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ミックマック

 ジャン・ピエール・ジュネ作品は、『アメリ』以来だ。タイトルmicmacは、作中で一切説明がないが、①陰謀、②大混乱、だそうな。どちらにも当て嵌る内容。

 父親を地雷で失った少年は、成長して街角の銃撃戦に巻き込まれ、頭に銃弾を受ける。命は取り留めたものの、銃弾を摘出して植物状態か、摘出せずにいつ死んでもおかしくない宙ぶらりんの状態か、という二者択一で、本人の与り知らぬところで後者が選択される。
 職もなけなしの金も持ち物も将来さえも失い、ホームレスをやっているうちに仲間ができて、少し先行きが明るくなってきたところで、父を殺した地雷を製造した会社と、自分の頭に撃ち込まれた銃弾を製造した会社を偶然発見する。どうせいつ死ぬかわからないならと、復讐を開始するのであった。

 奇人変人と奇抜なギミックがいっぱい登場する凝った映像は、『アメリ』よりも『デリカテッセン』や『ロスト・チルドレン』寄り。毒の薄さと解りやすさは、むしろ『アメリ』よりさらに進んでいる。
 毒が薄いのは残念だけど、解りやすさは悪いこと(ひねりが足りないとか、迎合してるとか)ではなく、むしろ名人芸の域に達していると思う。まあそれだけに、もうちょっと毒があったら完璧なのになあ、と思わずにはいられないんだが。

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ビール・フェスタ

 コロラドに住む兄弟が、ドイツからの移民だった祖父の遺灰を散骨するためにミュンヘンに行くと、案内人にとある「地下闘技場」へと連れて行かれる。いかにもな地下闘技場なのだが、行われているのは「ビール飲み世界選手権」なのであった。
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 優勝は地元ドイツのチームで、兄弟とは親戚なのだと案内人に紹介される。兄弟が喜んだのも束の間、ドイツ・チームは怒り狂い、案内人を射殺した上で、兄弟の祖父は私生児で盗人だと侮辱の限りを尽くす。恥辱に塗れて帰国した兄弟は汚名を晴らすため、一年後の大会を目指して猛特訓を始めるのであった……
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今時、ここまで能天気で陽性なコメディは、かえって珍しいのではないかと思う。というか、主人公とその友人たちがダメ男ばかり、というのは昨今の主流と同じなんだけど、よくあるダメ男コメディが、ダメ男ぶりを執拗に執拗に描写して、観ているこっちを途中で辟易させるのに対し、本作では相当なダメさ加減でさえ、非常にあっさり流すので、辟易している暇もないというか。
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 主役級のキャストは(少なくとも日本では)有名じゃない俳優ばかりだが、その他が妙に豪華。死後にビデオでのみ登場する祖父がドナルド・サザーランドだったり、曾祖母の介護人が黒人コメディエンヌのモニークなので、只者の役じゃなかろうと思ってたら、やっぱり只者じゃなかったり。
 曾祖母役の人が、ずいぶん綺麗なおばあさんだと思ったら、アカデミー女優のクロリス・リーチマンだそうである。

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彼女が消えた浜辺

 ペルシア語をおさらい中なので、ペルシア語の映画を観てみました。

 三組の家族が、カスピ海にバカンスにやってくる。参加者はほかにもう二人いて、ひと組の夫婦の弟(妻のほうのだったと思うが)アーマドと、もうひと組の夫婦の子供が通う保育園に務める保育士エリ。エリは子供の母親セピーデに誘われて来たのだが、セピーデの目的は、最近離婚したばかりのアーマドをエリとくっつけることである。皆もしきりと唆し、アーマドもその気になるのだが、エリは明らかに迷惑がり、帰りたがる素振りを見せる。

 バカンスの二日目、子供の一人が海で溺れかける。その騒ぎが収まってみると、子供たちを見ていたはずのエリの姿がない。彼女も溺れてしまったのか、それとも子供たちを放って勝手に帰ってしまったのか。

 サスペンスと銘打たれていて、確かにその要素もないこともないが、まあ心理劇だな。ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞のイラン映画だが、そういう作品にありがちな、体制やら宗教やらを批判したものではない。いや、政治性の強い作品が悪いと言うんじゃないけどね。
 こういう映画が国際的に高く評価されるのは、良いことだと思う。
 
 ペルシア語ですか? まあ映画を観るだけでその言語が上達するんだったら、私の英語はとっくに「ネイティブ並み」になっとりますな。

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摩天楼を夢みて

 1992年の作品。舞台はとある不動産会社の営業所。まだ若い所長の下に四人のセールスマンがいるが、一人を除いて成績は振るわない。ある夜、本社から敏腕社員が派遣されてきて、成績が三位以下になった者は馘首だと宣言する。
 金時計を見せびらかすこの本社社員がアレックス・ボールドウィン。嫌味な営業所長がケヴィン・スペイシー。唯一、好成績のセールスマンがアル・パチーノ。業績不振のため恐慌を来す残り三人がジャック・レモン、エド・ハリス、アラン・アーキン。
 
 凄まじく豪華なキャストなのだが、何しろ前半は業績不振の三人が折れそうな心を抱えて右往左往しているだけなので、とにかく辛気臭い。しかも夜だし、雨が降っている。暗い画面(心理的にではなく光学的に)が苦手なので、それだけでも気が滅入る上に、その昔、ブラック企業で訪問販売の仕事をさせられたことが否応なしに思い出されて、気分は沈んでいく一方である。
 いや、思い返すに、あれは紛う方なきブラック企業だった。人が壊れていくのを目の当たりにしてしまいましたよ。私自身は、壊れる前に馘首になったのが不幸中の幸い。糞会社め。
 
 閑話休題。
 何はともあれ、この陰々滅々たるパートを耐え抜いて一夜明けると、雨も上がり、営業所に物取りが入ったことが明らかになり、事態は急展開する。
 誰が犯人なのか、というサスペンスに加えて、絶好調のはずのアル・パチーノの許には契約解消を望む客が押しかけてくる。この客がジョナサン・プライスで、アル・パチーノが「何が問題なんだ? きみはどんな問題を抱えているんだ? 俺に打ち明けてみないか?」とカウンセリングに持ち込んでいくのが、やたらとおかしい。
 
 90年代初めの映画はあまり観ていないので、この時代のこの役者たちを観るのはほとんど初めてである。なかなか新鮮。身勝手で小狡いエド・ハリスなんて初めて観た。アル・パチーノは、この頃がピークだったんだな。90年代半ばには、もう演技が単調になってもうてるもんな。ケヴィン・スペイシーだけは全然変わらないけど。
 

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悪の法則

 リドリー・スコット監督作。脚本(原作ではなく)はコーマック・マッカーシー。
 マッカーシーの小説やその映画化作品は、全部読んだり観たりしてるわけじゃないが、その最も目に付く特徴は、登場人物の一部が何やら思弁的な、あたかも含蓄が深いかのような台詞(だいたい長い)を吐くことだ。そして作品全般を一言で言うなら、暴力と暴力の間にあたかも含蓄が深いかのような台詞が挟まっている。あたかも含蓄が深いかのような台詞とあたかも含蓄が深いかのような台詞の間に暴力が挟まっている、と言い換えてもいいが。

 という言い草からお解りいただけるかと思うが、私はマッカーシー作品の暴力にも、あたかも含蓄が深いかのような台詞にも大した感銘は受けないのだが、ただしこれが映画となると話はまた別である。暴力のほうはともかく、台詞のほうは巧い役者が喋って巧い監督が撮ってくれると、非常に素晴らしいものとなるのだ。意味があるようでない、というのは変わらんけど。

 以下、ネタバレ注意。

 主人公のカウンセラー(弁護士。これが役名)が、身の丈に合わない贅沢な生活をしたせいで金に困り、知人の誘いに乗って麻薬密売に手を出したために手痛い報いを受けるという、まあ解り易い教訓譚だ。
 カウンセラーがマイケル・ファスベンダーで、この役者をこれまで観たのは『イングロリアス・バスターズ』(09)と『危険なメソッド』(11)だけなんだが、なんか短期間でえらい急速に老けてくな。
 ファスベンダーを悪の道に誘い入れるナイトクラブのオーナーが、ハビエル・バルデム。マッカーシー作品でバルデムと言えば、『ノーカントリー』。マッカーシーが描くところの観念「純粋悪」を、これ以上ないほど見事に具体化していたのだが、今回は外見こそ結構強烈だが(大阪のおばちゃんが着てそうな凄まじい柄のシャツとか。しかしパンフによると衣装のほとんどはヴェルサーチだそうな)、中身はただのヘタレである。
 
 組織との仲介役がブラッド・ピット。あたかも含蓄が深いかのような台詞を専ら担当。しかしやはりヘタレ。今回の死に様は、『バーン・アフター・リーディング』に匹敵すると思う。
 
 ファスベンダーの婚約者がペネロペ・クルスで、バルデムの愛人がキャメロン・ディアス。悪女なのは珍しくディアスのほうで、しかも血も涙もない冷酷非情の悪女である。
 ディアスのシリアスな役を観るのは、『バニラ・スカイ』以来だな(そういえばこれもクルスとの共演だ)。この時の「痛い女」役と比べると、単に巧くなってるだけじゃなく貫禄と迫力が違う。青い瞳が酷薄な印象だ。
 ディアス演じるマルキナは、「強さ」の象徴としてチーターを愛する。で、本人も背中にチーター柄のタトゥーを入れている。黒のアイラインで目を囲んだ上に目頭を強調したメイクも、チーターをイメージしているんだろう。このタトゥーとアイラインはいいんだが、髪まで金と黒なのは、さすがにやりすぎ。『101』のグレン・クローズみたいだ。
 
 アイラインと言えば、ペネロペ・クルスも、髪と目が黒っぽくて肌の色も濃い目だからあんまり目立たないけど、黒のアイラインと濃いブラウンのアイシャドウをがっつり入れている。佐藤亜紀先生によると、リドリー・スコットは目の周りを真っ黒に塗った女が好みなんだそうですよ。

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マネーボール

 貧乏球団のGMが、ハーヴァード大卒の若者の協力を得て、統計学的に選手の能力を分析しチームの再編を図るが、「勘と経験」に頼る球界の常識に反していたために猛反発を喰らう。スカウトマンたちをクビにして再編成に漕ぎ着けるが、今度は監督が、GMがスカウトしてきた選手を使おうとしない。

 挫折した元選手であるGMがブラッド・ピット。これまで観た中で一番演技が巧い。
 ブラッド・ピットの出演作はかなり観ているが、巧い役者だとは思っていなかった。若い頃は『トゥルー・ロマンス』や『テルマ&ルイーズ』みたいに短い出番だと非常に存在感があるのに、メインキャラクターとなるとその存在感が持続しなかったものだが、『ファイトクラブ』あたりから、作品によっては存在感が持続するようになってきた(この存在感の有無が、キアヌ・リーブスとの違いだよなあ)。
 ここ十年ばかりは、どの作品でも存在感が放たれているばかりか一層大きくなってきているのだが、演技が巧いというのとはまた別物だった。いや、演技力もちゃんと向上していて、それはケイト・ブランシェットやティルダ・スウィントンと共演できることで証明されてるんだが、演技だけで観せる、というレベルには達してなかったというか。
 しかし、本作のブラッド・ピットは本当に巧いです。
 
 監督役はフィリップ・シーモア・ホフマン。これまで観た彼の役は、多かれ少なかれ「奇人」ばかりで、それは彼の特殊な容貌に因るところが大きいんだろうけど、今回はいかにも老いた野球監督といった風貌で、抑えた演技で悪目立ちもせず、かえって印象的だった。
 
 先日、『リアル・スティール』の感想で、価値観に変化を迫られるのは多かれ少なかれ不快な体験だ、と書いた。本作『マネーボール』の主人公は、球界を支配する「勘と経験」という価値観に変化を迫ったわけである。しかも彼が持ち出したのは「科学」。まさに「勘と経験」の対極である。
 人間は、自分の価値観とか支持する理念といったものに対する反証には目を瞑ろうとする一方、自分の嫌いな価値観や理念等に対する反証は鵜の目鷹の目で探し出そうとするんだそうである。「勘と経験」を信奉する人々は、統計という科学を持ち出された途端、脊髄反射で猛反発する。成功すれば奇跡扱いし、失敗すれば「それ見たことか」と大喜びし、なぜ成功したのか、なぜ失敗したのか、検証しようともしない。まあ、それが人間性というものですね。

『リアル・スティール』感想

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