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連作〈The Show Must Go On〉

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の連作としてのタイトルは、〈The Show Must Go On〉である。英語タイトルとして、表紙および本文2頁にも載っている。単行本のタイトルにならなかったのは、「解りにくい」からだそうである。そういう判断は編集部にお任せしているし、英語タイトルとしては残してもらえたし、日本語タイトルも収録作の一つから採ったものなので、特に不満はない。いや、ほんとに。
 ただ、〈The Show Must Go On〉というタイトルの意味については、ここで説明しておきたい。

 一言で言うと、この連作が「ショウ」の物語だからである。「他者の苦しみ」というショウだ。
 この問題について考えるようになって十年近くになるが、2011年に邦訳の出た『他者の苦しみへの責任』という論集に所収の「苦しむ人々・衝撃的な映像――現代における苦しみの文化的流用」(アーサー・クラインマン/ジョーン・クラインマン)で的確に論じられているので、以下この論考を踏まえて述べる。
  なお私が読んだのは邦訳だけだが、原著の刊行は1997年。

「他者の苦しみ」について見たり読んだりすることは娯楽となっている、とクラインマンらは断じる。彼らは「他者」を「特に遠隔地の人々」としているが、これはこの文章が書かれたのが97年だからであって、9.11(日本人にとっては3.11も)を経た現在の「我々」にとっては、「遠隔地」というのは「身近でない」と言い換えるのが適切であろう。
 すなわち、「身近でない人々の苦しみ」について見たり読んだりすることは、娯楽となっている、と。

「我々」はどのように「他者の苦しみ」を楽しむのだろうか。報道、ドキュメンタリー、ノンフィクション、「実話に基づく」映画や小説などによってである。
「楽しんでなどいない」という反論は多いだろう。感動したり、同情で胸を掻き毟られたりするのだから、と。
 それを楽しんでるって言うんだよ、とまではクライマンらは言っていないが、ではそのような感動や同情の中に、彼らの苦しみに比べれば我々の境遇はずっとマシなのだ、という満足感は混じっていないだろうか。
 あるいは、「我々」とは無縁の、いわば「珍奇な体験」である「苦しみ」に対する好奇心は混じっていないだろうか。解りやすい例は性暴力である。それらを告発する報道・ドキュメンタリーその他に接する時、「我々」はそれらをほんのわずかでもポルノグラフィとして眺めていない、と言い切れるだろうか。

 このようにして利用された「彼らの苦しみ」は、さらに幾つもの要素に分解され、枠に嵌められ、コード化され、フィクションや図像に流用される。
『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「The Show Must Go on!」(英語タイトルの場合、これが表題作となる)とその続編は、遺伝子工学によって造り出された人造人間である亜人という「他者」の苦しみが最大の娯楽として消費される未来の物語である。

 苦しみとは具体的には、戦場または闘技場における亜人同士の殺し合いである。人間たちはそれらを報道、ドキュメンタリー、さらにはスピンオフのフィクション(アニメや小説など)として鑑賞する。
 その代わり、この世界の人間が人間を傷つけることは決してない。それどころか、人間の苦しみを題材としたフィクションすら生み出されることもなくなっている。フィクションの中ですら、人間が人間を傷つけることはなくなっているのである。

「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」と「はじまりと終わりの世界樹」はオルタナティブ・ヒストリーであり、改変された20世紀末という近過去を舞台に、「The Show Must Go on!」へと至る過程を描いている。
「はじまりと終わりの世界樹」では、クラインマンらが指摘する、「他者の苦しみ」を知ることに付きまとうもう一つの問題にも触れている。苦しむ人々の情報に晒され続けることによって、どうせ「我々」にできることはないのだという無力感から無関心・無感覚に陥ってしまう、という問題である。

 改変された20世紀末において、イラクは行政から治安に至るまで北米の某超大国系の企業に外注され、不正と暴力が横行している。そんな状況が何年も続いた結果、報道や人権団体による告発はなされているものの、ほとんどの人(先進国のほとんどの人)は無関心になってしまっている。
 そこへ「アブグレイブ刑務所」で、金髪碧眼の12、3歳の美少女が囚人虐待に加担している(加担させられている)画像が流出する。不正や暴力には無関心だった人々も、これには憤激し、某超大国を一斉に非難する。某超大国政府は、映像は捏造だと断定した上で、密かに同じ年頃の金髪碧眼の美少女が男たちをいたぶるSM画像を作成して流布させ、事態をうやむやにしようとする。「他者の苦しみ」のポルノへの流用である。

 クラインマンらは、無関心や隠蔽よりは好奇心のほうがまだマシだとしている。正論であるが、私はノンフィクション作家ではなく小説家である。

 私は、エンターテインメント作品を書いているつもりだ。なぜなら、正しい読書とは楽しむために行うものであり、それ以外の目的でする読書は邪道だと信じているからだ。 
 私の作品には「苦しむ人々」が登場する。何百年も未来の世界や歴史改変された世界が舞台であっても、それらの苦しみは、現実の人々の苦しみを断片化しコード化したものの「流用」にほかならない。
 そんなふうに人の苦しみを利用するのってどうなの? という問いは、当然出てくる。ニュースやドキュメンタリーなら、興味を煽るようなやり方であっても「無視するよりはマシ」という正論が成り立つ。
 だが、私が書いているのは小説である。しかも、小説の形で真実を暴き、非道を告発するのだ、というような使命感など、これっぽっちも持ち合わせていない。

 人の苦しみを利用するのってどうなの? という問いに対する一番簡潔な答えは、「現実に苦しみが存在する以上、書かないわけにはいけない」というものである。
 フィクションであっても、その中に苦しみが存在しないなら、その理由も用意しないといけない。人間同士が傷つけ合わないのは、代わりに亜人という人造人間を傷つけているからだ、とか。そういう理由を用意しないのであれば、どういうかたちにせよ、作中人物は自ずと苦しむことになる。そうならないなら、フィクションではなくただの嘘になってしまう。

 書かないわけにはいかないから書くけど、例えば少年兵や女性自爆テロリストをヒロイックでかっこいいものや、涙を誘う可哀想なものや、あるいは悲惨さの見世物として書くことはしない。その理由については、読書の「楽しみ」はそういうものだけで得られるものじゃないから、とだけ述べておく。
 そういうふうには書かないけれど、エンターテインメントとしてある種のカタルシスは用意している。単純にかっこいいもの、可哀想なもの、悲惨なものとして書くほうがずっと簡単なのではあるが。

 デビュー作『グアルディア』(2004年)でもヒロイズム批判に踏み込んでいるものの、私が「他者の苦しみというショウ」の問題に直面することになった契機は、2005年に担当したTVアニメのノベライズである。
 以前にもブログで述べたが、私がこの仕事を引き受けたのは、当時すでに「The Show Must Go on!」の設定、すなわち亜人同士の殺し合いショウとその派生作品から成る文化産業というものを構想し始めていたので、スピンオフとかマルチメディアといったものに関わっておきたかったからである。
 その時の体験が期待どおりのものだったかというと、以前にも述べた理由で、まあそのあんまり、と言わざるを得ないのだが、この体験を通して上記の問題と向き合うことになり、その結果が『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』まるまる一冊となるわけだから、得られたものは非常に大きかったと言える。

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