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パスカル・キニャール――文学のオリエント

 佐藤亜紀先生と岡和田晃氏が出るので、行ってまいりましたよ。11月16日(土)、日仏会館にて。
 会場は恵比寿。乗り換え以外で下車するのは十一年ぶりくらいである。駅から会場まで、途中で一回曲がるだけという単純極まりない道筋なのに、その曲がる方向を間違える。時間までに会場には辿り着けたものの、自分の間抜けさ加減に今更ながら落ち込む。
 
 百人弱の入りで半数がフランス人。キニャール本人の講演は日本語のレジュメ付きで通訳なし。タイトルは「文学という言葉には起源がない」
「文学」Littérature(仏語)はラテン語ではlitteraeといい、「文字」litteraの複数形なのだが、この「文字」という語の起源は共和制ローマの時代にはすでに不明になっていたのだそうだ。つまり、タイトルどおり「文学」という言葉の起源も不明なのだそうである。古代ローマ人たち自身もこの謎に挑み、さまざまな説をひねり出したが、結局言葉遊びの域を出なかったとのこと。これが前半。後半は、書くという行為、エクリチュールについての省察。

 ところどころ語句は聞き取れるので、概ねレジュメどおりに進めていて、内容が前後したり飛ばされたりはしていないということは判りました。が、合間合間にレジュメにないことも喋っている。それについてはまったく理解できないので、何を喋ってはるのかなあ、と大変気になったり。
 それと、私のフランス語は『グアルディア』を書いた時に少し齧って、それから数年後にもう少し齧っただけの雑学レベルで、実地には全然役に立たない、と思っていたのですが、全然役に立たないわけでもないんだなあと、ちょっと嬉しかったり。
 
 以降はパスカル・キニャールの研究者の発表(シンポジウムなので)。イヤホンで同時通訳を聞きながらの講演は初めての体験だったのだが、最初の発表者クリスチャン・ドゥメ氏(最近、『日本のうしろ姿』という本を刊行)はまるでフランス語会話の教材のようにゆっくりはっきり喋ったので、つい理解もできないのに耳を傾けてしまい、同時通訳のほうにまったく集中できずに難儀する。
 以降の発表者はかなり早口で喋ったので、こちらは同時通訳に集中できたが、次第に耳が痛くなってくる。私はやや難聴の気味があるのだが、そのせいだろうか。中耳(鼓膜より奥)ではなく外耳道がズキズキと痛む。
 
 昼休みは一時間余りだったが、時間を過ぎても御本尊が戻ってこないので午後の部を始められず。結局30分の遅れで開始。
 プログラムが進行するにつれ、耳はどんどん痛くなってくる。音量を聞き取れる限界まで下げ、イヤホンを右に左に替えながら聞いていたが、そのうち頭痛まで始まり、首、肩がガチガチに固くなる。気分も悪くなってくる。
 もうじき日本人の発表が始まるからそれまで我慢しようと頑張ったが、小川美登里氏(キニャールの新刊『秘められた生』の翻訳者)がフランス語で発表を始めたので、限界だー!とロビーに退散。相変わらずヘタレです。
 
 その後の休憩ではロビーに飲み物が用意されたが、ここでもフランス人たちはキニャール本人を筆頭に、時間になっても誰も会場に戻ろうとしない。さすがだ。
 私が日本人らしくホールに戻ろうとしたところ、キニャールが入口近くで何やら話し込んでいる。Pardonと言って通してもらおうかという誘惑に一瞬駆られたが、馬鹿な真似はやめて迂回する。
 ちなみにキニャールの印象は、気さくでお茶目なおじさま、と言ったところでした(だからこそ、上記のように馬鹿な気を起こしかけたわけだが)。会場で会った友人知人は皆、「作品から受ける印象と違う。もっと尖って、やばそうな人かと思ってた」というようなことを言っていたが、あの人は小さな子供や犬猫をとても可愛く書くので、その点ではイメージどおりだ、と私には思えた。と皆に言ったところ、誰も犬猫や子供の可愛さは印象に残っていないとのこと。相変わらず私は人と視点がずれているようです。
 
 最後は佐藤亜紀先生と小野正嗣氏が岡和田君の司会で、キニャール作品についてそれぞれ語る「パスカル・キニャールを読む日本の作家」。このお三方のうち、フランス語ができないのは岡和田氏一人。というわけで岡和田氏のお蔭をもちまして、この最後の演目は日本語で行われる。体調はだいぶ持ち直していたものの、頭と耳の痛みはまだ続いていたので集中しているのは大変でしたが、メモから幾つか拾い上げると、

 佐藤先生は、まず『めぐり逢う朝』で描かれるバロック期の音楽家の修行が、「考えるな、感じるんだ」式の非常に東洋的なものでありながら、曖昧模糊にではなく明晰に理知的に書かれていることに深く感銘を受けたということを語った。そしてキニャールの作品群の中でも特に過去の時代を扱ったもの、それらはいわゆる「歴史小説」というジャンルに押し込まれてしまうわけだが、あたかもその時代を生きているかの如く、「たとえば目の前にある木のテーブルを触ってどんな感触がするか」が解るほどの視点の没入を実現できているそれら作品を、果たして他の凡百の「歴史小説」と同じ括りに入れることができるのか(いや、できない)。
 小野氏のキニャール作品との出会いは『アメリカの贈り物』。牛の死産の場面が衝撃的だったとのこと。自分の故郷について書くには故郷から離れる必要がある。

 司会の岡和田氏はいつもに増してテンションが高く、日本人聴衆には、明らかに彼を知らない人にまで大いに受けていました。終わった後、近くの席の、SFなんぞ読まないどころかそんなジャンルがあることすら知らなさそうなハイソなおばさま二人が、「あの司会の若い人、おもしろかったわね」と言い合っていたほど。
 しかしフランス人の聴衆にはどうだったんだろうな。というか、いつもに増して早口だったから、ちゃんと同時通訳できてたのだろうか。通訳が追いつけてるかだけでも確認したかったが、耳の痛みのため断念。残念。あと、佐藤先生の独特の言い回し(「信長秀吉家康小説」とか)はどう訳されてたんだろなあ、とか。

 閉会の後、ロビーで赤ワインが振舞われる。ちょびっと飲んだだけだが、非常に美味しくて、頭痛は完全に消える。さすがフランスワインだ(いや、確認はしてないんだがフランス産だよね。まさか、そうじゃないなんてことは)。

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