HISTORIAにおける歴史改変
2012年5月の記事を加筆修正。全般にネタばれ注意。
連作〈The Show Must Go On〉(単行本タイトル『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)では、歴史改変が始まった「転機」を明記していないが、それが19世紀後半におけるダーウィニズムとメンデリズムの統合であることは、これまでの作品で明らかにされている。具体的には、現実の歴史ではダーウィンはメンデルの論文を読んでいながら、その重要性を見過ごしてしまったが、本シリーズではダーウィンがメンデルを「発見」したことになっている。
それだけでも、現実の歴史よりも生物学全般が発達する条件としては充分であろうが(史実ではメンデルの法則の再発見は20世紀初頭、進化論と遺伝学の統合はさらに後になる)、本シリーズのHISTORIA(歴史/物語)では、ダーウィンがメンデル(カトリックの修道院長だった)を抱き込んでヴァチカンに接近、カトリックの教義と進化論を融合させた「神に祝福された遺伝学」を築き上げたことになっている(ちなみにダーウィンは若い頃、英国国教会の聖職者を志望していた)。
つまり、現実ではダーウィンの追従者たちによって、プロテスタント精神とダーウィニズムが結合した「社会ダーウィニズム」が発展し、現在までその残滓を引きずっているわけだが、HISTORIAシリーズでは、カトリックが牽引するかたちで生物学全般が発展していくのである。
そしてその潮流に対する反動として、「東の超大国」ソ連では疑似科学ルイセンコ主義が、「西の超大国」ではプロテスタントの聖書原理主義が支配的となり、生物学全般を抑圧していくことになる。なお、ソ連の生物学がルイセンコ主義のせいで停滞したのは史実なので、本シリーズでもソ連はソ連である。
とはいえ、この程度の「改変」では、科学の他の分野や技術全般までが足並みを揃えて現実よりも発展することにはならないでしょう、と予想される。
HISTORIAが現実の歴史から大きく逸れることになる、さらなる転機は、20世紀半ばに生じる。中篇「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」終盤、また『グアルディア』第8章でも語られているが、科学者にしてカトリックの聖職者でもある若者たちが、教会から離反して独自の活動を始めたのである。
彼らは、テイヤール・ド・シャルダン(1881‐1955)の弟子と自称していた。テイヤールはフランス人イエズス会士で、北京原人の発掘で知られる。この史実からも、「偏狭で科学を弾圧するカトリック」が偏ったステレオタイプであることは明らかである。彼が異端とされたのは、神学と進化論を融合したトンデモ思想(「神に祝福された遺伝学」はこれをモデルとしている)を唱えたためである。
『グアルディア』第8章では、「組織」の創始者となった若者たちは「修道士にして科学者」と呼ばれている。彼らとテイヤールとの具体的な関係は不明だが、おそらく彼と同じくイエズス会士であったのだろう。
なお、本作でテイヤールのことは「科学者にして異端の聖職者」と述べられているが、HISTORIAにおけるそれ以上の位置づけは現在のところ明らかにされていない。
教会を離れた若者たちの目的は、「神に祝福された遺伝学」をカトリックの枠を超えて世界に広めることだった。同時に、人間に新たな進化の階梯を上らせ、賢く穏やかな種とするにはどうすべきか、その方法を模索する。そして出した結論は、「人間より一段劣った存在」を造り出す、というものだった。そのためには遺伝子工学の発展が必須であり、それを妨げる諸勢力との闘いが始まる。
遺伝子工学の発展と、反遺伝子工学勢力との闘い。この二つの目的のために、彼らは巨大な組織を築き上げる。「組織」といっても、外見上はさまざまな企業や非営利団体が緩やかなネットワークを形成しているに過ぎない。各グループの成員は「組織」のことなど何も知らず、ただごく一部の者たちだけが「創始者たち」の目的を知るだけである。
この「組織」こそが、『グアルディア』以来、繰り返し言及されてきた「遺伝子管理局」の原型である。「創始者たち」すなわち、20世紀半ばに教会を離れた若者たちは、21世紀初頭の時点で70代にはなっているはずだが、老化防止や若返りなどの技術によって、なお健在である可能性は高い。
「組織」の存在が反遺伝子工学諸勢力に知られることはなかったが、遺伝子工学の驚異的な発展は警戒され、東西の超大国はこの点に限っては共同戦線を張ることとなった。
「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」で言及されているが、ソ連崩壊前から、「組織」はその内部に浸透することに成功していた。これはルイセンコ主義が所詮、上から押し付けられたイデオロギーでしかなく、共産党の支配力低下に伴って力を失っていったためである。
しかし「西の超大国」では、聖書原理主義は支配層から大衆に至るまで根付いており、歯が立たなかった。そこでその国力を低下させることを第一目標とし、反「某超大国」工作を展開させた。湾岸戦争以降のこの国の孤立化は、その成果である。
だが、某超大国はそう簡単には倒れない。一つにはこの国がソ連崩壊後、反遺伝子工学の「盟友」として、ヨーロッパに多い「無神論的自然崇拝派」と手を結んだのも大きい。
「無神論的自然崇拝派」は作中設定ではなく現実に存在する。無神論を標榜し、「自然」「天然」ものならなんでもありがたがり(有機農法とか)、「人工」「合成」はなんでも忌み嫌う、その度合いがほとんど宗教の域にまで達している人々(教育水準は概して高い)である。
ジェレミー・リフキンをはじめとするアメリカの反遺伝子工学活動家たちは、国内ではファンダメンタリスト向けに「遺伝子工学は神への冒瀆」と煽る一方、国外では「遺伝子工学は自然への冒瀆」と戦略を使い分けているそうである。なお「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」では、リフキンが遺伝子工学の発展を阻止する目的で人間と動物のキメラの特許を申請したことが言及されている。現実ではこれは1998年の出来事であるが、本シリーズにおいては数年~十数年早くに行われたはずである。
進化論と遺伝子工学発展の反動として聖書原理主義が支配的になった結果、「某超大国」は現実のU.S.AよりもWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)がさらに支配的になり、かつ反知性主義と格差が蔓延する国となった。
多様性を失い、より偏狭で傲慢、抑圧的となったこの国は、多くの人々にとって住みにくくなった。「組織」がそうした人々の国外移住を支援したのは、人材流出によってこの国の空洞化を図ったためであるが、その意図を隠蔽するため、移住希望者には誰でも手を差し伸べた。かくして「はじまりと終わりの世界樹」において、語り手の母や祖母たちは人種差別を逃れて1970年代にメキシコに「亡命」したのだった。
また1998年の段階では、非白人は貧困層として「ゲットー」に住むことを余儀なくされている。これは「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」によれば、90年代、人種暴動と弾圧の結果である。
中南米では、「組織」が早い段階から勢力を伸ばし、「某超大国」の支配を弱めてきた。「某超大国」に支援された独裁政権は、70年代後半から遅くても80年代前半に打倒された。ただし「超大国」はパナマの権益だけは固守し、89年には史実どおりパナマ侵攻が起きる。
91年の湾岸戦争は途中までは史実と同じ展開だったが、最後に「超大国」は独断でバグダッドを占領、独裁者を捕らえて処刑する。
実際、湾岸戦争当時、バグダッド占領案を支持する勢力は強かったし、その後も「あの時、占領していれば」という見解は根強かった。そうでなかったら、9.11の「黒幕」がイラクとされることはなかったかもしれない。
ともあれ、この独断専行により「超大国」は非難の集中砲火を浴びる。これに対し、「超大国」がイラク撤退と軍縮の要求にあっさり従ったため、世界の怒りはとりあえず収まる。
しかし間もなくイラクでは内戦が始まる。この内戦を自ら仕組んだわけではないものの、予測していた「超大国」は国連が見捨てたイラクを行政から軍事に至るまでアウトソーシング化し、多大な利益を得る。
そしてますます排他的になり、国内では思想統制も強化され、ハリウッドをはじめとする文化産業の「亡命」を招く。その結果、さらに世界への影響力を失うのだが、覇権拡大の野望は失わず、従来どおり工作員を各地へ送り込み続ける。
中南米でこの役目を果たしたのは、プロテスタント系宣教団である。彼らのモデルは悪名高い「夏季言語研究所」である。
「某超大国」は1999年秋に国連を脱退した。以後、多くの国がこの国を正式な国家として認めないことを宣言している。『グアルディア』第3章に、この某超大国が20世紀末に崩壊したと解釈できる文言があるが、このあたりの事情を指すと思われる。
それにもかかわらず、2001年の時点でもこの国が世界一の大国でい続けられた理由の少なくとも一部は、国外の反遺伝子諸勢力による政治的・経済的な支持があったからである。「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」の主人公ケイシーが勤める「ブレスド・ネイチャー(祝福された自然)社」など、自然素材製品(食品、サプリメントから日用品まで)を扱う大企業は、国外でも莫大な利益を上げてきた。
一方、アジアや南米、そしてロシアでは遺伝子工学が順調に発展していった(中東やアフリカの状況は現段階では不明)。そして1999年、人工生命体「妖精」が誕生する。これこそが、「人間に進化の階梯を一段上らせるための、一段劣った存在」=サブヒューマン(亜人)である。
なお、この時点では彼らはプロトタイプであり、後に正式名称となる「亜人」の名はまだない。
シリーズにおいて初めて「歴史改変」を正面から扱った作品「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」の舞台は2001年春、ツインタワーのある街である。HISTORIAが現実の歴史とは完全に異なるものとなる最後の転換点は、「妖精」の登場である。2001年9月から始まる、妖精たちによるツインタワーの解体は、その転換の象徴に相応しい。
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