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コンセプシオン、疫病の王、生体甲冑、そしてキルケー・ウイルス

  全般にネタバレ注意。

「コンセプシオンconcepcion」はスペイン語で「妊娠」だが、カトリックの教義「無原罪懐胎(インマクラーダ・コンセプシオン inmaculada concepcion)」の略であり、聖母マリア自身を表し、「インマクラーダ(汚れない)」とともにスペインの一般的な女性名でもある。
 HISTORIAシリーズでは、「コンセプシオン」は人工子宮内膜の基となった細胞を提供した女性の通称であり、後には人工子宮内膜、ひいては人工子宮そのものの通称にもなった。

 人工子宮内膜の提供者が「コンセプシオン」でなければならなかった理由は、彼女が重度の免疫不全症だったからであった。そのため、「胎児」のゲノムがヒトでなくても、あるいは著しく改変されていても、拒絶反応を起こす危険がない。金属やシリコンなど、人工子宮本体の素材に対しても同様である。
 免疫不全ではあるが、病原体をはじめとする異物の侵入を防ぐ非特異性防御機構は人一倍強力だった。それをくぐり抜けて侵入に成功したウイルスや微生物を排除することはできないが、その増殖を押さえ込む能力をも有する。したがって、人工子宮は感染患者の治療にも有効だった。へその緒を通して病原体の活動が無害なレベルに抑制されるからである。

「コンセプシオン」の特異性はそれだけではなかった。彼女の細胞は簡単な操作で初期化され、万能細胞に戻る。初期化を引き起こすタンパク質(初期化遺伝子が作り出すタンパク質)は通常の動物細胞にも初期化能を与えることが判明し、改変されたHISTORIAにおける1980年代後半の飛躍的な遺伝子工学の発展を導いた。
 この発展によって20世紀末、人工子宮と奴隷種「亜人」が生み出された。その後200年続くことになる「絶対平和」を支えたのは亜人の奉仕であり、その亜人の大量生産を可能にしたのが人工子宮である。21世紀には、人間の妊娠・出産も人工子宮が主流となっていた。
「コンセプシオン」は、大いなる母となったのである。

 しかしその重要性にもかかわらず、「コンセプシオン」本人についてはまったく知られておらず、また関心も持たれていなかった。
『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「はじまりと終わりの世界樹」では、「コンセプシオン」の生涯が語られる。そこでも彼女の本名は明らかにされないが、以下、便宜上「コンセプシオン」と呼ぶ。
「はじまりと終わりの世界樹」で明らかになったのは、コンセプシオンの精神の特異性である。彼女は「己」というものを持たないかのように、他人の思考や感情に簡単に染まってしまう。しかも、相手が俗悪であるほど強く影響を受ける。
 1985年に生まれて13歳で死去した彼女は、容貌が美しいだけでなく立ち居振る舞いも非常に魅力的な少女だった。その中身は薄っぺらで俗悪だったが、だからこそ多くの人にとって魅力的だった。他人の思考や感情を写し取るだけの空っぽの精神の持ち主だったからこそ、相手の理想を写し取って魅力的な少女として振る舞うことができたのかもしれない。
 
 その一方で、彼女の周囲では、人々が己の負の感情を増幅させ、互いに憎み合い、争うようになるという事態が頻発した。またそうした人々の間では、悪性の感染症がしばしば広まった。
 彼女の全身には、無数のウイルスや微生物が巣食っていた。それらは彼女に一切害を与えず、あたかも共生しているかのようだった。他人への感染能も失っていた……通常は。

「組織」(後に「遺伝子管理局」と呼ばれる)のエージェントで、「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」ではオブザーバーまたはエイプリルと名乗っていた人物は、コンセプシオンが物理的にだけでなく精神的にも「非自己」に簡単に「感染」してしまうのだと推測した。それだけでなく、相手の負の感情を増幅させる装置としての役割を無意識に果たしているのだと。コンセプシオンに救う病原体が感染能を回復するのは、彼女の精神が周囲の負の感情に反応し、免疫機構にも作用するのではないか、と(実際に、ヒトの免疫機構の働きは精神状態に作用される)。
 またコンセプシオンの双子の弟(語り手)は、「アブグレイブ」の悪夢の中で聞いた幻とも現実ともつかない彼女の発言から、彼女は苦しみの贖いを求める死者たちの思念に囚われているのではないかと想像する。

 これらは現在のところ、まったくの推測/想像に過ぎない。コンセプシオンの死から四百数十年後、『ミカイールの階梯』に登場するカザークの首領ゼキは、あらゆる病原体に感染し、それを周囲に撒き散らして悪疫を発生させながら、自身はまったく発症せずいる。
 ゼキの免疫機構に異常はなく、また彼の細胞内に巣食う病原体は常に感染能を有しており、意識的にせよ無意識的にせよ彼には制御できないのだが、コンセプシオンとの類似は明らかである。そして彼の血を摂取した者は、彼ほどではないものの感染しても発症しにくい体質を獲得する。
 このためゼキは疫病(えやみ)を操る力を持つ王、「疫病の王」と呼ばれるようになる。
 
 ミルザ・ミカイリーは、ゼキの細胞から未知の共生微生物を発見した。同じ能力を持つゼキの弟からもこの微生物は見つかった。兄弟の血(ごく少量で充分)を摂取した者には、他の病原菌とともにこの共生微生物が感染する。共生微生物は速やかに宿主の全身に広がるが、やがて死滅してしまう。その際、放出された遺伝子の一部が宿主の核内に取り込まれ、そのゲノムの一部となる。
 途中で研究が続行不能となったため、この共生微生物の働きを解明することはできなかったが、ミルザはこれこそが寄生生物(病原体)と宿主細胞を協調させ、発症を抑え込む力を持つのではないかと推測する。
 
 またミルザは、この共生微生物をコンセプシオンも有していたことを示す資料を発見した。ただし彼女の共生微生物は感染能を持っていなかった。共生微生物というよりむしろ、細胞小器官と呼ぶべきかもしれない。
 この未知の共生微生物/細胞小器官はゼキ兄弟の精子にも含まれているが、父性遺伝はしない(するとしても非常に確率が低い)ことが判明した。この共生微生物が母親由来であることはゼキたちの証言からも明らかだったが、彼らとコンセプシオンに遺伝上の繋がりはない。

「コンセプシオン(無原罪懐胎)」と「疫病の王」の共通点は、これだけではない。神秘主義教団ホマーユニーの教主ユスフ・マナシーは、ゼキの精神が「虚」であると看破した。他者の精神を鏡のように映し、またレンズのように収束し増幅させるが、自身の中身は虚であると。
 ただしコンセプシオンが映し出し、収束・増幅させるのは、他者の憎悪をはじめとする負の感情だったが、ゼキの場合は欲望である。大災厄が終息し、人類が復興へと向かい始めたそのエネルギーを増幅し、方向性を与える。コンセプシオンは破壊しかもたらさなかったが、ゼキがもたらすのはおそらく破壊と創造の両方である(最終的に何をもたらしたのかまでは語られない)。
 また彼は、自身の欲望が他者の欲望を映したものに過ぎないことを自覚している。コンセプシオンと同じく自身の印象を都合のいいように操ることができるが、コンセプシオンと違って自覚的である。

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』のエピローグ「…’STORY’ Never Ends!」では、疑似ウイルス型兵器「生体甲冑」がコンセプシオンの「核外遺伝子」に由来することが明かされる。
 生体甲冑の疑似ウイルスは、宿主(着用者)の細胞内に侵入すると、宿主細胞に自身のコピーを作らせるのではなく、自身を並べ替えて宿主細胞のコピーを作る。そして宿主細胞と置き換わる。置き換わったコピーは宿主細胞の潜在能力を解放するが、それにより宿主はヒトならざるものと化してしまう。
 
「絶対平和」を崩壊させる「大災厄」の直接の原因は、「キルケー・ウイルス」である。これは宿主の遺伝子を取り込んで次々と変異していくウイルスで、種の壁も容易に越えて感染していき、その過程で宿主の遺伝子を攪拌する。
 コンセプシオンが「母」であり、「母」は二面性を持つこと、コンセプシオンが慈愛に満ちた母であったのに対し、無慈悲で貪欲な魔女キルケーは母のもう一つの面を表すことは、『ラ・イストリア』で語られている。
『ミカイールの階梯』でも、コンセプシオンの異称であるシャフラザード(シェヘラザード)は聡明で貞淑な王妃だが、邪悪で淫蕩なもう一人の王妃と対の存在であることが示される。シェヘラザードは暴虐な王を慰撫し、改心させたが、そもそも王が非道を行った元凶は、先妻の裏切りである。

「人類の母」エバは本来、蛇体の地母神だった。その力を恐れたユダヤの祭司たちはエバと蛇を分離し、両者を罪に落として力を奪った。聖母マリアは「母」の復権ではあるものの、「慈愛に満ち、清らかで若く美しい母」であり、淫蕩で貪欲で制御不能の絶大な力を持つ恐ろしい母の要素は見事に剥ぎ取られている。
「遺伝子管理局」はコンセプシオンの負の側面を封じ、その力を支配して「慈愛に満ち、清らかで若く美しい母」に仕立て上げ、絶対平和を築いた。
 HISTORIAシリーズに「裏設定」は存在しない。つまり、作中で明言されているか容易に推察されること以外の設定は存在しない。コンセプシオンとキルケー・ウイルスが表裏一体であることは幾度も言明されてきたし、「はじまりと終わりの世界樹」と「…’STORY’ Never Ends!」では、コンセプシオンの封じられた負の面が「目覚め」ることにより引き起こされる災厄が予言される。

 それらはしかし、キルケー・ウイルスがコンセプシオンに由来するという推測を導き出すには、まだ不充分である。

関連記事: 「コンセプシオン」 「生態甲冑 Ⅲ」 「キルケー・ウイルス」 

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もうひとりのシェイクスピア

 ローランド・エメリッヒというと、『インディペンデンス・デイ』を観て、てっきり『スターシップ・トゥルーパーズ』のごとくアメリカ礼賛に見せかけてアメリカをコケにした素晴らしい風刺映画だと感心したんだが(同じヨーロッパ人監督だし)、後にどうも何も考えずに撮ったらしいと知って、著しく評価が下がったものである。
 その後の作品も、「大味」「何も考えてない」という評価を固めるだけであったが、久しぶりに観たエメリッヒ作品である本作は、大味ではないし、よく考えて作られている。いや、もしかしたら、よく考えたのはほかのスタッフやキャストたちであって、監督本人は相変わらず何も考えていないかもしらんけど。
 
 シェイクスピア別人説の一つ、オックスフォード伯説に拠る。この説自体の妥当性についてはどうでもいいが(別にいいじゃん、シェイクスピアの「正体」が誰だろうと)、よくできた映画である。
 しかし脚本は考えすぎというか、構成に凝りすぎて、4つもの時間軸(現代、ジェームズ1世の治世初期、その5年前のエリザベス1世治世末期、さらにその数十年前)が詰め込まれることになり、煩雑に過ぎた。もう少しなんとかならなかったものか。

 オックスフォード伯が、なんだかえらく久しぶりなリス・エヴァンス。奇矯な役ばかりという印象だったんで、歴史もので、しかも正統派の演技をしてるのには驚いた。そのリス・エヴァンスの青年時代を演じた役者は全然似てないが、エリザベス女王役のヴァネッサ・グレイブスとその若かりし時代を演じた女優は結構似ている。
 多くの役者がいい演技をしていたが、しかし脚本や役者よりも何よりも、細部の描写がいい。ロンドンの通りは晴れの日でもぬかるみで、エリザベス女王のドレスは待ち針状のピンで止めて着るのである。
 
 以下、ネタバレ注意。
 
 オックスフォード伯がベン・ジョンソンを「見込んだ」理由がよく解らん。「文体などない」と言っていたから、それが理由だと納得していたら、最後になって「きみに一番評価してもらいたかった」と言い出すし。しかしベン・ジョンソンの才能を認めたような言動は、一度としてしていない。
 女王の侍女との間にできた子の消息が不明とされていたので、最後の「きみに一番評価してもらいたかった」発言で、じゃあベン・ジョンソンがその子だったのかな、と思ったら、そういう展開にはならなかった。結局、なんだったんだ。

 あと、オックスフォード伯の「出生の秘密」はさすがにやり過ぎ。

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『SFマガジン』2014年8月号

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 700号 (先月号) 記念企画のオールタイム・ベストSFのアンケートへの回答が、ほかの方々の回答と共に、今月号に掲載されています。
「オールタイム・ベスト」ということで、「ずっと好き」「影響を受けたくらい好き」という条件で選んだのですが、その内容について、この場を借りて釈明もとい説明させていただきたく……

国内長編(順不同)

・手塚治虫 〈火の鳥〉シリーズ
・萩尾望都 『銀の三角』
・佐藤史生 『夢見る惑星』
・宮崎駿 『風の谷のナウシカ』
・古橋秀之 『ブラックロッド』

 ほとんどが漫画ですみません。短編こそSF(小説)の真髄、と確信するようになったのは二十代も終わりに近付いた頃で、それ以前は長編が好きだったのですが、思い返してみると強く印象に残っている作品、影響を受けた作品(小説)は短篇ばかりです。これで自分は短編が書けないんだから、まったく碌でもないですね。
〈火の鳥〉シリーズは、影響を受けたというより、ほとんどトラウマで、このシリーズと5歳の時に出会っていなかったら、こんな作風の小説家にはなっていなかったと自信をもって断言できる。小説家にすらなっていなかった可能性も高い。きっと、もっと社会に適応した人間になっていたはずです。
『ブラックロッド』と出会ったのは小説を書き始めた二十代半ばで、この「詰め込めるだけ詰め込む」スタイルの影響は、如実に『グアルディア』に現れていますね。
 ほか三作との出会いは十代で。当時すごく好きで、現在に至るまではっきり影響を受けている長編漫画はほかに竹宮恵子の『地球へ…』がありますが、今となっては魅力的な女性キャラがいない上に男性キャラ同士の愛憎関係が少々、いやかなり小っ恥ずかしいので除外いたしました。

国内短篇

1 大原まり子 「一人で歩いていった猫」
2 大原まり子 「リヴィング・インサイド・ユア・ラヴ」
3 大原まり子 「親殺し」(以上三作とも早川書房『一人で歩いていった猫』所収)
4 神林長平 「甘やかな月の錆」(早川書房『言葉使い師』所収)
5 亀和田武 「夢見るポケット・トランジスタ」(早川書房『まだ地上的な天使』所収)

 大原氏の三作は「こういう短篇SFを書きたい」代表例。
 神林氏の作品は、「完璧な涙」と「抱いて熱く」のほうが先に出会っただけに印象は強いのですが、「甘やかな」の美しく病んだ感じが現在の好みには合っているのでこれにいたしました。
 亀和田氏の作品は、「“悪”と闘うよりも偽りの幸福に安住することを選ぶ主人公」というのがリアルで衝撃的でした。

次点 沙村広明「シズルキネマ」(『シスタージェネレーター』)。
「萌え」の不自然さ、気持ち悪さを端的に表現しつつ、最後にはきっちり感動させるという超絶技巧。傑作。漫画だから除外、というわけではなく、影響を受けたというわけでもないので(大いに見習いたいところではありますが、まあ割と最近の作品だし)。

海外長編(順不同)

・スティーヴン・キング 『ファイア・スターター』
・マータ・ランドル 『星のフロンティア』
・オルダス・ハクスリー 『すばらしい新世界』
・チャイナ・ミエヴィル 『言語都市』
・フィリップ・K・ディック 『スキャナー・ダークリー』

 金髪碧眼というものにこれっぽっちも関心がない私をして「美少女(上限12、3歳)は例外」とさせたのが『ファイア・スターター』。いや、そういう理由でここに挙げたわけじゃありませんが。
『星のフロンティア』は中学の時、初読。高校で再読して以来、読んでいないので、もしかしたら今読むと印象が違うかもしれないが、とにかく新井苑子のほのぼのとした表紙イラストが激しくそぐわない、全体にかなりシビアな話で、ところどころはまったく情け容赦がない。その情け容赦のなさでここに。
『すばらしい新世界』:「みんなが幸福なディストピア」という捻れが素晴らしい。
 もう二作は「ずっと好き」「影響を受けたくらい好き」の条件に当てはまるものがなかったので、ここ数年で読んだものの中から。たぶん数年後にはまた違っているでしょう。

海外短篇

1 フレッド・セイバーヘーゲン 「バースデイ」(『スペースマン』)
2 ジェローム・ビクスビイ 「きょうも上天気」(『きょうも上天気』)
3 ティプトリーJr 「接続された女」(『20世紀SF〈4〉』)
4 オクテイヴィア・バトラー 「血をわけた子供」(『80年代SF傑作選』)
5 ティプトリーJr 「おお、わが姉妹よ、光満つるその顔よ!」(『星ぼしの荒野から』) 

 この五作に共通するのは「情け容赦のなさ」で、私がSFに最も求めるものの一つ。ただしティプトリーJrに限っては情け容赦のなさというより「底意地の悪さ」であり、特に「おお、(以下略)」の悪意はただ事ではない。

 国内および海外の作家については、「ずっと好き」「影響を受けたくらい好き」という条件だと5人に満たず、作品ならともかく作家を、この条件に合わないのに「数合わせ」で入れるのも失礼な気がするので無回答といたしました。申し訳ありません。
 いっそ1人に絞れたら、その人に得点全部、という回答もできたのですが(いや、それで集計してもらえるのかは判りませんが)。

 また、この号にはSFセミナーの参加企画についてレポートしていただきました。
 昼の部のパネルで喋ったことの拡大版を、〈HISTORIA〉シリーズ設定として当ブログに掲載しています。
「絶対平和 Ⅱ」  「連作〈The Show Must Go On〉」

 それから、レポートで言及されている「岡和田晃氏への回答」はこちら。念のために補足しますと、あくまで岡和田氏の評論(およびSFセミナーでの発言)に触発されたわたしの意見であって、氏の考えを否定するものではありませんよ。

 

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JD(A.D.2190~)

 連作〈The Show Must Go On〉(単行本タイトル『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)の「The Show Must Go On!」「The Show Must Go On, and…」および「…’STORY’ Never Ends!」の登場キャラクター。
 遺伝子工学により生み出された奴隷種「亜人」の戦闘種。戦闘種はその名のとおり労働や愛玩用ではなく戦闘に特化したタイプであり、戦争用の兵士と闘技用の闘奴の二種がある。JDは前者。

 人間と亜人の間に厳密な格差を設ける必要から、亜人は名前を与えられず、数字とアルファベットから成る製造番号が名前代わりである。ただしそれでは呼ぶのに不便なので、頭のアルファベット二文字か三文字を取って通称とする。したがってJDNW9418MSM46は「JD」である。
 2190年、すべての兵士と同じく大量生産品として誕生する。同年秋の「初陣」であっさり戦死するが、人気投票で復活し、以後、「キャラクター(記号/個性)」として活躍する。初陣からキャラクターへの昇格は2、3年掛かるのが普通であり、これはまったく異例なことだった。
  また新人の設計者助手(アシスタント・デザイナー)だったアキラは、JDの「キャラクター(個性)」を逸早く見抜いたことがきっかけで、記号設計者(キャラクター・デザイナー)へと、これも異例の出世を遂げる。

 亜人の通称からは、さらに愛称が作られることもあり、JDはアキラから「ジョン・ドウ(John Doe:「名無し」)と呼ばれる。JDとアキラの人気が高まるにつれ、この愛称(?)も広まっていったようである

 この時代の戦争は「文化保存」事業の一つであり、歴史上の戦いの再現(ただし、まったく忠実ではない)である。兵士たちは与えられた役割を、命懸けで演じるのだ。
 初陣が北米先住民同士の戦いだったため、JDの容姿は北米先住民がベースになっている。とはいえ、戦闘種に限らず亜人の容姿は基本的に人種混淆なので、JDも白人的な容姿の遺伝子は持っており、遺伝子の発現を少し弄ってその特徴を際立たせるだけで白人らしい外見になる。
 そのようにしてドイツ人傭兵騎士や中国人の海賊など多彩なキャラクターを「演じて」いくことになるのだが、変わらないのはその眼差しだった。

 亜人は人工子宮で製造される。通常は約1年で人間の十代半ば相当まで促成培養され、その間に必要な情報が脳に「刻み込み」される。遺伝子レベルで脳の機能にさまざまな制御が掛けられている上に、このような促成「教育」により、出来上がるのは経験の裏付けのない薄っぺらな人格(キャラクター)である。細やかな機微など、望むべくもない。高価な特注品はもう少し丁寧に作られるが、それも程度の問題でしかない。
 特に戦闘種は、精神崩壊を防ぐため、いっそう強い制御を掛けられた結果、感情というものを持たない。肉体に直結したより原始的な反応としての情動は持つが、より高度な感情という複雑で繊細な段階へは至らないのだ。そのうえ、一回の戦闘ごとに記憶を消される。

 このように、戦闘種の人格は一般種よりもさらに薄っぺらであり、それは機械的な反応や平板な表情となって現れる。その中にあって、JDはまるで本物の感情を湛えているかのような眼差しの持ち主だった。
 もちろんそれは見せかけに過ぎない。偶々そう見える目つきをしているというだけだ。後に、JDは先天的にオキシトシンとバソプレッシンの血中濃度が高く、戦闘種にしては味方や敵に「親愛の情」を抱きやすいことが明らかになるが、「情感豊か」と呼ぶには程遠いレベルであることに変わりはない。

 ともあれ、この「眼差し」と敵味方に見せる「情」によってJDは高い人気を保ち、何度も戦闘不能(瀕死もしくは完全死)を迎えては復活することを繰り返すことになる。

関連記事: 「The Show Must Go on!」  「亜人」 

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 以下、ネタバレ注意。

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年表

 とりあえず概略版です(太字は作品名)。

1858年  『種の起源』刊行。
1865年 「メンデルの法則」発表。
1870年代  ダーウィン、自らの理論とメンデルの法則を融合させ、「神に祝福された遺伝学」を作り上げる。ここから歴史改変。   

20世紀末  ソ連とアメリカ合衆国が相次いで崩壊。
2001年  「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」
21世紀~ 「絶対平和」の開始 
2012年   「はじまりと終わりの世界樹」

2190年代初頭  「The Show Must Go On!」
22世紀末   世界各地でウイルスや微生物の変異を原因とした災害が起こる(「大災厄」の始まり)。
2200年代初頭 「The Show Must Go On, and…」
       「…’STORY’ Never Ends!」

23世紀前半、大災厄により絶対平和が崩壊。
2256年  『ラ・イストリア』

 

2447年  『ミカイールの階梯』

 

2643年  『グアルディア』

「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」「はじまりと終わりの世界樹」では、世界が「絶対平和」と呼ばれる未曾有の繁栄を迎える直前。「The Show Must Go On!」は絶対平和の絶頂期。「The Show Must Go On, and…」および「…’STORY’ Never Ends!」は絶対平和の崩壊の始まり。
『ラ・イストリア』では地球規模で大災厄の真っ最中。『ミカイールの階梯』では災厄は終息に向かうかに見えるものの文明は未だ復興する兆しはなく、『グアルディア』では少なくとも中南米では災厄は小康状態を保ち、文明もいくらか回復しつつある状況です。

 

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 詳細版はネタばれ注意。

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生体甲冑 Ⅲ

 連作〈The Show Must Go On〉(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)のエピローグ「…’STORY’ Never Ends!」では、「最初の生体甲冑」について語られる。

 23世紀初頭、変異微生物による災害が徐々に深刻化し、社会不安が広がる中、娯楽としての戦争を供給していたスタジオの一つパラマウント社は、近い将来、戦争は再び武力で勝敗を決する形態に回帰すると予測し、より強力な兵器を密かに求めていた。そうして入手したのが、疑似ウイルス型兵器「生体甲冑」である。
 なお、この兵器は違法に開発されたものであるため正式名称はなく、「生体甲冑」は後の通称だが、その前の時代についても、煩雑さを避けるためこの通称を使用する。

 絶対平和におけるコントロールされた戦争では、兵士である亜人の能力増強にも制限がかけられていた。しかし生体甲冑は感染者(着用者)の細胞もゲノムも物理的にはまったく変化しないまま、ただ引き出される能力だけが増強されるため、規制には抵触しない。
 生体甲冑を開発した組織は、おそらくパラマウントとは完全に別個のもので、その正体は不明である。

 ところで生体甲冑を純粋に「兵器」として見た場合、侵蝕がほとんど進んでいない、つまり暴走の危険がほとんどない段階なら、割と使えるはずである。特に、「遠戦兵器がほとんど使用不能」な状況では、かなり役に立つだろう。
 問題は、侵蝕がどれほど進んでいるか、正確に知る手段がないということである。疑似ウイルスに置換された細胞は、通常の細胞と区別が付かない。組織レベルで、傷ついたり老化したりした細胞の少なさから大まかに判断するのがせいぜいだ。

 侵蝕/暴走の兆候は、「使用者の意志に反した反撃」が為されるようになってくることである。作戦の流れを無視して反撃し続けるまでになれば、敵の抵抗が途絶えた後に着用者が変身を解くことができたとしても、最終的な段階すなわち完全侵蝕/永続的な暴走は近い。 そうなると、もはやお荷物以外の何ものでもなくなる。戦略も何もない、とにかく敵にダメージを与えることだけを目的とした作戦に投入するしか使い道はない。
 このような兵器が、リスクを承知の上で少なからぬ需要があったということが、「大災厄」の末期的状況を端的に示している。

関連記事: 「生体甲冑 Ⅰ」 「生体甲冑 Ⅱ」 「大災厄」

       「The Show Must Go On!」(中篇) 「絶対平和の戦争」 

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メタルヘッド

 ネタバレ注意。
 
 ネタバレも何も、欧米の映画(あるいは小説等、他のメディアでも)によくある、「行き詰まった状況にある人々のところへ奇妙な人物が突然現れ、状況をかき回すが最終的に行き詰まりを打開する。その謎の人物とは実はキリストのメタファーである」というパターンそのまんまである。
 で、そのまんまじゃ芸がないと思ったのか、「現代的解釈」を施して(どのくらい「現代的」なのかは後述)、「奇妙な来訪者」を下卑たチンピラに仕立てている。その挙句に、それじゃあやっぱり観客には解ってもらえないかもと不安に駆られたのか、チンピラの風貌を「痩せて長髪で髭」にした上に、駄目押しにエンドクレジットに付した卑猥な落書きというか、卑猥な落書きに見せかけた「オサレ」なイラストの中に、「最後の晩餐」の構図とか、聖痕のある両手とかを紛れ込ませている。
 そんなことしたって、下卑たチンピラは下卑たチンピラでしかなかったけどね。

 いや、主人公の少年や、その祖母役のパイパー・ローリーは巧いし、ナタリー・ポートマンも生活に疲れたレジ打ちを好演している。本当に『ブラックスワン』以来、自然体の演技ができるようになったなあ。「ブス作り」の瓶底眼鏡は工夫がなさすぎで、もう少し頭使えよとか思うが、彼女のせいじゃないし。

 しかしなんつーか、駄作ではないが、凡作。一生懸命奇を衒おうとしているが、その奇の衒い方自体が凡庸。主人公の不幸とその描写が、いかにも「頭で考えました」という感じなんだな。
 しかもセンスが全体的に妙に古い。90年代後半くらいの「スタイリッシュ」という感じだ。ヴィンセント・ギャロとかがやってたみたいな。やれやれ。

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文庫復刊アンケートとか

 11月下旬、早川書房さんでハヤカワ文庫復刊フェアが開催されます。品切れになって久しい文庫を一気に復刊しようという企画ですね。
 どの文庫が復刊されるかには皆様の御意見が反映されます。というわけで、6月23日(月)までアンケートが実施中です。

 で、仁木稔の文庫ですが、アンソロジーの『神林長平トリビュート』を除き、すべて品切れとなっております。『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』を読んで、「続き」である『グアルディア』や『ラ・イストリア』も読んでみたい、と思われた方、是非アンケートに御協力ください。
 これで復刊ということになれば、同じく品切れの『ミカイールの階梯』(Jコレ)の文庫化も叶う……ということになったらいいなあ。

 よろしければついでに、『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の「ある意味原点」な『スピード・グラファー』(全3巻、原作:GONZO)もよろしくお願いします。
 
 メール、ツイッター、または葉書で、お一人様何点でも大丈夫だそうです。詳しくはハヤカワ・オンラインの該当ページを御覧下さい。

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  去る6月8日(日)には、日刊紙『SANKEI EXPRESS』の新刊案内で『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』を御紹介いただきました。

 えーと、産経新聞のこちらのページにアップされていますね。全文です。新聞に掲載されたどの記事もアップされるわけではなくて、偶々この記事が選ばれたようですね。
 たいへん良い記事です。本文が。写真は被写体がな……

 記事の写真ではほとんど見えませんが、ネイルは今回も妹にやってもらいました。毎回安くしてもらってるから、ちょこっと宣伝。

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「ブログに載せるから、ネタっぽいポーズにしたい」と要求したら、指示されたのがこの「アイアンクロウ」。「もっと指開いて!」と指導されながらのポーズです。
 派手好きなので、もっと明るい水色にしてもらいたかったのですが、これが齢相応だ、と言われてしまいました。まあ容姿(地味)にも相応だ。

 妹のネイルサロンは横浜市泉区です。お近くにお住まいの方は、是非行ってあげてください。

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絶対平和の戦争

 連作〈The Show Must Go On〉(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)の後半三作「The Show Must Go On!」「The Show Must Go On, and…」「…’STORY’ Never Ends!」は、人類の未曾有の平和と繁栄の時代「絶対平和」の物語であるが、それはこの時代における「戦争」を中心に語られる。
「絶対平和」は、遺伝子工学によって生み出された人造人間「亜人」の犠牲の上に築かれたものである。犠牲とは、単に労働を担わせただけではない(もちろんそれも大きいが)。暴力と差別の根本的原因は、自尊心の欠如である。それを埋めようと、人は他者を傷つけ貶める。亜人という「人に似た、しかし人より少しだけ劣った他者」を造り出すことにより、人は初めて欠乏を満たすことができ、すべての人は平等だという感覚を持つことが可能となったのである。

 しかし、「少しだけ劣った他者」によって奉仕される、というだけでは人間の自尊心を完全に満たし、暴力性を押さえ込むことは不可能だった。それは亜人への暴力という形で現れた。
 どんな支配体制であれ、要となるのは暴力のコントロールである。国家は「暴力を行使する権利」を独占する方向に発展してきた。絶対平和の体制が個人による亜人への暴力を禁じたのは同じ原理からだったが、それだけではない。反体制派すなわち亜人撲滅派は、亜人への暴力から最終的に人間への暴力に至った。亜人への個人的(私的)暴力は、全人類の完全な平等と平和という「絶対平和」の根幹を揺るがすものだった。
 抑えきれない暴力性を発散させ、かつ暴力の行使権が体制によって独占されていることを知らしめる手段として選ばれたのが、戦争と闘技である。

「もう一つの歴史」上の1991年、北米の「某超大国」は湾岸戦争で国連も多国籍軍も無視してバグダッドを占領し、「悪の独裁者」を処刑した。この独断専行に対する国際的な非難は、さしもの「某超大国」をも屈服させ、言いなりにイラク撤退と軍縮が行われた。
 しかし屈服は見せかけで、やがて内戦により完全に無力化したイラク政府は、軍事も行政も「某超大国」企業のアウトソーシングによって乗っ取られることになる。

 この乗っ取りに先立って行われたのが「某超大国」国軍の民営化で、装備から人員に至るまで、そのまま民営軍事企業に流用された。同時期、冷戦終とソ連崩壊、アパルトヘイト廃止などにより、世界中で軍縮とそれに伴う民営化が進行していた。
 そして1999年、亜人が登場する。
 亜人は人間に対して絶対に危害を加えることができないため、対人戦闘には当然使えない。また「妖精」と呼ばれた初期の亜人は著しく能力が制限されていた。そのため亜人は比較的早い段階から戦場に投入されたものの、荷運びなどの単純労働または地雷除去のような危険だが限定された任務に就いていただけだった。

 やがて亜人の存在により人間の「自尊心の回復」が進むにつれ、戦争もテロも終息に向かう。しかしついこの間までの憎しみや恨みは、そう簡単に消えはしない。贖いとしての血が必要だった。それが、亜人同士による代理戦争である。
 この転換により、民営軍事企業の業務は代理戦争のプロデュースとなった。重要なのは勝敗ではなく、どれだけ、どのように血が流されたかだったから、必然的に詳細な報道が望まれた。
 間もなくエンターテインメント産業が、この「新しい戦争」に参入することになる。90年代、「某超大国」では湾岸戦争に端を発した国際的な孤立に伴い、国内では思想統制が強化され、ハリウッドを筆頭とする文化産業が軒並み「亡命」する事態となっていた。
 この「亡命者」たちは世界中の文化産業を結びつける役割を果たし、まったく新しい多彩で豊かな国際文化が生み出されたのである。
 その背後には、「某超大国」の文化的覇権を突き崩そうとする「組織」の思惑があったとされるが、ともかく「亜人による代理戦争」におけるエンターテインメント産業と民営軍事企業との提携から、やがて亜人兵士や物資の提供から作戦立案・遂行に至るまでの戦争業務全般を請け負い、娯楽として提供する複合企業「スタジオ」が生まれる。

 暴力性だけではなく利己性も抑制されたため、人間とその財産だけでなく環境も傷つけないことが当然の前提となり、使用される武器兵器の破壊力には制限が掛けられた。食料生産の工業化(動物性食料も植物性食料も工場で生産されるようになる)に伴い、不要となった広大な農地で森林や草原の再生が進められており、そうした土地の一部が戦場に指定された。同様の理由から、一回の戦争の規模も縮小され、長くてもせいぜい半日、投入される兵員は両軍合わせてせいぜい数千だった。
 先述のとおり、重要なのは勝敗ではなく、どのように血が流されるかだったから、作戦は戦争当事者同士の協議で決められるものとなった。その仲介も、「スタジオ」の役目だった。

 この「贖いとしての代理戦争」も、わずか数年のうちに終息に向かった。だが代理戦争自体は、問題の早期解決手段としてむしろ頻繁に行われるようになった。人間が賢く穏やかになり、私利私欲が抑えられたといっても、何が最善であるかの答えが常に出せるとは限らない。そこで議論で時を浪費するより、一種の賭けとして亜人同士を戦わせるようになったのだ。
 すでに戦争の「サーカス」化は進んでいたため、当事者以外の人々も戦争のニュースやドキュメンタリーを消費し、批評した。贖いとしての戦争とは違って勝敗は重要だったが、戦いでは勝ったのに、世論によって覆されるということが起きた。
 そのため、「いかに勝つか」ではなく、「いかに戦うか」「いかに魅力的に観せるか」が問題となり、サーカス化はますます進んだ。この頃までに亜人の外見や機能は多様化しており、魅力的な外見と魅力的な軍服を纏うようになった。この「デザイン」は日本のポップカルチャー(特にアニメ、漫画、ゲームなど)を基盤としており、当然、日本人デザイナーが大いに活躍することとなった。
 
 このように亜人への「公的な暴力」のサーカス化と制度化が進む一方、非合法の「私的な暴力」を合法化しようとする動きも起こった。亜人への直接暴力は論外だが、亜人同士を闘わせる(多くはどちらか一方が死ぬまで)「地下闘技場」は日本的センスによる闘奴や試合形式のデザイン向上もあって、やがて合法化が実現した。合法化された闘技は、地下ではなく公共の闘技場で行われるようになった。

 これら一連の動きは、2007年に最初の亜人国際法が制定されるまでに概ね完了していた。この頃までに、戦争は「旧時代文化の保存活動」という建前も出来上がっていたと思われる。
 こうして絶対平和の戦争は、過去に実際に行われた戦闘をモデルとしたものになった。とはいえ、環境保護などによる規制、戦力均衡の原則、亜人に人間の振りをさせることを禁じる法律(亜人と人間の差別化こそ、絶対平和の基盤だから)、さらにショウとしての見栄えの優先等、さまざまな理由から、忠実な再現にはなりえなかった。
 また環境と亜人の保護を理由に、大量破壊兵器は法で禁止された。そのため、モデルとする戦争は19世紀までとし、さらに19世紀末には登場していた機関銃やダムダム弾などの強力な武器兵器も使用しないという不文律が出来上がった。スタジオの側からすれば、あまりに強力な武器兵器は一方的な殺戮を生むだけで、ドラマが生み出される余地がなくなるため、使用禁止に否やはなかった。

 つまり絶対平和における戦争は、長期間の協議に替わる早期解決手段であり、過去の文化の保存事業であり、亜人という奴隷による大規模な殺し合いショウだった。
 モデルとされる過去の戦争は、原則として係争が起きた現地で行われたものとされたが、各戦争当事者たちがモデルとした戦闘集団の子孫だというようなことはほとんどなく、あったとしても当人たちを含め、誰も気にしなかった。賢く穏やかになった新人類は、過去の因縁などとは無縁なのだ。
 時代考証は、せいぜい「尊重する」程度でしかなく、使用される武器兵器も、見た目がそれらしければ良いのであって、正確な復元は求められていなかった。素材は全般に強度が高く、かつ再利用できる物に替えられていただろうし、たとえば近世の大砲は実際には威力も命中率も低く、砲身の破裂も珍しくなかったので「殺されるのは敵よりも味方のほうが多い」代物で、また火薬も湿気やすく煙の量が多かったため、点火できなかったり、できたらできたで硝煙が濛々と立ち込めて何も見えなくなるという有様だったが、そういった問題はすべて取り除かれていたはずである。

 戦争の娯楽化に伴って進行したのが、亜人兵士の「キャラクター化」である。コストの題から、身体能力を大幅に強化することのできる兵士の割合は限られていたが、スタジオはその稀少性を活かし、外見のデザインにも投資した。こうした「特注」兵士はファンが付き、キャラクターと呼ばれるようになった。やがて、これらのキャラクター兵士を主人公とした「スピンオフ」が作られるようになった。
 それ以前から、戦争のドキュメンタリーなどはドラマチックで映画じみたものとなっており、また人間の私利私欲が抑えられた「副作用」なのか、創造性が明らかに減退して従来のジャンルで新たな作品が生み出されなくなっていた。その空隙を埋めるように、戦争のスピンオフはアニメ、漫画、小説、ゲームなどさまざまなメディアで展開された。
 おそらく当初はアマチュアによる同人的な活動であったと思われるが、やがてスタジオが「公式スピンオフ」としてその制作を担うようになった。もちろん、それら「公式作品」のファンによる「二次創作」も行われた。

 戦争の勝敗を全成人による投票で決定する制度は、絶対平和が完成した2020年代~30年代には成立していたと思われる。次いで、キャラクターの人気投票が行われるようになるが、これは一部のマニアだけの特権だった。
 キャラクター兵士は特注品として、大量生産のモブとは別に制作された。作成を担当するのは遺伝子設計者(ジーン・デザイナー)である。遺伝子設計者は、外見にしろ性格にしろ能力にしろ、形質を発現させる遺伝子を設計(デザイン)を行い、それは対象が人間や一般種(戦闘種以外の総称)亜人、動植物であっても変わらない。
 ただしキャラクター兵士の場合は大雑把ではあるが架空の過去を設定するのもデザイナーの仕事で、また形質のデザインもより創造性が求められとして特別視された。「キャラクター」は特注の兵士限定の呼び名とされ、そのデザイナーは「キャラクター・デザイナー」と呼ばれた。
 キャラクター兵士はたとえ戦死しても、票次第で何度でも復活できた。得票が再生コストに見合わなくなれば、廃棄されることになる。

 しかしキャラクターと人気投票が定着するにつれ、スタジオの思惑どおりにはキャラクターの人気が出ないということも起きた。また一方で、無個性なはずのモブに個性が見出され、人気を獲得することもあった。
 試行錯誤の結果、当初の「一個体一キャラクター制」は廃止された。兵士はすべて無名のモブとして大量生産される。総合的な能力は均等だが、外見等のデザインにはばらつきがある。そこに個性を見出すのは視聴者で、スタジオはその反応を見ながら、デザインの改造を繰り返し、キャラクターを「育成」していく。
 この「一個体複数キャラクター制」が完成したのは、21世紀末のことである。この制度なら、ある兵士の一つのキャラクターが不人気でも別のキャラクターの人気で廃棄を免れうる。
 また旧制度では自ずとキャラクター兵士同士の「絆」が形成され、それが戦死/廃棄により失われた時、残された兵士が精神に変調を来し、最悪の場合は廃棄せざるを得なくなるという事態がしばしば起こった。これはキャラクターの廃棄と並んで、亜人活動家の非難の的となった。
 新制度の確立に伴い、「絆」の形成は極力回避されるようになった。これは「物語」の派生を犠牲とすることとなったが、少なくとも一個体が複数のキャラクターを有する新制度では、特定のキャラクター同士が何度も「戦友」となる事態は旧制度より回避しやすくなっていた。

 建前上、戦争は「政治の延長」であり、「旧時代文化の保存活動」であったのに対し、闘技は純粋な娯楽だったが、実態は「キャラ化」や「スピンオフ」は先に戦争において発展し、闘技がそれに追随するかたちとなった。
 時代が下るにつれ、無数に割拠していた小スタジオは統合されていき、最終的には(正確な時代は不明)わずか五つとなり、五大スタジオと呼ばれるようになった。パラマウント、ロウズ、フォックス、ワーナー、RKOである。これらの社名は黄金期の「五大スタジオ」に因むものだが、直接にも間接にも繋がりは皆無である。
 この統合の過程で、闘技もスタジオの一部門として組み込まれた。

 戦争を「旧時代文化の保存活動」とする建前上、軍隊という組織も保存の対象とされた。スタジオは、現に戦争を請け負っているだけでなく、前身の一部が民営軍事企業で、そのさらに前身が各国軍であることから、「軍隊組織の保存」も担うこととなった。
 こうして各スタジオの社員は全員が将校または下士官となった。兵士は亜人であり、戦争やスピンオフにおける階級は、キャラクターと同じくあくまで架空のものである。
 軍服(歴史上の軍隊の軍服をモデルにデザインした制服)の着用が義務付けられ、戦争に直接関わる部門は「前線」、スピンオフ政策に関わる部門は「後方」と呼び分けられ、スタジオのトップは「統合参謀本部」、世界各地の支部はその規模(動員兵士の数等)によって「師団」「連隊」「大隊」に区分された。
 言うまでもなく、これらは「建前」に過ぎず、実態はほとんど「軍隊ごっこ」であった。だからこそ、いくら才能に期待されたとはいえ、軍曹(下士官の下から二番目)でアシスタント・デザイナーに過ぎないアキラが、半年で大尉にまで昇進するようなことが起こるのである。またアニメ脚本家のレイチェル呉が、アカデミーにノミネートされるほどの実力を持ちながら少尉のままでいるのも、本人が昇進を望まないからであろう。
 なお、半ば独立した部門である闘技には、この「軍隊ごっこ」は適用されていないと思われる。

 22世紀末から微生物の変異を原因とした災害が多発し、社会不安が広がり始める。災害一つ一つの程度は比較的軽微だったとはいえ、そのほとんどが長引いたため、人々は自分とは関わりのない時事には関心を持たなくなっていった。
 その結果、戦争の投票率は低下し、危機感を抱いたスタジオは、視聴者の関心を呼び戻すため機関銃をはじめとする「大量破壊兵器」の使用と、兵士同士の「絆」形成に踏み切る。
よ りドラマチックになった亜人の苦しみは、一時は視聴者を惹き付けるが、その間にも災厄は徐々に深刻化する。人々の関心は「センセーショナルな見世物」としてより手軽に消費できる闘技に流れ、スタジオもまた近い将来、戦争は再び武力で勝敗を決するものとなると予測し、より強力な兵器の入手を模索する。
 その一つが、「生体甲冑」である。

関連記事: 「絶対平和 Ⅰ」 「絶対平和 Ⅱ」 「絶対平和の社会」

       「亜人」 「HISTORIAにおける歴史改変」  「JD(2190~)」 

       「The Show Must Go ON!」 「生体甲冑 Ⅰ」 「生体甲冑 Ⅲ」 

設定集コンテンツ

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ミッション

 86年の映画で、日本公開が直後だったのか、しばらく後だったのかは知らんが、いずれにせよ私は当時中学生か。映画鑑賞などという結構な趣味とは無縁の非文化的生活を送っていたが(地元にロードショーをやっている映画館が一軒もない上に、小遣いがゼロという境遇に置かれていたのである)、先住民に扮した俳優ではなく「本物の先住民」を使っているということで結構話題になっていたのを、うっすら憶えている。
 で、その取り上げ方というのが、川口浩探検隊と同列の扱いだったような記憶がうっすらとある。違ったかもしれんが。

 1750年代、南米のスペイン領とポルトガル領の境界線上に位置していたイグアスの滝。冒頭すぐにポスターにもなった(しかし実は重要なシーンでは全然ない)「磔刑滝落とし」があり、続いてイエズス会宣教師のジェレミー・アイアンズとリーアム・ニーソンが登場する。
 80年代の映画はあまり観ていないので、これまで観た二人の出演作の中では一番古い。まずジェレミー・アイアンズが若いのに驚き、次いでリーアム・ニーソンが全然変わらんのにさらに驚く。

 えーっ、これ30年近く前の映画でしょ? 全然変わらんて、どういうことだ。今が若く見えるんじゃなくて、昔から老け顔だったんだな。すでに思春期には、この顔が完成していたに違いない。
 しかも当時すでに40近かったジェレミー・アイアンズが、純粋な信仰心を持った宣教師として、過酷な生活にやつれているものの無垢で純真な、幼いとさえ言える表情を見せる(まあ、それも演技なんだろうけど)のに対し、4歳年下のリーアム・ニーソンは、年齢以上に落ち着き払って、まったく若さが感じられん(これは演技じゃなかろう)。

 先住民を狩って売り飛ばす奴隷商人から、改心して宣教師となるのがロバート・デニーロ。この頃がピークかな。90年代初めには、すでにくどくて平板な演技になっちゃってたから。

 以下、ネタバレ注意。

 史実に基づく。先住民の人権などほとんど無視されていた時代に、イエズス会の宣教師たちは改宗させた先住民たちが自活する村を作り、白人から守っていた。しかしそこへ、スペインとポルトガル、カトリック教会、さらにはイエズス会の四者の権益が絡み、ついに村は抹殺されることになる。

 確かに宣教師たちは人道的だったが、それはほかの白人たちに比べてであり、少なくとも先住民文化の破壊という点では、まったく劣らない。18世紀当時にそういう視点が欠けていたのは仕方ないが、20世紀も終わりに近づいた時代に制作された映画にもその視点がまったく見られない上に、コメンタリーを聞いた限りでは、今なお監督はそんなことは思いも寄らないようである。

 ともあれ映像は美しいし、終盤の戦闘場面はなかなか迫力がある。一番興味深かった場面は、先住民や黒人の文化が混淆してクレオール化したカーニヴァル(音楽はエンニオ・モリコーネだ)。

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文庫復刊アンケート

 11月下旬、早川書房さんでハヤカワ文庫復刊フェアが開催されます。品切れになって久しい文庫を一気に復刊しようという企画ですね。
 どの文庫が復刊されるかには皆様の御意見が反映されます。というわけで、6月16日(月)~23日(月)にアンケートが行われます。

 で、仁木稔の文庫ですが、アンソロジーの『神林長平トリビュート』を除き、すべて品切れとなっております。『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』を読んで、「続き」である『グアルディア』や『ラ・イストリア』も読んでみたい、と思われた方、是非アンケートに御協力ください。
 これで復刊ということになれば、同じく品切れの『ミカイールの階梯』(Jコレ)の文庫化も叶う……ということになったらいいなあ。

 よろしければついでに、『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の「ある意味原点」な『スピード・グラファー』(全3巻、原作:GONZO)もよろしくお願いします。
 
 メール、ツイッター、または葉書で、お一人様何点でも大丈夫だそうです。詳しくはハヤカワ・オンラインの該当ページを御覧下さい。

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絶対平和の社会

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「The Show Must Go On!」「The Show Must Go On, and...」および「...'STORY' Never Ends!」では、未曾有の平和と繁栄の時代「絶対平和」が描かれる。

 絶対平和においては、「自然のまま」の姿で、「自然に近い」「伝統的な」生活をすることが理想とされた。ただしこの場合の「自然」も「伝統」も虚構のものである。

 まず、各文化圏ごとに「理想化された伝統的な生活」が設定された。以下は作中設定ではなく現実の話だが、「伝統」なるものはおしなべて、すべからく捏造されたものである。捏造という言い方に語弊があるのなら、「創出」と言い換えてもよい。
 何世代にもわたって連綿と続いてきた伝統などというものは存在しない。無論、個人や家庭、共同体などが有する「慣習」ならば実際に存在するものである。慣習を形成するのは物質的な制約と、ヒトの保守性すなわち「慣れ親しんだもの・やり方」を好む習性である。個人や集団を取り巻く環境が変化して慣習を維持することが不可能になることもあれば、そのような外的要因がなくても個人または集団が自主的に慣習を変えることもある。
 ヒトの脳は、新しいことを憶えたり考え出したりするのを厭う(余計なエネルギーを使うから)保守的な傾向と、新奇性や利便性を求める傾向とを併せ持つ。後者が前者を凌駕することが、慣習を変える要因となるのである。
 
 外的要因や内的要因によって慣習が変化を迫られた時、集団内の少なからぬ者が慣習の維持に固執する。そうさせるのはヒト本来の保守性だけでなく、アイデンティティと既得権に対する危機、あるいは危機感である。そもそもあったかどうかも怪しい既得権が主張されることもままある。そのようにして単なる慣習が固守すべき「伝統」と規定された時点で、すでにそれは「つくられたもの」と化すのである。
 神事をはじめとする儀礼にしても、たとえ起源はどれだけ古かろうと、近代以降に改めて意義を与えられ体系化された、「つくりなおされた」ものがほとんどであろう。
 
 科学(特に進化論)とイデオロギー(信仰を含む)との対立は、多くの社会に見られる。『天皇制と進化論』(右田祐規、青土社)によれば、日本でも戦前のある時期から戦中には皇国史観に反するとして進化論への批判が高まった。しかしそれより前の時代には、多少の緊張をはらみながらも進化論と皇国史観は何十年も共存してきたし、進化論批判派の勢力が最も大きくなった1930年代末以降ですら、進化論教育に混乱がもたらされた程度であった。
 これは本音(富国強兵の一環としての科学教育)と建前(皇国史観)の使い分けが巧く機能した結果であろう。このことの是非はここでは論じないが、本音と建前の使い分けそのものに関して言えば、「できるけどしない」という選択ではなく、「最初からできない」のは未成熟の現れであり、「できていたのができなくなる」のはある種の末期状態を示しているのではないかと思う。

 設定解説に戻る。亜人の存在によって賢く穏やかになった人類は、科学と信仰との折り合いをつけるためにこの「本音と建前」を採用した。
「本音と建前」は間もなく、あらゆる分野に積極的に適用されるようになった。「伝統」もその一つであり、伝統なるものは近代以降に創出されたものだと承知したうえで、それらにさらに手を加え、人も環境も傷つけないものに改変された。
 このような創られた「伝統」的な村(移動生活民であれば、バンド)での生活が、「人間の在るべき姿」とされた。実際にエネルギー消費量は低いが、それは亜人の労働によって支えられたものである。
 
 子供はすべて、こうした村またはバンドで生まれ育つ。この時代、子供を作ることは男女の「協同事業」であり、厳密な契約の下に行われる。婚姻の形態は一律に一夫一妻(現実に一夫多妻や一妻多夫の伝統がある社会でも、比率としては一夫一妻が多い)。ただしこれは村/バンドにおいてであり、町や都市ではさまざまな婚姻形態があるはずである。
 老化防止や若返りの技術が発達しているため、晩婚が普通である。二十代では人格的に未熟だとして、結婚はまだしも子育ては望ましいとされないだろう。未成年者は絶対的に保護されるべき存在なので、成人と未成年者の結婚は許されない。未成年同士なら18歳くらいから可能かも。どのみち、子供は持てない。
 
 子供はほとんどが人工子宮による出産で、3~5人。兄弟姉妹が多いのが理想とされるからである。しかし兄弟姉妹の中で子供を持つのは、せいぜい1人か2人である。絶対平和成立から5世代を経た22世紀末の時点で、人口はかなり減少している。
 末子が18歳(遅くても20歳)になるまでが子育て期間であり、それが終われば夫婦の契約もとりあえず終わる。そのまま村/バンドで共同生活を続けることもあれば、離婚してそれぞれの生活を始めることもある。子育てには祖父母の同居が望ましいとされるので、孫が生まれれば再び「契約」の上で同居することになる(相手方の両親が同居するのでない場合)。
 
 村/バンドでは、成人住民のほとんどは「伝統的な」農業、漁業、遊牧、狩猟採集に従事するが、それらの主目的は「文化の保存」であり、重労働は亜人が担う。食料や生活必需品の類は原則として自給自足だが、環境への負担は抑制される。
 わずかな余剰生産物は販売され、不足分を他地域から購入する費用とされる。それらの購入品もまた、「伝統的」手段で生産されたものである。それでもなお不足する物品は、工場生産品が無料支給されることになる。
 
 上記以外の「伝統産業」(工芸など)も営まれているが、自給自足が原則なので、専業化しているかは不明。「伝統芸能」の継承も必須であり、指導者は当然いるはずだが、これも専業化は不明。
 村には「伝統文化の保存」以外の職業として、役場の職員、医師、商店員、小学校教師などがいる。移動民のバンドにも、子供たちの教師はいる。
 いずれにせよ、村の成人は全員なんらかの職に就いている。
 
 村(またはバンド)以外の生活環境は、人口や工業化のレベルによって「町」と「都市」に大別される。町と都市も旧時代すなわち21世紀初頭以前の各時代の景観や生活を保存あるいは復元されている。場合によっては前近代の街並みと暮らしが再現されていることもあるが、その場合はもちろん亜人の労力が多大に投入されている。
 20世紀末~21世紀初頭の景観が保存・復元されているのは、都市の「新市街」に限られている。
 ほかは自然環境の保護監察官や研究者、考古学者等が例外的に人里離れた場所に住む。これらの職種を除き、村/バンド、町、都市以外での居住は禁止されている。またこの時代、遠洋漁業はおそらく行われていない。
 
 町と都市の住民が口にできる食料は、原則として工場生産品のみである。動物性食料は人工子宮で培養される。植物性食料は水耕栽培、または微生物の生産物の加工品。もっとも、「伝統文化」が重んじられている以上、調理まで工場で行われることは少ないと思われる。
「本物」の食べ物は町や都市では非常に高価で入手困難。村/バンドに「体験学習」(という名目の観光)に行くという手もあるが、いずれにせよクレジット(この時代の金銭)が必要。

 町と都市では職業の種類は大幅に増えるが、「伝統文化の保存」か「社会の安定維持」のどちらか(あるいは両方)に関わる職業しか存在しないのは村と同じ。たとえばスポーツ選手も、行うのは「競技」ではなく「伝統文化の保存」なのである。したがって、もし絶対平和成立以降(21世紀初等以降)に新しいスポーツが生まれていたとしても、それを行う者はアマチュアしかいないということになる。
 いずれにせよ、いかなる職業も、経費を除いた純利益はプラスアルファ程度。
 
 町と都市では、職に就かず、支給されるクレジットだけで生活することが可能。職に就かずにクレジットを稼ぐ手段は、おそらく戦争と闘技のスピンオフ作品(アニメ、漫画、小説、ゲームなど)の二次創作を行い、販売することのみ。その価格も経費+αで、公共か有志か知らないが、監視機構があるんだろう。

関連記事: 「絶対平和 Ⅰ」 「絶対平和 Ⅱ」 「連作〈The Show Must Go ON〉」 

       「The Show Must Go On!」(同題連作中の中篇)

       「絶対平和の戦争」 「亜人」 

       「等級制‐‐概念」 

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メンフィス・ベル

 第二次大戦下、重爆撃機B‐17「メンフィス・ベル」号に乗り組むチームの「最後の任務」を描く。これが終われば帰国できるのだが、よりにもよって標的はフランスではなくドイツ国内である。案の定、次から次へと危機が降りかかり……

 チームの10人全員が、1990年当時の旬の若手俳優だったようだが、知ってるのはマシュー・モディンとエリック・シュルツとビリー・ゼーン、それにショーン・アスティンだけだなあ。しかも彼らもここ数年全然見ないし。あと、宣伝部長みたいな役でジョン・リスゴーが出てました。

 青春ものとして、やや陳腐ではあるが、実際に若いキャストたちに助けられている。それと、B‐17の内部の描写が丁寧で楽しかった。
 でもその一方で、飛行中の外からのカット(ミニチュア)が、編隊だとそうでもないんだが一機だけのアップだと時々妙にちゃちくて科特隊みたいだったんだよな。もう少しどないかならなかったんかいな。

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6月8日(日)付の日刊紙『SANKEI EXPRESS』

 6月8日(日)付の日刊紙『SANKEI EXPRESS』の新刊案内で『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』を取り上げていただくことになりました。小さい囲み記事とかじゃなくて、一面丸ごとですよ。

 そういうわけで先日、取材を受けてきました。担当記者の塩塚夢氏は普段SFをほとんど読まないのですが、偶々読んだ本書を気に入ってくださったとのことです。
 普段SFを読まない、とのことでしたが、インタビューでもSFファンと視点が違っているようなことはなく(強いて違いを挙げるなら、先行作品を知っているかどうかという程度)、SF『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』をSFとして楽しんでいただけたことが判りました。

 非SF読者の中には、SFというジャンルをどうしても受け付けないという人もいるでしょうし、偶々読んだ1、2冊が好みに合わなかったのでそれっきり、という人もいるでしょうけれど、ほとんどは単に偶々SFを読まずにきてSFを「知らない」から、改めて読んでみようという気も起きないだけではないかと思います。食わず嫌い以前の「食わず無関心」。
 だから非SF読者であっても、塩塚さんのように機会さえあればSFを好きになる人は、きっと大勢いるでしょう。作家や出版社、評論家をはじめSF側の人間が非SF読者に対して提供すべきものは、より多くの「とっつきやすい(≒ぬるい)SF」ではなく、より多くの「SFに接する機会」ではないでしょうか。

『SANKEI EXPRESS』の記事と『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』が、多くの非SF読者にSFとの出会いを提供し、潜在的なSFファンを掘り起こすきっかけになってくれることを願います。

『SANKEI EXPRESS』ホームページ

 入手方法は、当日に首都圏の駅売店で購入するか、3ヶ月以上の契約で購読するしかないようですね......塩塚さんによれば、近畿圏の駅売店でも販売しているようですが。バックナンバーについては、ホームページに問い合わせればよいようです。

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HISTORIAにおける歴史改変

 2012年5月の記事を加筆修正。全般にネタばれ注意。

 連作〈The Show Must Go On〉(単行本タイトル『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)では、歴史改変が始まった「転機」を明記していないが、それが19世紀後半におけるダーウィニズムとメンデリズムの統合であることは、これまでの作品で明らかにされている。具体的には、現実の歴史ではダーウィンはメンデルの論文を読んでいながら、その重要性を見過ごしてしまったが、本シリーズではダーウィンがメンデルを「発見」したことになっている。
 それだけでも、現実の歴史よりも生物学全般が発達する条件としては充分であろうが(史実ではメンデルの法則の再発見は20世紀初頭、進化論と遺伝学の統合はさらに後になる)、本シリーズのHISTORIA(歴史/物語)では、ダーウィンがメンデル(カトリックの修道院長だった)を抱き込んでヴァチカンに接近、カトリックの教義と進化論を融合させた「神に祝福された遺伝学」を築き上げたことになっている(ちなみにダーウィンは若い頃、英国国教会の聖職者を志望していた)。

 つまり、現実ではダーウィンの追従者たちによって、プロテスタント精神とダーウィニズムが結合した「社会ダーウィニズム」が発展し、現在までその残滓を引きずっているわけだが、HISTORIAシリーズでは、カトリックが牽引するかたちで生物学全般が発展していくのである。
 そしてその潮流に対する反動として、「東の超大国」ソ連では疑似科学ルイセンコ主義が、「西の超大国」ではプロテスタントの聖書原理主義が支配的となり、生物学全般を抑圧していくことになる。なお、ソ連の生物学がルイセンコ主義のせいで停滞したのは史実なので、本シリーズでもソ連はソ連である。

 とはいえ、この程度の「改変」では、科学の他の分野や技術全般までが足並みを揃えて現実よりも発展することにはならないでしょう、と予想される。
 HISTORIAが現実の歴史から大きく逸れることになる、さらなる転機は、20世紀半ばに生じる。中篇「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」終盤、また『グアルディア』第8章でも語られているが、科学者にしてカトリックの聖職者でもある若者たちが、教会から離反して独自の活動を始めたのである。
 彼らは、テイヤール・ド・シャルダン(1881‐1955)の弟子と自称していた。テイヤールはフランス人イエズス会士で、北京原人の発掘で知られる。この史実からも、「偏狭で科学を弾圧するカトリック」が偏ったステレオタイプであることは明らかである。彼が異端とされたのは、神学と進化論を融合したトンデモ思想(「神に祝福された遺伝学」はこれをモデルとしている)を唱えたためである。
『グアルディア』第8章では、「組織」の創始者となった若者たちは「修道士にして科学者」と呼ばれている。彼らとテイヤールとの具体的な関係は不明だが、おそらく彼と同じくイエズス会士であったのだろう。
 なお、本作でテイヤールのことは「科学者にして異端の聖職者」と述べられているが、HISTORIAにおけるそれ以上の位置づけは現在のところ明らかにされていない。

 教会を離れた若者たちの目的は、「神に祝福された遺伝学」をカトリックの枠を超えて世界に広めることだった。同時に、人間に新たな進化の階梯を上らせ、賢く穏やかな種とするにはどうすべきか、その方法を模索する。そして出した結論は、「人間より一段劣った存在」を造り出す、というものだった。そのためには遺伝子工学の発展が必須であり、それを妨げる諸勢力との闘いが始まる。

 遺伝子工学の発展と、反遺伝子工学勢力との闘い。この二つの目的のために、彼らは巨大な組織を築き上げる。「組織」といっても、外見上はさまざまな企業や非営利団体が緩やかなネットワークを形成しているに過ぎない。各グループの成員は「組織」のことなど何も知らず、ただごく一部の者たちだけが「創始者たち」の目的を知るだけである。
 この「組織」こそが、『グアルディア』以来、繰り返し言及されてきた「遺伝子管理局」の原型である。「創始者たち」すなわち、20世紀半ばに教会を離れた若者たちは、21世紀初頭の時点で70代にはなっているはずだが、老化防止や若返りなどの技術によって、なお健在である可能性は高い。

「組織」の存在が反遺伝子工学諸勢力に知られることはなかったが、遺伝子工学の驚異的な発展は警戒され、東西の超大国はこの点に限っては共同戦線を張ることとなった。
「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」で言及されているが、ソ連崩壊前から、「組織」はその内部に浸透することに成功していた。これはルイセンコ主義が所詮、上から押し付けられたイデオロギーでしかなく、共産党の支配力低下に伴って力を失っていったためである。
 しかし「西の超大国」では、聖書原理主義は支配層から大衆に至るまで根付いており、歯が立たなかった。そこでその国力を低下させることを第一目標とし、反「某超大国」工作を展開させた。湾岸戦争以降のこの国の孤立化は、その成果である。

 だが、某超大国はそう簡単には倒れない。一つにはこの国がソ連崩壊後、反遺伝子工学の「盟友」として、ヨーロッパに多い「無神論的自然崇拝派」と手を結んだのも大きい。
「無神論的自然崇拝派」は作中設定ではなく現実に存在する。無神論を標榜し、「自然」「天然」ものならなんでもありがたがり(有機農法とか)、「人工」「合成」はなんでも忌み嫌う、その度合いがほとんど宗教の域にまで達している人々(教育水準は概して高い)である。
 ジェレミー・リフキンをはじめとするアメリカの反遺伝子工学活動家たちは、国内ではファンダメンタリスト向けに「遺伝子工学は神への冒瀆」と煽る一方、国外では「遺伝子工学は自然への冒瀆」と戦略を使い分けているそうである。なお「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」では、リフキンが遺伝子工学の発展を阻止する目的で人間と動物のキメラの特許を申請したことが言及されている。現実ではこれは1998年の出来事であるが、本シリーズにおいては数年~十数年早くに行われたはずである。

 進化論と遺伝子工学発展の反動として聖書原理主義が支配的になった結果、「某超大国」は現実のU.S.AよりもWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)がさらに支配的になり、かつ反知性主義と格差が蔓延する国となった。
 多様性を失い、より偏狭で傲慢、抑圧的となったこの国は、多くの人々にとって住みにくくなった。「組織」がそうした人々の国外移住を支援したのは、人材流出によってこの国の空洞化を図ったためであるが、その意図を隠蔽するため、移住希望者には誰でも手を差し伸べた。かくして「はじまりと終わりの世界樹」において、語り手の母や祖母たちは人種差別を逃れて1970年代にメキシコに「亡命」したのだった。
 また1998年の段階では、非白人は貧困層として「ゲットー」に住むことを余儀なくされている。これは「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」によれば、90年代、人種暴動と弾圧の結果である。

 中南米では、「組織」が早い段階から勢力を伸ばし、「某超大国」の支配を弱めてきた。「某超大国」に支援された独裁政権は、70年代後半から遅くても80年代前半に打倒された。ただし「超大国」はパナマの権益だけは固守し、89年には史実どおりパナマ侵攻が起きる。
 91年の湾岸戦争は途中までは史実と同じ展開だったが、最後に「超大国」は独断でバグダッドを占領、独裁者を捕らえて処刑する。
 実際、湾岸戦争当時、バグダッド占領案を支持する勢力は強かったし、その後も「あの時、占領していれば」という見解は根強かった。そうでなかったら、9.11の「黒幕」がイラクとされることはなかったかもしれない。

 ともあれ、この独断専行により「超大国」は非難の集中砲火を浴びる。これに対し、「超大国」がイラク撤退と軍縮の要求にあっさり従ったため、世界の怒りはとりあえず収まる。
 しかし間もなくイラクでは内戦が始まる。この内戦を自ら仕組んだわけではないものの、予測していた「超大国」は国連が見捨てたイラクを行政から軍事に至るまでアウトソーシング化し、多大な利益を得る。
 そしてますます排他的になり、国内では思想統制も強化され、ハリウッドをはじめとする文化産業の「亡命」を招く。その結果、さらに世界への影響力を失うのだが、覇権拡大の野望は失わず、従来どおり工作員を各地へ送り込み続ける。
 中南米でこの役目を果たしたのは、プロテスタント系宣教団である。彼らのモデルは悪名高い「夏季言語研究所」である。

「某超大国」は1999年秋に国連を脱退した。以後、多くの国がこの国を正式な国家として認めないことを宣言している。『グアルディア』第3章に、この某超大国が20世紀末に崩壊したと解釈できる文言があるが、このあたりの事情を指すと思われる。
 それにもかかわらず、2001年の時点でもこの国が世界一の大国でい続けられた理由の少なくとも一部は、国外の反遺伝子諸勢力による政治的・経済的な支持があったからである。「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」の主人公ケイシーが勤める「ブレスド・ネイチャー(祝福された自然)社」など、自然素材製品(食品、サプリメントから日用品まで)を扱う大企業は、国外でも莫大な利益を上げてきた。

 一方、アジアや南米、そしてロシアでは遺伝子工学が順調に発展していった(中東やアフリカの状況は現段階では不明)。そして1999年、人工生命体「妖精」が誕生する。これこそが、「人間に進化の階梯を一段上らせるための、一段劣った存在」=サブヒューマン(亜人)である。
 なお、この時点では彼らはプロトタイプであり、後に正式名称となる「亜人」の名はまだない。

 シリーズにおいて初めて「歴史改変」を正面から扱った作品「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」の舞台は2001年春、ツインタワーのある街である。HISTORIAが現実の歴史とは完全に異なるものとなる最後の転換点は、「妖精」の登場である。2001年9月から始まる、妖精たちによるツインタワーの解体は、その転換の象徴に相応しい。

関連記事: 「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」 「亜人」 

        「遺伝子管理局」 「絶対平和」  「年表」 

        「擬似科学」(2010年SF乱学講座より)

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マレーナ

 全編これ、ベルッチ様映画。

 とはいえ、私がモニカ・ベルッチを好きなのは、あの身体と実は可愛い顔と声のギャップゆえなのだが、これは「男の視線」そのものの映画であるため、彼女の台詞はほとんどないし、映っているのは主に顔ではなく身体である。しかも特に尻。鑑賞対象として女体が好きな私だが、さすがに尻にはそれほど興味ねーわ。せいぜい形が崩れてなければいいってくらいで。

 視覚に偏重したフェティシズム映画である。主人公の少年は、マレーナをひたすら見詰め続ける。視覚以外でもそこそこフェティッシュではあるが、それほど重点は置かれていない。時々匂いを嗅ぐ描写のほかは、彼女が聴いていたのと同じレコード(一枚のみ)を買って繰り返し聴く(聴覚)と、一回下着を盗む(触覚)がすぐに親に見つかって焼き捨てられる、というだけ。
 見詰めている時以外は頭の中は妄想でいっぱいだが、その半分くらいは好きな映画のヒーローとヒロインに自分と彼女を重ね合わせる、という微笑ましいものだし、残り半分もフェティッシュではあるものの触れるよりも見詰めることに重点が置かれている。「味覚」に関しては、彼女の洗い髪から滴る水を飲む妄想があっただけだ。

 ひたすら見詰めるだけなのは、童貞少年だから当然なんだけど 、でもこれ、本当の視線の主は監督やんけ。いやまったく、ここまで露骨な窃視の映画でありながら、不快感がさほどでもないのは、主人公が幼い少年で(撮影時は16歳だったそうだが、それより随分幼く見える)、しかもブサ可愛い(どちらかと言えば不細工だが、表情によっては可愛い)からだよな。
 実際には覗きが「可愛い悪戯」で済むのは、せいぜい小学校低学年までだ。それだって二度としないよう、がっつり叱っておかんと。

 まあ視線に特化した映画にするつもりだったからこそ、主人公を女を知らない少年にしたんだろう。だからこそ彼は、ほかの男たちのように彼女を欲望の対象としつつ軽蔑するという卑劣さを免れており、それも彼の欲望が不快でない大きな要因となっている。
 町中の男がマレーナに心を奪われ、町中の女がマレーナに顰蹙しているというのに、主人公の両親だけが彼女に無関心どころか存在すら知らないかのようなのは明らかに不自然だが、これも主人公にとってマレーナを「憧れつつ見詰めるだけの対象」に留めておくための処置だろう。父親までマレーナに惚れ込んで家の中が修羅場になったりしたら、主人公も彼女に憧れてるだけじゃ済まなくなってまうからな。
 

 動いて喋っているベルッチ様を拝めれば幸せ、という私が今までこの作品を観なかったのは、尻しか映っていないということを知っていたからではなく、かの「リンチ」場面の評判ゆえである。
 実際どうだったかと言うと……いやはや聞きしに勝るっつーか、監督のサディズムとモニカ・ベルッチ本人のマゾヒズムとの相乗効果でえらいことになっとる。
 なんつーか、セルジオ・レオーネとクリント・イーストウッドみたいに、男優のマゾヒズム+ナルシズムに監督が引きずられてるようなのは呆れつつも笑えるし、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』みたいに監督がサドなだけなのは「この下衆野郎」と吐き捨てれば済むけど、女優もマゾで喜々として乗っちゃってると、なぜか洒落にならないほど陰惨なんだなあ。

 とりあえず『アレックス』は絶対観ないぞ。

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遺伝子管理局

 2012年6月13日の記事を全面改稿。

 シリーズの基本設定の一つ。20世紀末から約2世紀間、人類を支配した巨大組織、とされる。彼らの治世は「絶対平和」と呼ばれる。

 連作〈The Show Must Go On〉(単行本タイトル『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)は、この「絶対平和」の成立から衰退までの時代を扱っている。そこで明らかになったのは、「絶対平和」当時においては「遺伝子管理局は存在しない」とされていた、ということである。

 20世紀末、ある集団が人類に恒久的な平和と繁栄をもたらすという明確な目的をもって、人工奴隷種「亜人」を生み出した。彼らはそのために半世紀近くも前から、遺伝子工学が発展する土壌を作り出すべく活動してきた。
 それは技術開発そのものから、人々の科学への拒絶反応を和らげるためのプロパガンダに至るまで、実に多岐にわたっていた。無数の研究機関や企業、非営利団体が関わっていたが、自分たちが一つの目的のために活動していると知る者はごくわずかだった。その一握りの人々は、単に「組織」と自称していた。

「遺伝子管理局」というのは、世界中の人々が亜人を受け入れ、「穏やかで賢く」なっていく中で、亜人を忌み嫌う少数の人々(亜人撲滅派。テロリズムを経て著しく勢力を減衰した後は亜人拒絶派と呼ばれる)が生み出した陰謀論である。「遺伝子管理局」の目的は全人類を亜人化し支配することだ、というのである。撲滅派/拒絶派は「組織」の存在に薄々気づいていたのだろう。 しかし、ついに「絶対平和」が成立しても、「組織」は人類の上に君臨したりはしなかった。役目を果たした「組織」は解散し、消滅したとされる。
 絶対平和の下で、国家や地方自治体は従来どおり政策を立案し、それを十二基のスーパーコンピュータ「知性機械」が検討、調整し、最終的な決定がなされた。「遺伝子管理局」など、どこにも存在しなかった。

 20世紀半ばに活動を始めた「組織」の創始者たち(人数は不明)は、テイヤール・ド・シャルダンの弟子と自称していた。彼らはカトリック聖職者にして科学者の若者たちで、少なくとも幾人かはテイヤールと同じくイエズス会士であったと思われる。
 発達した遺伝子工学のお蔭で、20世紀末までに老化防止や若返りの技術が確立しており、絶対平和の成立を目前にした2210年代の時点でも彼らは健在であったはずだが、その後については今のところ不明である。
 なお、老化防止や若返りには延命効果はない。延命技術の研究は違法とされているが(「人間らしく」あることが建前であるため)、その禁令がどこまで守られていたかは不明。

 絶対平和の時代、かつて存在した「組織」のことはよく知られていた。ただ、その活動はあまりに多岐にわたり、またそれ自体の輪郭も曖昧なため、便利な通称として「遺伝子管理局」が用いられるようになる。 亜人拒絶派がなんでもかんでも遺伝子管理局のせいにしたという歴史もあって、「遺伝子管理局の陰謀」は世界共通の古典的冗談となった。穏やかで賢くなった人類(思春期の子供を除く)にとって、陰謀論など笑い話でしかないのである。

 ところが22世紀末、世界各地で変異微生物を原因として疫病が発生し始めた。未だ真の災厄は遠かったにもかかわらず社会不安が広がり、陰謀論が息を吹き返した。その筆頭が「遺伝子管理局の陰謀」であり、遺伝子管理局はやはり世界を陰で操っているのだとされた。十二基の知性機械は遺伝子管理局の支配下にあるとも、遺伝子管理局の正体そのものだとも言われた。

 以下、ネタバレ注意。
 

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コンセプシオン

 09年9月3日の記事に加筆修正。

 基本設定の一つ。人工子宮を指す。
 スペイン語「コンセプシオン concepción」はそのままだと「妊娠」だが、「無原罪懐胎(インマクラーダ・コンセプシオン inmaculada concepción」の略でもある。
 無原罪懐胎とはカトリックの教義で、聖母マリアはその母アンナの胎内に宿った時点からすでに原罪を免れていたのだとする。「処女懐胎」とは別物。inmaculada は、「穢れのない、汚染されていない」という意。

 カトリック以外のキリスト教諸派では、この教義は認められていない。カトリック圏でも、概念として広まり始めたのが15世紀以降、教義として正式に認められたのが1854年である。因みに『ラ・イストリア』執筆の際、ヒスパニック系でカトリックの米国人男性に「カトリック教徒でも無原罪懐胎と処女懐胎を混同することはあるのか」と尋ねたところ、「ある」という返答を得ている。

 シリーズに於いて、人工子宮は重要なガジェットである。20世紀末には実用化され、労働力となる奴隷種を大量に生産したばかりでなく、医療や食肉生産にも用いられた。本体と内膜組織から成る。二世紀余りを通じて本体はしばしば改良され、さまざまな型が造られたが、内膜組織はただ一種しか存在しなかった。

 内膜組織は生体素材であり、受精卵や初期化された体細胞などは、これに附着して胎盤を形成する。内膜はすべて「株分け」で殖やされていた。幹細胞の状態で培養されている親株から一部を取って分化させ、人工子宮内壁の表面で増殖させる。
 すべての内膜組織のオリジナルとなるのは、とある一人の女性の体細胞だった。

 この女性は、重度の先天性免疫不全だった。免疫系がまったく機能せず、自己と非自己の区別もつかないが、細胞の非特異的防御機構は極めて優れており、毒素に対する耐性やDNA修復能力も高かった。
 こうした特質により、人工子宮の素材にアレルギーを起こさず、何より胎児を異物と認識することがないため、内膜組織の素材として選ばれたのである。人間だけでなく、異種生物に対しても拒絶反応を起こさない。また病気治療のための使用でも、患者の病原体に感染する危険が非常に低い(この場合、内膜は一度の治療ごとの使い捨てになる)。

 彼女自身について、判っていることはほとんどない。本名どころか経歴も一切不明である。一枚だけ肖像写真が公開されているが、果たして本人のものなのかも明らかでない。
 その写真というのが、「齢の頃14、5歳の少女が、やや仰向いて立ち、降り注ぐ光を全身に浴びている。背景は霞んで判然としない。微風にたなびく長い髪は金色、頭上へと向けた瞳は青かった。薔薇色の頬をした、愛らしく美しい乙女。簡素な白いドレスに身を包み、左腕に足許まで届く大きな青いショールを掛け、右手を軽く添えている。」(『ラ・イストリア』より)
 要するに、これそっくりの構図なのである。

Murillo_immaculate00b  バルトロメオ・ムリーリョ(1617-1682)の「無原罪懐胎(エル・エスコリアルの)」。

 遺伝子管理局治下の文化は、一言で言って「俗悪な衒学趣味」だった。内膜組織のオリジナルとされる女性の肖像写真一つを制作するのにも、恥ずかしいほど有名な宗教画を露骨にぱくった上に、わざわざモデルを金髪碧眼に変えている。

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 この肖像写真から、主にラテンアメリカで彼女は「コンセプシオン」と呼ばれるようになった。当初は彼女自身のみを指していたのだが、やがて内膜組織や人工子宮をも指すようになる。「コンセプシオン」はスペイン語圏では一般的な女性名であり、愛称は「コンチャ Concha」「コンチータ Conchita」など。なお、22世紀末~23世紀初頭には一部のマニアックな人々の間で「シオンたん」なる呼称が存在していたことが確認されているが(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「The how Must Go On, and…」)、これがどの範囲でどの程度定着していたかは不明である。

 無論、非カトリック圏外では、彼女には別の名が与えられていた。『ミカイールの階梯』で明らかになったところによると、スラヴ圏、特にロシアでは「マトリョーシカ Матрёшка」。
 あの入れ子人形の名称だが、もともとはマトリョーナ Матрёнa(もしくはマトローナ Матрона)の愛称で、さらに語源を辿れば「matrix 子宮」である。
 ロシアの伝統工芸の代名詞ともいえるマトリョーシカだが、実は大して伝統があるわけではないという説が有力だ。それを承知の上で、ロシア人たちは「マトリョーシカ」の名を選んだ。絶対平和の文化は、そのようなものだった。

 イスラム圏に於いては、さらに露悪的だった。無原罪懐胎の概念こそないが、マリア(ミリアム ペルシア語ではマルヤム Maryam)の処女懐胎はクルアーンに記されている(イーサーすなわちイエスは偉大な預言者ではあるが神の子ではないので、本当に父親不明ということになるが)。しかし彼らが選んだ名は「シャフラザード Shahrazad」だった。
『千夜一夜』の語り部である。なお、シェヘラザード(シェエラザード)という発音はアラビア風。この名はペルシア語起源で「町 shahr シャフル」+「自由 azad アーザード」で「町の自由 シャフラーザード」だとされる(意味については異説もある)。現代ペルシア語の発音では「シャフルザード Shahrzad」となるようだが、作中では本来の発音に近く、かつ日本人に馴染みのある「シェヘラザード」に近い「シャフラザード」の表記にした。

 欧米に於ける『アラビアン・ナイト』のイメージは荒唐無稽で猥雑な中東、というものであり、オリエンタリズムの極みである。その象徴ともいえるハレム(ペルシア語ではハラム)の女シャフラザードの名を選んだ者たちは、さらに彼女の「肖像画」をも制作した。提供者の公式「肖像写真」と同じ顔の金髪碧眼白皙の美少女が、東洋風の調度の中でしどけなく横たわる、というものだった。
 近代オリエンタリズムのイコンともいえる「横たわるオダリスク」が白人(それも東欧ではなく西欧)の少女、という二重に屈折したオリエンタリズム:中東幻想/妄想である。さらに制作者「オリエント」人であることも加えれば、三重の屈折となる。
 こうした悪意ある趣向とはまた別に、『千夜一夜』の荒唐無稽さを逆手に取ったかたちで、シャフラザードの名は選ばれている。千と一夜、語り続ける間に、彼女は王に気づかれることなく三人もの子を産むのである。敢えて物語上の破綻ではなく超自然的出産と解釈することは可能であり、また無限に物語を生み出し続けるという意味でも、彼女は超自然的母胎(matrix)だといえる。

 大災厄の訪れとともに絶対平和は崩壊するが、直接の原因は動植物の疫病による混乱ではなく、亜人の大量生産の停止である。変異して毒性の強くなった諸々の病原体は、コンセプシオンの防御機構をも打ち破ったのである。
「妊娠」中のコンセプシオンが病原体に感染した場合、どのような事態になるかは『ラ・イストリア』で描写されている。

『ラ・イストリア』では「培養組織か合成蛋白の牛肉」に言及される。疫病で家畜が激減し、人工子宮による食肉生産も不可能になったため、こうした人造肉が生産されるようになった。人工子宮によらない組織培養は、筋繊維その他の組織の分化が不完全であり、たぶんかなり不味い。合成蛋白も美味しくないと思う。それでも2256年の時点では、これら人造肉でさえ貴重なものになっていたのである。
『ミカイールの階梯』では、ウイルス禍による草食禽獣の減少から、この人造肉の技術を保持することが覇権の保持の必須条件となる。

関連記事; 「遺伝子管理局」 「亜人」 「絶対平和」 「大災厄」

        「25世紀中央アジアの食糧事情」 

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以下、ネタばれ注意。

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はじまりと終わりの世界樹 Ⅱ

 2012年7月10日の記事を加筆修正。
 の続き。全般にネタばれ注意。

 本作の登場人物たちは、固有名詞で呼ばれることはない。その理由は、一つには「圧縮した語り」(後述)を行う上で、固有名詞は邪魔になるからである。通常の創作過程では、私はまだプロットも完全に固まらない、かなり早い段階で主要な登場人物の名前を決める。名前を与えると各キャラクターの自立性が高くなり、勝手に動いて話を進めてくれるからだ(動いてくれないキャラクターがいる場合、名前を変更する。そうすればたいがいは巧くいく)。
 しかし本作では、概ねできあがっているプロットを可能な限り圧縮するわけだから、エピソードが増えては困る。それが、名前を与えなかった第一の理由である。

 第二の、より重要な理由は、分量の割に登場人物が多い(本来はもっと長い話になるはずだったので当然だが)中で、「コンセプシオン」の名を最大限際立たせたかったから、というものだ。
 人工子宮内膜の「提供者」については、すでに『グアルディア』で「金髪碧眼のとても美しい女性」であると言及され、『ラ・イストリア』では、彼女の唯一の肖像画像がムリーリョ(1617‐1682)の名画「無原罪懐胎(インマクラーダ・コンセプシオン)」を模したものであり、そこから「コンセプシオン」が通称となった(本名は不明)ことが明らかにされている。

 本作で語られるところによれば、この肖像画像が公開されたのは2001年で、それからいくらも経たないうちに、「コンセプシオン」の通称が定着している。
「コンセプシオン」と「人工子宮内膜の提供者」とは、同一人物と言っても構わないようなのであるが、しかし「コンセプシオン」の名も肖像画像も本人のものではない(肖像画像は本人の写真を基に作られたCG)上に非常に象徴的なものであり、その背後にはおそらく語り手が推測するとおり、「提供者」を徹底して象徴的・抽象的存在にしてしまおうという意図がある。「提供者」は、人工子宮を開発し世界に平和をもたらそうとする「組織」にとって撲滅対象である狂信・偏狭・反知性主義・差別主義を体現する存在だったからだ。

 したがって、「提供者」と「コンセプシオン」はやはり別個の存在である。また、体細胞の提供も本人の意思を無視して行われたものである (すなわち勝手に使われている) から、「提供者」の呼び名も相応しくない。以下、便宜上「彼女」と呼ぶことにする。
「彼女」は心身両面で特異な存在であったが、まず身体面の特異性としては①有色人種の血を引いているのに金髪碧眼白皙である(純血の白人にしか見えない)こと、②簡単な操作で体細胞が全能性を取り戻すこと、③重度の先天性免疫不全症だが寄生体(病原体)を「飼い馴らせる」こと、の三つが挙げられる。

 このうち①は一目で判別できるため、母親のパラノイアの直接の原因となってしまった。ブラジル政府が「アウシュヴィッツの死の天使」ヨーゼフ・メンゲレの協力でブラジル国民を「白人化」しようとしている、というのがその妄想であったが、「ナチの陰謀」はともかく「白人化」はあながち妄想とばかりも言えず、ブラジルのエリート層に多い白人至上主義者から資金を得るために人体実験が行われた可能性がある。
 この場合、行われたと推定されるのは、母親(白人と非白人双方の血を引く)が持つ色素の濃淡などの対立遺伝子のうち、より白人的な容姿を作る遺伝子だけを持つ卵子ができるよう操作した、というものである(父親は金髪碧眼白皙なので、生まれてくる子供は「純血の白人」らしい外見を持つことになる)。

 ②の特異性は、彼女自身の細胞だけを全能化させるのではなく、その遺伝子が作る全能化蛋白質によって他者(人間を含むあらゆる動物)の細胞も全能化させるため、80年代後半以降(「彼女」の誕生は1985年)の遺伝子工学発展に、大きな役割を果たすことになった。
 反遺伝子工学派は、この特異性が非合法の遺伝子操作によるものだとして、「彼女」を担ぎ上げて訴訟を起こす。

 そして③こそは、「彼女」を人工子宮内膜の提供者として特異性である。あらゆる非自己に寛容(この場合「寛容」とは免疫反応を起こさないこと)なため、「胎児」となるあらゆる動物種に対しても、人工子宮本体の素材(金属やシリコンなど)に対しても拒絶反応を引き起こさない。仮に「胎児」がなんらかの寄生体に感染していても、その繁殖を抑制することができる。なお、内膜組織は1回の使用ごとに取り換えられる。
 語り手(「彼女」の弟)は、最初から人工子宮内膜を開発する目的で、この変異が人為的に作られたのではないかと疑い、調査を続けてきたが、答えは得られなかった。

 この3つの特異性が人為的なものだとすれば、その違法遺伝子操作を行った疑いが強いのは、「彼女」の父親が勤務していた医学研究所である。何しろ、あるはずの資料が破棄されているので、疑いは濃厚だ(父親自身の関与は不明である)。
 ただし、どれも自然に起こったものである可能性もないわけではない。①は確率は低いが充分あり得るし、③も母親から受け継いだアメリカ先住民の変異が基になっているのは明らかである。
 アメリカ先住民の免疫系が旧大陸の人々のそれより発達していないのは事実で、これは彼らが家畜をほとんど飼っていなかったため、病原体にそれほど曝されてこなかったことによる。お蔭で彼らの間では自己免疫疾患は非常に稀だが、スペイン人との接触以来、旧大陸の感染症によってあれほど甚大な損害を被ってきた、少なくとも一つの原因となっている。

 容易に全能性を取り戻す、という②の特異性も、おそらくは自己と非自己の区別が曖昧、という「彼女」の細胞の本質に由来する。そして普通の人間でも免疫系の機能は神経系の支配下にあるが、「彼女」の場合はこのあらゆる非自己に寛容な(すなわち、確固たる自己を持たない)免疫系は、「彼女」の精神と相補関係にある――あるいはむしろ、精神が免疫系の支配下にあるかのようである。
「彼女」自身は美しく愛らしい外見とは裏腹に、他人の受け売りを繰り返すだけの浅薄な性格だが、相手に合わせて振る舞うため、そのことに気づく者はほとんどいない。他人の受け売りを繰り返すのは自分の意見というものを持たないからで、読み書き計算ができないのも、おそらく難読症だからではなく単に学習意欲を欠いているためであろう(10歳くらいまで碌に教育を受けられない環境で育ったのを差し引いても)。

 そんな「彼女」に付いて回るのが、暴力と疫病である。他人の思考や感情に簡単に染まってしまう一方、「彼女」は会う者すべてを魅了する。そして「彼女」の虜となった人々は、その負の感情を増幅させるのだ。
 また、「彼女」の周囲で頻発する疫病は、「彼女」の体内に巣食ったウイルスや微生物が原因のようではあるが、それらが感染性を保有したままであるにしては被害が少ない。やはり「彼女」の免疫システムと精神は強い相補関係にあり、普段は抑制されている病原体が「彼女」の精神状態によって時に感染性を取り戻すのではないか……ここまでは「組織」による仮説だが、語り手はさらに踏み込んで推論を展開している。

 それは語り手が姉である「彼女」と過ごした悪夢のような日々の中で、「彼女」から聞かされたかもしれない告白に基づく。悪夢との区別も曖昧なその記憶の中で、「彼女」は、苦しみながら死んでいった人々の苦痛が世界に満ちていき、やがて生と死の障壁を取り払うだろうと、憧れをもって語る。語り手は推測する――「彼女」は死者たちの苦しみに囚われていたのだと。それが「彼女」に付きまとう暴力と疫病の真の原因だったのだと。
 この推論の是非は明らかにされない。だがやがて、人工子宮が生み出す繁栄の下、「彼女」の細胞――「コンセプシオン」とその遺伝子はあらゆる動植物の内部に潜り込み、繁殖を続け、広がっていく。そして22世紀末のある日、突如として叛乱を起こすのである。
つまりは彼女が元凶だという伏線を、『グアルディア』以来ずっと張り続けてきたのであるが、気づいてくれた人はいるだろうか、いやきっといない。

 以上はHISTORIAシリーズの根底を成すSF設定であるが、別の視点から捉えると、「彼女」は人間が抱える暴力性の象徴だと言える。現実には「彼女」がいなくても、アブグレイブ刑務所の囚人虐待は起きたのである。

 ところでHISTORIAシリーズに登場する「実の父親」はなぜか駄目人間が多い。おそらく、世のフィクションには「良くも悪くも偉大な父親」像が溢れているため、ステレオタイプを見るといじりたくなる私の嗜癖が反応した結果と思われる。悪い方向に突き抜けていて「越える」に値するのでもなく、ただただ卑小な駄目人間という父親像なのである(まともな「父親代わり」がいて埋め合わせとなる場合もあるが)。今回もこのパターンに当て嵌まると言えよう。
 本作の語り手が「信頼できない語り手」であることが一番露骨に表れているのが、姉と伯父(および従兄弟たち)との関係についての疑惑は語っているのに、姉と実の父親との関係についてはまったく言及していないという点だ。姉をアマゾン先住民(実父を殺した人々)から「救出」した傭兵隊長は、彼女の愛人であると同時に父親のような存在である。その彼を姉は実父と同じく「パパ」と呼んでいる。しかも、彼との睦言はドイツ語混じりである。
 姉が語り手に対して行った嫌がらせの数々からすれば、たとえ嘘だろうと実父と寝たと言明するのは充分あり得ることで、にもかかわらず語り手が一切言及していないということは、もっと確たる証拠を摑んでいたということなのかもしれない。いや、あくまで可能性に過ぎないのですが。

 なお、本作では2012年までの状況が語られるので、前作「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」に登場した「妖精撲滅派」のその後にも言及されている。

 本作の構想は、執筆時(2012年)より四半世紀近く前、すなわち筆者の高校時代まで遡る。といっても本当に「核」となる部分の物語を漠然と思い描いていただけであり、具体的なプロット以前の代物だった。
「核」となる物語とは、すなわち双子の姉弟と彼らの「娘」の物語である。姉は「悪」の表徴のような存在であり、弟はそんな彼女を恐れ、制止したいと願いつつも、彼女を愛するがゆえに裏切ることができない。ついに姉を止めることに成功するものの、その代償は彼女の死だった。後悔に苛まれ隠棲を選んだ弟は、密かに姉との「娘」を作り……というプロットは、姉の生い立ちから結末に至るまで、まったく当時のままである。
 もちろん時代設定を含む背景については全然具体的に考えていなかったし(まあ湾岸戦争もまだ起きてなかったし)、姉≒「悪」についてもまったく具体的に考えてなかった(高校生の想像力の限界)んだけど。

 デビュー作『グアルディア』(2004年)にはそれ以前からあったいろんなプロットやアイデアの断片が組み込まれていて、入りきらなかったものは同じ世界を舞台にした別の物語で使おうと目論んでいた。その一つ『ラ・イストリア』(『ミカイールの階梯』は、まあ違うな)は比較的早い段階(2007)で形にできたが、もう一つ、上記の双子の姉弟の物語を下敷きにした「人工子宮内膜の細胞提供者」の物語には、随分と時間がかかってしまった。
 その原因としては、まず「悪の表徴」である姉をどう描くかという問題で、これは『ミカイールの階梯』(2009)の頃には概ねアイデアがまとまっていたものの、今度はそれをどのように語るかというスタイルの問題にぶち当たっていたのである。
 真正面からストレートに書けば長編になるであろう(おそらく『ラ・イストリア』と同じ400字詰換算500‐600枚)物語だが、それをやると凄まじく陰惨な話になることは予想が付いたので、ほかの方法を模索していたのだった。
 結局選択したのは、悲劇も惨劇も圧縮できる限り圧縮するというものだった。その結果、分量は400字詰換算140枚弱になり、悲劇も惨劇もスラップスティックな勢いで転がるように疾走し、語り手(弟)はわけもわからず鼻面を摑まれ引き摺り回されるという展開となったのである。

 最後に、参考文献のことなど。前作と同じく本作もこれまでの知識の蓄積に拠って執筆しているので、このために新たに読んだ資料はヨーゼフ・メンゲレをはじめとするナチの人体実験に関するものくらいです。いや、「みんなナチの科学を買い被り過ぎ」というのは前々から思ってたことですが。「ナチの凄い科学もの」はジョジョ第2部だけで充分です。ほかは要らん。
 以前に読んだ資料から特に参考になったものを幾つか挙げると、まず「コンセプシオン」の、「生物学の発展に非常に貢献している細胞の提供者なのに、本人の意志に基づいた提供ではない上に、彼女自身のことは誰も知らないし関心も持たない」という設定は、最初から(『グアルディア』の頃から)あの「ヒーラ細胞」とその提供者を念頭に置いていたのですが、最も詳しい日本語文献としては『不死細胞ヒーラ――ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生』(レベッカ・スクルート著 講談社)があります。もちろん、モデルだというのはあくまで上記の設定だけで、「コンセプシオン/彼女」のああいうキャラクターとヘンリエッタさんは全然無関係ですよ。

 陰謀論の解説本は数多くありますが、では一体どういう精神回路で陰謀論に至るのかを詳しく解り易く説いているのが、『エイズを弄ぶ人々――疑似科学と陰謀説が招いた人類の悲劇』(セス・C・カリッチマン著 化学同人)と『見て見ぬふりをする社会』(マーガレット・ヘファーナン著 河出書房新社)。
 両方とも、「認めたくないことは認めない」という人間の心性が如何に認知を歪めるかを説き、後者は特にその心理が如何に暴力に結び付くかについても解説しています。
『比較「優生学」史――独・仏・伯・露における「良き血筋を作る術」の展開』(マーク・B・アダムズ編著 現代書館)は、『ラ・イストリア』と『ミカイールの階梯』でもいろいろ参考にしましたよ。
 あと、世界規模の軍隊民営化が数年~十年早く訪れた世界における1990年代の状況を描くために、『スピグラ』ノベライズ以来久しぶりに『戦争請負会社』(P・W・シンガー著 NHK出版)を再読。

「はじまりと終わりの世界樹 Ⅰ」 

関連記事: 「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」 「連作〈The Show Must Go On〉」 

       「コンセプシオン」 「遺伝子管理局」 

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参考記事:「アイアン・スカイ」感想 (ナチの科学がすごい言うならこれくらいやれや)

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