですよ。
 先日たまたま、『ジョン・カーター』と『ロード・オブ・ザ・クエスト』という、ヒットしなかった「陳腐な物語」を鑑賞したわけですが(まあ古典作品である『ジョン・カーター』を陳腐と呼ぶのは大変に語弊がありますが、そこは話の流れで)。この二作と『リアル・スティール』との違いは、「鑑賞者の陳腐な価値観を心地よく肯定してくれる」ものであるか、ということに尽きるでしょう。
 
 物語とはまったく別の次元の、ガジェットや映像について。
 かつて「ロボット・プロレス」という言葉がありました。ガンダムによって切り拓かれたリアル・ロボットアニメより過去のロボットアニメに対する蔑称です。
 しかしロボットどうしの「プロレス」(格闘技や刀剣様武器を使った近接戦)が、ロボットアニメの醍醐味の一つであることは否定できない事実です。というか、それがなかったらロボットが人型をしてる意味がない。ファースト・ガンダムは、「ロボット・プロレス」としても過去のロボットアニメより格段に優れていたエポック・メイキングな作品なのである。
 実写映画で「ロボット・プロレス」が鑑賞に耐えうるものとなったのは、『トランスフォーマー』が最初だろう。ただし一作目を観た限りでは、ロボットが巨大すぎるしデザインが複雑すぎるし動きが速すぎる。大画面上でさえ、何が起きてるのか(何がどう動いてるのか)よく判らない有様だ。
『リアル・スティール』のロボット格闘技は、あくまで人間の格闘技の延長という設定なので、サイズはせいぜい3メートル弱、デザインもそれほど複雑ではないし、スピードも視認が困難なほどではない。とても「リアル」だ。このリアルさは、CGだけではなく実物大模型も使っていることによるものだろう。実に素晴らしい(ね、褒めてるでしょ)。

 それにしても、ロボットのボディに漢字で「超悪男子」と電飾するセンスの持ち主は、どこのどいつだ。
 
 一つだけ苦言。ヒールが外人(ロシア系とアジア系)ってのはさすがに引いた。大金持ちで傲慢ってだけで「負」の要素は充分じゃないのか。ただでさえ不穏で不寛容な御時世に、これ以上ゼノフォビアを煽る気か。観客に媚びるのもたいがいにせえよ。
 

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