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岡和田晃氏への応答――SFセミナー2014を経て

 まず、経緯を述べる。評論家の岡和田晃氏は、これまで私の作品を幾度か批評の対象として取り上げてくださている。それらは彼の近著『「世界内戦」とわずかな希望――伊藤計劃・SF・現代文学』に収録されており、また私の新刊『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』巻末解説も担当してださっている。
 まともな読みの対象とされることの少ない私の作品に正面から向き合ってくれるこれらの批評は、非常に得難く貴重なものである。にもかかわらず、いつからか言葉にし難い微妙な違和感を感じることがあった。

 無論、作品をどのように読むかは読者の自由である。ひどい誤読であっても、それは本人の読解力(の欠如)の問題であって、私の問題ではない。あまりにもひどい誤読を広く公表されるようなことがあれば、私もこのブログで一言物申すくらいのことはするかもしれないが、言うまでもなく岡和田氏の批評に対する違和感はそのような類のものではなく、かつ極めて希薄で漠然としていたため、深く考えてはこなかった。

 しかし去るSFセミナー2014のパネル(および夜の企画)において、岡和田氏の質問と私の答え(より正確には、答えようとすること)との間に、どうにも齟齬が感じられて困惑し、終始口籠りがちという結果になってしまった。
 この齟齬とはすなわち、前述の違和感であるが、これまで追求することなく放置してきたツケが、こうしたかたちで回ってきたのである。

 今後このようなことがないよう、また今後に活かすべく、この違和感の正体を見極め、それに対する考えをはっきりさせておく必要が是非あった。以下は、その省察である。

 岡和田氏の批評に対して抱いてきた違和感、それは一言で述べると、仁木稔作品の「同時代性」を強調しすぎているのではないか、というものである。しかし、歴史研究者の端くれ(もしくは歴史研究者崩れ)として、私は人間の本性は普遍的なものだと信じている。その確信は認知科学や遺伝学、文化人類学など他分野の知見によっても、補強されこそすれ弱まることはない。小説家として私が描こうとしているのは、この「普遍性」である。

 人間の本性は変わらない。自然環境や人口規模の違いによって技術、社会、文化が変われば、人間の反応も自ずと変わるというだけである。その反応も基本的なパターンは限られたものであり、ただ現れ方が状況に応じて異なるというだけだ。
 たとえば『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』では陰謀論を扱っているが、私はこれを「現代日本に固有の現象」として描いたつもりは毛頭ない。2010年代初頭現在の状況を、別の社会(未来や架空の近過去)に単純に置き換えたのではないのだ。陰謀論は短絡的なストレス反応として、いつの時代にもどの社会にもあった。
 アマゾンやニューギニアでは、いわゆる文明化されていない先住民の部族あるいは村落同士が頻繁に抗争している(いた)。その主要な原因は人口増加や食糧不足などのストレスであるが、口実として最も多いのは、共同体内で起きた病気や事故などの不幸を適当な仮想敵による呪いだとすることである。これも立派な陰謀論だ。
 確かにネットが陰謀論を加速させているのは「現代社会に固有」の現象ではあるが、黒死病流行の際のユダヤ人虐殺、関東大震災の際の朝鮮人虐殺は、ネットなど必要としなかった。 

 あるいは、たとえば『ミカイールの階梯』に登場させた女性自爆テロリストたち。ヒロイズムの文脈の下、かたちだけでも自主的に見える自己犠牲を弱者に強いるのは、チェチェンの状況に限ったことではない。その方法が異なるだけだ。

 人間の本性は変わらない。「苦しむ人々」は常に存在する。しかし「我々」は彼らを黙殺してきた。かつてはそれが可能だった。「苦しむ人々」がいるのは遠い外国、もしくは社会の周縁部だったからだ。
 私がデビューした十年前は、「セカイ系」が真っ盛りであった。「ぼく」と「セカイ」の間のいわゆる中間領域が描かれていない、というのがセカイ系への典型的な批判であるが、私にはセカイ系以前の人々、セカイ系を批判する人々の多くが「中間領域」をきちんと認識していたとは到底思えない。あんたたちだって遠い外国や社会の周縁部の「苦しむ人々」を黙殺するか、存在自体に気づいてすらなかったんじゃないの? 

 今回、SFセミナーで樺山三英氏は次のように述べられた――いつの間にか、「セカイ系」は死語になっている。これまで作家や評論家たちは若い世代に「もっと自分の周りを見ろ、大変なことになってるぞ」と危機感を煽り続けてきたが、その結果、若者たちは自分たちの置かれた状況の困難さは認識したものの、それをマイノリティのせいだと短絡してしまっているのではないか。
 ほんの数年前まで、「苦しむ人々」はバリアの向こう側にいて、「いないこと」にすることが可能だった。しかしいつからか「苦しむ人々」はどんどん身近になり、気づくと「我々」もその一人になっている。
 それでもなお現実をないことにしようとする、あるいは歪めようとする、すなわち原因をマイノリティに求めるのは、少しも目新しいことではない。

 私の作品に「同時代性」があるとすれば、それは今、確かに存在しているものごと/人々を認めようとしないこと、歪曲しようとすることへの批判、そして陳腐な言動をなぞっているに過ぎないことに気づかない愚かしさへの批判だろう。その表現として最も適したジャンルとして、私はSFを選んだ。

「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」「はじまりと終わりの世界樹」において、「偉大な祖国」あるいは「合衆国(エスタドス・ウニドス)」のモデルはこれ以上ないほど明確であるにもかかわらず、「アメリカ(合衆国)」の名を頑なに出していない。一つには単なるお遊びだが(他の三篇でも出していない)、もう一つは、「アメリカ合衆国に特有の現象」のみを描いていると読まれてしまうことを避けるためである。陰謀論、差別、原理主義、その他あらゆる非寛容に起因する愚行は、あの国に限定されたものではない。

 また、SFセミナー昼の部で来場者の方から、「オメラス」では「犠牲者」は隠された不可視の存在であったが、「絶対平和」において亜人が社会に偏在し目に見える存在なのはなぜか、という質問をいただいた。やはりこれも一つには、現実において無視され、いないことにされている存在を可視化するという意図によるものだ。

 もちろん、岡和田氏は私の作品が「同時代性」という文脈でしか読めないもの、数年もすれば古びてしまうもの、と主張しているのではないはずだ。だからこそ、私が表現しようとしている「普遍性」にも、できれば目を向けてほしいなあと願う次第である。 

 SFセミナー2014の企画に参加することがなければ、ここまで自作について掘り下げて考えることはなかった(企画それ自体では満足に発言できなかったとはいえ)。今後、創作を続けていく上で、大きな糧となってくれるだろう。
 その機会を与えてくださった岡和田晃氏と早川書房編集部のI氏、そして樺山三英氏にはたいへん感謝しています。

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