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絶対平和 Ⅱ

 ル・グィンの「オメラスから歩み去る人々」(『風の十二方位』所収)を読んだのは、四半世紀も前のことである。この寓話に、高校生だった私は愕然とするほどの衝撃を受けた。何がそんなにショックだったかと言うと、現実でも「我々」の豊かな生活はオメラスと同じように他者の犠牲の上に築かれているが、オメラスの人々と違って「我々」は幸福であるとは大して実感していないし、犠牲となっている人々について大して心を痛めてもいないという事実に、改めて気づかされたのである。

 では、己が幸福を日々噛み締め、犠牲となっている人々への感謝の念を絶やさないでいればいいかと言うと、それはもちろん違う。もっと昔、小さな子供だった頃、周りの大人たちに「飢えや戦争で死ぬ子供たちに比べれば、おまえたちは幸せなんだから、わがままを言うな」と散々言い聞かされたものだが、それと同じことだ。自分が気分よく過ごすために彼らを見下せ、というのとどう違うんだという話である。

 それから時は流れて2002年、デビュー作となる『グアルディア』の執筆に取り掛かった。27世紀の南米が舞台のポスト・アポカリプスものである。文明崩壊前を「平和で豊かな世界」と設定したのは、文明崩壊後の世界がいかに荒廃しているかを強調するためだったが、そこで思い出したのが「オメラス」だった。「オメラス」で気づかされた現実の世界の在り方を、思い出したのである。
 そういうわけで、「すべての人間が平和で平等で幸福」という社会が、寓話ではなく具体的なシステムとして成立する条件を考えてみることにした。

 なぜ、現実に万人の平和と平等と幸福が成立しないのかと言えば、人は誰しも多かれ少なかれ他者より優位に立ちたいと願うからだ。だったら、自分より劣位にある「他者」を人間以外のものにしてしまえばいい。あまりに劣っていたり異質だったりしては優越感が抱けないので、人間に似た、しかし人間より少しだけ劣った存在である。
 それが、遺伝子工学で生み出された人造人間である「亜人」である(「亜」は「少し劣った」とか「一段下の」という意味)。
「我々」が団結するには「彼ら」という他者が必要で、その際、彼我の違いは小さいほうが効果的である。「亜人」という少しだけ劣った他者を生み出し、隷属させることで、人間は自尊心を満足させることができるだけでなく、初めてすべての人間が平等であると認識することができる、という理屈だ。
 隷属の具体的な内容は、チャペックのロボットと同じく、人間に代わって労働を担うこと、そしてグラディエイターのような、見世物としての殺し合いである。

 この「他者の犠牲の上に築かれた完全なる平和と幸福」のシステム「絶対平和」は、「オメラス」を読んで気づかされたこの現実を反映したものである。だから、未来ではなくオルタナティブ・ヒストリーの21世紀に設定した。
 もちろん『グアルディア』一作に限るなら、いつの時代に設定しようがストーリーには全然関係なかったのだが、いつか「絶対平和」についての話を書くつもりだった。結局、十年も後になってしまったのであるが。

 ユートピアもディストピアも、まず現実があってその反映である点は共通している。では、現実のこの世界の反映である「絶対平和」はユートピアなのかというと、そもそも亜人という他者の犠牲を前提としているという点で、すでにユートピアではあり得ない。
 さらに、亜人の存在のお蔭で人間の負の側面が抑えられたと言っても、心理レベルの話であって、遺伝子まで変化したわけではない。それで参考になるのが、タイトルにしているドミトリ・ベリャーエフの狐の家畜化実験である(「ミーチャ」は「ドミトリ」の愛称)。

 人懐っこい狐だけを選んで掛け合わせていくと、生まれてくる子狐はますます人懐っこくなる、という実験である。それだけでなく顔は丸っこく、毛皮はぶち模様に、しっぽも丸まって、犬みたいにクンクン鳴くようになるそうだが、そうした変化はさておき、気質の変化については、人間にも当てはまるのではないか、という説がある。全般に狩猟採集民より農耕民としての歴史が長かった集団に属する人々のほうが権威に従順で協調性もあるのは、淘汰の結果ではないか、というのである。

 この説の妥当性はともかく、「絶対平和」では人間は消費するエネルギー量によって等級(グレード)が割り振られている。物欲が強く刺激に飢えているといった性向の人々は、それを満たすためにエネルギーも多く消費するのでハイグレード、エネルギー消費の少ない低工業化生活をする人々はローグレード。
 グレードの選択・変更は自由だが、子供を持つにはローグレードに「降り」なくてはならない。子育て期間中、ローグレードに留まっていられる者でないと、親になる資格がないと見倣されるのだ。

 つまり絶対平和は、優生思想に支配された徹底した管理社会なのである。ディストピアの条件を充分満たしていることになるのだが、みんなそれで納得して幸せなのである。『すばらしい新世界』の「みんなが幸せなディストピア」に近いと言えよう(『すばらしい新世界』のシステムは完璧で、反体制的である自由まで保障されている)。
 納得していないのは思春期の子供だけで、もっと幼い頃は特に疑問も持っていないのだが、年頃になるといろいろ正義感やら反抗心やらに目覚めて、自分が生きている世界が管理社会であることに改めて気づいて、衝撃を受ける。で、闘わなくちゃ、とか思う。

 しかし絶対平和のシステムは、そのような情熱が空回りするだけになるようにもなっており、大人たちに生温かく見守られているうちに数年が過ぎる。そうして二十歳になる頃には脳の発達もほぼ完了してホルモンバランスも落ち着き、憑き物が落ちたように分別が付き、体制を受け入れるのである。
 つまり絶対平和は、「歩み去る者のいないオメラス」なのである。

関連リンク:ウィキペディア「ドミトリ・ベリャーエフ」の項

関連記事: 「絶対平和 Ⅰ」 「絶対平和の社会」 

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