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善き人

 ナチスが台頭する1930年代後半のドイツ。ヴィゴ・モーテンセン演じる主人公ハルダーは、うだつが上がらない文学部教授である。
 うだつが上がらないのは、ナチスに批判的なため出世の道が閉ざされているからであり、当時のドイツで見向きもされないプルーストを講義しているためである……だけではない。二人の子供と認知症で慢性結核の(しかし当分死にそうもない)母親、そしてピアノを弾く以外何もしない神経症の妻を抱えた灰色の日々を送っている。魅力的な女子学生に迫られても、むしろ彼女の積極性に及び腰になってしまう有様だ。
 
 そんな日々の中、彼は一篇の小説を書き上げる。病で苦しむ若い女を恋人が安楽死させるという物語である。実際に母親を安楽死させたいという願望の反映ではなく、灰色の現実を美しく甘ったるいロマンスに変換することで、逃避というか多少はしのぎ易くするためだったのだろう。しかしこの作品が、ヒトラーの気に入るところとなる。
 
 優生思想に基づくナチの政策には、不適者(心身の障害者や不治の病人、および「劣等人種」)廃絶と適者増産の両面があって、どちらのプロパガンダにも科学(擬似科学含む)のみならず芸術までもが動員されていた。ハルダーが灰色の現実の昇華あるいは一時的な逃避として書いた小説は、安楽死のプロパガンダに最適だとして目をつけられてしまったわけだ。
 芸術(科学や思想でもいいが)が圧制者によって迫害される、というプロットなら、ごまんとあるが、圧制者に対して批判的なのにもかかわらず圧制者に気に入られてしまう、というのは結構珍しいんじゃなかろうか。しかもそれにより、自分の作品が他の多くの人々を迫害するのに利用されてしまうのだ。

 文学者であるハルダーにとって、焚書を行うような粗暴で野卑な組織は軽蔑と嫌悪の対象でしかない。そんな組織のトップに気に入られ、プロパガンダの旗振り役に選ばれてしまった。当時、ナチの残虐性はまだそれほど露わになっていなかったとはいえ、拒絶すれば職を失うどころでは済まない仕置が待ち受けていることは明らかである。
 結局、ハルダーは己の無力を言い訳に、体制に取り込まれる。彼の親友であるユダヤ人の精神分析医モーリスは、この裏切りを責める。板挟みになったハルダーは、「だったら、さっさと国外に移住すればいい」と言い放つ。だがモーリスをはじめ多くのドイツ系ユダヤ人にとって、生まれ育った国は簡単に捨てられるものではない。

 その後も状況は悪化の一途を辿り、モーリスもついに耐え切れなくなる。しかしその頃には、ユダヤ人が旅券を手に入れることは不可能になっていた。彼が縋れるのは、今やSS将校となったハルダーだけである。パリへの切符を手に入れてくれ、と懇願されたハルダーは大いに困惑する。SS将校といっても、その肩書きは彼を「安楽死問題の権威」に祭り上げるためのお飾りに過ぎず、それほど階級が高いわけでもないので(正確な階級は忘れたが、尉官だったはず)、権威もそれなりでしかない。
 それでも一般市民に比べれば、切符を手に入れられる可能性は遥かに高いのである。にもかかわらず、ハルダーはただ一度試みて、偶然生じた障害にぶつかって失敗すると、もう諦めてしまう。
 
 このただ一度の試み(と失敗)を言い訳にしつつも良心の咎めを抱えていたハルダーは、ある時、ついにパリへの切符を手に入れることに成功する。だがそれは、まさに1938年11月9日、「水晶の夜」だった。大混乱の中、モーリスは行方不明となってしまう。
 
「よくリサーチした上でのナチス・ドイツのカリカチュア」といった趣である。ナチほど戯画化しやすい組織は、そうそう無いんじゃなかろうかと思う。何しろヒトラーと制服(特にSS)の表象(デザイン)を取り上げただけで、カリカチュアとして成立してしまうほどなのだ。
 あんまりにも戯画化・パロディ化が容易いから、映画に限らずフィクションにおけるナチのカリカチュア/パロディは往々にして安易で底が浅いものになる。リサーチなんぞしなくても、ヒトラーやSSの見た目を取り上げただけでカリカチュア/パロディとして成立するからね。というか、たとえ作り手が真面目でも、あの絵面だけでカリカチュアに見えかねないんだが(同様に、どれほどの名優がどれほど真摯にヒトラーを演じても、それは「ヒトラーのパロディ」に見えてしまう。『ヒトラー最後の12日間』とか)。

 本作『善き人』は、ナチという組織のみならず、当時のドイツ社会について、よく調べてあると思う。例えばユダヤ人迫害が増していく中、ハルダーが人目を忍んでモーリスを訪ねていくと、家政婦の姿がない。解雇したのか、と尋ねるハルダーに、ユダヤ人は45歳以下のドイツ人家政婦を雇えないからだ、とモーリスは答える。
 作中ではそれ以上の説明はないが、これは優生主義政策の一つである。つまり、生殖可能な年齢のドイツ人(高貴なアーリア人)女性をユダヤ人の毒牙から守り、間違っても混血児なんかが生まれないようにする、というわけだ(この背後にはさらに、ユダヤ男は好色でドイツ娘を見れば襲いかからずにいられない、という偏見がある)。

 このようなリサーチの跡が細部にわたって見られる上に、カリカチュアライズしてあるのである。つまり、誇張されていて且つ笑える。
 なんかね、細部にわたって微妙にツボを突いてるっていうか。安楽死正当化の道具として利用される小説が、甘ったるいラブロマンスってだけじゃなく、ゲッペルスによって映画化されるとか(御丁寧にも撮影シーンまである)、多産奨励と「性の解放」が一緒くたにされてるとか、ユダヤ人モーリスの職業は前述のとおり精神分析医で、しかもフロイト派だとか(リビドーに基づく精神分析を披露してくれる)。主人公の妻が神経症っていうのも、いかにも両大戦間のドイツ人女性っぽい。

 ヴィゴ・モーテンセンは、出演作を全部観てるわけじゃないが、これまで観た中では一番いい演技をしている。アラゴルン以来、「強い男」の役ばかりだったが(『危険なメソッド』でもフロイトという「権威ある父親」だった)、本作で演じるのは善良だが弱い、平凡な男だ。しかも不器用で、時としてかなりかっこ悪い。
 わりと長身のはずだが、意図的な演出なのか共演者に大柄な俳優が多いので、気弱そうな印象が強められている。
「水晶の夜」に、彼は初めてSS将校の制服に身を包む。これまでのモーテンセンの役からすれば、いかにも冷酷そうな、典型的なSS将校が出来上がりそうなものだが、そこにいるのはあくまで、似合わない制服を着た気弱な文学教授なのである。

 終幕(原作は戯曲)は、モーリスが消えてしまってから四年後である。主人公は体制において安定した地位を築いており、以前よりずっとそつが無くなっている。あくまで以前に比べればではあるが、堂々としている上に嘘や言い抜けも巧くなっているのだ。気弱で不器用なりに懸命に処世術を身につけてきたことが窺われる、そういう違いを演じ分けているのが巧い。

ナチもの映画の感想いくつか
『アイアン・スカイ』
『アドルフの画集』
『イングロリアス・バスターズ』
『わが教え子、ヒトラー』

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