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連作〈The Show Must Go On〉

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の連作としてのタイトルは、〈The Show Must Go On〉である。英語タイトルとして、表紙および本文2頁にも載っている。単行本のタイトルにならなかったのは、「解りにくい」からだそうである。そういう判断は編集部にお任せしているし、英語タイトルとしては残してもらえたし、日本語タイトルも収録作の一つから採ったものなので、特に不満はない。いや、ほんとに。
 ただ、〈The Show Must Go On〉というタイトルの意味については、ここで説明しておきたい。

 一言で言うと、この連作が「ショウ」の物語だからである。「他者の苦しみ」というショウだ。
 この問題について考えるようになって十年近くになるが、2011年に邦訳の出た『他者の苦しみへの責任』という論集に所収の「苦しむ人々・衝撃的な映像――現代における苦しみの文化的流用」(アーサー・クラインマン/ジョーン・クラインマン)で的確に論じられているので、以下この論考を踏まえて述べる。
  なお私が読んだのは邦訳だけだが、原著の刊行は1997年。

「他者の苦しみ」について見たり読んだりすることは娯楽となっている、とクラインマンらは断じる。彼らは「他者」を「特に遠隔地の人々」としているが、これはこの文章が書かれたのが97年だからであって、9.11(日本人にとっては3.11も)を経た現在の「我々」にとっては、「遠隔地」というのは「身近でない」と言い換えるのが適切であろう。
 すなわち、「身近でない人々の苦しみ」について見たり読んだりすることは、娯楽となっている、と。

「我々」はどのように「他者の苦しみ」を楽しむのだろうか。報道、ドキュメンタリー、ノンフィクション、「実話に基づく」映画や小説などによってである。
「楽しんでなどいない」という反論は多いだろう。感動したり、同情で胸を掻き毟られたりするのだから、と。
 それを楽しんでるって言うんだよ、とまではクライマンらは言っていないが、ではそのような感動や同情の中に、彼らの苦しみに比べれば我々の境遇はずっとマシなのだ、という満足感は混じっていないだろうか。
 あるいは、「我々」とは無縁の、いわば「珍奇な体験」である「苦しみ」に対する好奇心は混じっていないだろうか。解りやすい例は性暴力である。それらを告発する報道・ドキュメンタリーその他に接する時、「我々」はそれらをほんのわずかでもポルノグラフィとして眺めていない、と言い切れるだろうか。

 このようにして利用された「彼らの苦しみ」は、さらに幾つもの要素に分解され、枠に嵌められ、コード化され、フィクションや図像に流用される。
『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「The Show Must Go on!」(英語タイトルの場合、これが表題作となる)とその続編は、遺伝子工学によって造り出された人造人間である亜人という「他者」の苦しみが最大の娯楽として消費される未来の物語である。

 苦しみとは具体的には、戦場または闘技場における亜人同士の殺し合いである。人間たちはそれらを報道、ドキュメンタリー、さらにはスピンオフのフィクション(アニメや小説など)として鑑賞する。
 その代わり、この世界の人間が人間を傷つけることは決してない。それどころか、人間の苦しみを題材としたフィクションすら生み出されることもなくなっている。フィクションの中ですら、人間が人間を傷つけることはなくなっているのである。

「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」と「はじまりと終わりの世界樹」はオルタナティブ・ヒストリーであり、改変された20世紀末という近過去を舞台に、「The Show Must Go on!」へと至る過程を描いている。
「はじまりと終わりの世界樹」では、クラインマンらが指摘する、「他者の苦しみ」を知ることに付きまとうもう一つの問題にも触れている。苦しむ人々の情報に晒され続けることによって、どうせ「我々」にできることはないのだという無力感から無関心・無感覚に陥ってしまう、という問題である。

 改変された20世紀末において、イラクは行政から治安に至るまで北米の某超大国系の企業に外注され、不正と暴力が横行している。そんな状況が何年も続いた結果、報道や人権団体による告発はなされているものの、ほとんどの人(先進国のほとんどの人)は無関心になってしまっている。
 そこへ「アブグレイブ刑務所」で、金髪碧眼の12、3歳の美少女が囚人虐待に加担している(加担させられている)画像が流出する。不正や暴力には無関心だった人々も、これには憤激し、某超大国を一斉に非難する。某超大国政府は、映像は捏造だと断定した上で、密かに同じ年頃の金髪碧眼の美少女が男たちをいたぶるSM画像を作成して流布させ、事態をうやむやにしようとする。「他者の苦しみ」のポルノへの流用である。

 クラインマンらは、無関心や隠蔽よりは好奇心のほうがまだマシだとしている。正論であるが、私はノンフィクション作家ではなく小説家である。

 私は、エンターテインメント作品を書いているつもりだ。なぜなら、正しい読書とは楽しむために行うものであり、それ以外の目的でする読書は邪道だと信じているからだ。 
 私の作品には「苦しむ人々」が登場する。何百年も未来の世界や歴史改変された世界が舞台であっても、それらの苦しみは、現実の人々の苦しみを断片化しコード化したものの「流用」にほかならない。
 そんなふうに人の苦しみを利用するのってどうなの? という問いは、当然出てくる。ニュースやドキュメンタリーなら、興味を煽るようなやり方であっても「無視するよりはマシ」という正論が成り立つ。
 だが、私が書いているのは小説である。しかも、小説の形で真実を暴き、非道を告発するのだ、というような使命感など、これっぽっちも持ち合わせていない。

 人の苦しみを利用するのってどうなの? という問いに対する一番簡潔な答えは、「現実に苦しみが存在する以上、書かないわけにはいけない」というものである。
 フィクションであっても、その中に苦しみが存在しないなら、その理由も用意しないといけない。人間同士が傷つけ合わないのは、代わりに亜人という人造人間を傷つけているからだ、とか。そういう理由を用意しないのであれば、どういうかたちにせよ、作中人物は自ずと苦しむことになる。そうならないなら、フィクションではなくただの嘘になってしまう。

 書かないわけにはいかないから書くけど、例えば少年兵や女性自爆テロリストをヒロイックでかっこいいものや、涙を誘う可哀想なものや、あるいは悲惨さの見世物として書くことはしない。その理由については、読書の「楽しみ」はそういうものだけで得られるものじゃないから、とだけ述べておく。
 そういうふうには書かないけれど、エンターテインメントとしてある種のカタルシスは用意している。単純にかっこいいもの、可哀想なもの、悲惨なものとして書くほうがずっと簡単なのではあるが。

 デビュー作『グアルディア』(2004年)でもヒロイズム批判に踏み込んでいるものの、私が「他者の苦しみというショウ」の問題に直面することになった契機は、2005年に担当したTVアニメのノベライズである。
 以前にもブログで述べたが、私がこの仕事を引き受けたのは、当時すでに「The Show Must Go on!」の設定、すなわち亜人同士の殺し合いショウとその派生作品から成る文化産業というものを構想し始めていたので、スピンオフとかマルチメディアといったものに関わっておきたかったからである。
 その時の体験が期待どおりのものだったかというと、以前にも述べた理由で、まあそのあんまり、と言わざるを得ないのだが、この体験を通して上記の問題と向き合うことになり、その結果が『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』まるまる一冊となるわけだから、得られたものは非常に大きかったと言える。

関連記事: 「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」  「はじまりと終わりの世界樹」  

      「The Show Must Go on!」 「絶対平和 Ⅱ」 「コンセプシオン」 

      「遺伝子管理局」 「絶対平和の社会」 

      「等級制‐‐概念」 「暴力表現について」 

設定集コンテンツ

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ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

 長くて込み入った原作を巧く刈り込んで、良くも悪くも解りやすく整理してある。
「良い解りやすさ」は主人公の少年オスカーの、「普通でない」感情表現にもかかわらず彼の悲しみの大きさを表現する手法など。
 これには子役の演技力に非常に多くを負ってるんだが(クイズ番組で優勝したのを映画スタッフにスカウトされた、演技はまったくの素人だそうだ)、やはり脚本や演出も巧みだと思う。両親役のトム・ハンクスとサンドラ・ブロックスも巧い。

 でも全体としては刈り込みすぎだし、特にラストは解りやすく「いい話」にしすぎ。
 それに原作は9.11がドレスデン空襲やヒロシマと並列に語られ、人類共通の苦しみであることが示されているが、映画ではヒロシマのエピソードがカットされてるのはまあ仕方ないとして(原作でも比重は少ないから)、祖父母の人生に、つまり一族の歴史に深く刻み込まれたドレスデン爆撃にも、ほんのちょっぴり触れているだけだ。あたかも、9.11は人類の歴史において、比類ない唯一無二の、「選ばれた」受難であるかのごとく。まあ監督はイギリス人なんだが。

 最後にもう一つ、映画じゃタイトルの意味がわからないやんけ。

 

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絶対平和 Ⅱ

 ル・グィンの「オメラスから歩み去る人々」(『風の十二方位』所収)を読んだのは、四半世紀も前のことである。この寓話に、高校生だった私は愕然とするほどの衝撃を受けた。何がそんなにショックだったかと言うと、現実でも「我々」の豊かな生活はオメラスと同じように他者の犠牲の上に築かれているが、オメラスの人々と違って「我々」は幸福であるとは大して実感していないし、犠牲となっている人々について大して心を痛めてもいないという事実に、改めて気づかされたのである。

 では、己が幸福を日々噛み締め、犠牲となっている人々への感謝の念を絶やさないでいればいいかと言うと、それはもちろん違う。もっと昔、小さな子供だった頃、周りの大人たちに「飢えや戦争で死ぬ子供たちに比べれば、おまえたちは幸せなんだから、わがままを言うな」と散々言い聞かされたものだが、それと同じことだ。自分が気分よく過ごすために彼らを見下せ、というのとどう違うんだという話である。

 それから時は流れて2002年、デビュー作となる『グアルディア』の執筆に取り掛かった。27世紀の南米が舞台のポスト・アポカリプスものである。文明崩壊前を「平和で豊かな世界」と設定したのは、文明崩壊後の世界がいかに荒廃しているかを強調するためだったが、そこで思い出したのが「オメラス」だった。「オメラス」で気づかされた現実の世界の在り方を、思い出したのである。
 そういうわけで、「すべての人間が平和で平等で幸福」という社会が、寓話ではなく具体的なシステムとして成立する条件を考えてみることにした。

 なぜ、現実に万人の平和と平等と幸福が成立しないのかと言えば、人は誰しも多かれ少なかれ他者より優位に立ちたいと願うからだ。だったら、自分より劣位にある「他者」を人間以外のものにしてしまえばいい。あまりに劣っていたり異質だったりしては優越感が抱けないので、人間に似た、しかし人間より少しだけ劣った存在である。
 それが、遺伝子工学で生み出された人造人間である「亜人」である(「亜」は「少し劣った」とか「一段下の」という意味)。
「我々」が団結するには「彼ら」という他者が必要で、その際、彼我の違いは小さいほうが効果的である。「亜人」という少しだけ劣った他者を生み出し、隷属させることで、人間は自尊心を満足させることができるだけでなく、初めてすべての人間が平等であると認識することができる、という理屈だ。
 隷属の具体的な内容は、チャペックのロボットと同じく、人間に代わって労働を担うこと、そしてグラディエイターのような、見世物としての殺し合いである。

 この「他者の犠牲の上に築かれた完全なる平和と幸福」のシステム「絶対平和」は、「オメラス」を読んで気づかされたこの現実を反映したものである。だから、未来ではなくオルタナティブ・ヒストリーの21世紀に設定した。
 もちろん『グアルディア』一作に限るなら、いつの時代に設定しようがストーリーには全然関係なかったのだが、いつか「絶対平和」についての話を書くつもりだった。結局、十年も後になってしまったのであるが。

 ユートピアもディストピアも、まず現実があってその反映である点は共通している。では、現実のこの世界の反映である「絶対平和」はユートピアなのかというと、そもそも亜人という他者の犠牲を前提としているという点で、すでにユートピアではあり得ない。
 さらに、亜人の存在のお蔭で人間の負の側面が抑えられたと言っても、心理レベルの話であって、遺伝子まで変化したわけではない。それで参考になるのが、タイトルにしているドミトリ・ベリャーエフの狐の家畜化実験である(「ミーチャ」は「ドミトリ」の愛称)。

 人懐っこい狐だけを選んで掛け合わせていくと、生まれてくる子狐はますます人懐っこくなる、という実験である。それだけでなく顔は丸っこく、毛皮はぶち模様に、しっぽも丸まって、犬みたいにクンクン鳴くようになるそうだが、そうした変化はさておき、気質の変化については、人間にも当てはまるのではないか、という説がある。全般に狩猟採集民より農耕民としての歴史が長かった集団に属する人々のほうが権威に従順で協調性もあるのは、淘汰の結果ではないか、というのである。

 この説の妥当性はともかく、「絶対平和」では人間は消費するエネルギー量によって等級(グレード)が割り振られている。物欲が強く刺激に飢えているといった性向の人々は、それを満たすためにエネルギーも多く消費するのでハイグレード、エネルギー消費の少ない低工業化生活をする人々はローグレード。
 グレードの選択・変更は自由だが、子供を持つにはローグレードに「降り」なくてはならない。子育て期間中、ローグレードに留まっていられる者でないと、親になる資格がないと見倣されるのだ。

 つまり絶対平和は、優生思想に支配された徹底した管理社会なのである。ディストピアの条件を充分満たしていることになるのだが、みんなそれで納得して幸せなのである。『すばらしい新世界』の「みんなが幸せなディストピア」に近いと言えよう(『すばらしい新世界』のシステムは完璧で、反体制的である自由まで保障されている)。
 納得していないのは思春期の子供だけで、もっと幼い頃は特に疑問も持っていないのだが、年頃になるといろいろ正義感やら反抗心やらに目覚めて、自分が生きている世界が管理社会であることに改めて気づいて、衝撃を受ける。で、闘わなくちゃ、とか思う。

 しかし絶対平和のシステムは、そのような情熱が空回りするだけになるようにもなっており、大人たちに生温かく見守られているうちに数年が過ぎる。そうして二十歳になる頃には脳の発達もほぼ完了してホルモンバランスも落ち着き、憑き物が落ちたように分別が付き、体制を受け入れるのである。
 つまり絶対平和は、「歩み去る者のいないオメラス」なのである。

関連リンク:ウィキペディア「ドミトリ・ベリャーエフ」の項

関連記事: 「絶対平和 Ⅰ」 「絶対平和の社会」 

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テッド

 1985年、くまのぬいぐるみテッドが唯一の友達という8歳の少年が、テッドに命を与えてください、と祈ると、その願いが叶ってしまう。
 27年後、少年はレンタカー・ショップの店員に、テッドは愛らしいぬいぐるみの外見のまま、中身(と声)は無職のダメ男となっており、二人で酒を飲み、マリファナを吸引し、『フラッシュ・ゴードン』を飽くことなく繰り返し鑑賞するという日々を送っている。

 まず、過去パートが実によくできていて感心した。ファッションやら大道具小道具やらが80年代というだけでなく、子供を含めた役者の容姿や、黄色がかった映像まで80年代映画風なのである。
 そしてくまのぬいぐるみとマーク・ウォルバーグの外見をした二人のダメ男の生態を描く現代パートも、陽光が降り注ぐ公園や並木が続く歩道の映像が妙に美しかったりする。テッドが中身も声も下品なおっさんそのものなのに、仕草はいかにもぬいぐるみっぽく愛らしい(腰を振っていてさえ)のは卑怯であろう。

 お蔭でダメ男同士の友情とほんのちょっぴりの成長の物語にすぎないものが、ずいぶんと感動的に仕上がっているのである。

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岡和田晃氏への応答――SFセミナー2014を経て

 まず、経緯を述べる。評論家の岡和田晃氏は、これまで私の作品を幾度か批評の対象として取り上げてくださている。それらは彼の近著『「世界内戦」とわずかな希望――伊藤計劃・SF・現代文学』に収録されており、また私の新刊『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』巻末解説も担当してださっている。
 まともな読みの対象とされることの少ない私の作品に正面から向き合ってくれるこれらの批評は、非常に得難く貴重なものである。にもかかわらず、いつからか言葉にし難い微妙な違和感を感じることがあった。

 無論、作品をどのように読むかは読者の自由である。ひどい誤読であっても、それは本人の読解力(の欠如)の問題であって、私の問題ではない。あまりにもひどい誤読を広く公表されるようなことがあれば、私もこのブログで一言物申すくらいのことはするかもしれないが、言うまでもなく岡和田氏の批評に対する違和感はそのような類のものではなく、かつ極めて希薄で漠然としていたため、深く考えてはこなかった。

 しかし去るSFセミナー2014のパネル(および夜の企画)において、岡和田氏の質問と私の答え(より正確には、答えようとすること)との間に、どうにも齟齬が感じられて困惑し、終始口籠りがちという結果になってしまった。
 この齟齬とはすなわち、前述の違和感であるが、これまで追求することなく放置してきたツケが、こうしたかたちで回ってきたのである。

 今後このようなことがないよう、また今後に活かすべく、この違和感の正体を見極め、それに対する考えをはっきりさせておく必要が是非あった。以下は、その省察である。

 岡和田氏の批評に対して抱いてきた違和感、それは一言で述べると、仁木稔作品の「同時代性」を強調しすぎているのではないか、というものである。しかし、歴史研究者の端くれ(もしくは歴史研究者崩れ)として、私は人間の本性は普遍的なものだと信じている。その確信は認知科学や遺伝学、文化人類学など他分野の知見によっても、補強されこそすれ弱まることはない。小説家として私が描こうとしているのは、この「普遍性」である。

 人間の本性は変わらない。自然環境や人口規模の違いによって技術、社会、文化が変われば、人間の反応も自ずと変わるというだけである。その反応も基本的なパターンは限られたものであり、ただ現れ方が状況に応じて異なるというだけだ。
 たとえば『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』では陰謀論を扱っているが、私はこれを「現代日本に固有の現象」として描いたつもりは毛頭ない。2010年代初頭現在の状況を、別の社会(未来や架空の近過去)に単純に置き換えたのではないのだ。陰謀論は短絡的なストレス反応として、いつの時代にもどの社会にもあった。
 アマゾンやニューギニアでは、いわゆる文明化されていない先住民の部族あるいは村落同士が頻繁に抗争している(いた)。その主要な原因は人口増加や食糧不足などのストレスであるが、口実として最も多いのは、共同体内で起きた病気や事故などの不幸を適当な仮想敵による呪いだとすることである。これも立派な陰謀論だ。
 確かにネットが陰謀論を加速させているのは「現代社会に固有」の現象ではあるが、黒死病流行の際のユダヤ人虐殺、関東大震災の際の朝鮮人虐殺は、ネットなど必要としなかった。 

 あるいは、たとえば『ミカイールの階梯』に登場させた女性自爆テロリストたち。ヒロイズムの文脈の下、かたちだけでも自主的に見える自己犠牲を弱者に強いるのは、チェチェンの状況に限ったことではない。その方法が異なるだけだ。

 人間の本性は変わらない。「苦しむ人々」は常に存在する。しかし「我々」は彼らを黙殺してきた。かつてはそれが可能だった。「苦しむ人々」がいるのは遠い外国、もしくは社会の周縁部だったからだ。
 私がデビューした十年前は、「セカイ系」が真っ盛りであった。「ぼく」と「セカイ」の間のいわゆる中間領域が描かれていない、というのがセカイ系への典型的な批判であるが、私にはセカイ系以前の人々、セカイ系を批判する人々の多くが「中間領域」をきちんと認識していたとは到底思えない。あんたたちだって遠い外国や社会の周縁部の「苦しむ人々」を黙殺するか、存在自体に気づいてすらなかったんじゃないの? 

 今回、SFセミナーで樺山三英氏は次のように述べられた――いつの間にか、「セカイ系」は死語になっている。これまで作家や評論家たちは若い世代に「もっと自分の周りを見ろ、大変なことになってるぞ」と危機感を煽り続けてきたが、その結果、若者たちは自分たちの置かれた状況の困難さは認識したものの、それをマイノリティのせいだと短絡してしまっているのではないか。
 ほんの数年前まで、「苦しむ人々」はバリアの向こう側にいて、「いないこと」にすることが可能だった。しかしいつからか「苦しむ人々」はどんどん身近になり、気づくと「我々」もその一人になっている。
 それでもなお現実をないことにしようとする、あるいは歪めようとする、すなわち原因をマイノリティに求めるのは、少しも目新しいことではない。

 私の作品に「同時代性」があるとすれば、それは今、確かに存在しているものごと/人々を認めようとしないこと、歪曲しようとすることへの批判、そして陳腐な言動をなぞっているに過ぎないことに気づかない愚かしさへの批判だろう。その表現として最も適したジャンルとして、私はSFを選んだ。

「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」「はじまりと終わりの世界樹」において、「偉大な祖国」あるいは「合衆国(エスタドス・ウニドス)」のモデルはこれ以上ないほど明確であるにもかかわらず、「アメリカ(合衆国)」の名を頑なに出していない。一つには単なるお遊びだが(他の三篇でも出していない)、もう一つは、「アメリカ合衆国に特有の現象」のみを描いていると読まれてしまうことを避けるためである。陰謀論、差別、原理主義、その他あらゆる非寛容に起因する愚行は、あの国に限定されたものではない。

 また、SFセミナー昼の部で来場者の方から、「オメラス」では「犠牲者」は隠された不可視の存在であったが、「絶対平和」において亜人が社会に偏在し目に見える存在なのはなぜか、という質問をいただいた。やはりこれも一つには、現実において無視され、いないことにされている存在を可視化するという意図によるものだ。

 もちろん、岡和田氏は私の作品が「同時代性」という文脈でしか読めないもの、数年もすれば古びてしまうもの、と主張しているのではないはずだ。だからこそ、私が表現しようとしている「普遍性」にも、できれば目を向けてほしいなあと願う次第である。 

 SFセミナー2014の企画に参加することがなければ、ここまで自作について掘り下げて考えることはなかった(企画それ自体では満足に発言できなかったとはいえ)。今後、創作を続けていく上で、大きな糧となってくれるだろう。
 その機会を与えてくださった岡和田晃氏と早川書房編集部のI氏、そして樺山三英氏にはたいへん感謝しています。

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その他関連

「活動」というわけではありませんが……

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『SFマガジン』2014年8月号
 700号(前号)記念企画 オールタイム・ベストSFのアンケートへの回答が、ほかの方々の回答とともに掲載されています。それについての弁明もとい説明はこちら

 また、SFセミナー2014の参加企画についてレポートしていただきました。
 昼の部のパネルで喋ったことの拡大版を、〈HISTORIA〉シリーズ設定として当ブログに掲載しています。
「絶対平和 Ⅱ」  「連作〈The Show Must Go On〉」

 それから、レポートで言及されている「岡和田晃氏への回答」はこちら。念のために補足しますと、あくまで岡和田氏の評論(およびSFセミナーでの発言)に触発されたわたしの意見であって、氏の考えを否定するものではありませんよ。

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『SFマガジン』2014年6月号

『ミーチャ・ベリャーエフ』特集記事を掲載していただきました。収録作のうち表題作と「はじまりと終わりの世界樹」「The Show Must Go On!」の『SFマガジン』掲載時のイラスト(橋賢亀氏)の再録に、牧眞司氏によるレビューなど、計4頁です。

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岡和田晃氏『「世界内戦」とわずかな希望』  (書苑新社 2013年刊)
 第一部 「伊藤計劃以後」と現代SF で、仁木稔作品を論じていただいています。

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岡和田晃氏「『世界内戦』下の英雄」 (『サブカルチャー戦争――「セカイ系」から「世界内戦」へ』所収 南雲堂 2010年刊行)
『ミカイールの階梯』を論じていただきました。

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『Sync future』 早川書房 2009年刊
 日本SF27作品と、27人のアーティストによるコラボレーション。『グアルディア』のイラストを岡崎能士氏に手掛けていただきました。.

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『SFマガジン』2007年6月号 
『グアルディア』文庫化および『ラ・イストリア』刊行に際して、シリーズ紹介ページを設けていただきました。

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ザ・ヤクザ

 勘違いジャパニズム100%の低予算映画、といった趣のタイトル(原題もTHE YAKUZA)だが、1974年のシドニー・ポラック監督作。主演はロバート・ミッチャム、高倉健、岸恵子。
「銃刀法はどうした」というツッコミどころはあるものの、日本文化の考証は驚くほどきちんとしており、『ブラックレイン』なんかよりよっぽどまともな「ヤクザ映画」であった。ヤクザが美化されすぎているが、まあ任侠映画でもこのくらいはやるだろう。切った張ったが多い割に流血が妙に少ないのは、当時のコードのせいか。
 
 興味深かったのは、ロバート・ミッチャム演じる主人公は進駐軍だったという設定で、彼にとって日本は、日本人と共有する過去の体験であり、決して異質なものではない、という点である。このことを踏まえて撮っているため、作中の日本が他の類似作品のような珍妙なものにならずに済んでいるのだろう(程度の問題だが)。

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SFセミナー2014レポート

 私には妹が二人いて、一人はCGデザイナーのYokoで『グアルディア』(文庫版)、『ラ・イストリア』、『ミカイールの階梯』の地図を作成してくれたのは彼女です。名刺もデザインしてもらっているのですが(デザイン料は無料で)、先日名刺が切れたので新しいのを頼んだところ、新刊カバーに合わせてデザインもリニューアルしてくれました。

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 『ミーチャ』のカバー↓

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 5月4日のSFセミナーでお披露目し、初対面以外の方々にも(掲載メールアドレスを変更したのもあって)配って回り、その都度、デザインは妹によるもので『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』仕様であることを説明(自慢)させてもらいました。
 しかし唯一人、藤井太洋氏だけは一目見るなり、「お、表紙と同じですね」と気づかはりました。さすがです。

 で、もう一人の妹はネイリストです。毎回セミナーでは夜の部で楽なようにウエストゴムのスカートなど緩い格好をして化粧も薄いのですが、今回はステージに上がるので服や化粧に気合を入れるだけでなく、ネイルをしてもらいました(客席からは見えませんが、気合の問題です)。

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 同じく『ミーチャ・ベリャーエフ』仕様です。これも材料費のみでしてもらったので、代わりに本人のサロンをnails bb.紹介しておきますよ。横浜泉区近辺にお住まいの方は行ってあげてください。

 このように妹は二人とも視覚的表現力、つまり頭の中にある画像を直接、物理的に表現する能力があるのですが、三姉妹の中で私だけは頭の中に画像はあるのに直接表現できないのでした。文章を媒介にしないと表現できないのです。

 それはさておき、私の手はごついですね。写真では判りませんが、ごついだけじゃなくて、でかいです。下手すると成人男性よりでかい。
 今まで手のサイズを比べさせてもらった人たちの中で、私より大きかった女性は一人もいません。ほぼ同じサイズだったのは一人だけ。佐藤亜紀先生です。
 ただし佐藤先生の手は、私とは違ってごつくありません。しかも動きがとても優雅です。明治大学の講義では、毎回最前列に座って先生が喋りながら手をひらりひらりと動かすのに見入っていたものです。眼福でした(明らかに私は手フェチの気があります。だから自分のごつい手が気に食わない)。

 さて、SFセミナー昼の部のパネルですが、私も樺山三英氏も、司会の岡和田晃氏が事前打ち合わせにない質問をしてくるので動揺し、揃ってしどろもどろになってしまったのでした。
 夜の部、私は一コマ目の企画「SF・世界内戦・伊藤計劃・私」(昼の企画の続き)に出ることになっていた、というのを朝、プログラムを見て初めて知りました。すでにバッテリー切れを起こして脱力し、大したことは喋れなかった私とは対照的に、樺山さんは元気を取り戻し、かつ燃料(マッコリと梅酒)を大いに投入しながら大いに語り、岡和田君と激論を交わしていたのでおもしろかったです。言うまでもなく、岡和田君は燃料を補給するまでもなく元気いっぱいでした。

 実のところ昼の部・夜の部と私があまり喋らなかったのは、司会や疲労の問題よりむしろ、回転のよくない頭であることを考え続けていたからなのでした。
 それは、岡和田君による私の作品評に対する以前からの違和感についてです。
 無論、作品をどう読むかは読者の自由です。たとえひどい誤読であっても、それはその人自身の読解力の問題であって、私の問題ではありません。まあ、そのひどい誤読が広く公表されるようなことがあれば、私も一言物申すことはあるかもしれませんが。
 いずれにせよ、岡和田君の批評に対する違和感は極めて希薄で漠然としたものだったので、これまで深く考えてみたことはなかったのでした。

 しかしSFセミナー2014に際し、事前の段取りを経てその違和感は徐々に強まり、当日、昼の部の壇上、夜の部の企画部屋と違和感は増す一方だったので、ついに本気で考えないわけにはいかなくなったのでした。
 そういうわけで特に夜の企画の後半、手酌でマッコリを飲み続ける樺山さんを隣で眺めながら、回らない頭で懸命に考え続けていました。樺山さんにお酌をしようとかいう考えがまったく浮かばないくらい懸命に。

 やっと違和感の正体に思い当たり、それに対する異論に一応到達することができたのは、岡和田君が終了の挨拶を終えた、ちょうどその時でした。なので、それについては「岡和田晃氏への応答」として、後日ブロクに上げさせていただきます。

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マイレージ、マイライフ

 気の弱い上司に代わって社員にリストラを告げる役を請け負う、という会社があって、ジョージ・クルーニー演じる主人公はそのベテラン社員。年に300日以上出張し、マイレージを貯めることを人生最大の目標とし、女は行きずりに引っ掛け、自宅ではまったく無為に過ごすという生活に完全に満足しており、「成功者」として講演を依頼され、他人に訓戒を垂れたりもする。
 そんなある日、心理学部卒の新人が、わざわざ対象の許へ出向くのは時間と金の無駄だから、TV電話で済ませればいい、と提案し、社長もその気になる。ジョージ・クルーニーはその案に反感を覚えるが、直接対面しないのは誠意を欠く上に不測の事態に対応できないから、というのと、マイレージが貯まらなくなるから、というのと、どちらの理由が上なのか、本人も今一つはっきりしていないようである。
 ともかく反対意見を表明した結果、件の生意気な小娘に現場を見せることを社長に命じられる。
 
 予想されるとおり、彼女は理論の上でしか「人間を知らない」頭でっかちな秀才であり、現場の生々しさに直面させられ、大いに動揺する。リストラ告知代行というやくざな稼業であっても精一杯の誠意をもって臨むべきであり、TV電話越しでは最後のラインであるその誠意さえも欠くことになる、ということなのだが、ただし主人公は誠意をもって述べる慰めや励ましの言葉を、自分ではこれっぽっちも信じてはいない。

 以下、ネタバレ注意。

 要するに、主人公の生き方は間違っており、家庭を持つことこそ人として正しいのだ、というあまりにも陳腐な話なのだが(しかも、その家庭が壊れて修復不能になったらどうするんだという問題を完全に無視している)、暑苦しさを抑えたジョージ・クルーニーの演技と脚本や演出の巧さで、作品自体が陳腐になることは免れている。

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