オール・ユー・ニード・イズ・キル

 科学を否定するサイエントロジストのくせして、トム・クルーズはSF映画(に主演すること)が好きである。しかも、そのSF映画でオスカーを狙っている。無謀というかなんというか。
 しかし、そうやって性懲りもなくSF映画に金と人材を注ぎ込み続けてくれるお蔭で、SF映画というジャンルが維持されているのは事実であり、引いてはSFというジャンルそれ自体の維持に繋がっているわけだから、SF者はトム・クルーズに足を向けて寝られない。

 とか言いつつ、これまでに観たことのあるトム・クルーズ主演のSF映画は『宇宙戦争』だけなんだけどね。いや、トム・クルーズはなあ、あの「何をやってもトム・クルーズ」オーラがなあ。

 今回は、トム・クルーズが良いヘタレだということなので観に行きました。ややネタバレ注意。

「タイム・ループに巻き込まれ、同じ一日を繰り返すことになった初年兵が、経験値を積み重ねることで歴戦の強者になる」という原作の設定をトム・クルーズに適応させる上でネックになるのは、「初年兵」のとこである。そこでトム・クルーズは少佐だけど実戦経験のない広報担当ということになった。登場時は口だけ達者な空々しい奴で、『ザ・エージェント』を彷彿とさせる。それがブレンダン・グリーンソン演じる将軍に前線での取材を命じられ、顔面蒼白となる。
 なんとか体よく断ろうとするが、ブレンダン・グリーンソンは目がマジである。そこで哀願に転じ、それでも駄目となると弱々しい脅迫を試みる。この過程が随分巧い。いや、前々から解ってたことだけど、「何をやってもトム・クルーズ」オーラが抑えられてる時のトム・クルーズは、実は巧い役者なんだよね。

 かくして、素直に命令に従っていれば前線で取材といっても、将校として比較的安全な場所から護衛付きで行えたであろうところを、悪あがきをしたためにブレンダン・グリーンソンを怒らせ、逮捕された上に二等兵に降格され、脱走兵扱いで前線に送り込まれるのであった。

「ゲームのような」とかそれに類する比喩は、だいたい悪い意味での用例しか知らない。良くても「楽しいけど中身がない」「お手軽」といった意味合いだ。ループのたびに「経験」が蓄積されていく、という本作の着想はゲームに基づくものであるが、原作にせよ映画にせよ、特に「ゲーム的」だという印象はなかった。
 だいたい原作にせよ映画にせよ、まんまゲームになったら碌でもないよ? リセットはできるけどセーブはできないって。しかもレベルアップがない。ループを繰り返してステージを先へと進んでいくごとに、キャラクターの能力は多少は向上するとはいえ、あくまでも頼りはプレイヤーの記憶力と技能向上に掛かってるって、あまりにも厳しすぎる。
 私が人並み外れてトロくて不器用(コントローラーをまともに操作できない)だというのを除外しても、どれだけ先に進めてもリセットしたらまた最初からやり直しって、うんざりして投げ出さない人はいないだろう。強制されて何百回と繰り返せば、人によってはそのうちクリアできるだろうけど(私は何千回やろうと無理だ)、そもそもゲームは強制されてやるものじゃない。

 ゲームとして問題なのは難易度ではなく、セーブができないということなのだが、これが物語であれば、セーブができてしまったら随分つまらないことになる。その代わり物語では(小説だろうと映画だろうと)、「繰り返し」場面を省略することができるので、読者(観客)はいちいち付き合わずに済む。
 つまり本作の設定に取り込まれたゲームの要素は、物語をおもしろくするために選択されたものである。「リセット」の設定が「ゲーム的」で「安易」だ、という批判を見かけたが、その設定があるからこそ、リセットできることに観客がすっかり慣れた頃に、いきなりリセット不可になるという展開は、非常な緊張感をもたらす(まあこれは原作にない展開だが)。

 トム・クルーズの「予知能力」を散々見せつけられてなお、信用せずに拘束しようとするブレンダン・グリーンソンの態度はリアリズムに徹しているが、そうするとその直後に兵士たちがトム・クルーズを割合あっさり信用してしまう展開には、御都合主義の感が否めない。
 彼らを信用させた決定打はエミリー・ブラント演じる「戦場の牝犬」の存在、ということになるのだが、だったら序盤で彼女が一般兵士から畏敬されている描写を、もう少しやっておいたほうがよかったんじゃないかと。

 ほかにも、その日一日、生き延びた場合はループはどうなるんだとか、リタ・ヴラウスキがギタイ殲滅に執念を燃やす理由付けとして、少しは過去に触れたほうがよかったんじゃないかとか、気になる点はあるが、全体として原作の改変は申し分ない。ちゃんと敬意も感じられるし。
 背景の端々で日本語の台詞や文字がうろちょろしていたのは、「原作への敬意」のつもりなんだろうな。でも画面に日本人は一人も登場しない。「日本軍」の「戦闘参加」の問題をどうするのか、考えるのがめんどくさかったのかもしれない。
 原作ではリタの装甲服は全身真っ赤という設定だったが、映画では他の兵士と同じ黒一色に、胸部だけ赤くペイントされている。それだけでも充分目立つ上に、日本のアニメっぽいデザインになるものなんだなあと感心。

 とりあえず今回のヘタレ演技で芸風を広げたトム・クルーズには、これからも頑張ってもらいたいものである。SFの未来のためにも。

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ミックマック

 ジャン・ピエール・ジュネ作品は、『アメリ』以来だ。タイトルmicmacは、作中で一切説明がないが、①陰謀、②大混乱、だそうな。どちらにも当て嵌る内容。

 父親を地雷で失った少年は、成長して街角の銃撃戦に巻き込まれ、頭に銃弾を受ける。命は取り留めたものの、銃弾を摘出して植物状態か、摘出せずにいつ死んでもおかしくない宙ぶらりんの状態か、という二者択一で、本人の与り知らぬところで後者が選択される。
 職もなけなしの金も持ち物も将来さえも失い、ホームレスをやっているうちに仲間ができて、少し先行きが明るくなってきたところで、父を殺した地雷を製造した会社と、自分の頭に撃ち込まれた銃弾を製造した会社を偶然発見する。どうせいつ死ぬかわからないならと、復讐を開始するのであった。

 奇人変人と奇抜なギミックがいっぱい登場する凝った映像は、『アメリ』よりも『デリカテッセン』や『ロスト・チルドレン』寄り。毒の薄さと解りやすさは、むしろ『アメリ』よりさらに進んでいる。
 毒が薄いのは残念だけど、解りやすさは悪いこと(ひねりが足りないとか、迎合してるとか)ではなく、むしろ名人芸の域に達していると思う。まあそれだけに、もうちょっと毒があったら完璧なのになあ、と思わずにはいられないんだが。

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ビール・フェスタ

 コロラドに住む兄弟が、ドイツからの移民だった祖父の遺灰を散骨するためにミュンヘンに行くと、案内人にとある「地下闘技場」へと連れて行かれる。いかにもな地下闘技場なのだが、行われているのは「ビール飲み世界選手権」なのであった。
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 優勝は地元ドイツのチームで、兄弟とは親戚なのだと案内人に紹介される。兄弟が喜んだのも束の間、ドイツ・チームは怒り狂い、案内人を射殺した上で、兄弟の祖父は私生児で盗人だと侮辱の限りを尽くす。恥辱に塗れて帰国した兄弟は汚名を晴らすため、一年後の大会を目指して猛特訓を始めるのであった……
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今時、ここまで能天気で陽性なコメディは、かえって珍しいのではないかと思う。というか、主人公とその友人たちがダメ男ばかり、というのは昨今の主流と同じなんだけど、よくあるダメ男コメディが、ダメ男ぶりを執拗に執拗に描写して、観ているこっちを途中で辟易させるのに対し、本作では相当なダメさ加減でさえ、非常にあっさり流すので、辟易している暇もないというか。
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 主役級のキャストは(少なくとも日本では)有名じゃない俳優ばかりだが、その他が妙に豪華。死後にビデオでのみ登場する祖父がドナルド・サザーランドだったり、曾祖母の介護人が黒人コメディエンヌのモニークなので、只者の役じゃなかろうと思ってたら、やっぱり只者じゃなかったり。
 曾祖母役の人が、ずいぶん綺麗なおばあさんだと思ったら、アカデミー女優のクロリス・リーチマンだそうである。

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彼女が消えた浜辺

 ペルシア語をおさらい中なので、ペルシア語の映画を観てみました。

 三組の家族が、カスピ海にバカンスにやってくる。参加者はほかにもう二人いて、ひと組の夫婦の弟(妻のほうのだったと思うが)アーマドと、もうひと組の夫婦の子供が通う保育園に務める保育士エリ。エリは子供の母親セピーデに誘われて来たのだが、セピーデの目的は、最近離婚したばかりのアーマドをエリとくっつけることである。皆もしきりと唆し、アーマドもその気になるのだが、エリは明らかに迷惑がり、帰りたがる素振りを見せる。

 バカンスの二日目、子供の一人が海で溺れかける。その騒ぎが収まってみると、子供たちを見ていたはずのエリの姿がない。彼女も溺れてしまったのか、それとも子供たちを放って勝手に帰ってしまったのか。

 サスペンスと銘打たれていて、確かにその要素もないこともないが、まあ心理劇だな。ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞のイラン映画だが、そういう作品にありがちな、体制やら宗教やらを批判したものではない。いや、政治性の強い作品が悪いと言うんじゃないけどね。
 こういう映画が国際的に高く評価されるのは、良いことだと思う。
 
 ペルシア語ですか? まあ映画を観るだけでその言語が上達するんだったら、私の英語はとっくに「ネイティブ並み」になっとりますな。

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摩天楼を夢みて

 1992年の作品。舞台はとある不動産会社の営業所。まだ若い所長の下に四人のセールスマンがいるが、一人を除いて成績は振るわない。ある夜、本社から敏腕社員が派遣されてきて、成績が三位以下になった者は馘首だと宣言する。
 金時計を見せびらかすこの本社社員がアレックス・ボールドウィン。嫌味な営業所長がケヴィン・スペイシー。唯一、好成績のセールスマンがアル・パチーノ。業績不振のため恐慌を来す残り三人がジャック・レモン、エド・ハリス、アラン・アーキン。
 
 凄まじく豪華なキャストなのだが、何しろ前半は業績不振の三人が折れそうな心を抱えて右往左往しているだけなので、とにかく辛気臭い。しかも夜だし、雨が降っている。暗い画面(心理的にではなく光学的に)が苦手なので、それだけでも気が滅入る上に、その昔、ブラック企業で訪問販売の仕事をさせられたことが否応なしに思い出されて、気分は沈んでいく一方である。
 いや、思い返すに、あれは紛う方なきブラック企業だった。人が壊れていくのを目の当たりにしてしまいましたよ。私自身は、壊れる前に馘首になったのが不幸中の幸い。糞会社め。
 
 閑話休題。
 何はともあれ、この陰々滅々たるパートを耐え抜いて一夜明けると、雨も上がり、営業所に物取りが入ったことが明らかになり、事態は急展開する。
 誰が犯人なのか、というサスペンスに加えて、絶好調のはずのアル・パチーノの許には契約解消を望む客が押しかけてくる。この客がジョナサン・プライスで、アル・パチーノが「何が問題なんだ? きみはどんな問題を抱えているんだ? 俺に打ち明けてみないか?」とカウンセリングに持ち込んでいくのが、やたらとおかしい。
 
 90年代初めの映画はあまり観ていないので、この時代のこの役者たちを観るのはほとんど初めてである。なかなか新鮮。身勝手で小狡いエド・ハリスなんて初めて観た。アル・パチーノは、この頃がピークだったんだな。90年代半ばには、もう演技が単調になってもうてるもんな。ケヴィン・スペイシーだけは全然変わらないけど。
 

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悪の法則

 リドリー・スコット監督作。脚本(原作ではなく)はコーマック・マッカーシー。
 マッカーシーの小説やその映画化作品は、全部読んだり観たりしてるわけじゃないが、その最も目に付く特徴は、登場人物の一部が何やら思弁的な、あたかも含蓄が深いかのような台詞(だいたい長い)を吐くことだ。そして作品全般を一言で言うなら、暴力と暴力の間にあたかも含蓄が深いかのような台詞が挟まっている。あたかも含蓄が深いかのような台詞とあたかも含蓄が深いかのような台詞の間に暴力が挟まっている、と言い換えてもいいが。

 という言い草からお解りいただけるかと思うが、私はマッカーシー作品の暴力にも、あたかも含蓄が深いかのような台詞にも大した感銘は受けないのだが、ただしこれが映画となると話はまた別である。暴力のほうはともかく、台詞のほうは巧い役者が喋って巧い監督が撮ってくれると、非常に素晴らしいものとなるのだ。意味があるようでない、というのは変わらんけど。

 以下、ネタバレ注意。

 主人公のカウンセラー(弁護士。これが役名)が、身の丈に合わない贅沢な生活をしたせいで金に困り、知人の誘いに乗って麻薬密売に手を出したために手痛い報いを受けるという、まあ解り易い教訓譚だ。
 カウンセラーがマイケル・ファスベンダーで、この役者をこれまで観たのは『イングロリアス・バスターズ』(09)と『危険なメソッド』(11)だけなんだが、なんか短期間でえらい急速に老けてくな。
 ファスベンダーを悪の道に誘い入れるナイトクラブのオーナーが、ハビエル・バルデム。マッカーシー作品でバルデムと言えば、『ノーカントリー』。マッカーシーが描くところの観念「純粋悪」を、これ以上ないほど見事に具体化していたのだが、今回は外見こそ結構強烈だが(大阪のおばちゃんが着てそうな凄まじい柄のシャツとか。しかしパンフによると衣装のほとんどはヴェルサーチだそうな)、中身はただのヘタレである。
 
 組織との仲介役がブラッド・ピット。あたかも含蓄が深いかのような台詞を専ら担当。しかしやはりヘタレ。今回の死に様は、『バーン・アフター・リーディング』に匹敵すると思う。
 
 ファスベンダーの婚約者がペネロペ・クルスで、バルデムの愛人がキャメロン・ディアス。悪女なのは珍しくディアスのほうで、しかも血も涙もない冷酷非情の悪女である。
 ディアスのシリアスな役を観るのは、『バニラ・スカイ』以来だな(そういえばこれもクルスとの共演だ)。この時の「痛い女」役と比べると、単に巧くなってるだけじゃなく貫禄と迫力が違う。青い瞳が酷薄な印象だ。
 ディアス演じるマルキナは、「強さ」の象徴としてチーターを愛する。で、本人も背中にチーター柄のタトゥーを入れている。黒のアイラインで目を囲んだ上に目頭を強調したメイクも、チーターをイメージしているんだろう。このタトゥーとアイラインはいいんだが、髪まで金と黒なのは、さすがにやりすぎ。『101』のグレン・クローズみたいだ。
 
 アイラインと言えば、ペネロペ・クルスも、髪と目が黒っぽくて肌の色も濃い目だからあんまり目立たないけど、黒のアイラインと濃いブラウンのアイシャドウをがっつり入れている。佐藤亜紀先生によると、リドリー・スコットは目の周りを真っ黒に塗った女が好みなんだそうですよ。

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マネーボール

 貧乏球団のGMが、ハーヴァード大卒の若者の協力を得て、統計学的に選手の能力を分析しチームの再編を図るが、「勘と経験」に頼る球界の常識に反していたために猛反発を喰らう。スカウトマンたちをクビにして再編成に漕ぎ着けるが、今度は監督が、GMがスカウトしてきた選手を使おうとしない。

 挫折した元選手であるGMがブラッド・ピット。これまで観た中で一番演技が巧い。
 ブラッド・ピットの出演作はかなり観ているが、巧い役者だとは思っていなかった。若い頃は『トゥルー・ロマンス』や『テルマ&ルイーズ』みたいに短い出番だと非常に存在感があるのに、メインキャラクターとなるとその存在感が持続しなかったものだが、『ファイトクラブ』あたりから、作品によっては存在感が持続するようになってきた(この存在感の有無が、キアヌ・リーブスとの違いだよなあ)。
 ここ十年ばかりは、どの作品でも存在感が放たれているばかりか一層大きくなってきているのだが、演技が巧いというのとはまた別物だった。いや、演技力もちゃんと向上していて、それはケイト・ブランシェットやティルダ・スウィントンと共演できることで証明されてるんだが、演技だけで観せる、というレベルには達してなかったというか。
 しかし、本作のブラッド・ピットは本当に巧いです。
 
 監督役はフィリップ・シーモア・ホフマン。これまで観た彼の役は、多かれ少なかれ「奇人」ばかりで、それは彼の特殊な容貌に因るところが大きいんだろうけど、今回はいかにも老いた野球監督といった風貌で、抑えた演技で悪目立ちもせず、かえって印象的だった。
 
 先日、『リアル・スティール』の感想で、価値観に変化を迫られるのは多かれ少なかれ不快な体験だ、と書いた。本作『マネーボール』の主人公は、球界を支配する「勘と経験」という価値観に変化を迫ったわけである。しかも彼が持ち出したのは「科学」。まさに「勘と経験」の対極である。
 人間は、自分の価値観とか支持する理念といったものに対する反証には目を瞑ろうとする一方、自分の嫌いな価値観や理念等に対する反証は鵜の目鷹の目で探し出そうとするんだそうである。「勘と経験」を信奉する人々は、統計という科学を持ち出された途端、脊髄反射で猛反発する。成功すれば奇跡扱いし、失敗すれば「それ見たことか」と大喜びし、なぜ成功したのか、なぜ失敗したのか、検証しようともしない。まあ、それが人間性というものですね。

『リアル・スティール』感想

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パスカル・キニャール――文学のオリエント

 佐藤亜紀先生と岡和田晃氏が出るので、行ってまいりましたよ。11月16日(土)、日仏会館にて。
 会場は恵比寿。乗り換え以外で下車するのは十一年ぶりくらいである。駅から会場まで、途中で一回曲がるだけという単純極まりない道筋なのに、その曲がる方向を間違える。時間までに会場には辿り着けたものの、自分の間抜けさ加減に今更ながら落ち込む。
 
 百人弱の入りで半数がフランス人。キニャール本人の講演は日本語のレジュメ付きで通訳なし。タイトルは「文学という言葉には起源がない」
「文学」Littérature(仏語)はラテン語ではlitteraeといい、「文字」litteraの複数形なのだが、この「文字」という語の起源は共和制ローマの時代にはすでに不明になっていたのだそうだ。つまり、タイトルどおり「文学」という言葉の起源も不明なのだそうである。古代ローマ人たち自身もこの謎に挑み、さまざまな説をひねり出したが、結局言葉遊びの域を出なかったとのこと。これが前半。後半は、書くという行為、エクリチュールについての省察。

 ところどころ語句は聞き取れるので、概ねレジュメどおりに進めていて、内容が前後したり飛ばされたりはしていないということは判りました。が、合間合間にレジュメにないことも喋っている。それについてはまったく理解できないので、何を喋ってはるのかなあ、と大変気になったり。
 それと、私のフランス語は『グアルディア』を書いた時に少し齧って、それから数年後にもう少し齧っただけの雑学レベルで、実地には全然役に立たない、と思っていたのですが、全然役に立たないわけでもないんだなあと、ちょっと嬉しかったり。
 
 以降はパスカル・キニャールの研究者の発表(シンポジウムなので)。イヤホンで同時通訳を聞きながらの講演は初めての体験だったのだが、最初の発表者クリスチャン・ドゥメ氏(最近、『日本のうしろ姿』という本を刊行)はまるでフランス語会話の教材のようにゆっくりはっきり喋ったので、つい理解もできないのに耳を傾けてしまい、同時通訳のほうにまったく集中できずに難儀する。
 以降の発表者はかなり早口で喋ったので、こちらは同時通訳に集中できたが、次第に耳が痛くなってくる。私はやや難聴の気味があるのだが、そのせいだろうか。中耳(鼓膜より奥)ではなく外耳道がズキズキと痛む。
 
 昼休みは一時間余りだったが、時間を過ぎても御本尊が戻ってこないので午後の部を始められず。結局30分の遅れで開始。
 プログラムが進行するにつれ、耳はどんどん痛くなってくる。音量を聞き取れる限界まで下げ、イヤホンを右に左に替えながら聞いていたが、そのうち頭痛まで始まり、首、肩がガチガチに固くなる。気分も悪くなってくる。
 もうじき日本人の発表が始まるからそれまで我慢しようと頑張ったが、小川美登里氏(キニャールの新刊『秘められた生』の翻訳者)がフランス語で発表を始めたので、限界だー!とロビーに退散。相変わらずヘタレです。
 
 その後の休憩ではロビーに飲み物が用意されたが、ここでもフランス人たちはキニャール本人を筆頭に、時間になっても誰も会場に戻ろうとしない。さすがだ。
 私が日本人らしくホールに戻ろうとしたところ、キニャールが入口近くで何やら話し込んでいる。Pardonと言って通してもらおうかという誘惑に一瞬駆られたが、馬鹿な真似はやめて迂回する。
 ちなみにキニャールの印象は、気さくでお茶目なおじさま、と言ったところでした(だからこそ、上記のように馬鹿な気を起こしかけたわけだが)。会場で会った友人知人は皆、「作品から受ける印象と違う。もっと尖って、やばそうな人かと思ってた」というようなことを言っていたが、あの人は小さな子供や犬猫をとても可愛く書くので、その点ではイメージどおりだ、と私には思えた。と皆に言ったところ、誰も犬猫や子供の可愛さは印象に残っていないとのこと。相変わらず私は人と視点がずれているようです。
 
 最後は佐藤亜紀先生と小野正嗣氏が岡和田君の司会で、キニャール作品についてそれぞれ語る「パスカル・キニャールを読む日本の作家」。このお三方のうち、フランス語ができないのは岡和田氏一人。というわけで岡和田氏のお蔭をもちまして、この最後の演目は日本語で行われる。体調はだいぶ持ち直していたものの、頭と耳の痛みはまだ続いていたので集中しているのは大変でしたが、メモから幾つか拾い上げると、

 佐藤先生は、まず『めぐり逢う朝』で描かれるバロック期の音楽家の修行が、「考えるな、感じるんだ」式の非常に東洋的なものでありながら、曖昧模糊にではなく明晰に理知的に書かれていることに深く感銘を受けたということを語った。そしてキニャールの作品群の中でも特に過去の時代を扱ったもの、それらはいわゆる「歴史小説」というジャンルに押し込まれてしまうわけだが、あたかもその時代を生きているかの如く、「たとえば目の前にある木のテーブルを触ってどんな感触がするか」が解るほどの視点の没入を実現できているそれら作品を、果たして他の凡百の「歴史小説」と同じ括りに入れることができるのか(いや、できない)。
 小野氏のキニャール作品との出会いは『アメリカの贈り物』。牛の死産の場面が衝撃的だったとのこと。自分の故郷について書くには故郷から離れる必要がある。

 司会の岡和田氏はいつもに増してテンションが高く、日本人聴衆には、明らかに彼を知らない人にまで大いに受けていました。終わった後、近くの席の、SFなんぞ読まないどころかそんなジャンルがあることすら知らなさそうなハイソなおばさま二人が、「あの司会の若い人、おもしろかったわね」と言い合っていたほど。
 しかしフランス人の聴衆にはどうだったんだろうな。というか、いつもに増して早口だったから、ちゃんと同時通訳できてたのだろうか。通訳が追いつけてるかだけでも確認したかったが、耳の痛みのため断念。残念。あと、佐藤先生の独特の言い回し(「信長秀吉家康小説」とか)はどう訳されてたんだろなあ、とか。

 閉会の後、ロビーで赤ワインが振舞われる。ちょびっと飲んだだけだが、非常に美味しくて、頭痛は完全に消える。さすがフランスワインだ(いや、確認はしてないんだがフランス産だよね。まさか、そうじゃないなんてことは)。

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ディナー・ラッシュ

 ルイジは父親の代から続くイタリアン・レストランを営む傍ら、長年ノミ行為にも手を染めてきた。シェフの座を息子に譲ったところ、その息子が天才シェフとして持ち上げられ、店の人気は急上昇する。そこでそろそろノミ屋から足を洗おうとした矢先、ノミ屋のパートナーがマフィアに殺されてしまう。

 この殺人事件をプロローグとして、本編は数日後、イタリアン・レストランの一夜。オーナーのルイジを中心とする群像劇で、群像劇というとロバート・アルトマンがまず思い浮かぶ。アルトマン作品は嫌いじゃないが、これまで観たのはどれも散漫でテンポが悪い印象が否めないんだな。
 それに比べると、本作はテンポがよく、緊密な印象。アルトマン作品よりも、人物から人物への切り替えが早いからだと思う。ただし登場人物がかなり多いため、あるキャラクターにちょっとスポットが当てられたと思ったら、すぐに別のキャラクターに、という具合で(まさに「ラッシュ」状態)、最初のうちはキャラクターの相関や状況をなかなか把握できない。把握できてからはおもしろくなるが。

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『「世界内戦」とわずかな希望』

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 岡和田晃氏の批評集で初の単著『「世界内戦」とわずかな希望――伊藤計劃・SF・現代文学』が先日発売されました。本文300頁以上、短いのから長いのまで、すんごいたくさん(数えかけたけど、やめた)の批評が収録されています。

 テーマ別に、次のような構成になっています。

 第一部 「伊藤計劃以後」の現代SF――伊藤計劃、仁木稔、樺山三英、八杉将司、宮内悠介
 第二部 スペキュレイティヴ・フィクションの可能性
 第三部 世界文学のニューウェーブ

 冒頭から順番にではなく、あっちを齧り、こっちを齧りという読み方で七割方読んだところで、冒頭に戻って今度は順番に、まだ読んでなかったものも既に読んだものも通して読み、現在は第三部に入ったところです。
 なので、まだ幾つか未読のものもあるのですが、とにかくこういう読み方をして解るのは、論旨の一貫性です。たいへん多くの、多岐にわたる作品を論じていながら、その一貫性は驚くほどです。
 それは岡和田氏の思想(「思想」という言葉はいろいろ語弊があるんで、主張とか考え方とか言い換えてもいいですが)が一貫しているからで、かと言って、他者の作品を自分の思想やら主張やらのダシにしているとか、自分の考えに都合のいいところだけ取り出したりこじつけたりしているんではもちろんない。世界(「セカイ」ではなく)の捉え方が一貫しており、あらゆる作家の作品も、その世界の一部として把握されているから、なのだと思います。

 だから、彼の批評の価値は雑誌等に掲載されるものを個々に読むよりも、こうして一冊にまとめられたものを読んでこそ見えてくるのではないかと思います。
 そういうわけで、第一部では私の作品も幾つか取り上げてもらってますが、それらも全体の一部を成してるわけなのですよ。

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